遥か遠くへ

氷星凪

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遥か遠くへ

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 録画ボタンを押し、今日の撮影の終わりが告げられる。案件先のお偉いさんからのご飯の誘いにイライラさせられながら、マネージャーと共に足早に事務所を飛び出した。これでも一応華の高校生だっつうの。
 
 外にはファンと思われる人が十人ほど出迎えており、自分を押し殺して何となく挨拶を返す。いつもいるなって男の人もいて、嬉しい反面、ストーカーみたいで気持ち悪いって思っちゃったりもする。

 迎えの車に乗り、現代人らしく無意識にスマホを開く。通知欄に溢れる仕事に関するメッセージをかき分けていち早く返信したのは、高校での唯一の友達、由香からの何気ないメールだった。
 
 道路にいるうさぎの写真や、美味しかったアイスの話など、彼女とする他愛もない言葉のキャッチボールが大人達との仰々しいコミュニケーションから解放してくれる。
 彼女との画面上での会話に夢中になっていたら、いつの間にか車は家の前に着いていた。
 
 降りて空を見上げると、そこには闇が広がっていた。学校を休んでまた丸一日撮影していたと思うと、授業についていけていない自分にも納得出来る。
 星が一つたりとも見えないその空は、夜でも人や車が動き続けているこの大都市の喧騒を表してる気がして、なんか笑えた。
 
「ただいまー」
 
 玄関の扉を開けて、暗闇に呼びかける。いつものように返事が返ってくることはなく、私は無駄に広いリビングを通り抜けて自分の部屋の電気を点けた。
 ベッドに思いっきりダイブし、その勢いで昨日投稿した動画のコメント欄を確認する。
 
 昔からパパはテレビ局のスタッフ、ママはメディアに引っ張りだこのタレントとして忙しなく活動していた。
 それゆえに両親とも家に帰ってくることが少なかったから、私はずっと家で一人でいることが多かった。
 
 そんな時、心を埋めるために中学生から始めた動画投稿の活動。
 自分の名前、高橋可奈から取った「かなっち」としての活動はいつの間にか規模を大きくしており、今ではチャンネル登録者数五十万人を超すほどにまでなった。
 自分で自由に企画を考えて、自由に発信出来る秘密基地みたいな場所。この活動は、私の唯一の生きがいだった。
 
 そう、生きがいだった。その自由さ故か、私は過去に一度炎上を経験し、親に迷惑をかけてしまった。
 その一件から私は事務所に入ることになり、それから企画やチャンネル運営はもうほとんど事務所がやるようになった。

 結局そのおかげで巡り巡って、今も一応活動を続けることは出来ている。この選択は、私にとって間違いではなかったのだ。
 
 その炎上のことをコメント欄やSNSで書き続けている人は、今でもちらほら見える。賞賛の意見よりもそちらの方に目が行ってしまうことが多いが、これはもう仕方ないことだと思うしかなかった。
 
 考え事に耽っていると、突然スマホが震える。
 
「また飛ぶの?笑」
 
 由香からのメッセージを受け、コメント欄を閉じ、スマホで時間を確認する。午後十一時。そろそろ頃合いだろう。
 
 私は即座に彼女のメッセージに返信した。
 
「もちろん」
 
 ベッドから身を起こし、今日着ていた服を全て着替えて、上着や帽子、サングラスといった変装用の物を出来るだけ身につけた。
 
 そしてそのまま、私は新しく見つけた生きがいのために家を飛び出し、夜の街に消えていった。
 
 
 家から十分ほど歩き、都市部とは反対方向にある公園まで来た。周りに家がなく、木で囲まれたこのいつもの場所で私は靴と靴下を脱ぎ、辺りに誰もいないことを確認してからサングラスを外す。

 草むらを裸足で感じた後、私は、満を持して右足を空中に乗せる。空気を踏む感覚。そのまま、左足も空中へと乗せる。
 
 階段を登るかのように、空中で右足と左足を交互に動かしていく。体が徐々に浮く感覚に謎の背徳感と高揚感を感じたまま、空中をどんどんと登って、登って、登り続けた。
 
 気づけば体は木よりも上にいっており、視線を前に移すと、都市部の大通りが少しずつ見えてきているのが分かった。
 夜でもギラギラと輝き続けているビルがズラッと立ち並び、その間を絶え間なく車や人が往来するその景色は、醜くもあり、綺麗でもあった。

