強面若頭は、懐っこいナースの献身に抗えない ―極道、はじめての恋を処方される―

たら昆布

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9話

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 あの日以来、龍崎の生活は一変した。
 
 「護衛」という名目のもと、陽太の夜勤明けやシフト終わりに合わせて、病院の裏門へ黒塗りの車を走らせるのが日課となっていた。
 組の若い衆は、若頭が定刻になると「……時間だ」と言い残して席を立つのを、伝説の殺し屋にでも会いに行くような緊張感で見送っていたが、実際は一介の看護師の送迎である。
 
 春の夜風が心地よいある日、陽太はいつもより少し疲れた足取りで車に乗り込んできた。
 
「お疲れ様です、龍崎さん。……なんだか、毎日すみません。僕、タクシー代くらい払ったほうがいいですよね?」
 
「……馬鹿なことを言うな。俺が好きでやっていることだ」
 
 龍崎は相変わらず無愛想に答えたが、その視線は陽太の顔色を細かく探っていた。
 目の下にわずかな隈(くま)がある。
 胸の奥がチリチリと痛む。これが『心配』という感情だと理解するのに、今の龍崎はもう時間はかからなかった。
 
「今日は忙しかったのか」
 
「はい。急患が重なっちゃって。でも、さっき患者さんのご家族に『ありがとう』って言われて、疲れも吹き飛んじゃいました!」
 
 陽太はそう言って、誇らしげに、そしてふにゃりと笑った。
 龍崎は、その眩しさに目を逸らす。
 
(……眩しすぎる。この男は、どうしてこうも真っ直ぐなんだ)
 
 自分は、人から感謝されることなどほとんどない世界にいる。
 恐怖と敬意。それが龍崎の受ける「ありがとう」の代わりだった。
 だからこそ、陽太の純粋さが、喉の奥が渇くほどに欲しかった。
 
「龍崎さん?」
 
「……なんだ」
 
「あ、あの……。さっきから思ってたんですけど。龍崎さん、ネクタイ曲がってますよ?」
 
「何?」
 
 龍崎が慌てて襟元に手をやるが、慣れない動揺のせいで指先がうまく動かない。
 
「あはは、もう。僕が直してあげます。じっとしててくださいね」
 
 陽太がシートの上で膝立ちになり、龍崎の胸元に顔を近づける。
 車内という密室。至近距離。
 陽太の指先が龍崎の喉元に触れ、ネクタイの結び目を整え始める。
 
 龍崎は息を止めた。
 わずかに触れる陽太の体温。一生懸命な表情。
 龍崎の視界は、陽太の茶色い前髪と、そこから覗く白い耳たぶで埋め尽くされた。
 
(……耐えられん)
 
 理性の堤防が、ミリ単位で崩れていく音がした。
 何か、この溢れ出しそうな愛おしさを形にしなければ、頭がどうにかなりそうだった。
 
「……できた! これでバッチリです」
 
 陽太が満足そうに顔を上げた瞬間。
 龍崎は、まるで磁石に吸い寄せられるように、無意識に手を伸ばした。
 
 大きな掌が、陽太の柔らかい頭に乗る。
 
「わっ……」
 
 龍崎は、そのまま不器用に、けれどこの上なく優しく、陽太の頭を撫でた。
 わんこを可愛がるように、あるいは宝物に触れるように。
 
「……よく、頑張ったな」
 
 自分でも驚くほど、低く甘い声が出た。
 陽太の髪は、想像していたよりもずっと柔らかくて、ふわふわとしていた。
 
「龍崎、さん……?」
 
 陽太が、目を丸くして固まっている。
 龍崎は、自分の行動の「重み」に遅れて気づき、カッと顔が熱くなった。
 
(俺は……今、何を……っ!)
 
 これは「頭ポンポン」という、恋愛ドラマの王道テクニックではないか。
 そんな意図はなかった。ただ、労ってやりたかっただけだ。
 それなのに、一度触れてしまった掌は、陽太の温もりから離れることを拒んでいた。
 
「……貴様が、あまりにも隙だらけだからだ。……風邪でも引かんようにしろ」
 
 龍崎は苦し紛れの言い訳を吐き捨て、パッと手を離した。
 
 陽太はといえば、顔を真っ赤にして、自分の頭を両手で押さえている。
 
「……反則です、龍崎さん」
 
「何がだ」
 
「そういうこと、サラッとやる人だと思ってなかったから……。心臓に悪いですよ」
 
 陽太は、小さな声でそう呟くと、逃げるように窓の外を向いてしまった。
 
 龍崎は、自分の掌に残った熱を握りしめた。
 心臓に悪いのは、こちらの方だ。
 バクバクと暴れる鼓動を抑えるために、龍崎は再び正面を見据える。
 
 信号待ちの最中、バックミラー越しに目が合った鮫島が、ニヤニヤを通り越して「お熱いですね」と言わんばかりの顔をしているのに気づき、龍崎は凄まじい眼力で彼を黙らせた。
 
 平穏で温かな時間。
 だが、龍崎の背後に漂う暗い影は、この幸福をいつまでも許してはくれなかった。
 
「……若頭」
 
 陽太を送り届けた後、車内で鮫島が声を潜めた。
 
「例の敵対勢力、最近動きが不穏です。若頭が毎晩、お一人で『お出かけ』していることも、奴らの耳に入っている可能性があります」
 
 龍崎の瞳から、甘い熱がスッと引いた。
 そこに宿るのは、獲物を屠る瞬間の冷徹な極道の光。
 
「……わかっている。奴らが、俺の『弱点』を狙ってくるつもりなら――」
 
 龍崎は、自分の掌を見つめた。
 陽太の髪の感触が、まだそこにある。
 
「この世から、その影ごと消し去るまでだ」
 
 恋を知った男は、優しくなると同時に、何よりも残酷で恐ろしい守護者へと変貌を遂げようとしていた。
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