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5話
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無情にも、その日はやってきた。
龍崎慎一郎、退院。
屈強な肉体と驚異的な回復力、そして何より佐々木陽太による「献身的な看護(と龍崎が脳内で美化している時間)」によって、傷口は驚くべき速さで塞がった。
病室の窓から外を見れば、黒塗りの高級車が三台、病院のロータリーに整然と並んでいる。
迎えに来た部下たちの殺気立った気配が、ここが病院であることを忘れさせるほどに濃厚だ。
「若頭、お迎えに上がりました」
鮫島が、龍崎の着替え一式を持って入ってくる。
病院の寝間着を脱ぎ、仕立ての良い漆黒のスーツに袖を通す。
鏡の中に映るのは、いつもの冷徹な龍和会若頭の姿だ。
だが、その胸の内は、かつてないほどの喪失感に支配されていた。
(今日で……終わりか)
ここを出れば、もうあの陽気な声を聞くことも、無防備な笑顔を見ることもない。
あの石鹸のような香りに包まれて、心臓をバクつかせることもない。
それは、龍崎にとって、再び暗く冷たい孤独の深淵へ戻ることを意味していた。
「……佐々木はどうした」
「佐々木さんなら、ナースステーションで申し送り中だそうです。すぐに挨拶に来ると言ってましたよ」
龍崎は、じっとドアを見つめた。
ほどなくして、パタパタという軽快な足音が聞こえ、陽太が顔を出した。
「龍崎さん! あ、もうお着替え済んじゃったんですね。……うわあ、やっぱりスーツだと迫力が違いますね。かっこいいです!」
陽太は屈託なく笑い、龍崎の全身を眺めて感嘆の声を上げる。
その「かっこいい」という一言だけで、龍崎の心臓はまたしても不規則なリズムを刻み始めた。
「……佐々木。世話になったな」
「いいえ、お仕事ですから! でも、龍崎さんが元気になって本当に良かったです。もう二度と、撃たれたりしちゃダメですよ?」
陽太が、少し寂しそうに眉を下げて笑う。
その表情を見た瞬間、龍崎の中で何かが決壊した。
この男を、このまま手放していいはずがない。
カタギの世界の人間だと、自分に言い聞かせてきた。
だが、この感情に名前がついてしまった以上、極道の欲深さがそれを許さなかった。
「おい、鮫島。貴様らは先に下で待っていろ」
「えっ、あ、はい! わかりました!」
鮫島が慌てて退室し、重厚なドアが閉まる。
病室には、龍崎と陽太の二人きりになった。
「龍崎さん……?」
陽太が不思議そうに首を傾げる。
龍崎は一歩、また一歩と、陽太との距離を詰めた。
スーツの威圧感に気圧されることもなく、陽太はまっすぐ龍崎を見上げている。
龍崎は懐から、一枚のカードを取り出した。
それは、龍和会若頭としての名刺ではない。
裏社会の人間でも限られた者しか知らない、龍崎個人の直通番号が記されただけの簡素なカードだ。
「これを受け取れ」
「えっ、名刺ですか? でも僕、私的な連絡は……」
「黙って受け取れ」
龍崎は強引に、陽太の細い指の間にカードを差し込んだ。
驚いて目を見開く陽太の手を、龍崎はそのまま包み込むように握りしめる。
「何か困ったことがあったら、いつでも俺を呼べ。……いや、困っていなくても構わん。何かあれば、必ず連絡しろ」
「龍崎さん……」
「これは、お礼ではない。……呪いだ」
龍崎は、自分でも驚くほど執着に満ちた声で囁いた。
これを渡してしまえば、陽太を危険な世界へ引き寄せてしまうかもしれない。
それでも、繋がっていたかった。
自分を「優しい」と言ったこの男を、自分の人生から消し去ることができなかった。
「俺を呼べば、どんな場所へでも駆けつけてやる。いいな」
陽太は、龍崎の強く切実な眼差しに射抜かれたように、しばらく固まっていた。
やがて、彼は握られたカードを大切そうに胸元へ寄せると、ふわりと微笑んだ。
「……はい。ありがとうございます。大事にしますね、龍崎さん」
陽太にとっては、退院していくお気に入りの患者からの、少し大袈裟な感謝の印にしか見えていないのかもしれない。
だが、龍崎にとっては、これが人生で初めての「求愛」に等しい行為だった。
龍崎は、繋いでいた手を名残惜しそうに離すと、一度も振り返ることなく病室を後にした。
エレベーターを降り、ロータリーに出ると、部下たちが一斉に頭を下げる。
「若頭、お疲れ様でした!」
龍崎は、黒塗りの車の後部座席に深く身を沈めた。
車がゆっくりと動き出す。
バックミラー越しに、病院の玄関で大きく手を振る、小さな白い影が見えた。
龍崎は、自身の胸ポケットに手を当てた。
そこには、陽太が検温の際にうっかり落とした、予備のアルコール綿が一つ入ったままだ。
「……佐々木陽太」
その名前を唇でなぞるだけで、またしても動悸が始まる。
「若頭、どうされました? 顔色が赤いようですが……」
運転席の鮫島が心配そうに尋ねるが、龍崎はそれを無視して、外の景色を睨みつけた。
「……持病の再発だ。気にするな」
嘘だ。
退院すれば治ると思っていたその「病」は、病院の外に出た瞬間、より深刻な「重症」へと変化していた。
龍崎慎一郎、三十二歳。
極道の若頭が、一介の看護師に魂を奪われたまま、日常へと戻っていく。
