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しおりを挟む姫だった記憶を持っていても、今の私はせっせと資料を会議室に運ばなくてはいけない。これが私の現実なのだ。
前世の私が傲慢な性格じゃなくってよかったとつくづく思う。これで『姫である私にこのようなことをさせる気なの!?』なんていう高飛車だったら、現代で一般人の私は働けていたかわからない。それで前世が姫だったとか言い出していたら、中二病に思われてしまいそうだ。
今はとにかくこの資料運んだらお茶の準備しないと。確か今日は六人だ。メンバーを頭に思い浮かべながら、お茶よりもコーヒーを好む人が多そうなので、コーヒーのセットを準備しようと考えながら会議室へと足を進めていく。
けれど、抱えている資料によって両手がふさがっていて会議室のドアを開けられそうもない。一旦床に置くしかないかな。なんて考えていると、会議室のドアがタイミングよく開いた。
「重そうだな、持とうか?」
ちょっと笑いながら言ってくる一ノ瀬に、目を細める。
「大丈夫です!」
「小さいからぺっしゃんこに潰れるぞ」
「そこまで小さくない!」
「小さい自覚はあるんだな」
こんなことを言いながらも、ドアをわざわざ開けてくれたのはわかっている。
「小さいのかわいいと思うけどな」
「はいはい、どうも」
「お前なぁ、少しくらい照れろよ」
「はいはい、どうも」
一ノ瀬は意地悪を言ったり、からかってくることも多いけれど、こうやってさりげなく助けてくれる。先日ファイルを取ってくれた時だって、届かない私が見えたからわざわざ来てくれたのだろう。
抱えていた資料をテーブルに置いて、少し文字が残っているホワイトボードを綺麗に消していく。
会議には一ノ瀬も出席する。今日の会議は販促開発室の一ノ瀬のいる企画チームと、私のいる宣伝チーム。各チームから三人ずつ参加し、合計六人での会議だ。今回は一ノ瀬が企画したイベントが採用されることになったらしい。悔しいけれど、一ノ瀬は発想がよく、気もきくので仕事を一緒にしやすいのだ。
「一ノ瀬」
「んー?」
「……ありがとう」
背を向けたまま、ぎこちない一言を口にする。アルフォンスのことがあって、普段はなかなか素直に会話ができないけれど、一ノ瀬にはさりげなく助けられることも多い。なのでお礼くらいはきちんと伝えておきたい。
『アルフォンス、』
ずきりとこめかみ辺りが痛む。アルフォンスにも、なにかお礼を言ったことあったような、なかったような……なんだかこれは曖昧だ。
「どういたしまして」
いつになく優しい声だった。今、一ノ瀬はどんな顔をしているのだろう。確認するのが少し怖くて、振り返ることができない。
私は間違っているのだろうか。一ノ瀬とアルフォンスを同じ人として、扱ってしまうべきではないのかもしれない。だけど、記憶は簡単に消えるものでもなくて、どうしてもダメなのだ。
たとえ、一ノ瀬が前世の記憶が全くなかったとしても、私には前世のアルフォンスに対する記憶がある。子どもじみた独占欲で、お兄様をとられたくなくて、アルフォンスを敵視していた。愚かなソフィア。一ノ瀬が本当にいい人だとしても、彼だけはダメだ。確実に覚えている〝ある記憶〟が私の中に存在する限り。
振り返ると一ノ瀬はもうそこにはいなかった。
***
会議は一ノ瀬中心で行われた。説明の仕方が上手く、どういったターゲット層に向けて宣伝をしたらいいのか私たち宣伝チームもやるべきことのイメージがつきやすい。そのため大きな変更点などもなく、会議はスムーズに進んだ。
予定通りの時刻できっちりと会議が終わり、残ってホワイトボードを綺麗に消していると後ろで物音がした。振り返ると、すでにいなくなったと思っていた一ノ瀬が紙コップをまとめている。
「星野、資料助かった」
「え?」
「あれなかったらちょっと困ったから、用意してくれててすげー助かった」
お礼を言われるとは予想外だったので、思考が一時停止してしまった。
「そ、そうなの……?」
「星野って、意外と頼りになるんだなって初めて思った」
「……一言余計なんですけど」
やっぱり一ノ瀬は一言余計な一ノ瀬だった。はあっとため息を吐いて、ホワイトボードの残りの文字を消していく。
「俺はいつだってちょっとだけ余計なんだよ」
