不器用な人の生き方

紅羽 もみじ

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9話 すれ違い

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「初めまして、大学で講師をしております、吉田明里と申します。」
「あぁ、先生…、先日は、お電話では失礼いたしました。晴海の母で、海と申します。」
「晴海の父で、聖と申します。いつも、娘がお世話になっております。」

 病室に入った明里は、晴海の保護者である海と聖に挨拶をする。晴海は、病室のベッドで横たわり、明里の来訪に気がついたようで、首だけ動かし、わずかに視線を送った。

「先ほど出てきた学生に聞きました、貧血で倒れたとのことで…」
「ええ、お医者様もそう言っておられました。」

 そう言いつつも、どこか腑に落ちていないような表情をしている。電話でも話したが、『晴海が何かに巻き込まれているのでは』という疑念が拭えないのだろう。

「今まで、こんなことはなかったんです……。先生、やっぱり晴海は、学校で何かあったんじゃないですか?さっき来ていた子たちも友達だと言ってましたが、上手くいっていないから、晴海が倒れてしまったんじゃないんですか??」
「……お母さん、やめて…。本当に、友達なん…」
「晴海は黙ってなさい!」
「海、声が大きいぞ。晴海も体を崩してるんだ、落ち着け。」
「落ち着けるわけないでしょう!」

 海は聖と口論になり、感情が抑えきれなくなっていた。晴海は何とか母親を宥めようとするが、その声は海に届いていない。
 明里は、病的なまでに晴海に何かあったのではと執着心を剥き出しにする海を見て、限界が近づいていると腹を括った。

「お母さま、お父さまの仰られるように、ここは病院です。落ち着いて話せる場所に移りましょう。」

 聖は海を宥めながら病室を出て、病室に横たわる晴海と明里が残った。明里は腹を括ったとは言え、晴海に同意を得なければならないと思った。

「……晴海さん、私は、あなたの環境を少しでも良くしようと思って、ここまでやってきた。約束も、最後まで守るつもりだったわ。」

 明里の言葉に、晴海は明里の目を見つめ、静かに頷く。

「でも、今日のお母様の様子を見ていて、思ったの……。このままじゃ、晴海さんの環境は何一つとして変えられない。一時は、晴海さんが実家から出れば、何か少しでも進むのかも、とも思ったけど、晴海さんがその手段を取れない理由がよく分かった。私は、最後まで晴海さんが少しでもいい環境に身を置けるように、全力を尽くす。だから、私は今から、お母様とお父様に、私が聞いていた話の全てを話す。そして、晴海さんと本当の意味で向き合って欲しいって、伝える。……晴海さん、いいかな。」
「……はい。今まで無理ばかり言って、すみません。」
「…何度も言ったでしょう、そんなこと、気にしなくていいの。私がそうしたいと思って、今までやってきたんだから。」

 じゃあ、行ってくる。
 そう言葉を残し、明里は病室を出た。これ以上は踏み込むべきではないことは、承知の上。だが、このまま、晴海と両親のすれ違った向かい合い方を見過ごせば、晴海はこのまま袋小路に閉じ込められたままになるだろう。改めて気を取り直し、海と隆の待つ場所へ向かった。

「すみません、お父様、お母様。お待たせいたしました。」

 海と聖は、入院病棟にある談話スペースに腰を下ろしていた。聖は落ち着いているようだが、海は先ほどと比べれば落ち着きを取り戻したようだが、その目には疑念と不信感が浮かんでいた。

「妻が取り乱しましてすみません。少し心配性な面がありまして……」
「いえ、お母様が晴海さんのことを特に心配なさっていることは、よく分かりましたので…」
「…先生、晴海は、私達に何も話してくれないんです。家ではいつも、部屋にこもってばかりで、私たちが何かあったのか、と聞いても何もないと返されるだけで…」

 まずは、このすれ違いを何とかしなければ、と明里はこの2人にかけるべき言葉を必死で模索する。だが、ここで明里は、そもそもの根幹、つまり『2人がなぜ、ここまで晴海の周囲を気にするのか』がひっかかった。

