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本当の想い
しおりを挟む自分の本当の気持ちと向かい合って、一ノ瀬のことも星野結花としてどう思っているのか伝えようと決意をしたものの、そう簡単に思い通りにはいかない。
「や、やば……もう九時じゃん!」
ヘアケアブランドの企画が人気漫画家のコラボが正式に決定となり、その最初の告知をどう打ち出すかを現在では販促宣伝チームで案を練っているところだった。そして、それぞれが案を提出して企画チームにもチェックしてもらうのが明日の夕方に迫っている。
今日中に打ち合わせ用の資料を仕上げてしまいたい。だいたいできているので、あとは微調整だ。
九時二十分には終わらせることを目標にもう少しだけ頑張ることにする。帰ったらお気に入りの入浴剤で癒されようと、自分自身を励ましながら再びパソコン画面に向き直る。
「残業、おつかれ」
背後から聞こえてきた声ですぐに誰だかわかってしまい、肩をびくりと揺らした。
あたりを見回すと、いつのまにかオフィスには私と一ノ瀬だけになっている。あんなことがあった後なのに、案外普通に話しかけられて少し驚いた。
「……こんな時間まで一ノ瀬も残ってるの」
「俺はちょうど終わったとこ。……てか、機嫌悪いな」
「そっちこそ、あんなことがあってなんで平然と話しかけてくるの」
私の態度に怒って、しばらく近づいてこないんじゃないかと思っていた。
「脈ありと判断したから」
「私の脈が止まっていたら、怖いでしょ」
「お前のそのつまらないボケの方が怖い」
またこんな風に一ノ瀬と会話できるのが嬉しくて、緩みそうになる頬を必死に引き締める。
「俺からあんな風に逃げるってことは、少なからず意識してんだろ」
「なにその自信」
私の発言にニヤリと口角を上げた一ノ瀬が覗き込んでくる。
顔が近づいて、不覚にもドキッと心臓が跳ねた。必死に動揺を押し隠して、平然とした顔で一ノ瀬と目を合わせた。落ち着け、私の心臓。
「そろそろ仕事の続きしないと」
「おー、がんばれ」
一ノ瀬は私から離れると、オフィスから出て行った。あっさり消えていき、拍子抜けしてしまう。まるで一ノ瀬が帰っていったことを寂しがっているかのようで、私は首を横に振って気を引き締めた。
***
あれから十分後、ようやく仕事が片付いた。資料完成したので、あとは朝一で上司にチェックしてもらうだけだ。時刻は九時十五分。目標時間までに終わったことが嬉しくて、口元が緩む。
「っ、めた!」
突然頬に冷たい何かを押し当てられて、大きな声を上げてしまう。
「おつかれ」
見上げると一ノ瀬が立っていて、いつもみたいに不敵な微笑みを浮かべている。
「ご褒美」
「……わかってやがる」
冷たいものの正体は私の大好きなりんごサイダーだった。
「お前の好きなものなんてお見通しなんだよ、惚れたろ」
「うん。やっぱりんごサイダー最高」
ペットボトルのキャップを捻って、乾いた喉にりんごサイダーを流し込む。喉を刺激する微炭酸と、甘酸っぱくて爽やかなりんごの味がたまらない。何度飲んでも飽きない味だ。
「お前なぁ……ちょっとは触れろよ」
一ノ瀬は呆れたように長い溜息を漏らす。その横で私はパソコンの電源を落として、帰りの支度を着々としていく。
「触れたじゃん。うんって」
「は?」
「だから、うん!」
照れくささを隠すために、わざとあっけらかんと言ったからか一ノ瀬にはイマイチ伝わっていないみたいだ。
「なんだお前、どうした。熱でもあるのか?」
訝しげに眉を寄せて、私の額に手を当ててくる。
「え、っ!」
距離の近さや触れられていることに、心臓が飛び跳ねてしまう。一ノ瀬のことを意識しだしてから、触れられることに過剰に反応してしまうようになったみたいだ。
「一ノ瀬は私のこと、どう思ってるの」
「……好き」
あの一ノ瀬が少し照れたようにその言葉を口にする姿に鼓動が高鳴る。そういう表情、ちょっとかわいくてずるい。
「その言葉、そのままお返しします!」
「……は!?」
「よし、帰ろう!」
パソコンが完全にシャットダウンされたのを見送って、カバンを思って勢いよく立ち上がった。
「ちょっと待て」
「帰ろ。遅くなるよ」
一ノ瀬の止める声を聞かずに、出入り口に向かって一直線に進んで行く。顔が熱くてたまらない。それに今まで冷たく接していた一ノ瀬に対して、素直になるなんて慣れてなくて変な感じする。
「そこの耳真っ赤なやつ、止まれ」
「エレベーターのボタン押してこないと」
「そんなことより、大事な話がしたいんだけど」
エレベーターの下ボタンを押して、早く来いと心の中で何度も唱える。
「星野」
「あ、ラッキー。すぐ来たね!」
出迎えるように開いたエレベーターの小さな箱の中に足早に乗り込んで、ほっと胸を撫で下ろす。エレベーターのドアに手を押し当てて、閉まるのを阻止した一ノ瀬が乗り込んできた。
「ラッキーだな」
