幸福の国

吉野コウ

文字の大きさ
上 下
7 / 32
第一章

約束

しおりを挟む
空が白み始めたころ、ハルシャは黒曜橋のたもとでバルハたちを見送った。
本当は門の外、森の入り口まで行きたかったのだが、子供であるハルシャにそれは許されていなかった。
起き抜けで眠い目を擦りながら、父が眠っているのを確認して家を出た。
「首飾り、ありがとう」
起き出してくる他の村人たちに万が一にも聞かれないよう小声で囁いた。
昨日の首飾りは草臥れた若草色の襟の中に大事に仕舞われ、鈍い輝きを纏っていた。
少女の囁きはバルハにもしっかり伝わったようで、彼女は指で柔らかい黒髪を梳いてくれた。
「アレはあんたのものだからね。身から離しちゃいけないよ」
存外にも真剣な表情で告げる。
「いいね?」
念押しされて少しばかりの違和感を覚えたが、なんのことはない。
盗まれることを心配してくれているのだろう。
たしかに自分はこの贈り物を随分と気に入ってしまったので、失くしたりした日には泣いて探し回るに違いない。
その心遣いをありがたく感じて、頷いた。
「わかった」
偉大な女商人は安堵したように顔を緩めて微笑んだ。
「また来られるのはいつか分からないけどね。困ったことがあったら都の緑青屋を訪ねておいで」
「都まで十日もかかるんでしょう?そんなのいけるわけないよ」
いきなり言われて困惑するばかりだ。
いままでにバルハがこんな風な申し出をしてきたことはなかった。
「なにかあったらの話だよ。別に遊びに来たっていいけどね」
ふざけながら鼻をつままれた。
「なにかって?どういう意味?」
重大な理由がそこにある気がして首を傾げる。
「世の中何が起こるか分からないってことだよ」
ハルシャの鼻から手を離したバルハはまた悪戯っぽく戯けて見せた。
その瞳にどこか寂しさを見つけてハルシャは嬉しくなる。
「じゃあね。無茶をしないで、体に気をつけるんだよ」
去り際の挨拶はいつだって寂しいものだ。
ハルシャは鼻の奥が涼しくなるのを感じた。
「毎日よく食べて、よく寝て、よく働くことだよ。神様はいつだってあんたを見てるんだからね」
教訓じみた言葉を残してバルハは背を向ける。
背中の荷物は仕入れた細工物で来た時同様に膨れていた。
橋の先をもうクアンが歩いている。

二人の背中に反射する光がいっそう輝いて見えた。
しおりを挟む

処理中です...