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「ここが……」

 朝の駅に向かう人波に逆らいながら、番地を頼りに辿り着いたのは高台のマンションだった。

(お、大きい……)

 ただ、そこに建っていたのは、大きいだけでなく、璃玖の予想を遥かに越える高級マンションだった。

 三つほどの棟で形成され、壁と剣先フェンスに覆われた建物は、なかなか正面に辿り着けず、やっと着いたと思った正面玄関には門が設置されており、まるで美術館のような重厚な建物だった。

 大小様々な樹々に囲まれた門をくぐると、外国のホテルに着いたかのように錯覚してしまうほど豪華なエントランスで、その奥は自動ドアで閉ざされていた。

「よしっ!」

 気後れしないように自分へ気合いを入れた璃玖は、オートロック式の自動ドアに戸惑いながらも、手に持っていたキーをかざし中に入ると奥にはエレベーターが複数あった。

 ボタンを押すとすぐにエレベーターが到着し、璃玖は静かに乗り込むと、鍵についたタグで部屋番号を確認した。

(十二階……。最上階か……)

 そのまま最上階に到着した璃玖は廊下を見回すと、同じ階には五部屋ほどしかなく、部屋番号は一番奥の角部屋を指していた。

 一番奥へと進み、ドア横のネームプレートに『神山』と書いてあることを確認して、璃玖は部屋の鍵を開けた。

(お邪魔します……)

 璃玖は心の中で呟き中に入ると、誰かが掃除をしているのか、玄関には埃は全く溜まっていなかったが、靴や小物などは一切なく生活感を感じなかった。

(誰かが掃除とかしてくれているのかな……)

 そう思いながら靴を揃え脱いで上がると、正面にドアが一つ、左手には二つ、右手からは明るい日差しが差し込んでいた。

 璃玖は光に誘われるように右手に進みドアを開けると、広々としたリビングダイニングが広がっていた。

 ただ、家具はダイニングテーブルとソファがあるくらいで、玄関と同じくらい生活感がなかった。

 リビング奥のドアを開けると、ベッドルームになっていて、大きなダブルベッドが真ん中に置かれていた。

 この部屋も目立った家具はなく、ベッド以外にはサイドテーブルがあるぐらいだった。

 ただ、そのサイドテーブルの上には写真立てが二つ飾られていた。

(あれは……)

 璃玖は気になり、近づいて片方を手に取ると、それは父と母の結婚式での写真だった。

(二人とも、今とそれほど変わってないなー)

 十数年ほど前と思われる二人は、緊張しながらも仲睦まじく洋装で写っており、微笑ましかった。

(こっちは……)

 もう片方の写真立てには、古そうに色褪せた写真が飾られていた。

 写真をよく見るため、璃玖は写真立てを手に取ると、男性が三人で写っており、一人は若い頃の祖父だと気が付いた。

(じゃあ、おじい様の隣に写っているのが、おばあ様……)

 初めて見る祖母の姿は、祖父にそっと腰を抱かれながら優しく微笑む男性だった。

 ズボンと白いシャツを着ているが、それでも男性と思えないくらい細身で中性的で、とても綺麗な顔立ちだった。

 祖父母の隣に映る、もう一人の男性は誰だかはわからなかったが、三人が並んで映る写真からは、両親の結婚式の写真と同じくらい幸せそうな様子が感じとれた。

(おばあ様はΩでも幸せだったのかな……)

 そんなことを考えた璃玖は首を横に振り、マイナス思考になりそうなことを阻止して、写真立てをサイドテーブルへ静かに戻した。

(外の空気でも吸おっと……)

 璃玖はリビングに戻りカーテンを開けると、窓の外はルーフバルコニーに繋がっていた。

 大きな窓を開けると、少し肌寒いが心地の良い風が入ってきた。

「うーん、風が気持ちいい……」

(秋色、秋景色、秋麗……)

 少しひんやりする秋風が心地良く、璃玖は鼻歌を歌おうとすると、背後からドアが開く音がした。

 璃玖が振り向くと、そこには祖父ほどの年齢の男性が立っていて、目が合った。

 その瞬間、男性は手に持っていたカバンを床に落とすと、驚いた様子で何かを呟いた。

 璃玖には名前のように聞こえたが、風の音でほとんど聞き取ることができなかった。

 男性は驚いた表情から、ハッとしたように表情を和ませると、そのまま璃玖に近づき頭を下げた。

「お久しぶりです、璃玖様」

 璃玖は年上の人に頭を下げられるのは初めてで、動揺してしまう。

「えっ、あ、あ、頭を上げてください! って、あれ? どうして僕の名前……」

「驚かせて申し訳ございません。そうですよね……。璃玖様と最後にお会いしたのは、お生まれになられてすぐの時でしたから。私、以前は璃玖様のおじい様の秘書をしておりました、天沢楓と申します。浩二朗様が引退された後は、このお部屋の管理を任されておりました」

