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最終話・タクトくんとユキのピロートーク
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・由貴の身勝手さに疲れ果て、自分を金づるとしか考えない女性達しかこの世にいないような気がして来て、腹が立つ。凄く虚しくて、凄く寂しい。女性が必要なのに。今。悔しいけれど・・・腹の立つその相手が女どもなんだ・・・
大きく息を吸い、深く吐き出す。よし。なら良い、金で解決してくれる女性を買うまでだ。
検索をかけ一番トップに出て来た店に電話をかける。イライラしてるし、ゆっくり時間をかけてあんな店もあるこんな子もいるなんて調べて遊んでいる気分ではない。本当に誰でも良かった。女なら。
「はい。”お隣さん”です」
「いま空いてる子で良いんで、すぐ来てもらえますか」
「はい・・・4名ほど、今ですと待機しておりまして、・・・お好みは御座います?」
「誰でも良いんで早くお願いします」
「えっと、ではですね」受付嬢の喋り口調も焦り、早口になった。鹿嶋君の早口の語調に滲み出る苛立ちを聞き取って。「では新人さんかベテランさんかだけ、お選びいただけますか?」
色々想像して選ぶのが何か億劫だった。意地のようなもので、女性にウンザリだと言うのに好みの女性を選ぶという行為をこの上課せられて、素直に考えられなかった。
「あんまり小さい子は苦手なんだ。四人いるなら、背が高い子にして」
「あ、・・・分かりました。場所は・・・?」
鹿嶋君は住所とコース時間を告げた。
「20分以内には参ります」
送りの車が女の子を寄こすまでの間に、部屋を簡単に片づけ、シャワーを浴びた。
20分後、でかすぎる女の子がドアをノックした。
「キャンセルって出来る?」
「え、えっと、キャンセル・・・?」
「ああ、きみ新人の方の子か?」頭の中であとまたもう20分待つことを考える。もう早くもどうでも良くなってきそうだ。「まあ良い。仕方ない。入って。」
「・・・シャワー使わせてもらっても良いですか?」
「うん。どうぞ」
浴室の戸口に立って、女の子が服を脱ぐのを眺める。それにしてもでかい。自分が大柄なタイプではなくスラッと背が高く華奢で胸が無いような子を無意識に想像していた事を思い知る。それがそのまま自分の好みという事だ。女の好みすら自分で分からなくなっていたとは。由貴との関係が出来てからこう言った商売の女性を家に招くのは久しぶりのことで・・・・
「あの・・・」女の子は嫌そうに揃いのメロン色の下着姿でソワソワした。
何だ?ジロジロ見過ぎだと言うのか?それだってきみらの仕事のうちなんじゃないのか?
「早く脱げば?どうせ脱ぐんだから」女の子は顔を歪め、目を洗濯機の角の一点に固定してブラを外し、パンツを一気に下げて、クチャッとまとめて丸めて先に脱いでいたワンピースの間に押し込んだ。名前も知らない彼女はなかなか風呂から出て来ず、長い間シャワーを使っていた。後で思えば、泣いていたのかも知れない。しかしそんなことに気付かなかった鹿嶋君は、更にこれで苛立ちを募らせた。
「お嬢様、やっと出て来たな。時間の半分が過ぎるところだよ。サッサと初めて貰いたい」
嫌そうに顔を引きつらせ、それでも仕方なく、大柄な女の子が鹿嶋君のベッドの足の方へ入って来た。彼のパンツの膨らんでいるところに手を置いて、ソロソロ擦った。手のひらの温もりはそれなりに温かく、触れられると気持ちが和む。しかし彼女はすぐにそれをやめてしまい、パンツの縁を両手で掴んでグイグイおろし出した。露わになったものを一瞬嫌そうにして身を引いてから、思い切ったように急に片手でガシッと掴み、ガシガシ手荒にしごきだした。腕をいっぱいに伸ばし、顔を仰け反らせるようにして。恐ろしく深い眉間の縦皺、鼻の横皺。鬼の渋面。
「・・・痛いな、ちょっと・・・やめやめ!そんなんじゃダメだ!おい!やめろ!」
「え、・・・すみません・・・」
「きみ研修とかしてもらってないの?」
「・・・」
「口でなら上手に出来る?」
「・・・」
「やってみて」
しかしダメだった。歯が当たって。
