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しおりを挟む「天さん、もしよかったら今度、私の家族に会ってもらえる?」
デートの帰り道、私、東雲ひかりは、付き合ってもうすぐ一年になる恋人の井坂天さんに尋ねた。けれどその瞬間、彼のにこやかだった表情が険しくなる。
「……それ、どういう意味で言ってる?」
「へ?」
彼のこんな不機嫌な顔を見たのも、私を突き離すような低い声を聞いたのも初めてで、驚いてしまう。
それに、言われた意味もよくわからない。思わず立ち止まり、そのまま先へ進む彼を見た。
「家族に会えとか、萎える」
そう呟いて彼も脚を止め、私を振り返る。
冷ややかな笑顔の天さんは、今まで見てきた彼とは別人のよう。
五つ年上の彼は同じ部署の先輩で、私がここに配属されてからずっと傍で見てきたはずなのに。
天さんは、営業部で二年以上成績トップを維持する、やり手の営業マンだ。笑顔が素敵で、女性にも優しい。だから人気があって、綺麗な彼女が途切れることのない人だった。
入社してからずっと、私はそんな彼に憧れと恋心を持っていた。だから、彼から告白された時はとても嬉しかった。
彼は忙しくてもまめに連絡をくれたし、デートにも誘ってくれる。喧嘩なんてしたこともなくて、二人で仲よく過ごしてきた。
だから、そろそろ親代わりの祖父母に彼氏ですって紹介したかっただけなのに。
「なんで俺がお前の家族に会わないといけないわけ?」
「付き合っている人を、家族に紹介するのがいけないの?」
「結婚したい女は、いつも似たようなことを言う。家族に会え、俺の親に会わせろ、って」
確かに、彼といつか結婚できたらいいとは思っていた。でも、まだそこまで深く考えてなんていなかったのに。
「お前もそうだろ。結婚しろって俺に圧力かけてくるんだからな」
「そんなことしてないし、言ってもいないじゃない」
「お前も他の女と同じでがっかりだわ」
全然話が通じない。私の言葉を最後まで聞かずに、どんどん話していく天さんを、なんだか怖いと思った。
「お前は文句も言わないし、いちいち詮索してこなくて楽だったけど、結婚するほどの女じゃねえよ。お前は、ただの遊び」
それは、私を好きじゃなかったってこと?
天さんはあざけるような笑みを浮かべて、言葉を吐き出し続ける。
「それに、お前よりいい女もいるし。いいタイミングだから、これっきりにしてくれ」
一方的にそう言い切り、天さんは私を置いていってしまった。
天さんに振られたことに気付いたのは、彼の後ろ姿が見えなくなってからだ。彼の豹変ぶりに、頭の中が真っ白になっていたらしい。
それからどうやって家に帰ったのかは覚えていない。
気付けば私は、自分の部屋のベッド端にしゃがみ込んで泣いていた。
振られたことよりも、彼の酷い言葉の方がずっとショックだった。
家にいる祖父母に悟られないように、声を押し殺して泣き続ける。
彼にとって私は本気の相手じゃなくて、そして自分が彼に女として好かれていなかったことが、悲しくてたまらなかった。
「あー、目が腫れてる……不細工だぁ」
朝、洗面所で見た自分の顔は酷かった。二重瞼が腫れて一重になっている。目元も赤くて、泣いていたのが丸わかりだ。
もう二十五歳だというのに、こんなに子供みたいに大泣きするなんて……
振られたのは現実だと、自分の顔を見て改めて思う。けれど、泣いたお蔭で頭はすっきりしていた。
目を冷やしてどうにか瞼の腫れを引かせてから、着替えをすませる。それから、朝の日課にとりかかった。
それは、仏間にある御仏壇に五供を供えること。
どんなに体調が悪くても、それをしなかった日はない。
今日の花は、庭でほころび始めた白いマーガレット。母が大好きだった花だ。
供える花は、朝起きて一番に庭で水やりをする祖父が、花壇から選んで摘んできてくれる。
ご飯とお水は祖母が。
私はそれを持って、御仏壇にお供えするのだ。
日常礼拝を終えた後、両親と弟の位牌に挨拶をする。
三人が亡くなって十五年、私はこれを祖父母に倣って毎日欠かさず続けている。
今日は、昨日の夜に自分が振られたという残念なお知らせを三人に告げなくてはならない。
悲しい気持ちがなくなったわけじゃないけど、泣いて冷静になった今、あれだけはっきり言われたのだからすっぱり諦めようと思えた。
「今日も一日、頑張ってきます」
