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反撃
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廊下を進む私たちの前に現れたのは、短い黒い髪に、太い腕、厚い胸板をした力強い体つきの生徒だ。
が、垂れた眉と周りからの視線を避けるように丸められた背中は、彼の気の弱さを表しているようだった。
しかし前に彼を見た時よりも背筋は伸びている気がする。
きっと自分に自信がつき始めているのだろう。
私と目が合うと、男子生徒は強い緊張に視線を泳がせながらも、何か言いたげに口をぱくぱくと動かした。
「あ、あの……あの」
大きな体に似合わず、小さな声だった。
勇気を振り絞って声を掛けてきたのは分かったが、私は彼を冷たく一瞥しながら足は止めず、そのまま隣を通り過ぎた。
こんなところで取り巻きを引き連れている私に話しかけるなんて、思ったより度胸はあるのかも。
だけど場所が悪い。それに時期が早い。今はまだ、私は彼に優しく返事をする事ができない。
「あ……」
私に無視されると、視界の斜め後ろで大柄な男子生徒はしゅんと肩を落としたようだった。
「誰?」
「気安く話しかけるんじゃないわよ」
「ベアトリス様があんたなんて相手にするわけないでしょ」
相手は貴族でもない一般生徒だと判断したパジー、ウィンカ、マリーに鼻で笑われ、「しっし」と手で払われて、男子生徒は慌てて去っていったみたいだ。
私は終始興味のない顔をして、歩く速度は緩めなかった。
「あらぁ? あの生徒ってぇ……」
リーチェが可愛く首を傾げて後ろを見る。パジー、ウィンカ、マリーは過去に散々からかっておきながらも彼の“顔”は覚えていなかったようだけど、リーチェやヴァイオレットはさすがに記憶していたらしい。
「気持ち悪い」とパジーたち三人が笑っている声を聞きながら、ヴァイオレットも軽く後ろを振り返った。
「確か熊の獣人の生徒だろう。テイド・グルーだったか? だが……」
「うん、足が“普通”だったのよね~。ちゃんと靴下も靴も履いて、人間の足みたいだった」
「どういう事だ? 先祖返り(アポカルト)症候群は治るようなものではないはずだが」
「そうよねぇ」
「――魔術で隠しているのかもね」
後ろにいるパジーたちには聞こえないよう、私は小声でヒントを与えた。二人には、もう一つくらい私の秘密を教えてもいいと思ったのだ。
鋭いリーチェはすぐに答えに気づくと、元々丸い目をさらにまん丸にして私を見てきた。
「ベアトリス様って私の予想してない事ばかりする……」
「どういう事だ、リーチェ。私にも教えろ!」
「ヴァイオレット、声が大きいわ。その話は後でして。誰に聞かれるか分からないから」
ちょうど食堂に着いたので私が話を止めると、ヴァイオレットが慌てて前に出てきて食堂へ続く大きな扉を押し開けた。
広い食堂は開放感があり、テーブルや椅子は白で統一されていて雰囲気も明るい。
空腹だったけれど公爵令嬢が「お腹すいた」なんてはしたなく呟く事はできないので、ちっとも空腹なんて感じていませんよという顔をしてテーブルの間を闊歩する。
私が入ってきた瞬間に賑やかだった食堂は一瞬静かになったし、生徒は誰も私と目を合わせようとしないけれど、いつもの事なので気にしない。
一方、パジーたち三人はこの空気が気持ちいいみたいだ。この場にいる全員の注目を集め、萎縮される事が。得意気に髪を払って私の後ろを歩いている。
食堂はすでに生徒たちでいっぱいだったが、左側一番奥にある、テラスに面した日当たりのいい丸テーブルの席だけは誰も座っていなかった。
そこが私の特等席だからである。