「それを自信満々に言うことじゃない。かっこ悪い」
なんで私、現世でも一ノ瀬と出会ってしまったのだろう。記憶がなければ、私の一ノ瀬に対する感情は確実に違っていた。けれど、こうして前世の記憶がある状態でおまれ変わって巡り合ったということは、あのことが原因なのだろうか。
会議が終わったことによって緊張の糸が切れて、甘いものが欲しくなってきた。デスク戻ったら、おやつのどら焼き食べよう。前世にはどら焼きはなかったけれど、甘味としてあんこみたいなものはあった。それを焼きたてのパンに塗って食べるのが好きで、お兄様と一緒にそれを食べることが私の楽しみだった。
『ソフィアは本当に甘いものが大好きなんだね』
笑顔で言うお兄様が懐かしい。
今思うとかなりのブラコンだったけれど、あの頃の私にとってお兄様は尊敬する人で自慢だった。いつかは嫁に行き、自国を出なければならないというのはわかっていたけれど、その日を迎えるまではお兄様の傍にいたかった。
お兄様を思い出して一瞬幸せな気持ちになった後、彼のことも思い出してしまう。
隣国の王子のアルフォンスは弟のクレールを連れて、なにかと理由をつけて城を抜け出しては遊びに来ていた。お兄様との幸福のティータイムを邪魔してくるので、私としてはアルフォンスの来訪はいい思い出は少ない。しかも、お土産と言ってふざけて渡してくるのはカエルや毛虫。
私の頭に手を置いて身長を止めようとしてきたり、お兄様に憧れて剣の訓練をしていたら私の剣筋を見て『もしかして、寝起きか? 目が覚めてからやらねーと、あぶねーぞ』なんて言って、笑いながら小馬鹿にしてきたこともある。思い出すだけで腹立たしい。
悔しいけど、口は悪いし意地悪だけど、アルフォンスは人を惹きつける力を持っていて、彼を慕っている人が多かった。それは、あの頃の私もわかっていた。
「星野」
名前を呼ばれて、一気に現実に引き戻される。気をぬくとうっかり前世にトリップしてしまうから気をつけないといけない。
「なに?」
深呼吸をして心を落ち着かせた後、振り返らずに一言だけ返した。
「そういえば、デートどこ行く?」
「恐ろしい計画を当然のように立てないで」
いつも通りの一ノ瀬のノリに呆れつつ、私もいつも通りの調子で返す。
「一ノ瀬なら相手いくらでもいるでしょ」
「星野は相手がいなさそうだな」
「余計なお世話なんですが」
この男はデリカシーというものがないのだろうか。というか、本気で私のことをデートに誘っていたらこんな失礼なこと言ってこないと思う。
「俺のこと頑なに嫌がるのはなんで?」
「逆にそんなに誘ってくるのはなんで?」
「質問返しすんなよ」
私たちは気が合わない。前世でも現世でもそこは変わらない。決して交わることなんてないんだ。
「星野、こっち向いて」
腕を掴まれて、無理やりに振り向かされた。
「え、ちょ……」
私よりも二十センチ以上は高い一ノ瀬を見上げると、向けられた切なげな瞳に狼狽えた。
「俺のこと、そんなに嫌?」
「それ、は……」
「俺、気づかないうちに星野になんかした?」
どう答えればいいのかわからない。一ノ瀬に前世の記憶がなかったら私の言っていることなんてわけわからないので、打ち明けたてもただの痛い女だって思われるかもしれない。そんなことを考えている私は、まるで一ノ瀬に嫌われたくないみたいで、ますます困惑してしまう。
「あのさ、星野」
「な、に」
息を飲み、彼の唇から紡がれる言葉に身構える。
「あの夜のこと、なかったことにすんなよ」
「え……」
一ノ瀬が真剣な表情なので、言葉に詰まってしまう。どういった意図で言っているのだろう。
「俺のこと、ヤリ捨てる気?」
「なっ、だ、だってあれはお酒の勢いでしょ!」
「ふーん。星野はそう思ってんだ?」
まるで一ノ瀬は勢いではなかったような言い方だ。あれはどう思い返しても、一ノ瀬だって酔っていたはずなのに。
「顔赤いけど」
「う、うるさい!」
にやりと笑われて、そして耳元で囁かれる。
「なに思い出してんだよ」
卑猥なことなんて考えていなかったのに、肯定するかのように頬の熱が上昇していくのを感じた。たぶんこれは揶揄われている。睨みつけると、一ノ瀬は楽しげに目を細めて「また今度誘う」と会議室から出て行った。
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