「ダメだ、ストップ!ストップ!」鹿嶋君は痛くて、束ねた彼女の髪をグイと掴んで遠ざけた。
「きみ、何ならできるの?」
ここで結界が崩壊。女の子は泣き出してしまい、「おいおい、仕事だろ?泣きたいのはこっちだよ、金と時間を返して欲しい。恥ずかしいのはこっちも同じなんだから」
彼女の泣き声が本格化して、
「ちょっと電話させてください、今から違う人とチェンジできるかどうか・・・」
と言うので、スッと頭に昇っていた血が冷え、冷静になってみれば少し可哀想になり、「チェンジはもう良いよ、お金も返さなくていい。キミの裸も見ちゃったし・・・ただ迎えに来てもらって帰って良いよ。」と言ってあげた。
彼女が店に長電話している間、鹿嶋君はネットニュースを読んでいた。もうすっかりそういう気分から気持ちは切り替わってしまっていた。
「チェンジの扱いで大丈夫だそうです」女の子が伝えに来た。「私を迎えに来る車に次の子が乗ってくるので」
「もういいって言ったのに・・・」
着替え終わり、無言で二人で彼女の迎えの車を待つ間、鹿嶋君はじわじわ冷静になり少し意地悪を言い過ぎたなと我に返って反省しだした。体格がしっかりしていて頑丈そうに見えても、気質は脆く気弱で優しい。まだ仕事に慣れていず不器用だっただけなのだ。(この子に八つ当たりしてしまったな・・・よく見れば目鼻立ちはあどけない。愛すべきお嬢さんだった。どういういきさつでこの仕事をすることになったのかは知らないが、店とのやり取りの中でも俺を悪く言うわけでもなかった・・・)彼女は、お客さんが自分を気に入らないようだから他の女の子に交換してあげて欲しいと繰り返していた。『いえ、自分が悪いんです。』二度ほどそう言ってるのも聞こえた。
迎車が来るのを待つ間、同じ部屋に居るのも気詰まりなので(それに鹿嶋君が煙草に火を付け喫い出すと、この子は申し訳なさそうに咳を堪え始めた)、台所の換気扇の下に立ち回転する白い渦向かって煙を吐き、次の一服を吸った。
そこからは開けた扉越しに居間のソファに座らせた女の子の横顔が見えた。
辛酸を舐めさせられたものの今は少しホッとしてもいるのだろう、俯き加減で、背を丸め、無の表情、ただとにかく時間が過ぎ去るのをひたすらに待っている。迎えの車が来るまでここで過ごさなければならない無為の時間を。・・・ここからだと、鹿嶋君にとっていかつすぎた幅の広い肩、厚い胸板に豊満過ぎる胸は見えない。ソファの背凭れに隠れていないのは首から上だけ。横顔だけが見えた。今更ながら気が付いた。顔だけ見れば彼女はかなり綺麗だ。消音にした深夜のテレビの映像を見ることもなく、ぼうっと床の一点に視線を落とし、移り変わる光に頬を照らし出されるままにしている。テレビに空が映れば、彼女のつるんとした肌は青く照り染まり、映像が変わって火山の噴火が映れば、彼女の頬も額も耳も鼻も、赤に染まる。瞳の表面も。光の粒子が彼女に当たって跳ね、弾け、皺も染みも窪みもまだ一つもないピンと張った若い肌はまるで白いスクリーンのようだ。
20歳くらい、自分の半分くらい。まだ人生の初期。この子に自分は何をしたか?傷つけてしまった事は間違いない。それは迎車の後部座席に乗って頭を一振りしさえすれば消し去れるほどの小さな傷かも知れず、この若さの輝くばかりのお嬢さんになら、屁でもない掠り傷かも知れなくて、それにこんな仕事をしていれば、これしきの事はこの先々いくらでもあるだろう、・・・しかし今すぐの致命傷には至らなくたって、重傷にも及ばなくとも、掠り傷も、傷は傷である。霧状の毒のように、数々の細かな塵のような屈辱、自分への憐れみ、折々の心痛が、つのりつのれば頭上から常に振り払えない黒雲となり、両肩にのしかかり、肺に滞留し、それが老いとなってこの子の肌表面にも優しい内面にも影を落とす。毒は見えないうちに心の奥底まで染み込み、根を下ろし、蝕み、そのうちにこの子も、疑り深い性悪年増女に・・・
鹿嶋君はギュッと目を閉じ、深く吸い込んだ煙になり、濁った魂と共に換気扇から排気された。・・・次に目を開いた時、自分の居間のソファに腰を下ろしてるお嬢さんの横顔を改めて見て、彼はふと気付いた。(この子の笑顔を見てない。会ってから一度も・・・)