 体を空気に預けながら、誰も見れない景色を見る。いつからか身についたこの不思議な能力が、私にとってのささやかな生きがいとなっていた。
 
 もう少しよく見たいと足を上げようとする。
 
 だが、そろそろ誰かに見られてしまうのではないかと思い、辺りを再び見回す。こんなところ見られたら、昨今騒ぎになるじゃ済まないだろう。

 だから、バレない場所を選んでるんだけど。

 今日も同じところで諦めて、空気の階段を降りようとしたその瞬間。
 
「おい」
 
 地上から何十メートルも離れた場所なのに、すぐ後ろから声がした。
 
 驚いて振り返ると、おでこ同士をくっつけるほどの近さに白いクマのぬいぐるみのようなものがいた。
 そして、そいつは私の目の前で口をパクパクと動かした。
 
「よう」
 
「うわああああああ!!!」
 
 突然の出来事に私は空気を踏み外し、身体をのけぞらせながら落ちていく。
 
 急激に重力を感じながらどんどんと下に落ちていく。地面に激突する寸前で全身がフワッと浮き、ゆっくりと着地することが出来た。
 
「ど……どういうこと……?」
 
 私が思わず呟くと、そのクマのぬいぐるみは私の目の前に降りてきて、ニヤリと笑いながらまた口を開ける。
 
「それが俺の能力だ、物を自由自在に浮かすことが出来る。お前に飛べる力を授けたのもこの俺さ」
 
私は空中をふわふわと浮かび続けるそいつに、ひとまず視線を合わせてみる。
 
「あんた……一体何者なの?」
 
「俺はフェアトラ。ただの遊び人さ、人間に能力を与えてその使ってる様を面白がる。それ以上でも以下でもねえ」
 
「ちょっと待って、全然飲み込めない……!そもそもなんでぬいぐるみが喋れてるわけ!?」

 私の言葉に反応し、そいつは無いくちびるを尖らせるようにまた喋り出した。
 
「まあこういう体なんだから仕方ねえだろ、そんな与太話より今日はお前に話があってきたんだ」
 
「な、何よ……」
 
「お前、空を自由に飛び回りたくないか?」
 
「……え?」
 
 フェアトラがニヤリと口角を上げる。突然の提案に無意識に声を出してしまった私に近づき、そいつは続けた。
 
「この世界は窮屈だ。文明が発展したからか知らねえが、ビルや建物がそこら中に立ち並んでやがる。鉄の塊みたいなのが道路をいつ何時も駆け回って、挙げ句の果てにはどこを見ても人、人、人! 馬鹿らしいぜ」
 
 嘲笑うように大きく声を響かせると、突然フェアトラの隣に白い扉が出現し、それがひとりでに開いた。
 
 その奥に続いていたのはピンク色の雲がそこかしこに立ち並ぶ、現実とはかけ離れた光景だった。
 
「ここは地球とは別次元の世界。生命体なんて一人も存在せず、もちろん文明も発展してない、ただ桃色の雲が浮かぶだけの場所だ。普通なら静かすぎて退屈するが、自由に飛び回るならうってつけの場所だぜ」
 
「……でもその世界って」
 
 私が言おうとしたことを分かっていたというように、フェアトラは言葉を被せてくる。
 
「ただし! 一度この扉を通ったらもう元の世界に戻ってくることは出来ないぜ、もちろんスマホとかいうので連絡を取ることも出来ない。電波なんてありゃしねえからな。その代わりといっちゃなんだが、もし契約してくれたら一生腹が減らずに生き続ける体にしてやるぜ」
 
「……」
 
「さあ、どうする?俺と契約するか、しないか。それはあくまでお前自身の意思だ」
 
 誰の目も気にせずに、自由に空を飛び回れる。
 私以外見ることの出来ない景色を、目に焼き付けることが出来る。
 
 そんな理想を描いた時なんて、子供の頃から数えられないほどあった。
 
「お前はずっとそれを望んでたはずだ」
 
 フェアトラの言葉を受け、私は決意を固める。最初からこの契約に対する私の答えは決まっていた。
 
「フェアトラ」

「ん?」

「私は契約なんてしないわ」
 
 私は吐き捨てるようにフェアトラに言葉をぶつける。目を合わせ続けてくるそいつを鼻で笑いながら私は言葉を続けた。
 
「そもそも異世界とか契約とか怪しすぎるのよ、あんたの正体もよくわかんないし。知らないものには疑ってかかる、ネットリテラシーの鉄則よ?」
 
 こんな風に誘いをしてくる大人なんていくらでも見てきた。
 純粋な心を騙す汚い手口なんて、ネットを見てれば嫌でも目に入ってくる。結局こいつも同じ。
 
「自由に飛べる場所ってのは確かに魅力的だけど、なんだかんだこの街は嫌いじゃないし、何より……」
 
 頭に由香の顔を思い浮かべる。この能力のことは由香以外には誰にも伝えていない、家族にすらも。
 放課後に、隠れて私が飛ぶところを見せたこともあった。あの時の二人で笑い合った時間は、宝物として今でも心に残っている。