別に私がそう周りを牽制したわけではなく、明るい席がいいなと思って座っているうちに、だんだんと他の生徒が遠慮していき、いつの間にか『この席はベアトリス・ドルーソンのもの。他の生徒は座ってはいけない』という暗黙の了解ができていたのだ。
この席がお気に入りなのは事実だし、今さら他の席に座っても今度はそこに誰も座らなくなるだけなので、毎回ここで昼食を取っている。
「魚でいいですか?」
「ええ、ありがとう」
ヴァイオレットが私に尋ねてからリーチェと一緒に食事を取りにいってくれた。
厨房のカウンターには生徒たちがたくさん並んでいるが、皆ヴァイオレットが私の分を運ぶのだと知ってるので「どうぞ」と順番を譲っている。私がテーブルに着くより先にヴァイオレットとリーチェは列の先頭に到達していた。
一方、パジーたち三人はいつもヴァイオレットたちに続いて自分の食事を取りに向かうのに、今日はまだ私の後ろから動かない。
どうしたのかと、振り向いて問おうと思った時だった。
「ベアトリス様、見てください!」
ウィンカが、やけに演技っぽい、はしゃいだような声を上げて私を呼んだ。
テーブルへと進めていた足を止めて、私は後ろを向く。ウィンカ、パジー、マリーの三人は、テラスの方を指差していた。
「小鳥ですよ! 可愛い!」
「何ていう鳥でしょうね」
三人の視線を追って外を見ると、テラスの奥に広がる庭には、確かに小鳥が数羽いた。緑の芝生の上をちょこちょこと動き回り、時おり虫か何かをつついている。
その姿は可愛いけれど、今言う事だろうかと首を傾げる。
おそらくコマドリだろうが、別に珍しくもない鳥だ。昨日だってそこの庭にいた気がする。
「コマドリじゃない? 鳥が好きなの?」
「ええ、とっても!」
作りきった笑顔で言われてしまった。
ウィンカだけでなく、パジーもマリーも、わくわくしているような、だけどどこか引っかかる感じの笑みを浮かべている。
これは小鳥に癒やされている顔じゃない。
嫌な予感がして、私は早々に小鳥の話を打ち切る事にした。
「そうなの」
興味のない感じで相槌を打ちつつ、私の特等席へと再び足を進めるべく体を反転させた瞬間――
「っ……!」
肘に衝撃と熱さを感じて、私は顔を歪めた。
私のすぐ後ろに生徒がいたようで、振り向いた時に、その子が持っていた食事のトレーに腕を思いきりぶつけてしまったのだ。
昼食メニューにはたいてい熱々のスープが付いているが、今日も例外なく付いていたらしい。
トレーに乗ったパンや魚のソテー、サラダは床にぶちまけられて、スープは私の肘に全部かかった。しかもさらさらとしたコンソメスープである。
制服のブレザーから染みこんでくるスープの熱さを奥歯を噛むことで我慢しながら、私は視線を上げてぶつかってしまった相手を確認した。
「ひっ……」
私に睨まれて――睨んでないけれど、熱さに耐えているせいで眼光鋭く見えただろう――相手の女の子は竦み上がり、手に残っていた空のトレーまで床に落としてしまった。
カランカランとトレーが大きな音を立て、食堂中の注目を集める。
(チーナ……だったわね)
私は心の中で、目の前にいる獣人の生徒の名を呼んだ。
頭に大きなネズミの耳を持つ彼女は、つい数時間前にも私と廊下の曲がり角でぶつかった先祖返り(アポカルト)の女の子だ。
「ご、ごめんなさいっ……! ごめんなさい、私っ……」
そして彼女はその時と同じように、ガタガタと震えながら謝罪した。すでに瞳からは涙もこぼれている。
先程まで騒がしかった食堂は、今は水を打ったように静かになり、チーナがしゃくりあげる声以外は何も聞こえなくなった。皆、食事の手を止めてこちらの様子をうかがっている。
