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61話
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拠点を包む夜の帳は、かつてないほど濃密で、息苦しいほどの熱を孕んでいた。ハルの寝室から漏れ出した香りは、これまでの安らぎを与えるものとは異なり、周囲の理性を直接揺さぶる劇薬へと変質していた。それは、聖者としての力が新たな段階へ進もうとする際の、無自覚な情動の氾濫だった。
「……っ、この香りは……何なんだ……」
廊下でハルの部屋を警護していたカイルが、膝をつき、激しく荒い息をついた。銀色の髪が汗に濡れ、その瞳は鋭く変貌している。隣にいた双子の弟、フェンもまた、壁に拳を叩きつけ、理性を保とうと必死に己を律していた。鋭い嗅覚を持つ二人にとって、この濃厚な芳香は思考を麻痺させるには十分すぎる代物だった。
「ハル様の……力が、暴走している……。フェン、意識を……手放すな……!」
「わかっている、カイル。だが……抗い難い……内側が、焼き切られそうだ……」
双子は互いの存在を確認することで辛うじて踏みとどまっていたが、その限界は近かった。広間にいたギルバートも椅子を蹴り飛ばし、自らの腕に爪を立てて立ち尽くす。ジークは影に溶け込むような静かさで、けれど瞳に宿る野生の光を抑えきれずに、ハルの部屋へと引き寄せられる足を必死に止めていた。
その狂乱の夜、ただ一人、清冽な魔力を放つ影が廊下に現れた。
「……みんな、下がって。ハルに近づいちゃダメだ!」
杖を構え、毅然とした態度でハルの部屋の前に立ちはだかったのはヨシュアだった。彼もまた一人の男としてハルの香りに当てられ、頬は紅潮し、指先は小刻みに震えている。しかし、彼の中に流れる神聖な血が、ハルの放つ情動に呑み込まれることを拒んでいた。昼間の浄化でハルと魂を共鳴させた彼は、この香りがハル自身の内なる叫びであることを誰よりも理解していた。
「ヨシュア……どけ。今の俺たちが……正気でいられると思うか……」
ギルバートが、地を這うような唸り声を上げて歩み寄る。圧倒的な威圧感が廊下を支配するが、ヨシュアは一歩も引かなかった。
「抑えてみせるよ。僕はハルの守護者なんだ。……ハルが望んでいないことは、僕が絶対にさせない!」
ヨシュアは自身の魔力を極限まで高め、杖を掲げて究極の沈静魔法を編み出した。ハルの放つ香りをあえて魔力の触媒として取り込み、周囲の熱を急速に奪い去る「静寂の結界」を拠点全体へと広げていく。
「『凍てつく月光の檻(ルナ・サイレンス)』!」
青白い光が波紋のように広がり、狂気に染まりかけていた者たちの脳を急速に冷やしていく。双子の兄弟も、ギルバートも、ジークも、その場に崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返しながら、ようやく濁っていた瞳に自我を取り戻した。
「……はぁ、はぁ……。ヨシュア、お前……。その力……」
ギルバートが呆然とヨシュアを見上げる。少年の瞳には、かつての弱気な面影はなく、ただ一人の人を守り抜くという強固な意志だけが宿っていた。
一方、部屋の中で自身の力に翻弄されていたハルも、ヨシュアの魔法によって熱が引き、ゆっくりと意識を取り戻していた。
「……あ、ヨシュア……? みんな……どうしたの……?」
ハルが力なく扉を開け、廊下に現れる。香りはまだ微かに漂っていたが、ヨシュアの結界によってその毒性は消し去られていた。ハルは、廊下で疲弊しきった仲間たちの姿を見て、自分の力が何を引き起こしたのかを察し、悲しげに瞳を伏せた。
「ごめんね……。僕のせいで、みんなを苦しめて……」
「謝らないで、ハル。これは君の力が、僕たちを信じて成長しようとしている証拠なんだから。……君は何も悪くない」
ヨシュアはハルの元へ歩み寄り、その小さな手を両手で包み込んだ。慈愛に満ちた魔力が、ハルの震える心を溶かしていく。
「ハル。君の香りは、僕にとって何よりも大切な道標だよ。いつか君が、この力を完全に操れるようになるまで……ううん、操れるようになっても、僕が君の隣で、この香りを一番綺麗に輝かせてみせる」
ヨシュアはハルの手の甲に、誓いの口づけを落とした。それは子供の遊びではなく、一人の男として、一生を賭けて聖者を守り抜くという真摯な契約だった。
夜が明け、朝の柔らかな光が差し込む頃。ヨシュアの不敵な笑みに、ギルバートは苦笑を漏らし、カイルとフェンは悔しそうに顔を背けた。大樹の回廊での死闘を経て、最年少の少年は誰よりも頼もしい魔導師へと成長を遂げた。
