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第3部 あの恋の続きを始める
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しおりを挟む履歴書には早坂と同じ職場だったこともあり、大方誤解を招いている気がしてならなかった。最賀の言う横柄な跡取り外科医は、人相含めて早坂がピタリと当てはまるからだ。五年前にそんな話をしたが、最賀が覚えているかは定かでは無い。
ただ、変な行き違いが生じたのであれば早目に訂正したかった。こうした一つ一つの誤解と過ちが重なると、取り返しが付かなくなるのは痛い程学んでいる。
「あの、何か勘違いしてるかもしれませんが…、履歴書の通りの前職場で良くして下さった夫婦の方と、先輩に……」
「─早坂?」
「あ、ええと……」
「家が大学病院経営するお坊ちゃん、か」
「今は桃原先生です。御結婚なさって、婿入りを」
「……は、あ?」
陽菜の担当だった、早坂は結婚を機に桃原家に婿入りをした。早坂の名を捨てることは、世間一般的にはかなりの大事件とも言えるらしい。
それでも、彼は選んだ。彼を動かす何かに惹かれるように。
「早坂が、あの家を捨てて…婿入り?」
「その、込み入った話はあまり。ですが、桃原になったからとネームプレートを……。私が作ったので」
「──はは、あいつらしいな」
陽菜は以前勤めていたクリニックでお世話になった夫妻や箕輪の話に花を咲かせた。
何となく、五年前の話を無意識にお互い避けていた。二人にとってはカーテンコールすら無い閉幕だったからだ。
早坂の詳細は何となく、最賀の反応から伏せておく方が良いと思った。医師同士、何処かで顔を合わせることもあるだろう。双方共に障害に成り得る情報は多くない方が良い。
陽菜は真新しいフカフカのバスタオルを渡して、最賀を送り出した。浴室は給湯器が未だに稼働しており、やっと陽菜も扱いが慣れたくらいである。
最近の風呂は追い焚き機能や湯沸かし等のハイクオリティーな機能が備わっているらしい。陽菜は追い焚き機能が無い住宅事情によって、不慣れだった。
それでも、給湯器が現役なのは古びた設備の賜物なのだろう。
最賀はバスタオルを巻き付けて、意外にも早く出て来た。湯気が立ち上って、微かに陽菜のシャンプーやリンスーのフローラルな香りがする。
成人男性用の洋服など、置いていない。ましてや、母の昔の男の服なんてもってのほかだ。だから、横着して着る毛布しか手元には無い。
「……御免なさい、服、替えのなくて。今乾燥機にかけているので、それまでは……あの」
「着る毛布」
「御免なさい」
「なんか、新鮮で可愛いなこれ」
柔らかなスカイブルーの着る毛布を最賀は鼻梁を近付けてすん、と嗅ぐ。
「出前番するから、入るか?」
手際良く毛布を纏った男はファーコートを着た様な風貌で首を傾げた。シュールな光景に、陽菜は盛大に噴き出してしまったのだった。
「んー……はあ、美味しい」
「忠さん、お寿司に飢えてらっしゃったのですか?」
「此処は水産業盛んなんだろう? 新鮮な魚で握った寿司は美味いから、何度食べたって唸る」
出前で注文した寿司は、どれも新鮮な魚介を使っている。口の中では旨味が溢れて、流石は水産業を生業とするエリアだなと思った。都心部に居た頃は値段の高さにひどく驚いたものだった。
地元では烏賊や蛸等は近所から貰う物だったし、鮪や魚類も新鮮で安い店が多かった。都会は物価が高いなと安月給で仕送りをする陽菜にとっては、食費の締め付けは割と辛かった気がする。
「お酒でも飲まれますか? 日本酒があったはず……」
「あ、自転車で来られたから……駄目ですよね」
「い、や……押して帰れば……良いし」
最賀が掴んだ手が離れる。するりと陽菜は何だか変な空気が気まずくて、しどろもどろする。冷蔵庫に締まってある日本酒の瓶を取り出して、このギクシャクとした曖昧な関係は年月を悟らせたようにも思えた。
桃原が酒を暫く飲めないからと言って、未開封の日本酒を何本か貰ったのだ。秋田の地酒で美味しいらしい。
確かに最近は彼女とテレビ通話をしていると、顔色が悪い気がする。元々肌の白い彼女だが、カメラのフィルターのせいなのか、一段と白さが際立っていた。
日本酒を二本飲み比べようと、お猪口を二つ持って居室へ向かう。
畳一面に広がった元は客室として使用していた部屋だった。陽菜は母家の中心部にあるこの部屋で良く過ごしていた。そこに布団を敷いて、一人で寝る生活をする場所へ、最賀がいるのは感慨深いものがあった。
「悪い、俺も手伝えばよかったな。重かっただろう?」
「いえ、そんな……」
味が混ざると良くないのかもしれないと思って、二つしかないお猪口は最賀の分だけ用意した。二種類の酒を飲み比べをするならば、安パイに二つあれば良いと。
だが、最賀はお猪口を一つ陽菜の方に渡した。
「アンタは?」
「え?」
「日本酒、飲まない?」
「あ……じゃあ」
「飲み比べ出来る様に持って来たんだろう、でもこれはアンタの分」
先にどうぞ、と最賀は四合瓶を片手で軽々と持って陽菜へ御酌をしようとした。徳利に注いで持って来ることをスッカリ忘れていたが、最賀は全てお見通しだ。家なんだから、と気を遣わせない配慮に陽菜は安堵する。
陽菜はお猪口を両手で持って注いでもらう。とくとく、と美しい音色が響き、華やかな香りが鼻先を掠める。交代しようとしたが、最賀はお酌禁止と今度は突っぱねて、自分で注いでしまった。率先してやるものではない、とキッパリ付け足して。
「乾杯。こうしてまた……一緒に酒を飲んだり、働けるなんて嬉しいよ」
喉越しはとてもきめ細かくて、流石桃原のお気に入りの酒だと舌鼓を打った。
「それと、突然来てしまって悪かった」
「え?! どうしてですか?」
「いや、普通は嫌だろう……」
「何も無い所ですが、母家に招待出来て私は嬉しいですよ?」
「面接でガッチガチに固まってたのに」
「そりゃあ……最賀先生直々に面接して頂けるなんて滅多にない機会ですもの」
最賀が陽菜の履歴書を目で追う姿を、じっくりと焼き付けていたなんて言えない。真剣な眼差しで、睫毛が伏せられたセクシーな横顔を前にして、平常心を保つのはとても苦労したのだ。
顔の造形がまず完璧だ。目の窪みが意外と深く、シルバーの縁取り眼鏡は聡明さをより増幅させている。前髪を切ったお陰で視野は広くなった。
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