私たちの近くにいて事の成り行きを全て目撃していた生徒たちは、やばい事になったとばかりに顔を青くしていて、離れたところにいる生徒たちも立ち上がって私たちの状況を見ると、「やっちまったな、あの子」「殺されるぞ」なんて囁き合っている。
殺すわけないでしょ。
「ベアトリス様!」
「チーナ!」
同時にこちらに駆けてきたのは、私の事を心配したヴァイオレットとリーチェ、そしてチーナの事を心配した獣人の生徒たちだった。
「お怪我は!?」
慌てているヴァイオレットに片手を上げて、大丈夫だと伝える。スープの掛かった肘は少しヒリヒリしてきたけど、そう大した火傷にはなっていないだろう。
それよりも私は、駆け寄ってきた獣人の生徒たちを見ていた。
彼ら、彼女らは、ちょうど私の特等席とは対角の位置で食事をしていたようだ。
これはいつもの事で、人間の生徒より数の少ない獣人の生徒たちは毎回皆で固まって、最も私の席から離れた食堂の端で昼食を取るのである。嫌われているから仕方がない。
けれど、だったら何故、チーナはこんなところにいたのだろう。
カウンターで食事を受け取り、獣人の仲間たちの元へ真っ直ぐ向かった場合、ここは通らないはずだ。
なのに私のすぐ真後ろに――他の獣人生徒なら遠回りしてでも避けて通る私の真後ろに、チーナはいた。
「……ふふ」
静寂の中でかろうじて耳に届いた、密やかな笑い声。
それは私の背後から漏れ聞こえてきた。
パジー、ウィンカ、マリーのうちの誰かの声だ。
そして「ごめんなさい、私、私……!」と顔面蒼白で泣き続けるチーナは、私を恐れると同時に、私の後ろに立っている三人の顔色もうかがっている。
(そういう事)
チーナはおそらく、パジーたち三人に脅されたのだろう。『食事トレーごとベアトリスにぶつかれ』だったのか、『スープを服にひっかけろ』だったのか、命令の内容は詳しく分からないが、三人はチーナの働きにまずまず満足しているようだ。
「チーナ」
静かな落ち着いた声が、一瞬周りの生徒たちをざわつかせた。
この学園で、私ベアトリス・ドルーソンに唯一対抗できると言っていい人物、イライアス・ウォーもこちらにやってきたからだ。
適当に整えられた少し長めの灰青の髪が、テラスから差し込んでくる陽光に照らされて、いつもより鮮やかに見えた。
ウォーの後ろには、そっと控えるようにテイド・グルーの姿も確認できる。彼は背中を丸めて、心配そうに私を見つめていた。
一方、ウォーはスープの染み込んだ私の肘をちらりと見てから、チーナに声を掛ける。
「いつもの席に来ていないと思ったら、どうしてこんな所を通ったんだ」
「うっ、うう……イライアス……」
チーナの言い分を黙って聞こうと思ったところで、横槍が入った。
後ろにいるパジーたちが、そっと私の背を押してこう言ってきたのだ。
「ベアトリス様! あの子ベアトリス様にぶつかるの、二度目ですよ!」
「今回はさすがに前回のようにはお許しにならないですよね?」
「さぁ、ベアトリス様。どうなさるんです?」
パジーたちの騒がしい声は、周りの生徒たちの耳にも簡単に届いた。
「二度目って?」
「午前にもぶつかって、見逃されたみたいよ」
「ベアトリス・ドルーソンが獣人を見逃したって? まさか」
「私はこう聞いたわよ。イライアス・ウォーが出てきたからベアトリス様はひるんで、それで見逃したって」
「……本当に? 最近思っていたんだけど、ベアトリス様って案外気が弱くていらっしゃるのかしら。獣人の生徒に厳しくしている姿を見た事がないわ」
「ウォーにもひるんでいるようじゃ、何だか期待外れだな」
周囲のざわめきを、私はイライラと目を据わらせながら聞いていた。
獣人をきつく差別したり偉そうに貴族風を吹かせたらすぐに批判するくせに、獣人に強く出ないとそれはそれで「頼りにならない」「祖父と違って小物だ」と陰口を叩く。
一体、私にどうしてほしいわけ?