「何より、大切な友達がいるから」

 私の言葉を聞くと、フェアトラは再びニヤリと笑い、空中でくるくると一回転する。
 
「そうか。まあ、契約自体は俺を呼び出してもらえればいつでも出来るからよ。頭の隅っこにでも置いといてくれ」
 
「検討しとくわ」
 
「ふっ、それじゃあ、またな」
 
 そう言って、フェアトラはどこかに消えてった。

 一瞬の静寂に包まれた後、我に返り、焦ってスマホを見る。時刻は午後十二時を回っていた。
 
「うわ、やっば!」
 
 急いで靴を履き、公園を飛び出す。家への帰路の途中で、先ほどまで起きていた現実離れした光景を思い出してしまった。
 
「自由……ね……」
 
 思わず見上げた夜空には、変わらず暗闇が広がっていた。
 
 
 おぼつかない足取りで廊下を歩きながら、思わず大きなあくびをする。
 結局昨日は一睡もすることが出来ずに、家に帰っても自分の部屋で飛んでばかりだった。
 
 少しばかり歩き、自分のクラスのドアの前に立つ。
 取っ手に手をかけてから一瞬動きを止め、息をふーっと吐く。
 
「よし」
 
 そう頭の中で呟き、なるべく自然に見えるように扉を開けて教室に入る。
 
 各々がお喋りを楽しんでいる賑やかな空間。だが、みんなが私を認識した瞬間、時が止まったように教室内は静かになった。
 
 自分の席に向かうやいなや、一週間ぶりのみんなからの視線。そして再び教室内はザワザワとし始めた。
 
「え?来たんだ……」
 
「人気者とでも言って欲しいのかな?」
 
「あの澄ました感じが鼻につくんだよね」
 
「えわかるー」
 
 わざわざ聞こえるような声で言ってくるのは、カースト上位の天音彩葉とその取り巻き達。
 
 周りのクラスメイトも例に漏れず、私を見ては何かまたひそひそ話を始めていた。
 まあ、月に三回来れば珍しいやつなんかそりゃ学校に馴染めるはずないよね。
 
 いつものことだと心の中で受け流しながら、自分の席に荷物を置き、隣の席の由香に挨拶をする。
 
「由香、おはよー」
 
 由香は机に突っ伏したまま頭を上げず、私の挨拶にも返事をしなかった。
 
「おーい、寝てんの?」
 
 私は彼女の肩を揺さぶってみる。その時、彼女の体は小刻みに震えているのが分かった。
 
 それだけではなく、未だ話し声で賑わっている教室内でも聞こえるほどのすすり泣く声が彼女から聞こえた。
 
「……由香?」
 
 私はもう一度声をかけると、彼女は言葉と嗚咽が混ざったような声を絞り出した。
 
「可奈……ゔっ……ごっ……ごめん……」
 
「ど、どうしたの!? 由香!?」
 
 それから、ごめんとしか言わなくなった彼女が心配になり、思わず何度も声をかけるが、体の震えは更に激しくなるばかりだった。
 
 私が困惑していると、視線の端から彩葉と取り巻き達が目の前に歩いてきた。
 
 彩葉は腕を組みながら、半笑いで私に話しかける。
 
「あんた、ネット見てないの?今、大変なことになってるわよ」
 
 彼女の言葉の意味を理解できないまま、私は唆された通り急いでスマホを開き、SNSをチェックする。
 
 まずアプリを開いた瞬間に、異常な数のDMが来ているのが目に入った。
 そのままいつもの動きでタイムラインをスクロールすると、ある一件の投稿が目に入った。
 
「え、、、これかなっちだよね??? なんか空飛んでんだけど笑笑笑」
 
 その文面と共に添えられた三十秒程度の動画には、昨日の公園で辺りを見回しながら空中を登っていく私の姿が完全に映っていた。
 
「ちょっと待って……何これ……!?」
 
 投稿は既に五万いいねを超えており、動画も多くの人が転載を繰り返していた。
 
 思わずスマホを力強く握り締め、画面のスクロールを続ける。
 
 タイムラインは私の話題で溢れかえっており、既にどれが元投稿なのか分からないほどに動画は拡散されてしまっていた。
 
 呆然としている私に、彩葉は勝ち誇ったような表情で語りかける。
 
「私、聞いたの、そこにいる由香ちゃんに。可奈ちゃんの弱みってなんかない? って」
 
 私は未だ顔を上げない由香を見る。嫌な予感がよぎった。でも、由香に限ってそんなことは。
 
「それで、なんか飛べる力持ってるみたいなこと聞いて。最初は何言ってんのこいつって思ったけど、じゃあ可奈が飛んでるところ撮ってSNSに上げてって言ったら見事この結果!やっぱり人気インフルエンサーって影響力すごいねー!」
 