 頭を上げた男性の顔をよく見ると、年齢は重ねているが、祖父母と写真に写っていた男性によく似ていることに璃玖は気が付いた。

「あの、間違っていたらごめんなさい……。寝室の……写真に写っている方ですよね?」

「はい、そうです。随分昔の写真ですが……。でも、璃玖様を拝見していると、昔を思い出します」

 天沢は昔を懐かしむような表情を浮かべた。

「しかし、ここにいらっしゃったということは……。璃玖様はΩだったんですね……」

「……っ」

 Ωという単語に、璃玖の身体がついビクッと反応してしまう。

 天沢は璃玖の反応に気が付き、すぐに頭を下げた。

「ご不快にさせて申し訳ございません。大変失礼いたしました」

「い、いえっ、そんな! 頭を上げてください! でも、どうして……。その……僕がΩだって……」

「このお部屋は、璃玖様がΩであった場合のみに鍵をお渡しするとなっておりましたので……。これ以上は立ち話もなんですので、お茶をお淹れしますね。よろしければ、座ってお待ちいただけますか?」

 璃玖が頷くと、天沢は眉を下げて笑みを浮かべた。

 床に落とした自分のカバンから、天沢は黒いエプロンを取り出してそのままカバンを片づけると、シャツの袖を捲りながら対面キッチンに向かった。

 璃玖はキッチン前に置かれたダイニングテーブルの席に着いた。

「ミルクティーはお嫌いですか?」

 ホーロー製の口が細いポットを火にかけ、戸棚から数種類あるティーカップを選びながら天沢は璃玖に尋ねる。

「あ、好きです。母もよく淹れてくれるので」

「それはよかった。少々お待ちくださいね」

 対面キッチンとなっているため、天沢の所作が璃玖からもよく見えたが、普段お茶を入れない璃玖でもわかるくらい丁寧で、ついつい璃玖は見惚れてしまう。

「すごい、慣れているんですね」

「ふふ、ミルクティーは特に。浩二朗様の休憩時は、コーヒーよりもミルクティーを好まれていらっしゃったので」

「へぇー。そうだったんですね」

「でも私より、椿様……璃玖様のおばあ様のがおいしいと仰っていましたよ」

(おばあ様の名前……椿っていうんだ……)

 璃玖は初めて、祖母の名前が『椿』ということを知った。

「天沢さんは、おばあ様のこともよく知っているんですか?」

「ええ、もちろん」

「じゃ、じゃあ! おばあ様がΩだということも?」

 璃玖は興奮したように席から立ち上がると、天沢が驚いた顔をしたため、璃玖は慌てて席に座り直した。

「ご、ごめんなさいっ。僕……」

「いえ、どうぞお気になさらず。もう少しだけ、お待ちいただけますか?」

「はい……」

 天沢はお盆にティーカップに入れられたミルクティーとクッキーを数枚お皿に乗せて、璃玖の目の前に運んでくれた。

 だが、目の前に並べ終わると、そのまま璃玖の少し後ろに天沢は立ったままで璃玖は困惑する。

「あ、あの……。座らないんですか?」

「あっ、申し訳ございません。つい昔のクセで……。ただ、私もお仕えする身なので、主人と同席するというのは……」

「とりあえず、普通にしてもらえると僕も助かります。あと敬語も……駄目ですかね?」

「あ、失礼しま……。いえ、わかりました。堅苦しくないように気を付けます。では、座りますね」

 そう言って、天沢は璃玖の向かい側に座った。

「さて、まずはもう一度自己紹介をさせてください。私は天沢楓と申します。浩二朗様より、このお部屋の管理と、璃玖様がここに住むようになった時にはお世話をするように、お亡くなりになる前から約束をさせていただいておりました」

「そう……だったんですね。でも、おばあ様が椿で天沢さんが楓……。なんだか兄弟みたいですね」

 璃玖は何気なく言うと、天沢は先程出会った時以上に驚いた顔をして、そのまま前触れもなく一筋の涙を流した。

「えっ! ご、ごめんなさいっ。僕、何か傷つけることを……」

 いきなりの天沢の涙に、璃玖は慌てふためいてしまう。

「いえ、失礼しました……。その……初めて椿様……璃玖様のおばあ様にお会いした時にも同じことを言われまして……。つい、懐かしくなってしまいました。本当に……よく似ていらっしゃる」

