噛ませのプライド

コブシ

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選ばれし者の恍惚と不安、二つ我あり

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“後楽園ホール”


弘の主戦場。


格闘技の聖地と呼ばれ、ボクシングのみならず様々な格闘技の試合が行われている。


弘はこの聖地に憧れて上京した。キャンバスには過去の死闘の証である血の痕がどす黒く残っている。


前日計量。


開始時間前、続々と選手、関係者が集まり出す。メインイベントは人気の日本チャンピオンのタイトルマッチだけあって、マスコミも集まっていた。


計量会場では、既に選手たちの検診、計量が始まっていた。


「弘、あいつが前田だ。」


トレーナーが指差した先には面構えのいい筋肉質な男。その側には藤本会長もいた。弘に気付いた藤本会長は前田に何か耳打ちして、2人共が弘を鋭い視線で見てきた。


前田選手はともかく、藤本会長は違う怨念じゃないかと、弘は思った。お互いリミットをクリアして会場を後にした。


おそらく美里さんとの経緯を前田は知っていることだろう。試合に違う感情を乗せて臨んでくるに違いない。それがプラスになるのかマイナスになるかは神のみぞ知る。


きっと美里さんも会場に足を運ぶことだろう。情けない姿は見せられない。


弘はこの試合。


負けたら自殺するつもりだった。本当にするかどうかは分からない。ただ、それだけの覚悟で臨むという事。


何試合経験しても試合日前日は眠れない。













翌日。


眠ったかどうか分からないまま朝を迎える。試合は夕方6時開始。ジムに顔を出し、2時間前に会場入り。


軽く準備体操。


前田が注目されているせいか4回戦の1番最後の試合。控え室に試合開始を告げるアナウンスが聞こえた。


KO決着が多ければ、もう少し早くなる。何度経験してもこの時間が嫌だ。早く試合を終わらせて、精神的に楽になりたいと思う反面、リングに上がる時間が永遠に来なければいいのにという相反する感情。


「弘!そろそろバンテージ巻こうか!」


椅子を前後反対に座り、もう一つの椅子の背もたれ部分に腕を載せ巻いていく。段々と固められていく拳。言うなれば拳の固さが石のようになる。


この石になった拳で殴る。それは自分もその石の拳で殴られる。恍惚と不安。相反する気持ち。


その拳が仕上がると共にファイターの目つきになる。


「よし!弘は4回戦の1番最後だから、後1時間くらいだな。」


試合が終わる度に自分の中でカウントダウンしていく。


あと2試合か・・・


「よし!最終確認やろか!」


試合時間が迫る。


弘の得意なコンビネーションを繰り返す。もう数えきれないくらい反復練習した。意識がなくても出せるように体に覚え込ます。オートマチックに出せるように。


うっすらと体表に汗が滲む。


非常階段から見える階下にカップルが仲むつまじく歩く姿。


あ~ぁ、あの男と、ごと人生変わりたい・・・


心底そう思う。


それくらいリングに上がるというのは怖い。


「よし!そろそろ上がろうか!」


地下にある控え室を出て、リングがある会場に移動する。今からリングで行われる試合の次。


前田は期待されている選手なのか後楽園ホールには大応援団が来ていた。


弘も最初はバイト先の仲間も応援してくれていたけれど、負け続ける弘に愛想をつかして誰も来なくなった。美里さんという勝利の女神だけがいることを信じて。


“さよなら”


最後のメールの事は考えないようにした。


「いいか、弘。相手はアマチュアで経験あるから手数多いからな!あと、ちょこまか動いてくるから焦らずにな!」


リング上の試合は判定決着。


いよいよ次だ。


「第6試合4回戦を行います!」


相手選手の大歓声の入場と打って変わって、かませ犬ボクサー弘の入場。


たった1人の勝利の女神がいることを信じて・・・


選手コールが終わり、レフリーの注意を聞く為、リング中央へ。


リング上で対峙する。


相手は楽勝で勝てる事を確信しているのか薄ら笑いを浮かべながら弘を睨んでくる。


俺には女神が着いている・・・


そして、ゴングが鳴る。
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