写真の中で笑っている三人にそう告げてリビングに向かえば、祖父がソファに腰をかけ、薬を飲むところだった。
「おじいちゃん、おはよう」
「あぁ、ひかりか。おはよう」
「どこか痛いの? 大丈夫?」
テーブルの上にあるのは、いつも飲んでいる薬とは違う頓服の袋だ。慌てて顔を覗き込みながら尋ねれば、祖父は悪いことを見つけられた子供のように、バツが悪そうに笑った。
「少し頭痛がな」
「大丈夫? 病院行く?」
「平気だよ。大したことはないし、朝の血圧も問題ないからすぐ治るよ」
「……そう? 無理しないでね。続くようならすぐお医者さんで診てもらってね」
「ひかりは心配症だなぁ。このジジイはそう簡単に病気に負けはせんぞ」
親指をぐっと立てて陽気に笑う祖父は、五年ほど前に軽い脳梗塞を起こしてからずっと薬を飲んでいる。でも、病院嫌いでギリギリまで我慢するから心配なのよね。
「ひかりがお嫁にいくのも見たいし、曾孫も見たいから、まだまだ元気でいるぞ」
その言葉に、すごく胸が痛くなる。
「どうした、ひかり」
「ごめんね、おじいちゃん。私、付き合ってた人と別れちゃったの。だから、まだお嫁にもいけないんだ」
以前天さんとお付き合いをはじめたことを報告した時、祖父も祖母もとても喜んでくれた。
いつか彼に会えるのを楽しみにしていると言っていたのに……
結局、祖父母に会わせることもできないまま、私は振られてしまった。
とはいえ、態度を豹変させた天さんの二面性を知った今では、紹介しなかったことはむしろよかったのかもしれない。
ただ、祖父母には残念な報告になってしまったのが申し訳なくて、自然と俯いてしまう。
「そうか。それはそれで、ほっとしたよ」
「どうして?」
慰めではなく、本当にちょっと安心したような声で祖父が呟いたので、思わず顔を上げた。目が合うと、祖父が笑う。
「可愛い孫がお嫁にいったら、わしもばあさんもやっぱり淋しいからなぁ……複雑なジジイ心だな」
そう言って、細く節くれだった手で、私の頭を撫でた。
昔から、私が落ち込んだり、悲しいことがあったりした時、祖父はこうして頭を撫でてくれる。
「ひかりが幸せなら、それが一番だな」
「やだ、おじいちゃん男前」
笑ってそう告げると、祖父は嬉しそうに目を細めた。
「そうやって笑っていると、たくさん幸せが来る。今日はいいことがあるよ」
「そうだね。ありがとう、おじいちゃん」
話をしていると、小柄な祖母がやってきた。
「あらあら、楽しそうね。でも、ひかり。電車の時間は大丈夫?」
腕時計を見れば、既に家を出る時間だった。
「電車に乗り遅れちゃう!」
慌てて立ちあがった私に、祖母がランチボックスの入ったバッグを渡してくれる。
「お弁当も忘れずにね」
「ありがとう、おばあちゃん」
「気をつけて行くんだぞ」
「はーい。おじいちゃんも、調子悪かったらすぐ病院行ってね。それじゃあ、行ってきます」
電車に乗り遅れないように、私は小走りで家を出た。
私が勤める会社は中小企業だけれど、うちでしか作れない特殊部品を製造販売しているので、大手メーカーと取引が多い。
お蔭さまで会社の業績もよくて、社名こそさほど有名ではないものの、大都市に子会社を四社も抱えている。
私はそんな会社の、本社の営業部に勤めている。主な仕事は事務業務だ。
ちなみに、昨日別れた天さん……じゃなくて井坂さんも同じ部署だ。
同じ会社の同じ部署だから、彼に振られた翌日でも、朝からどうしても顔を合わせることになる。出社した私に、彼はなにごともなかったかのように「おはよう」と挨拶してきた。だから私も、同じくなにごともない感じで挨拶を返した。
そうしたら、彼はなんだか嫌な顔をしてその場から立ち去った。
「……井坂さんと喧嘩でもしたんですか?」
たまたま資料を取りに来た一つ年下の立木未紀君が、珍しく私的な話を振ってきた。
立木君は人の機微に敏感というか、目敏い。そして何故か私には遠慮がなくて、あまり触れてほしくないところをピンポイントで突いてくる人だ。
「あー、別れたの。というか、振られちゃった」
暗くならないように笑顔で事実を告げれば、資料を受け取った立木君の手がピクリと動く。
「へえ、やっとですか。よく一年も続きましたね」
「立木君は、毒舌だよねー」
「ええ。俺、あの人嫌いなので」
淡々と立木君は答えた。彼は毎回、ストレートに井坂さんへの感情を口にする。