「まず、お伺いしたいのですが、晴海さんの大学生活については、晴海さん自身はお二人に話さないのですか?」
「いえ、友人や先生がいて、助けてくれると…。特に、翠さん、という女の子の話はよく聞いていますが…。」

 晴海にとって、翠は特に親睦の深い存在で、趣味も合うと夏季休暇前にも聞いていた。両親に話しているということは、自分には気の合う友人がおり、大学生活をそれなりに楽しく過ごしている、ということを話しているはず。それでもなお、海が晴海の友人に固執する意味が、明里には見えてこなかった。

「以前、お母様から電話をいただいた時も、私が今まで大学で見てきた晴海さんの様子は、お伝えしたつもりでした。少し踏み込んだ質問になるかもしれませんが、それでも、お母様の不安が消えない理由は、何かあるのでしょうか?」

 海は少し戸惑った様子を見せたが、明里の真剣な表情を見て、ぽつりぽつりと話し始めた。
 晴海の高校時代には、中学の頃から仲の良かった友人がいた事、しかし、何が原因かはわからないが、その関係が破綻してしまった事、破綻した事で晴海の大人しい性格がさらに顕著になった事、それと同時に自傷行為をするようになった事…。

「晴海は、あの時だって、『舞子ちゃんはいい子だから』と言い続けていたんです、なのに、いつからか学校の話をしなくなって、よくよく話しを聞いたら…、自分で…腕、を…」

 海はまた瞳に涙を浮かべ、ハンカチで嗚咽を殺すように泣き始めた。聖は心配そうに見つめ、その背中を摩っていた。

「妻も私もそれ以来、なるべく晴海の様子を注意してみるようになりました。幸いと言ってはなんですが、その生徒とは3年に上がる頃には別のクラスになったようなので、あとは時間が解決すると思っていたのですが…。どうも、自傷行為だけは辞められてないようで。」

 聖は、海の言葉を代弁するように、事情を締め括った。
 確かに、晴海の高校時代の友人との確執は、時間が流れる事で、晴海の中で何らかの形で落ち着いたのかもしれない。だが、その後も両親が自傷行為について過度に干渉した事で、今度はその干渉にストレスを感じ、依存するようになっていったのだろう。明里はそう推測した。

「晴海さんが自傷行為をすることについて、心療内科などのお医者様に診ていただいたりとかは…」
「そんなところ!!行かせるわけないじゃないですか!!」

 海は、また堰を切ったように感情を破裂させ、明里の言葉を遮った。聖は再び、海に落ち着くよう言葉をかけ、宥めるように諭す。

「……晴海は、病気じゃないんです、正常なんです。嫁入り前にそんなところ連れて行って、変な病名をつけられたら、あの子の将来はどうなるか…」

 海の言葉に、明里は目眩に襲われたように頭の中が暗くなった。晴海は自傷行為に依存している。依存から抜け出すには、周囲の理解を得るか、環境を変える、それが出来ないのであれば、然るべき医師の診療を受ける。選択肢は著しく限られているにも関わらず、海はそのどれもを取ろうとしないのだ。
 明里の意思は、既に固まっている。全てを詳らかにし、海と聖に、本当の意味で晴海と向き合ってもらわなければ、この状況は変わらない。明里は意を決して、重い口を開いた。

「お母様とお父様のお気持ちは、わかりました。しかし、私は晴海さんから、大学生活のことについては、講義後のレポートやテストについての不安について相談にのっていましたが、これは誰もが抱く些細な不安です。そして、晴海さんの周囲には翠さんをはじめ、多数の友人に恵まれています。講義を休んだ時のフォローも、ノートを晴海さんに貸してくれたり、講義中に何を話していたか録音している学生に至っては、その音声をコピーして渡してくれた程です。」
「では、先生は晴海の大学生活に、何も問題はないと考えていらっしゃるんですか?だったら、何で…」
「お母様、落ち着いてください。ここからが、私がお話ししたい1番の本題です。」