 天沢が浮かべた笑顔に、璃玖は悲しさよりも幸福さを感じ取った。

「僕、おばあ様の写真を見たのも名前知ったのも今日が初めてだったんですが、そんなに僕と似ていますか?」

「えぇ。璃玖様の年の頃の椿様に驚くくらいそっくりです」

「そんな昔から、天沢さんとおばあ様は知り合いだったんですか?」

「実は、浩二朗様に仕える前は椿様に仕えていたものですから。詳しい話はまた今度の機会に……。ちなみに、私もΩです。番がいて、この隣の部屋で一緒に暮らしています」

 そう言って、天沢はシャツのボタンを一つ外し、長めの襟足を手で持ち上げ、うなじの噛み跡を見せてくれた。

 噛み跡は古そうに見えるが、形がくっきりと残っており、それを見た璃玖は改めてΩという存在に実感が湧いてきた。

「璃玖様は……やはり、ご自身がΩだということに驚かれましたか?」

 外したシャツのボタンを元に直してながら、天沢は心配そうに璃玖に尋ねる。

「驚いた……というより、正直ショックで……。まだ、信じられないです……」

 璃玖はティーカップを握る手に力が入った。

「そうですよね。そのお気持ちは、私もわかります。世間のΩに対する目は、厳しいですからね……」

「……」

「でも……。だからこそ、浩二朗様はご心配されて、この部屋を璃玖様にと残されました。発情期が訪れるまで、あと二年ほどでしょうか……。もう、抑制剤は飲まれ始めましたか?」

「はい……。今日初めて飲みました。副作用もないみたいですし、飲み続ければ発情期は抑えられるから……。日常には支障ないですよね? だからΩってことも、きっと隠せますよね?」

「……」

 璃玖は不安を覆い隠すように笑って天沢に質問をするが、天沢は真剣な表情を浮かべた。

「実は……。椿様には……抑制剤が全く効かず、発情期を抑えることができなくなってしまったことがあったんです……」

「抑制剤が……効かない?」

「はい……。椿様も浩二朗様も、璃玖様にその事が遺伝されていないか心配されて……。それでこの部屋だけでなく、璃玖様の発情期に影響されない、Ωである私を使用人として残されたのです」

「そ、そんな……。どうして、薬が効かなくなったんですか……?」

 璃玖はティーカップを握る手が不安で震えだしそうでカップから手を離すと、天沢に悟られないよう、そっと反対の手で手首を抑えた。

「申し訳ないのですが、詳しいことは……」

 天沢は首を横にゆっくりと振った。

(薬が効かない…。じゃあ僕の発情期は、抑制剤だけじゃ完全に抑制できない可能性がある……)

 微かに希望を抱いていた璃玖は、目の前が真っ暗になった。

(そっか……。じゃあ、もう……)

 どんなにこれからのことを考えようとしても意味がないと思った璃玖は、目頭が熱くなった。

 だが、天沢の前で泣くわけにもいかず、璃玖は必死に笑みを浮かべて天沢に質問をした。

「天沢さん……。天沢さんは……Ωであっても幸せですか?」

 不躾な質問だとわかっていながら、璃玖はどうしてもその答えが知りたかった。

「……。もちろん、Ωとしての苦労はたくさんありました。でも、とても幸せですよ。もちろん椿様も……とても幸せそうでした」

 天沢は幸せそうに、目尻を下げながらニッコリと笑った。

「そう……ですか。色々と教えてくださって、ありがとうございます……」

 今の璃玖にはもうこれ以上、話を受け止めることはできなかった。

「混乱……されていらっしゃると思います。顔色もあまり優れないようですし……。今、シーツと枕カバーを新しいものに変えますので、少し寝室でお休みになってください」

「ありがとうございます……」

「では、お目覚めになった時に、なにか簡単に召し上がれるものと、お風呂の準備をして私は一旦失礼致しますね。改めて夜に伺いますので、とりあえず今はゆっくりお休みください」

「はい……」

 天沢がシーツなどを変えている間に、璃玖は天沢の淹れたミルクティーをゆっくり飲み干すと、机に突っ伏した。

(僕は……)

 璃玖はいつの間にか、そのまま眠りに落ちていた。
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