 彼女達の高笑いが耳に聞こえるが、そんなことどうでも良かった。それ以上に、私は裏切られたという事実が頭の中でずっと響き続けていた。
 
「由香……本当に……あんたが?」
 
 思わず声が震える。彩葉はすすり泣きを続ける由香の背中にポンと手を置いて、こちらにわざと目線を合わせるようにしてきた。
 
「私達中学校からの付き合いでさー。私のパパが由香ちゃんのパパの勤めてる会社の社長やってるわけ。だからー、逆らえないのもしょうがないの。私の友達を憎まないであげてね?」
 
 由香は「ごめん」と呟き続ける。私は失望感に駆られながら、膝の上でスマホがブルブル震えているのを感じた。画面を確認すると、ママからの着信だった。
 
「……そっか」
 
 そう小さく呟き、私は震えるスマホを持って席を後にしようとした。その時、後ろから由香の絞り出すような声が聞こえてきた。
 
「可奈、ごめん、ごめん、本当に。可奈、でも……」
 
 私は振り返らないまま、足早に教室を飛び出し、扉を勢いよく閉めた。
 
 扉を背にして、ジメジメとした廊下の空気を感じながら、電話に出る。
 
「……はい」
 
「あんた、今どこにいるの!? 家に人が押し寄せて大変なことになってるんだけど!? とりあえず今すぐ帰って来なさい!」
 
 着信はすぐに切れた。久しぶりに聞いたママの声だった。
 
 SNSには私の今朝の登校する様子が投稿されているものもあり、公園の動画と照らし合わせ、自宅がもう既に特定されていたようだ。
 
 事務所の人からのメールや着信もひっきりなしに来ており、スマホが常に震えていた。
私は本能からか、全ての通知をオフにした。
 そして現実に徐々に向き合っていくことで、漠然とした不安と恐怖に襲われ、私は心を落ち着けるために無意識に体を動かしていた。
 
 気づいたら上履きのままグラウンドを渡り、つい数十分前に通った校門をくぐっていた。
 街に放り出され、路頭に迷っていると、まるで待ち伏せしていたかのように面識のない男の人が話してきた。
 