(最初からこの子は怯え警戒していた。うちの玄関先で車から下ろされ、それからずっと怖くて緊張しっぱなしなんだ・・・社会人としては生まれたての赤ちゃんなんだ・・・このお嬢さんは。まだ・・・)
何とかしてこの子を笑わせることが出来ないだろうか、と彼は思った。彼女が帰ってしまう前に。クスッとだけでも。
しかし、傷付ける言葉はあんなにスラスラ無意識に言ってしまえたのに、頭を振り絞っても、今この子をこの場で喜ばす言葉は一言も浮かんでこない。
『きみ、よく見れば可愛いね、綺麗だよ』なんて、今時セクハラとかコンプライアンス違反とか言われて一番会社でも言ってはいけない事だ。この状況にしたって、(お前あたしに向かって今更お世辞かよ?あたしの顔見るなりチェンジっていきなり言ったのテメェだろ)と内心呆れられ、無理矢理引き出せても、苦笑いに決まっている・・・
(言葉とは凶悪なものだ。ポロポロと口を開けば殺傷能力の高い台詞が勝手に吐き出されてしまうのに、癒しになる一言がここ一番という時に、見付けられない…僕は口を閉じていなくちゃいけない人種なんだ…)嗚呼、早く時よ過ぎてくれ。この子を早く僕から解放してあげたい・・・
・・・僕ももう早く一人きりになりたい・・・
しかし祈ってもまだ時間はのろく、迎えの車は一向に来ない。窓を開けてみた。街から外れた住宅街の、更に大きな車道からは奥まった場所に鹿嶋君のアパートはある。そのため、遠くから飛ばしてくる車が急にスピードを落として幅の狭まる道をこちらへ曲がって来れば、ピッタリはまってなくてデコボコの鋳鉄製の溝蓋を踏むガチャンガチャンという音が寝静まった路地に響いて必ず耳に入るはずなのだ。
ふと見やると、彼女の方でさっきまでこちらを見ていたのがスッと視線が合わさらないように逸らしたところだった。
(何だろう?何か言いたいことがあったのか?換気扇は回してるけど、それでもまだ臭いかな?僕を見て何か思う事があったのかな?・・・)
・・・彼女の目に自分はどういう風に映ってるんだろう?と鹿嶋君は考えてみた。ただのおじさん?…いや、キモイおじさんだろうな・・・
これからお店に帰ったら、彼女は友達に何て言うだろう?
『キャンセルされたんだって?キモイ客だったよね?』
『うん、キモかった!』
『口臭かった?』
『うん、めっちゃ臭かった!』
『女選ぶ分際の前に、自分の歯を磨けってんだよね?ブレスケアひと缶飲み干してから電話かけてきなって』
『ホンマそれ!』・・・
鹿嶋君は妄想を振り払いながら、中指で下唇を押し、前歯を爪で削ってみた。舌で歯の内側をなぞってみた。歯磨きするのは忘れていたかもしれない。下半身は一生懸命洗ったけど・・・でも彼女に口づけはしていない…でも、でも、口臭が分かる程度には近寄ったし、ハアハア息が上がるようなことをしたんだから、匂いはしただろう・・・
彼女、家に帰ったらヒモの彼氏とかに愚痴るんだろうか?
『今日特に口臭かった客にチェンジされてさー』
『良かったじゃん』
『いや時間の無駄だよ。電話の時点でハッキリ自分の好み伝えろよって話』
『童貞オヤジか』
『ムッツリで自分の理想通りの女が黙ってて来るわけないって分かってないんだよ、阿保だから。』
『で、そう言うのに限って臭い?』
『うん臭い!自分の放ってる匂いに気付けないんだよ、普段から教えてくれる女がそばに誰もいないから』
『かわいそ』・・・
鹿嶋君は次々と煙草に火を付け、魂を込めて吐き出し、煙になって自虐妄想の自分自身を換気扇の刃に散り散りに切り刻ませた。
(まだ迎えの車は来ないか…先方さんだって、急いでくれてはいるんだろうけれども…)窓を開け放ち、外の路地を見下ろしてみる。
それからまた室内に目を戻すと、またしても、女の子が自分から目を逸らすところを目撃してしまった。彼女は所在無げに、しかし携帯電話を見るのは無礼だと思ってるのかソワソワと、自分が見られてることを意識しながら、何か目を留める物を捜して鹿嶋君の家の居間の床に視線を彷徨わせた。