 両親は息を呑んで明里の顔を凝視した。

「…実は、夏に入る前の頃、晴海さんから自傷行為に依存していると言う話は聞いていました。そして、このことは誰にも言わないでほしい、と。」

 海は、青ざめた顔で明里を見た。聖は少し苛立った様子で、明里に詰め寄る。

「じゃあ先生は、娘の自傷行為について前から知ってたって事ですか。学生の頼みとは言え、私たちを含めて誰にも言わないという約束まで守って。」
「はい。その時晴海さんが話していたのは、自傷行為を止める方法がわからない、止めようとしても、お二人に自傷行為のことを聞かれるとイライラしてしまい、それで切ってしまうということ、心療内科に行くことも、お二人に知られてしまうことが怖く、受診できない、ということでした。」
「あんた、先生だろう?娘にそう言われたとしても、保護者には伝えるべきなんじゃないのか!」
「私も、悩んだ末に出した答えです。晴海さんが、藁をも縋る思いで、私の研究室まで来て打ち明けてくれた悩みです。彼女が少しでも自傷行為から逃げられる場所を、安心できる場所を作る支援がしたかったんです。」
「その結果がこれか?娘は倒れて救急車で運ばれるまでになったんだぞ!」
「お父様、これも晴海さんが考えて行動した結果です。お二人に新しくつけた傷を見せれば、また自傷行為について詰問される、詰問されないためにはどうしたらいいかと考えて、市販薬を多量に服用する、過剰摂取オーバードーズに手を出してしまったんです。これも、自傷行為の一種で、体に傷は増えませんが、薬を多量に摂取する事で自分の体を傷つけることに変わりはありません。その結果、体の調子を崩して、病院に運び込まれるという事態になったんです。」

 海は既に、ハンカチの色が変わるほど涙を流し、聖は声こそ荒あげないが、怒りと苛立ちの態度を隠そうとはしなかった。

「…お二人にとって、私が今話していることが、耳の痛い話であることは重々承知しております。しかし、お母様とお父様の思いと、晴海さんの思いがどこまでもすれ違っているこの現状を、知っていただきたくて、お話をしました。晴海さんにも、このことを話すという同意は得た上で話しています。晴海さんの気持ちを、正面から受け止めてあげてくれませんか。自傷行為をしていないかと、心配になる気持ちはわかります、ですが…」
「あんたに何がわかるって言うんだ!」

 聖は怒りをあらわにし、明里の言葉を遮った。海もその言葉に応えるように、明里を睨みつける。

「…晴海の状況を知ってて、親に黙ってるなんて、教育者じゃないわ。もう、2度と晴海に近づかないで。晴海にも、あなたのところには行かないように言いつけます。」
「これはもう、私たち家族の問題だ。あんたはもう、この問題に首を突っ込んでこないでくれ。あんたは大学教授なんだ、教授の本分は教鞭を取ることだろう。家族の問題にまで口を挟む権利はない。」

 聖は海を支えるようにして立ち上がり、晴海の病室へ向かおうとする。明里も立ち上がり、その背中に語りかける。

「確かに、私の業務のほとんどは、講義を行い、学業に励む学生たちを、教え導くことです。」

 海と聖は、静かに明里の方を振り向いた。

「ですが、学生たちが大学を出た後の進路も見据えた指導や、相談に乗ることも、私の仕事です。お父様やお母様が、私に対して、晴海さんに近づくなと仰られるならそうします。ですが、晴海さんに対して、私に近づくな、相談に行くなと伝えてもなお、晴海さんが私を頼ってきた時には、それを跳ね除けるということはできません。全ては、晴海さん次第ですので…。失礼します。」

 明里は、海と聖の目を見据えて宣言し、病棟を後にした。自家用車に戻ると、晴海が研究室に相談に来た時のことから今日までのことが思い出され、悔しさからか、後悔からか、判別のつかない感情に支配されたまま、ハンドルを殴りつけた。
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