「あのーすいません、うちwebで記事書いてる浅倉というんですけども、ちょっと今お話しよろしいですか」

 どうせあれの話題と思うと、もう丁寧に対応する気も失せてきた。
 無視して通り過ぎようとすると、近くを歩いていた若い男女が指を指してくる。

「あれかなっちじゃない? ほら今炎上してるあの」

 私はもう限界でその場から走り出した。どこへ向かうでもなく、ただそこから逃げ出したくて。

 でも、もう逃げ場はなかった。平日でも街中は人でごった返しており、どこに行っても、必ず聞こえてくる。

「あれかなっちじゃない?」

「絶対そうだよね」

「ここら辺住んでたんだ」

 もう、うるさい。うるさいうるさいうるさい。
 私は気づいたら、隣町の見たことないような公園に足を踏み入れていた。

 幸いここには誰もいない。でも、どうせ時間の問題だ。

 それに、私の人生に意味などなくなった。

 由香には裏切られ、家も特定され、私がこれから今まで通りに生きられるわけがない。

 今なら、思えてしまう。ただ自由に飛べる場所が欲しいと。

「……フェアトラ」

 私の呼びかけでそいつは簡単にもう一度姿を現した。

「なんだ?用事もなしに呼んでねえよな」

 ふわふわと空中を不規則に移動するそいつの目にじっと目線を合わせ、私は自分でも驚くほどあっさりとその言葉を口にした。

「契約……するよ」

「ふっ……いいのか?」

「もう、いいよ。さあ、早く」

 私の決意の満ちた声に、フェアトラはニヤリと口角を上げる。

「覚悟は決まってるみてえだな。それじゃあ、いくぞ」

 フェアトラが右手をこちらに向けると、体が光のようなものに包まれた。
 不思議と心地よい感じがして、そのまま身を委ねると、その光はすぐに消えていった。

「これでもう腹は減らねえよ、じゃあ仕上げだな」

 その言葉と共に、そいつの隣に白い扉が出現し、ひとりでに開いて中の景色を見せる。

 ピンク色の雲で囲まれた世界。正直、私はそこに魅力を感じなかった。
 今の私には、ただ逃げる場所が欲しかっただけだったのだ。

 覚悟を決めて両手を強く握りしめる。その扉に向かって、一歩一歩確実に歩き出す。
さよなら、世界。さよなら、この世界の私。

 そうして、扉の中に飛び込もうと、次の一歩目を踏み出した瞬間。

 突然自分の半径一メートルが球状のバリアのようなもので囲まれ、そこから出られなくなってしまった。

「え……どういうこと……」

 内部からバリアを手で叩いたり、蹴ったりするがビクともしない。
 その様子を見て、フェアトラは笑みを溢し続けながら宣言する。

「それじゃあ、契約成立だ」

 その掛け声が公園に鳴り響いた瞬間、突然扉から轟音が鳴り出した。扉の奥に激しい風が流れ込み始める。そしてその勢いのまま、近くを歩いている人が一人ずつ吸い込まれていった。
 
 その風は徐々に勢いを増し、やがてスーツを着たサラリーマン、若いカップル、幼稚園児の集団など、綺麗に人だけを扉の奥の異世界へと吸い込んでいき、その数は時間が経つにつれてどんどん増えていく。

「これ……どうなってるのよ……! 私をその異世界っていうのに連れてってくれるって話だったでしょ!?」

 バリアを叩きながら必死にフェアトラに訴えると、あいつは吸い込まれる人々を見ながら、私に笑いかける。
 
「飛べる能力を持つやつにとっては、自由に飛べる場所があるって紹介しただけだ。連れてくなんて俺、一言でも言ったか?」

 私はバリアを叩く力を無意識に強くし、フェアトラの名前を叫ぶ。
 だがそれは無情にも、体力が奪われていくスピードが早まっただけだった。

「お前、この街が好きって言ってたよな? だから俺なりに譲歩してやったんだ。じきにこの世界の人間は全てここに吸い込まれる。あとは誰もいなくなった街で、自由に飛び回るといいさ」

「あんた……本気……?」」

「俺はずっとマジだぜ」

 人がどんどんと吸い込まれていく。この国の総理大臣も、テレビで見た海外のハリウッドスターも、マネージャーさんも、彩葉や取り巻き達も、パパやママも、無差別に、ただ機械的に。

「……可奈!」

 轟音が支配する中で、耳元で囁いたかのようにはっきり聞こえた声があった。

「由香……!?」

 声がした方向を見ると、そこには風に煽られながらも遊具に掴まり、なんとか耐え続ける由香の姿があった。

 彼女の指はもう既に離れかけている。私が精一杯の声をかけようとして、息を大きく吸い込んだ瞬間。

 彼女は砂埃と共に宙に浮いた。最後まで私の顔を見て、「ごめんね」と口を動かしながら扉の奥に引きずり込まれた。
 彼女は目に涙を浮かべながらも、少し笑っているようにも見えた。

 そして、最後の一人を吸い込んだ瞬間、扉は勢いよく閉まり、何事もなかったかのように消えてしまった。

「じゃあな」

 フェアトラが姿を消したのと同時に、私を覆っていたバリアも消えた。

 静寂に包まれた世界の中で、私は膝から崩れ落ち、頬に伝う冷たい感触だけを感じる。

 スマホの画面を見て、一番最近の通知を確認する。それは十分前に来ていた由香からのメッセージだった。

「さっきは本当にごめん。確かに彩葉に頼まれたのは事実だった。昨日の夜、あんたが飛んでるとこも見た。でも、私やっぱりあんたを裏切れなくて結局動画撮らなかったの」

 私は思わず動きを止める。手を震わせながら、続きを読む。

「だけどね、私の目の前で男の人が可奈のこと動画に撮ってたの。私止めようとしたんだけど、勇気が出なくて声かけられなくて」

「そしたら今日の朝、こんな騒ぎになってた。私があの時止めてたら、こんなことにならずに済んだのに。本当にごめん。許されないことだろうけど、もし会ってくれるなら今度ちゃんと直接謝りたい」

 青空が広がっているのに、画面の上には雫がひっきりなしに落ちてきた。いくらメッセージを送っても、それから返信が来ることは無かった。

 小粒の砂がまとわりついた脚は酷く重く、空中を登る感覚はまるで屍を踏んでいるかのようだった。
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