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第二章
第二十三話 茶番の終幕
しおりを挟む「さぁ最後の忠告だ。ヨシュアを明け渡しな、リリエリ。……そいつが人間であるうちに」
悪趣味なまでに華美に彩られた杖が、リリエリの眼前に突きつけられていた。杖の先端はささくれ一つもないまでに丁寧に磨かれていたが、リリエリは剣の切っ先を突きつけられている心地であった。
レダが一度魔法を使えば、リリエリなんて存在した痕跡すらも残さずに消えてしまうだろう。そんな緊張感。吐きそうなほど強いプレッシャー。
逃げることも立ち向かうことも、今はできない。リリエリは気力を絞り、薄ら笑いを浮かべる男を睨みつけた。
レダはそんなリリエリの行動を反抗と捉えた。はぁ、とわざとらしく吐いた溜息には、聞き分けのない子供に物事を懇切丁寧に教えるような優しさすら浮かんでいた。
「……これは親切なんだぜ。見ただろ、ヨシュアが辺りを手当たり次第腐らせる様を。別の形に変わりゆく姿を」
リリエリは何も答えなかった。それは最も明確な肯定であった。
立ち込めた霧に触れたありとあらゆる物が、目の前で崩れていく光景を見た。その中で、ゆっくりと輪郭を変えつつあるヨシュアの姿を見た。……邪龍に変わりつつある、ヨシュアを。
「あぁ、分かるとも。仲良くパーティを組んでいたもんなぁ。後ろめたい気持ちの一つや二つあるだろうさ。でも、誰もあんたを責めやしないぜ。邪龍に変わる人間がいるなんて、信じられなくて当然だ」
かさりとレダの背後で音がした。ヨシュアにぶん投げられていた蜘蛛の一匹が僅かに動いた音だった。
その蜘蛛はがつ、という硬質な音と共に現れた土の棘によって絶命した。もとより余命など幾ばくもなかっただろうに。
その隙に、リリエリは少し離れたところに倒れ伏したヨシュアに視線を向けた。
死をきっかけに、彼は自身の姿を取り戻している。
揺らぎつつあった輪郭は、普段見ているのと変わらないヨシュアの姿を形取っている。周囲を腐敗させる奇妙な霧は、片鱗すら残さずに消えてしまった。
リリエリの目には、ヨシュアが今でも人間であるように見えた。少なくとも、見た目だけは。
彼はもう、既に邪龍となってしまったのだろうか。目が覚めたらまた、あの禍々しい霧が全てを腐らせていくのだろうか。
「パーティごっこはもうおしまいだ。続きは俺様に任せて、アンタは全部忘れて生きていけよ。"邪龍憑き"なんてお伽噺も、二人の冒険譚も、罪悪感も、何もかも」
もしもヨシュアがもう人間に戻れないのなら、リリエリに出来ることは何一つとしてない。レダの言う通り、大人しく引き下がるのが自分の、そして世界のためなのだろう。
今までの冒険は一匙の夢のようなもの。リリエリはただ巻き込まれただけの、不幸な冒険者。目が覚めたら今までどおり、一人きりの冒険が続いていくだけ。
それだけのことだ。たったそれだけ。一つ頷くだけでいい、そうすればレダが解決してくれるというのに、それなのに、
「……嫌、です」
それなのに、ヨシュアとの冒険が諦められない。
「ヨシュアさんは、人間です。邪龍じゃありません。ヨシュアさんを見捨てるなんて、私にはできません」
「…………へぇ」
レダの唇が吊り上がった。心底愉快な発言を聞いたとでも言いたげな表情であった。
「例えいつか邪龍に変わるのだとしても、それまでに助ける方法を見つけます。絶対に」
「涙ぐましい理想論だな。有事の事態に陥ったとき、お前に責任が取れるのか? 邪龍に変わり果ててからでは遅いんだよ」
「責任、とれないです。だから、」