こんな年若い見知らぬお嬢さんが自分の居間のソファに腰かけていること自体に、ふと、違和感を抱きそうになる。我ながら、金で買ったこの状況でなければ、こんなことはあり得ない状況なんだ…と鹿島くんは実感した。姪くらいも年の離れた女の子を相手に・・・
それも、この少女を自分が好きかどうかとか、そう言った自分自身の心の前置きさえまるで全く置き去りにして・・・
売春とは不思議。切ない行為だ。全く見ず知らずの相手に自分の一番大切な部分を曝け出し合い、互いに大切にしてもらえることを願う。それも一、二時間以内のうちに・・・とても無理なものを金で買おうと言う行動、売春とはそんなものに思えて来た。
何故この仕事をしてるの?と彼は聞きたくなったが、やめておいた。
(お前の知った事か)と思われるのがおちだ。下手したら(また批判されてる)と受け取られ、もっと傷付けてしまうかも知れない。質問の素朴な意図を理解してもらうには、時間が足りなすぎる。・・・迎えが永遠に来なくても、分かり合うには、足りないのだ。時間などいくらあっても、他者と分かり合えることは永遠に・・・
鹿嶋君はしんみりと悲しくなった。金を出しても買いたいものは買えない。
本来自分は女性と分かり合える和やかなひとときを求めていたのだ。
例えその場限りの偽物であっても良いのだから、孤独の緩和を求めていたのだ。分かり合えてるかのように振舞ってくれれば良かったのだ。
もし彼女がベテランの女の子だったら、戸口で、(嗚呼こいつ私の事がタイプじゃないんだな)と悟ったら、まあまあといなし、心のうわべだけでも寄り添って、サッサとシャワーを浴びベッドに入って明かりを全て消してしまい、真っ暗闇の中、体温と湿り気を帯びた柔らかい素肌、甘い香りと魅惑のうねりだけの姿となって、それなりの仕事を完遂させてくれたかもしれない。
(それに、自分の体の欲求はついでのようなものだったかもしれない。今となってはそう思えて来た・・・こんなに沈んでしまった今となってはそう思えるのかも知れないけれど・・・)
最初、女性の肉体を求めて電話をかけた時には、神経が逆立っていて気付けなかったが、本当に必要だったのは女性の体ではなくその中に秘められた神秘の心だったのかも知れない。今やどちらにしろ手に入れられなかったわけで、もう諦めが付いてしまい、どっちでも良くなって来てしまったが。
会話だけでも良かったかもしれないのだ。何か気がまぎれるような楽しい話をすればよかった。別に楽しくない話でも何でも良い。ただ、一人じゃないという気分になれたら、それだけで・・・
しかし今やすべてが手遅れだ。言葉を吐けば、どんな内容も意味が嫌味に受け取られかねない、この状況下では。
・・・心の欲求と体の欲と、どちらが先頭に立って彼を駆り立て小突き回して、女性の尻を追いかけ回らせ愚かに這いずり回らせるのか、分からないけれども、この果てしない自分の渇望には、本当に疲れさせられる。疲れても疲れても、枯れ果てて消えて無くなってはくれないのだ。この欲と言うものは…孤独と言うものは…
・・・もう、ベッドに行って、元カノたちの思い出を抱き、感傷に耽ってジメジメと眠りたい。もう、勝手に帰って貰えば良いかな。居間の彼女には・・・悪いけれど…
玄関の鍵は朝まで開けたままにしてていいから・・・
そう言おうと口を開きかけた時、車の音がようやく聞こえた。
迎えの車には、次に彼の相手にあてがわれた長身でスラリとしたバレリーナ体型のシルエットの女の子と、責任者らしきカチッとしたパンツスーツにガウンコートの大人の女性が乗って来た。ドライバーが用心棒役を兼ねているらしく逞しい屈強な強面だった。アパートの外に車が止まるのを鹿嶋君は窓から見下ろしていた。三人が車から降りてアパートの正門から入ってき、建物に入って見えなくなった。間もなく、三階の彼の部屋の玄関前に現れた。
チャイムが鳴ると、鹿嶋君はドアの小さな丸い覗き窓を覗いてから、鍵を開けた。ドアを開けた瞬間、部屋ごと川の中に浸したように、水流みたいな冷たい夜風が流れ抜けた。寝室の窓を開けていたから・・・と鹿嶋君は上の空で考えた。
しかし自分のクレームのせいで顔を揃えた相手三人の、その、新人の親代わり、謝りに来たマネージャーの女性の顔を見た瞬間、時がピタリと止まった。
「きみは・・・」ユキだった。
