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沈む記憶

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 昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。

 

 ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。

 

 

 

「ふぅ、ここらへんで一休みしときましょうか……」

 

 家から川までは約百メートル。おばあさんの体力では、たくさんの服を抱えながら、休憩無しでその距離の移動は難しかった。

 

「あの人も少しぐらい手伝ってくれたらいいのに……」

 

 おじいさんはいつも仕事ばかりで、家のことは全ておばあさんに任せきりだ。

 

 季節は夏。今の時期、おじいさんは毎日裏山の芝刈りをしている。

 

 口から溢れるのは愚痴ばかりだが、おばあさんの顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

 

「まあでも……そんな所も含めてあの人を好きになったんですもの。頑張らないとねぇ」

 

 おばあさんは重い腰を持ち上げる。じっとりとした額の汗を拭い、服の入ったかごに手をかけたとき。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おばあさんの顔から、笑みが消えた。

 

 

 

 

「……あの人って誰?」

 

 

_僅かに生まれた記憶の穴。

 

「え……? 嫌だ嫌だ。年を取るとこんなことまで忘れてしまうんだねぇ」

 

 誤魔化すように、何度も頷くおばあさん。

 

「あの人は……いつも……仕事ばかり……?」

 

 記憶の穴はじわじわと広がっていく。まるで誰かに指を突っ込まれ、ぐりぐり、ぐりぐりとほじくられているようだ。

 

「あの人は……誰?」

 

 

 何とか思い出そうと記憶の糸を手繰り寄せるが、それはすぐに途切れ、また途切れて叶わない。

 

 

「私は大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫」

 

 おばあさんの頭には、もはや誰を思い出そうとしているのかも覚えていない。

 

「家に……帰らないと……」

 

 虚ろな表情で、遠くに聞こえる喧騒を目指すおばあさん。

 



 

 

 

 おばあさんは覚えていない。村から離れた家で暮らしていたことを。

 

 

 おばあさんは覚えていない。なぜそんなところで暮らしていたのかを。

 

 

「何だか……賑やかね……ふふふ」

 

 

 

 おばあさんは覚えていない。その村の人間は、既にいないということを。

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