立木君と井坂さんはとても仲が悪い。犬猿の仲だと言えるだろう。
立木君がこの会社に入社した時、彼の指導担当になったのが井坂さんだった。けれど二人は反りが合わず、ことあるごとに言い争いをしていた。
井坂さんは仕事はとてもできるのだけれど、人を指導するのは苦手な人だった。そのせいで立木君はなかなか仕事を覚えることができず、二人の間には深い溝ができたのだ。
その険悪さは、私が立木君の指導役に変わるまで続いた。
今は立木君も井坂さんもお互い一定の距離を置いているので、あからさまに揉めることはなくなっている。
そんな二人の不仲を知りつつも、立木君が入社する前からずっと井坂さんが好きだった私は、一年前に彼に告白され、それを受け入れたのだ。それ以降、立木君の私への態度も酷くそっけなくなっていた。
それはまあ、仕方ないと思っている。
「別れて正解ですよ。書類、ありがとうございました」
「あ、うん。どういたしまして」
立木君はそのまま、自分の席へ戻っていく。
その日のお昼には、私が井坂さんと別れたという話が、何故だか会社全体に広まっていた。
いくら小さいとはいえ、隣接する工場の人たちにまで伝わっているなんて、一体どういうことだろう。
別に隠すつもりもなかったけど、この広がり方は井坂さんが女性にもてるとはいえ、異常だと思う。
「噂の出所、わかったぞ。経理の河崎。井坂の新しい彼女」
営業部の情報通である二課の男性社員が、食堂で食事をしていた私たちのテーブルにやって来た。
日替わりランチののったトレイを机に置きながら、私と峰さん――職場で私の隣の席の、頼れる先輩女子社員だ――に教えてくれる。
ちなみに情報通の彼は、峰さんの旦那さん。旦那さんの方は、皆から孝正さんと呼ばれている。
孝正さんはもともと、私や峰さん、そして立木君と井坂さんと同じ、営業一課だった。でも昨年、二課に異動になっている。
孝正さんは始業して一時間で噂を聞き、仕事の合間に出所を調べてくれたらしい。
流石、営業部で成績二位の、やり手セールスマン。行動も、情報収集も早い。
「昨日の今日でもう彼女?」
「しかも口が軽い女って、井坂が一番嫌いなタイプだろ?」
「どこかのお嬢様で、社長と繋がりもあるらしいって噂の子よね、河崎さんって。それなら、出世狙いかも。井坂は新人の頃から出世欲が強かったもんね」
新しい彼女って、井坂さんが私よりもいい女って言っていた人かな……
経理の河崎さんは、私の一つ年上で、社内でも有名な美人さんだ。社長の知り合いのお嬢さんだという噂もある。実家は資産家とか、どこかの企業の社長の娘とか、いろいろな話を聞くけど、本当かどうかはわからない。
女性として確かに魅力的な人だなとは思うけど、もう付き合っているっていうのは、流石に早い気がする。もしかして私、二股されてたとか? そう考えると、嫌な気分になる。
「いくら温厚なひかりちゃんだって、ここは怒っていいところよ? 二股なら、井坂を一発くらい殴っても、みんな見逃してくれると思う」
峰さんに言われた。
「そうですね。今なら、頑張って叩ける気がします」
意気込みを込めて、胸の前でぐっと拳を握ってみる。
でも、人を叩いたことなんてないし、暴力的なことは無理かな……
怒ったりするのは苦手。けれど、二股されていたのならやっぱり許せない。叩くのは無理でも、一方的に言われっぱなしで振られた分も込めて、文句くらいなら言えるかも。
「え、そこ頑張るの?」
「そういうところ、ひかりちゃんらしくて好きよ。やる時は援護するからね」
「じゃあ、俺は奥さんの援護だな。任せろ」
峰さん夫婦が、揃って私に親指を立てて笑う。頼もしい支援に私も「お願いします」と、同じように親指を立てて返事をした。
「私に気持ちがないってはっきりわかったので、私もきっぱり諦めて新しい恋が探せます」
「それがいい。東雲ならすぐ見つかる」
「うん。案外近くに出会いがあるかもしれないし」
「そうですね」
峰さん夫婦はにこやかにそう励ましてくれた。
それから数日、なんだか生温かい周囲の目があったけれど、特に突っ込まれることはなく過ぎていた。
井坂さんとも、仕事以外で話をすることはなくなった。でも、特にぎくしゃくすることもなく、普段通りのままだ。
時々、井坂さんと河崎さんが仲よさそうに一緒にいる姿を見かけて、その度に多少は胸がズキっとした。それでも、嫉妬心は全く湧かなかった。