ぐつぐつと煮え滾った鍋から生まれる湯気のように、自分の中にある魔力がゆらりと立ち昇っていく気がした。
「ベアトリス様、どうなさるんです?」
「あの獣人には厳しい罰を与えないと。学園追放でも軽いくらいですよ」
「ほら、早く対応しないと、他の生徒たちからも見くびられてしまいます」
後ろからパジー・ウィンカ・マリーが楽しそうにせっつく。
『他の生徒たちから“も”』、なんて……自分たち三人もすでに私を見くびっているのだと、もう隠すつもりはないのだろうか。
泣いているチーナの肩に手を置きながら、ウォーが私をじっと見ている。
今の私はどんな顔をしているのかしら。
ここでチーナのように弱々しく誰かに助けを求められたなら……
(いいえ、それは私ではないわね)
尊大な態度で軽く顎を上げたまま、私はゆっくりと振り返った。
「――おまえたち、一体誰に口をきいているの」
鋭くパジーたちをひと睨みする。
と同時に、いつもは自分の体の中にきちんと収めている魔力の塊を、怒りの感情に合わせて揺らしながらどんどんと外に広げていった。
魔力というのは目には見えないし、触れる事もできない。自分の中に確かにあるものだけど、形のないものでもあるので、呪文や印無しで操って外に出すのは至難の業だ。
だけど今は怒りのせいか魔術的な視界がクリアになっていて、そのおかげで魔力の実体を掴めている感覚がある。
体の中心にある磁石のようなものと、普段はそれに引きつけられて体内に留まっている魔力の繋がりが、理性と共にぷつんと切れてしまったみたい。
実際に目に見えているわけじゃないけれど、私の魔力は深い紫色をしている気がする。
魔力量は凡人よりずっと多いのだが、私はその大量の魔力を感情のままに解放した。
紫の濃霧が、音もなく食堂を侵略していく。
「誰に口をきいているのかと、訊いているの」
が、垂れた眉と周りからの視線を避けるように丸められた背中は、彼の気の弱さを表しているようだった。
しかし前に彼を見た時よりも背筋は伸びている気がする。
きっと自分に自信がつき始めているのだろう。
私と目が合うと、男子生徒は強い緊張に視線を泳がせながらも、何か言いたげに口をぱくぱくと動かした。
「あ、あの……あの」
大きな体に似合わず、小さな声だった。
勇気を振り絞って声を掛けてきたのは分かったが、私は彼を冷たく一瞥しながら足は止めず、そのまま隣を通り過ぎた。
こんなところで取り巻きを引き連れている私に話しかけるなんて、思ったより度胸はあるのかも。
だけど場所が悪い。それに時期が早い。今はまだ、私は彼に優しく返事をする事ができない。
「あ……」
私に無視されると、視界の斜め後ろで大柄な男子生徒はしゅんと肩を落としたようだった。
「誰?」
「気安く話しかけるんじゃないわよ」
「ベアトリス様があんたなんて相手にするわけないでしょ」
相手は貴族でもない一般生徒だと判断したパジー、ウィンカ、マリーに鼻で笑われ、「しっし」と手で払われて、男子生徒は慌てて去っていったみたいだ。
私は終始興味のない顔をして、歩く速度は緩めなかった。
「あらぁ? あの生徒ってぇ……」
リーチェが可愛く首を傾げて後ろを見る。パジー、ウィンカ、マリーは過去に散々からかっておきながらも彼の“顔”は覚えていなかったようだけど、リーチェやヴァイオレットはさすがに記憶していたらしい。
「気持ち悪い」とパジーたち三人が笑っている声を聞きながら、ヴァイオレットも軽く後ろを振り返った。
「確か熊の獣人の生徒だろう。テイド・グルーだったか? だが……」
「うん、足が“普通”だったのよね~。ちゃんと靴下も靴も履いて、人間の足みたいだった」