だが、彼が再び陽太の前に現れるまで、そう時間はかからなかった。
龍崎慎一郎、退院。
屈強な肉体と驚異的な回復力、そして何より佐々木陽太による「献身的な看護(と龍崎が脳内で美化している時間)」によって、傷口は驚くべき速さで塞がった。
病室の窓から外を見れば、黒塗りの高級車が三台、病院のロータリーに整然と並んでいる。
迎えに来た部下たちの殺気立った気配が、ここが病院であることを忘れさせるほどに濃厚だ。
「若頭、お迎えに上がりました」
鮫島が、龍崎の着替え一式を持って入ってくる。
病院の寝間着を脱ぎ、仕立ての良い漆黒のスーツに袖を通す。
鏡の中に映るのは、いつもの冷徹な龍和会若頭の姿だ。
だが、その胸の内は、かつてないほどの喪失感に支配されていた。
(今日で……終わりか)
ここを出れば、もうあの陽気な声を聞くことも、無防備な笑顔を見ることもない。
あの石鹸のような香りに包まれて、心臓をバクつかせることもない。
それは、龍崎にとって、再び暗く冷たい孤独の深淵へ戻ることを意味していた。
「……佐々木はどうした」
「佐々木さんなら、ナースステーションで申し送り中だそうです。すぐに挨拶に来ると言ってましたよ」
龍崎は、じっとドアを見つめた。
ほどなくして、パタパタという軽快な足音が聞こえ、陽太が顔を出した。
「龍崎さん! あ、もうお着替え済んじゃったんですね。……うわあ、やっぱりスーツだと迫力が違いますね。かっこいいです!」
陽太は屈託なく笑い、龍崎の全身を眺めて感嘆の声を上げる。
その「かっこいい」という一言だけで、龍崎の心臓はまたしても不規則なリズムを刻み始めた。
「……佐々木。世話になったな」
「いいえ、お仕事ですから! でも、龍崎さんが元気になって本当に良かったです。もう二度と、撃たれたりしちゃダメですよ?」
陽太が、少し寂しそうに眉を下げて笑う。
その表情を見た瞬間、龍崎の中で何かが決壊した。
この男を、このまま手放していいはずがない。
カタギの世界の人間だと、自分に言い聞かせてきた。
だが、この感情に名前がついてしまった以上、極道の欲深さがそれを許さなかった。
「おい、鮫島。貴様らは先に下で待っていろ」
「えっ、あ、はい! わかりました!」
鮫島が慌てて退室し、重厚なドアが閉まる。
病室には、龍崎と陽太の二人きりになった。
「龍崎さん……?」
陽太が不思議そうに首を傾げる。
龍崎は一歩、また一歩と、陽太との距離を詰めた。
スーツの威圧感に気圧されることもなく、陽太はまっすぐ龍崎を見上げている。
龍崎は懐から、一枚のカードを取り出した。
それは、龍和会若頭としての名刺ではない。
裏社会の人間でも限られた者しか知らない、龍崎個人の直通番号が記されただけの簡素なカードだ。
「これを受け取れ」
「えっ、名刺ですか? でも僕、私的な連絡は……」
「黙って受け取れ」
龍崎は強引に、陽太の細い指の間にカードを差し込んだ。
驚いて目を見開く陽太の手を、龍崎はそのまま包み込むように握りしめる。
「何か困ったことがあったら、いつでも俺を呼べ。……いや、困っていなくても構わん。何かあれば、必ず連絡しろ」
「龍崎さん……」
「これは、お礼ではない。……呪いだ」
龍崎は、自分でも驚くほど執着に満ちた声で囁いた。
これを渡してしまえば、陽太を危険な世界へ引き寄せてしまうかもしれない。
それでも、繋がっていたかった。
自分を「優しい」と言ったこの男を、自分の人生から消し去ることができなかった。
「俺を呼べば、どんな場所へでも駆けつけてやる。いいな」
陽太は、龍崎の強く切実な眼差しに射抜かれたように、しばらく固まっていた。
やがて、彼は握られたカードを大切そうに胸元へ寄せると、ふわりと微笑んだ。
「……はい。ありがとうございます。大事にしますね、龍崎さん」
陽太にとっては、退院していくお気に入りの患者からの、少し大袈裟な感謝の印にしか見えていないのかもしれない。
だが、龍崎にとっては、これが人生で初めての「求愛」に等しい行為だった。
龍崎は、繋いでいた手を名残惜しそうに離すと、一度も振り返ることなく病室を後にした。
エレベーターを降り、ロータリーに出ると、部下たちが一斉に頭を下げる。
「若頭、お疲れ様でした!」
龍崎は、黒塗りの車の後部座席に深く身を沈めた。
車がゆっくりと動き出す。
バックミラー越しに、病院の玄関で大きく手を振る、小さな白い影が見えた。
龍崎は、自身の胸ポケットに手を当てた。
そこには、陽太が検温の際にうっかり落とした、予備のアルコール綿が一つ入ったままだ。
「……佐々木陽太」
その名前を唇でなぞるだけで、またしても動悸が始まる。
「若頭、どうされました? 顔色が赤いようですが……」
運転席の鮫島が心配そうに尋ねるが、龍崎はそれを無視して、外の景色を睨みつけた。
「……持病の再発だ。気にするな」
嘘だ。
退院すれば治ると思っていたその「病」は、病院の外に出た瞬間、より深刻な「重症」へと変化していた。
龍崎慎一郎、三十二歳。
極道の若頭が、一介の看護師に魂を奪われたまま、日常へと戻っていく。
だが、彼が再び陽太の前に現れるまで、そう時間はかからなかった。
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