きっとそのうち、この胸の痛みも失恋の痕も、残さず綺麗に消えてなくなるんだろう。
そんなある日、就業中に私宛の外線が入った。
電話の相手は、祖父が通っている総合病院の看護師さんだ。祖父が診察待ちの途中で激しい頭痛を訴え、今、意識を失って検査中だという。
一瞬頭が真っ白になった。
駄目だ。ちゃんと話を聞かないと。祖父のところに行かないと――
電話の向こうで、看護師さんが何か言っている。メモするためのペンは動いているのに、頭には残らない。
電話を切って、自分がメモした文字を目で追う。震えた字を何度見ても、何も頭に入ってこない。
「ひかりちゃん、大丈夫? 顔真っ青よ?」
「あ……峰さん……どうしよう、そ、祖父が、倒れて意識ないって……病院から」
「大変じゃない。課長に報告して……あ、課長! ひかりちゃん早退します!」
「おぉ? どうしたんだ。……って、おい東雲、大丈夫か? すごい顔色だぞ。気分悪いのか?」
峰さんが隣で課長に事情を説明してくれている。
「東雲、早退届は後でいいから、早く病院行け。一人で行けるか? タクシー呼ぶか?」
「はい、一人で……行けます。すみません、後お願いします」
なんとか最低限の仕事の引き継ぎをし、メモとバッグを持って椅子から立ち上がる。歩きだそうとしたけれど脚に力が入らなくて、ガクガク震えながら膝が折れた。
「危ない」
そのまま膝をつきそうになった時、私の腕を誰かが掴んだ。
見上げれば、立木君だった。
「あ、ありがとう」
「落ち着いてください。貴女が動揺しても何も変わりませんよ」
私、動揺しているの?
立木君が私の手にあったメモに視線を向けた。
「つつじ谷総合病院? そこなら今から行く営業先の途中にあるので、送っていきますよ。このまま一人で歩かせたら、タクシー拾う前に道路にフラフラ飛び出して、貴女が事故に遭いそうですし」
「そうだな……。立木、頼めるか」
「ええ、大丈夫です」
「それなら頼むよ」
「ではいきますよ、東雲先輩」
気付いた時には、立木君が運転する車の中だった。
手には缶のアイスココアを持っていて、助手席に座っている。
ココアは半分くらい減っていた。
そのココアの缶を見て、立木君が新人の頃に仕事で失敗した時に「甘いものを取って気持ちを落ち着けよう」とこれと同じものを渡したことを思い出した。その時の私は、彼が甘いものが苦手だとは知らなくて、立木君が何も言わずにものすごく苦々しい顔でそれを一気飲みしたのを、仕事の失敗がこたえてるのかな、なんて思いながら見ていたなあ……
「少し落ち着きましたか」
「……立木、君?」
隣を見れば、ちらりと視線だけを私に向けた立木君と目が合った。彼はすぐにまた、運転に集中する。
そっか、立木君が病院に送ってくれているんだった。
「さっきまで、俺が何を話しかけても『うん』しか言っていませんでしたよ」
「あ……ごめんね。迷惑をかけて」
「どうせなら、ありがとうの方がいいですけど」
「ありがとう」
「別に構いませんよ、ついでなので」
運転しながら、立木君は淡々と答える。
「御家族は、病院に向かっているんですか?」
「祖母が、祖父に付き添って病院に行ってたみたい。だから一緒にいるって」
そういえば、おばあちゃんは大丈夫だろうか。祖父が倒れるのを間近で見ていたはずだから、驚いて心臓の調子が悪くなっていないといいけど。
「御両親は?」
「うち、両親いないの。交通事故で、両親と弟が亡くなったから」
「……すみません、立ち入ったことを」
「ううん、子供の頃のことだから、気にしないで」
「それじゃあ、おじい様が倒れたと聞いたら動揺しますよね」
「うん。自分でもびっくりするくらい、頭が真っ白になっちゃって……。部署の皆にも心配かけたよね。後で謝らないと」
「そうですね。でもとりあえず、今は自分のことだけ考えればいいですよ」
あれ、なんだか立木君が優しい言葉をくれるけど……どうしたんだろう。
「あの病院、俺の身内が勤めているんです。いい医者が揃ってるって言ってたんで、東雲先輩のおじい様もきっと大丈夫ですよ。それに貴女のおじい様なら、不死鳥のように蘇りそうですし」
「流石に蘇るのは無理かなー」
でも、あれくらいの歳の人の中では、回復は早い方だと思うけどね。
「大事な人を悲しませるようなことはしないでしょう」