「……え、うん」
安堵したのは、ほんの一瞬のことで一ノ瀬が楽しそうにしていることに嫌な予感がする。
「逃げられねぇな、お前」
耳元で甘く囁くと、私を隅っこに追いやって壁についた手で逃げ道を塞がれた。一体これは何が起こっているのだろう。
「ちょっと、」
「で、俺のことなんだって?」
「……えーっと」
鼓動が更に速度を増して、顔に熱が集中していく。今さら改まって言うのは恥ずかしすぎて、頭が真っ白になってしまう。
「否定しないなら、このままキスする」
「は!?」
「いいんだな?……本気にしていいんだよな?」
「えっと……その」
アルフォンスには散々いじめられたから、一ノ瀬となるべく近づきたくないって思っていた。でも、そう思うたびに一ノ瀬のことを意識してしまって、二人でデートをしてから一ノ瀬のいろんな一面を見て、少しずつ心が揺れていった。
「星野」
好きと言われたとき、本当は嬉しさがこみ上げてきて、そのことにすごく動揺してしまった。私が、ソフィアがアルフォンスを好きになるなんてありえないって思っていたのだ。それに前世の最期も思い出してしまった。だからこそ、一緒にいたらいけない。————そう思っていたのに。
「お前も俺のこと、好きなのか?」
「……っ」
「答えて」
澄川くんと話をして、私は星野結花としての今の気持ちに素直になろうと決めた。逃げるのはやめよう。一ノ瀬とちゃんと向かいあおう。
『ねえ、星野。幸せになっていいんだよ』
私の、答えは……もう出ている。
「……は」
最初の一文字を口にした瞬間、次の文字は唇を塞がれて消えていった。触れたところから伝わってくる熱に目を見開く。一ノ瀬の黒髪に優しく頬をくすぐられたかと思えば、すぐに頬に一ノ瀬の温度の高い手が添えられる。自分とは違う体温と甘く痺れる感覚に浸っていると、一ノ瀬が私から離れていく。
「……っ今、答える前にした!」
「はの次の言葉なんて、〝い〟だろ」
いつもと変わらない口調なのに、一ノ瀬の頬がほんの少し赤い気がして、私たちはいつもとは違う関係になり始めていることを自覚していく。そんな表情……ずるい。
「だ、だってそんなのわかんないでしょ! そもそもここエレベーターなのに!」
「あー……はいはい。すみませんね」
「あ、あんた私のこと本気で好きなわけ!?」
「好きだよ、悪いか」
急に変わっていくのが恥ずかしくて、ついつい突っかかってしまうけれど、もう自覚してしまって認めてしまったら戻れない。
「わ、悪くないけど!」
「お前こそ、俺のこと本当に好きなのかよ」
一ノ瀬の問いかけに答える前に、エレベーターが開く。おそらく赤くなっているであろう自分の顔を隠すために、エレベーターホールに向かって足を進める。そして、背を向けたまま答えを告げた。
「そうだよ、悪い?」
なんて可愛げのない返答なのだろう。こんなときくらいもっと女の子らしく、可愛い言葉を返せたらいいのに。
「悪くはないな」
「……そ、そう」
優しくて大きな手で一ノ瀬が私の頭を撫でる。触れた温かな感覚に一日の疲れが溶けて消えていくような気がした。その瞬間、私にはこの人が必要だと強く感じて胸の奥が熱くなる。
……やっぱり私、〝一ノ瀬〟が好きだ。
会社を出て、一歩踏み出せば真っ暗な夜道が広がっている。この時間帯だからか人はほとんどいなくて、街灯の明かりだけが足元を照らしてくれていた。
「一ノ瀬」
「ん?」
振り返る一ノ瀬にアルフォンスを重ねてみた。似ているけれど、違う。アルフォンスと一ノ瀬は交わらない世界にいる。けれど、彼らは同じ魂を持っている。
矛盾しているかもしれないけれど、同じだけど違う。私の中のソフィアは、きっとどんな形でもいいからアルフォンスに会いたかったのかもしれない。
「ずっと……好きでいてくれて、ありがとう」
これはソフィアの言葉でもあり、私の言葉でもある。
「やっと届いた」
一ノ瀬は幼さが残る笑顔を向けてくれた。どうかソフィアの心残りが、少しでも消えますように。そして、今度は〝私〟だけの言葉で言わなくちゃいけない。
「あのさ、一ノ瀬」
恥ずかしくても、緊張してもこれはきちんと言わないといけない。
「私、一ノ瀬が好き」
この言葉は、ソフィアじゃなくて今を生きている私が一ノ瀬に伝えたい気持ちだ。前世のことで遠回りしてしまったけれど、前世のことがなかったら私と一ノ瀬はこんな風に関わらなかった。
『星野は、前世の記憶がないほうがよかった?』
澄川くんの問いに、今なら答えられる。色々と苦労はしたけれど、私はあってよかった。
「ありがとう。……これから、よろしく」
一ノ瀬の熱っぽい眼差しが私を捕らえる。照れくさくて視線を逸らしたくなるけれど、下唇を噛み締めてぐっと堪えながら頷いた。
前世の最期と今は違う。私たちのこれからは、私と一ノ瀬次第だ。
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