ハルは、少しだけ逞しくなったヨシュアの背中を、少しの戸惑いと大きな信頼を持って見送りながら、自らの中に眠る力の大きさを改めて噛み締めていた。
「……っ、この香りは……何なんだ……」
廊下でハルの部屋を警護していたカイルが、膝をつき、激しく荒い息をついた。銀色の髪が汗に濡れ、その瞳は鋭く変貌している。隣にいた双子の弟、フェンもまた、壁に拳を叩きつけ、理性を保とうと必死に己を律していた。鋭い嗅覚を持つ二人にとって、この濃厚な芳香は思考を麻痺させるには十分すぎる代物だった。
「ハル様の……力が、暴走している……。フェン、意識を……手放すな……!」
「わかっている、カイル。だが……抗い難い……内側が、焼き切られそうだ……」
双子は互いの存在を確認することで辛うじて踏みとどまっていたが、その限界は近かった。広間にいたギルバートも椅子を蹴り飛ばし、自らの腕に爪を立てて立ち尽くす。ジークは影に溶け込むような静かさで、けれど瞳に宿る野生の光を抑えきれずに、ハルの部屋へと引き寄せられる足を必死に止めていた。
その狂乱の夜、ただ一人、清冽な魔力を放つ影が廊下に現れた。
「……みんな、下がって。ハルに近づいちゃダメだ!」
杖を構え、毅然とした態度でハルの部屋の前に立ちはだかったのはヨシュアだった。彼もまた一人の男としてハルの香りに当てられ、頬は紅潮し、指先は小刻みに震えている。しかし、彼の中に流れる神聖な血が、ハルの放つ情動に呑み込まれることを拒んでいた。昼間の浄化でハルと魂を共鳴させた彼は、この香りがハル自身の内なる叫びであることを誰よりも理解していた。
「ヨシュア……どけ。今の俺たちが……正気でいられると思うか……」
ギルバートが、地を這うような唸り声を上げて歩み寄る。圧倒的な威圧感が廊下を支配するが、ヨシュアは一歩も引かなかった。
「抑えてみせるよ。僕はハルの守護者なんだ。……ハルが望んでいないことは、僕が絶対にさせない!」
ヨシュアは自身の魔力を極限まで高め、杖を掲げて究極の沈静魔法を編み出した。ハルの放つ香りをあえて魔力の触媒として取り込み、周囲の熱を急速に奪い去る「静寂の結界」を拠点全体へと広げていく。
「『凍てつく月光の檻(ルナ・サイレンス)』!」
青白い光が波紋のように広がり、狂気に染まりかけていた者たちの脳を急速に冷やしていく。双子の兄弟も、ギルバートも、ジークも、その場に崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返しながら、ようやく濁っていた瞳に自我を取り戻した。
「……はぁ、はぁ……。ヨシュア、お前……。その力……」
ギルバートが呆然とヨシュアを見上げる。少年の瞳には、かつての弱気な面影はなく、ただ一人の人を守り抜くという強固な意志だけが宿っていた。
一方、部屋の中で自身の力に翻弄されていたハルも、ヨシュアの魔法によって熱が引き、ゆっくりと意識を取り戻していた。
「……あ、ヨシュア……? みんな……どうしたの……?」
ハルが力なく扉を開け、廊下に現れる。香りはまだ微かに漂っていたが、ヨシュアの結界によってその毒性は消し去られていた。ハルは、廊下で疲弊しきった仲間たちの姿を見て、自分の力が何を引き起こしたのかを察し、悲しげに瞳を伏せた。
「ごめんね……。僕のせいで、みんなを苦しめて……」
「謝らないで、ハル。これは君の力が、僕たちを信じて成長しようとしている証拠なんだから。……君は何も悪くない」
ヨシュアはハルの元へ歩み寄り、その小さな手を両手で包み込んだ。慈愛に満ちた魔力が、ハルの震える心を溶かしていく。
「ハル。君の香りは、僕にとって何よりも大切な道標だよ。いつか君が、この力を完全に操れるようになるまで……ううん、操れるようになっても、僕が君の隣で、この香りを一番綺麗に輝かせてみせる」
ヨシュアはハルの手の甲に、誓いの口づけを落とした。それは子供の遊びではなく、一人の男として、一生を賭けて聖者を守り抜くという真摯な契約だった。
夜が明け、朝の柔らかな光が差し込む頃。ヨシュアの不敵な笑みに、ギルバートは苦笑を漏らし、カイルとフェンは悔しそうに顔を背けた。大樹の回廊での死闘を経て、最年少の少年は誰よりも頼もしい魔導師へと成長を遂げた。
ハルは、少しだけ逞しくなったヨシュアの背中を、少しの戸惑いと大きな信頼を持って見送りながら、自らの中に眠る力の大きさを改めて噛み締めていた。
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