祖父のことをよく知らない立木君の言葉なのに、祖父のことを正しく言いあてていて、胸にすとんとその言葉が落ちてくる。
彼は気休めを言っただけなのかもしれない。けれど、祖父は大丈夫な気がしてきた。
「そうだよね。ありがとう……今日の立木君、優しいね」
急速に気持ちが落ち着いて、つい口が滑った。
一年近く膠着していた立木君の態度が、以前のものに近くなって、気が緩んだんだと思う。
「俺は気落ちしている人間の心を抉るほど、鬼でも悪魔でもありませんよ」
運転しながらずっと前を見ている立木君の横顔に、僅かに困ったような笑みが浮かんだ。
立木君が私の前で笑ったのを見たのは、一年ぶりくらいかも。
「うん、知ってる。立木君はもとから優しいよ。わかり辛いだけで」
そう答えたら、立木君が驚いた顔をして、直後難しい顔になる。
「そういう恥ずかしいことを、よく平気で言えますね」
「え? そう?」
「でもまあ、それだけ軽口が言えれば大丈夫ですね」
赤信号で停車した車内で、立木君は私に顔を向け、少しだけ頬を緩める。
それから数分ほどで、病院に到着した。
「送ってくれてありがとう」
「大変だと思いますが、無理し過ぎないでください」
「うん。立木君も仕事頑張ってね」
立木君とは駐車場で別れ、メモを見つつ指示された場所に向かう。
辿り着いた先で看護師さんに声をかけると、祖父はまだ処置中で、もう少し時間がかかるという。
祖母は心臓が苦しいと言って、処置室で休んでいた。けれど、祖父の処置が終わる頃には落ち着き、起き上がれるようになった。
祖父は、脳の中の血管が切れて出血していたらしい。幸い切れた血管が細く、また、早く処置を施したので、大事には至らなかったそうだ。ちょうど病院へ来ていたことが、早い処置に繋がったとお医者さんから告げられた。
運が悪く出血が酷かったり、処置が遅れたりしていれば、寝たきりになったり亡くなっていた可能性もあったと。
だから、不幸中の幸いだったらしい。
ただ、祖父は脳梗塞の既往歴があって血が詰まりやすいので、血をサラサラにする薬を飲んでいる。出血を止めるには、その薬を止める方がいいのだけれど、薬を止めると血管が詰まる可能性が高く危険だという。そのため、薬の量を調節しながら経過を見ないといけないらしい。
難しいことを他にもたくさん言われたけれど、医療用語が多過ぎてよくわからない。とりあえず、祖父はしばらく入院し、ベッドで安静にしているようにとのことだった。
会社へ連絡して、祖父が安定するまで私は変則勤務することに決まった。祖父の見舞いと仕事を両立していけるよう、上司が会社に話をつけてくれたのだ。
◆◆◆
「東雲、これ、詳しい製品資料つけて、見積もりを今日の夕方までに作成して」
「え、ちょっと待ってください」
私の机の上に資料を置いてその場を去ろうとする井坂さんを呼びとめた。
煩わしそうに、井坂さんが私に向き直る。
「なんだ? 俺は忙しい」
「急ぎでしたら、他の方にお願いして頂けませんか」
「はぁ? お前今まで、俺の書類は全部作成してただろ。何言ってんだ」
確かに、彼と付き合っていたほぼ一年、彼から依頼される書類のほとんどを私が請け負ってきた。期限が極端に短い案件も多かったけれど、私が断ったことは一度もない。
好きだったから、多少の無理もきいていたのだ。
もちろん他の人の書類も引き受けているし、彼だけを特別扱いしていたわけではない。
ただ、その頃は普通の勤務体制だったので問題なくこなせていたことが、今は難しい。祖父の入院と、それにともなう祖母の体調不良への対応。そのため出勤時間を遅らせたり早退したりと、勤務時間が短くなっている。これまでのように仕事が回せなくなっているのだ。
同僚の皆が助けてくれて、時間に余裕のある書類の作成を回してくれるから、どうにか今のところやりくりできている。
でも、今回井坂さんが持ってきたような至急の案件は、今の私では対応しきれない可能性がある。だから祖父の容態が安定するまで受けるのを控えるよう、上司にも言われているのだ。部署内の他の人ももちろん上司から話を聞いて、急ぎの書類は他の人にお願いしてくれている。
けれど何度断っても、井坂さんはこうして以前と変わらずポンポンと無茶な仕事を持ってくるのをやめない。
応援ありがとうございます!
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