「どういう事だ? 先祖返り(アポカルト)症候群は治るようなものではないはずだが」
「そうよねぇ」
「――魔術で隠しているのかもね」
後ろにいるパジーたちには聞こえないよう、私は小声でヒントを与えた。二人には、もう一つくらい私の秘密を教えてもいいと思ったのだ。
鋭いリーチェはすぐに答えに気づくと、元々丸い目をさらにまん丸にして私を見てきた。
「ベアトリス様って私の予想してない事ばかりする……」
「どういう事だ、リーチェ。私にも教えろ!」
「ヴァイオレット、声が大きいわ。その話は後でして。誰に聞かれるか分からないから」
ちょうど食堂に着いたので私が話を止めると、ヴァイオレットが慌てて前に出てきて食堂へ続く大きな扉を押し開けた。
広い食堂は開放感があり、テーブルや椅子は白で統一されていて雰囲気も明るい。
空腹だったけれど公爵令嬢が「お腹すいた」なんてはしたなく呟く事はできないので、ちっとも空腹なんて感じていませんよという顔をしてテーブルの間を闊歩する。
私が入ってきた瞬間に賑やかだった食堂は一瞬静かになったし、生徒は誰も私と目を合わせようとしないけれど、いつもの事なので気にしない。
一方、パジーたち三人はこの空気が気持ちいいみたいだ。この場にいる全員の注目を集め、萎縮される事が。得意気に髪を払って私の後ろを歩いている。
食堂はすでに生徒たちでいっぱいだったが、左側一番奥にある、テラスに面した日当たりのいい丸テーブルの席だけは誰も座っていなかった。
そこが私の特等席だからである。
別に私がそう周りを牽制したわけではなく、明るい席がいいなと思って座っているうちに、だんだんと他の生徒が遠慮していき、いつの間にか『この席はベアトリス・ドルーソンのもの。他の生徒は座ってはいけない』という暗黙の了解ができていたのだ。
この席がお気に入りなのは事実だし、今さら他の席に座っても今度はそこに誰も座らなくなるだけなので、毎回ここで昼食を取っている。
「魚でいいですか?」
「ええ、ありがとう」
ヴァイオレットが私に尋ねてからリーチェと一緒に食事を取りにいってくれた。
厨房のカウンターには生徒たちがたくさん並んでいるが、皆ヴァイオレットが私の分を運ぶのだと知ってるので「どうぞ」と順番を譲っている。私がテーブルに着くより先にヴァイオレットとリーチェは列の先頭に到達していた。
一方、パジーたち三人はいつもヴァイオレットたちに続いて自分の食事を取りに向かうのに、今日はまだ私の後ろから動かない。
どうしたのかと、振り向いて問おうと思った時だった。
「ベアトリス様、見てください!」
ウィンカが、やけに演技っぽい、はしゃいだような声を上げて私を呼んだ。
テーブルへと進めていた足を止めて、私は後ろを向く。ウィンカ、パジー、マリーの三人は、テラスの方を指差していた。
「小鳥ですよ! 可愛い!」
「何ていう鳥でしょうね」
三人の視線を追って外を見ると、テラスの奥に広がる庭には、確かに小鳥が数羽いた。緑の芝生の上をちょこちょこと動き回り、時おり虫か何かをつついている。
その姿は可愛いけれど、今言う事だろうかと首を傾げる。
おそらくコマドリだろうが、別に珍しくもない鳥だ。昨日だってそこの庭にいた気がする。
「コマドリじゃない? 鳥が好きなの?」
「ええ、とっても!」
作りきった笑顔で言われてしまった。
ウィンカだけでなく、パジーもマリーも、わくわくしているような、だけどどこか引っかかる感じの笑みを浮かべている。
これは小鳥に癒やされている顔じゃない。
嫌な予感がして、私は早々に小鳥の話を打ち切る事にした。
「そうなの」
興味のない感じで相槌を打ちつつ、私の特等席へと再び足を進めるべく体を反転させた瞬間――