リリエリは突き付けられた杖を、レダをしっかりと見据えながら立ち上がった。動き出そうとして木の根に躓き、べしゃりと手足を地について、泥だらけになりながら這いずって、酷く不格好になりながらも、ヨシュアの前に――ヨシュアを守るために、レダに立ちはだかる。
「ヨシュアさんを殺したいなら、私を殺してから進んでください」
恐怖はなかった。
ヨシュアを見捨てて一人で冒険を続けるくらいなら、ヨシュアと共に冒険を終わらせるのも悪くない。
パーティを解消する気はないと伝えた時の彼の笑顔を。少しでも役に立ちたかったんだと俯く横顔を。嫌いな食べ物を前にして顔を顰める姿を。
ヨシュアは最期まで人間だったと、そう信じる人間が一人くらいいてもいいだろう。
「――は、はは。馬鹿なのか? 俺様に人間を殺す趣味はねぇんだけど」
「本気、ですよ。ヨシュアさんがもうどうしようもなく人から離れたんなら、貴方が殺しに来るんでしょう? だったら有事の事態にはなりませんよ」
「そんなのは詭弁だ。さっさとそこをどけ。俺の気は長くねぇぞ」
「ヨシュアさんは、その時が来るまでは人間として生きていくんです。そして、ヨシュアさんはまだ人間です。……貴方だって、そう思っているくせに」
リリエリの言葉に。レダは初めて、動揺を見せた。
突き付けた杖の先端が微かにブレる。押さえつけるかのようにしっかりと握り直したレダの指先が、込めすぎた力によって白く変わっている。
その心の隙間を隠すためにか、レダは小さく笑ってみせた。
「……言ってる意味が、わからないな」
「貴方が言った言葉じゃないですか。そいつが人間であるうちに、って」
「言葉の綾を取って遊びたいなら、勝手にすればいいさ」
もう終わりにしようか。レダはそう言って、ブーツの踵で地面を強く蹴りつけた。彼の右手側に、植物の生えるような調子で土の棘が形成されていく。一突きでリリエリを、背後のヨシュアごと貫き殺せそうなほどに太い棘であった
レダが杖を小さく傾けた。それに合わせて、棘の先端がリリエリに向けられる。後はただ、合図をするだけ。
「いいんだな」
「構いません」
「……ああ、そう。じゃあ、死ねよ」
リリエリはぎゅっと目を瞑った。杖が無慈悲に振り下ろされる音を聞きながら、衝撃に備えようと身体を固くし、…………衝撃が、来ない。その代わり、ボロボロと脆い土塊が崩れ落ちるような音がする。
そっと目を開けた。ヨシュアが、その身を持って棘を食い止めていた。
「リリエリは俺の大事なパーティメンバーだ。……殺されると、困る」
「ヨシュア、さん」
その背の中央には自らを穿ったためについた夥しい量の血液が付着しているが、傷自体は既に塞がっていた。
腐敗を齎す霧もなく、武器をも持たず。ただのヨシュアとして、リリエリとレダの間に割り込んでいる。
「……随分早いお目覚めじゃねーか。昔より早くなったんじゃないか」
レダはよろめくように一、二歩と後退した。構えた杖が、リリエリからヨシュアへと合わされる。対峙するヨシュアは一歩だけレダへと歩みを進めた。
「久しぶりだな、レダ」
「ああ、そうだな」
「約束を守りに来てくれて、ありがとう」
「当然だろうが。俺様に守れない約束なんてねーんだよ」
「自分勝手で本当にすまない。実は、今はもう、死にたいと思っていないんだ」
沈黙。
ヨシュアも、レダも、木々ですら言葉を失ってしまったかのような静寂が満ちる。
驚きにか少しだけ目を見開いたレダは、左上の虚空に視線を移し、難しい問題に直面した時のように強く目を閉じ、
「……はぁ。わかったよ。やめだやめ。……俺も大概、ヨシュアに甘いよな」
……大きな大きな溜息と共に杖を下げた。
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