「っ……!」
肘に衝撃と熱さを感じて、私は顔を歪めた。
私のすぐ後ろに生徒がいたようで、振り向いた時に、その子が持っていた食事のトレーに腕を思いきりぶつけてしまったのだ。
昼食メニューにはたいてい熱々のスープが付いているが、今日も例外なく付いていたらしい。
トレーに乗ったパンや魚のソテー、サラダは床にぶちまけられて、スープは私の肘に全部かかった。しかもさらさらとしたコンソメスープである。
制服のブレザーから染みこんでくるスープの熱さを奥歯を噛むことで我慢しながら、私は視線を上げてぶつかってしまった相手を確認した。
「ひっ……」
私に睨まれて――睨んでないけれど、熱さに耐えているせいで眼光鋭く見えただろう――相手の女の子は竦み上がり、手に残っていた空のトレーまで床に落としてしまった。
カランカランとトレーが大きな音を立て、食堂中の注目を集める。
(チーナ……だったわね)
私は心の中で、目の前にいる獣人の生徒の名を呼んだ。
頭に大きなネズミの耳を持つ彼女は、つい数時間前にも私と廊下の曲がり角でぶつかった先祖返り(アポカルト)の女の子だ。
「ご、ごめんなさいっ……! ごめんなさい、私っ……」
そして彼女はその時と同じように、ガタガタと震えながら謝罪した。すでに瞳からは涙もこぼれている。
先程まで騒がしかった食堂は、今は水を打ったように静かになり、チーナがしゃくりあげる声以外は何も聞こえなくなった。皆、食事の手を止めてこちらの様子をうかがっている。
私たちの近くにいて事の成り行きを全て目撃していた生徒たちは、やばい事になったとばかりに顔を青くしていて、離れたところにいる生徒たちも立ち上がって私たちの状況を見ると、「やっちまったな、あの子」「殺されるぞ」なんて囁き合っている。
殺すわけないでしょ。
「ベアトリス様!」
「チーナ!」
同時にこちらに駆けてきたのは、私の事を心配したヴァイオレットとリーチェ、そしてチーナの事を心配した獣人の生徒たちだった。
「お怪我は!?」
慌てているヴァイオレットに片手を上げて、大丈夫だと伝える。スープの掛かった肘は少しヒリヒリしてきたけど、そう大した火傷にはなっていないだろう。
それよりも私は、駆け寄ってきた獣人の生徒たちを見ていた。
彼ら、彼女らは、ちょうど私の特等席とは対角の位置で食事をしていたようだ。
これはいつもの事で、人間の生徒より数の少ない獣人の生徒たちは毎回皆で固まって、最も私の席から離れた食堂の端で昼食を取るのである。嫌われているから仕方がない。
けれど、だったら何故、チーナはこんなところにいたのだろう。
カウンターで食事を受け取り、獣人の仲間たちの元へ真っ直ぐ向かった場合、ここは通らないはずだ。
なのに私のすぐ真後ろに――他の獣人生徒なら遠回りしてでも避けて通る私の真後ろに、チーナはいた。
「……ふふ」
静寂の中でかろうじて耳に届いた、密やかな笑い声。
それは私の背後から漏れ聞こえてきた。
パジー、ウィンカ、マリーのうちの誰かの声だ。
そして「ごめんなさい、私、私……!」と顔面蒼白で泣き続けるチーナは、私を恐れると同時に、私の後ろに立っている三人の顔色もうかがっている。
(そういう事)
チーナはおそらく、パジーたち三人に脅されたのだろう。『食事トレーごとベアトリスにぶつかれ』だったのか、『スープを服にひっかけろ』だったのか、命令の内容は詳しく分からないが、三人はチーナの働きにまずまず満足しているようだ。
「チーナ」
静かな落ち着いた声が、一瞬周りの生徒たちをざわつかせた。
この学園で、私ベアトリス・ドルーソンに唯一対抗できると言っていい人物、イライアス・ウォーもこちらにやってきたからだ。
適当に整えられた少し長めの灰青の髪が、テラスから差し込んでくる陽光に照らされて、いつもより鮮やかに見えた。
ウォーの後ろには、そっと控えるようにテイド・グルーの姿も確認できる。彼は背中を丸めて、心配そうに私を見つめていた。
一方、ウォーはスープの染み込んだ私の肘をちらりと見てから、チーナに声を掛ける。
「いつもの席に来ていないと思ったら、どうしてこんな所を通ったんだ」
「うっ、うう……イライアス……」
チーナの言い分を黙って聞こうと思ったところで、横槍が入った。
後ろにいるパジーたちが、そっと私の背を押してこう言ってきたのだ。
「ベアトリス様! あの子ベアトリス様にぶつかるの、二度目ですよ!」
「今回はさすがに前回のようにはお許しにならないですよね?」
「さぁ、ベアトリス様。どうなさるんです?」
パジーたちの騒がしい声は、周りの生徒たちの耳にも簡単に届いた。
「二度目って?」
「午前にもぶつかって、見逃されたみたいよ」
「ベアトリス・ドルーソンが獣人を見逃したって? まさか」
「私はこう聞いたわよ。イライアス・ウォーが出てきたからベアトリス様はひるんで、それで見逃したって」
「……本当に? 最近思っていたんだけど、ベアトリス様って案外気が弱くていらっしゃるのかしら。獣人の生徒に厳しくしている姿を見た事がないわ」
「ウォーにもひるんでいるようじゃ、何だか期待外れだな」
周囲のざわめきを、私はイライラと目を据わらせながら聞いていた。
獣人をきつく差別したり偉そうに貴族風を吹かせたらすぐに批判するくせに、獣人に強く出ないとそれはそれで「頼りにならない」「祖父と違って小物だ」と陰口を叩く。
一体、私にどうしてほしいわけ?
ぐつぐつと煮え滾った鍋から生まれる湯気のように、自分の中にある魔力がゆらりと立ち昇っていく気がした。
「ベアトリス様、どうなさるんです?」
「あの獣人には厳しい罰を与えないと。学園追放でも軽いくらいですよ」
「ほら、早く対応しないと、他の生徒たちからも見くびられてしまいます」
後ろからパジー・ウィンカ・マリーが楽しそうにせっつく。
『他の生徒たちから“も”』、なんて……自分たち三人もすでに私を見くびっているのだと、もう隠すつもりはないのだろうか。
泣いているチーナの肩に手を置きながら、ウォーが私をじっと見ている。
今の私はどんな顔をしているのかしら。
ここでチーナのように弱々しく誰かに助けを求められたなら……
(いいえ、それは私ではないわね)
尊大な態度で軽く顎を上げたまま、私はゆっくりと振り返った。
「――おまえたち、一体誰に口をきいているの」
鋭くパジーたちをひと睨みする。
と同時に、いつもは自分の体の中にきちんと収めている魔力の塊を、怒りの感情に合わせて揺らしながらどんどんと外に広げていった。
魔力というのは目には見えないし、触れる事もできない。自分の中に確かにあるものだけど、形のないものでもあるので、呪文や印無しで操って外に出すのは至難の業だ。
だけど今は怒りのせいか魔術的な視界がクリアになっていて、そのおかげで魔力の実体を掴めている感覚がある。
体の中心にある磁石のようなものと、普段はそれに引きつけられて体内に留まっている魔力の繋がりが、理性と共にぷつんと切れてしまったみたい。
実際に目に見えているわけじゃないけれど、私の魔力は深い紫色をしている気がする。
魔力量は凡人よりずっと多いのだが、私はその大量の魔力を感情のままに解放した。
紫の濃霧が、音もなく食堂を侵略していく。
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