あんなにも、命懸けになって捜し回っていた頃には見付からず、こんなに何年も経ってから、もう捜していたことさえ忘れてしまった今になって、こんな気まずい再会を遂げるとは。
彼女は自分の店の新規客に新人のクレームを聞きに(と言うのが表側の半分、もう半分は女性に優しく接するようクギを刺して出禁にせずに済ませられる客かどうかを自分の目で判断しに)ここまでわざわざ足を運んで来たのだ。
ユキが、赤い舌先をチロリと出して唇を舐め、息を吸い込み、喋り出した。
「この度は・・・キャストも新人、また受付嬢も雇い入れてから日が浅いと言う経緯もあり・・・」
「かわりにきみが残ってくれないか?」鹿嶋君が言った意味が初めはユキにしか伝わらなかった。
他の連中はポカンとしていた。
「その子がかわりに来た子でしょ?」鹿嶋君はすらりとしたお嬢さんに頷いた。
「でも、僕はきみが良い」ユキに視線を戻すと、彼女の目はずっと自分の目を見詰め続けていた。
あの時のように。22年という時が一瞬にして遡り、二人ともが16歳だった、あの葡萄の色の絨毯を敷き詰めた螺旋階段で、初めて真正面から見つめ合った。あの時のように。
「はっ?」強面が冗談をからかう笑いの滲んだ口調で言った。「この人は経営者ですよ!オーナーが新規客をとることは無い。」
「話したいことが・・・いっぱい・・・あり過ぎるくらいあるんだけど・・・」鹿嶋君はユキだけを見て話していた。
「良いでしょう」ユキがそう答えると、「へっ?!」強面が衝撃を受け仰け反った。
「みんな帰って、仕事に戻って。さあ、行って良いわよ。彼は私の古い知り合いなの」
「顔見知りなんですか?」大男が威嚇するフクロウの様に胸を膨らませながら鹿嶋君の顔をジロジロ睨み回した。「本当に?大丈夫ですか?」
「うん。本部にも、私は今日はこのまま直帰するって伝えといて」
「・・・え、・・・へ?・・・たまたま?・・・ですか?・・・知り合い・・・?」
「ええ、たまたま彼は私の、」ユキは言い淀み、ちょっと肩をすくめた。「ちょっとした、昔の知り合いだったの。私達もお互い今ビックリしてるところよ。ね?」鹿嶋君は頷いた。
「へぇぇ・・・」運転手兼用心棒がユキと鹿嶋君をジロジロ見比べた。その目が鹿嶋君への警戒を解き、かわりにユキの意外性を面白がり昔の二人の関係性を勘ぐって好奇心の輝きを帯びた。
「あのぉ・・・」鹿嶋君の背後で声がした。
忘れるところだった、この子を返してあげなければ。これが一番本来の目的だったのだ!
鹿嶋君はドアを押さえたまま身を引いて、狭い玄関口から大柄な女の子が通り抜けられるよう道を譲った。
「きよちゃん。」ユキが呼んだことで、初めてくらいにして、鹿嶋君は彼女の名前を知った。
「大丈夫だった?ちょっと話を聞かせて?」
ユキは「後で戻って来るから」と熱い視線で鹿嶋君をジッと見詰め小声で言ってから、クルッと背を向け、きよちゃんの背中に手を当てて廊下を階段の方へ歩き、話し込みながら、そのまま階段を下りて行った。あとに残されたすらりと長身の女の子と、それから運転手も、一応鹿嶋君に一礼し、きよとユキの後に続いて廊下を行き、階段を下りて行った。
しばらく鹿嶋君は一人玄関のドアを開け放ったまま、待たされた。心臓がまたドキドキと鳴り出して、動き出したのが感じられた。しかし心は広い空白で、何をどう感じればいいのかに戸惑っていた。
寝室の窓から入った風が部屋の中の籠った空気を一挙に洗い流して出ていくのを、身に受けて感じながら、ぼおっと突っ立っていた。
やがて、車のドアが閉まる音、続いて、ヒールが階段を駆け上って来る音が近付いてきた。下で車が走り出す音がして、廊下の先の階段にユキが姿を現した。
鹿嶋君に一歩近づくごとに彼女の笑顔が広がりさらに満開に咲いた。どんどん歩幅を広げ走ってくるので、そのままこちらの胸に飛び込んでくるのではと覚悟して待ち構えていたが、さすがにその度胸はなかったのか、あと一歩と迫ったところで急にピタッと立ち止まった。骨のない軟体動物みたいにすぐしな垂れかかってきた昔とは、彼の知っている昔の彼女とは、今の彼女は違っていた。
どこかの塾講師みたいな、キチンとした装い。それなりの使命、責任を帯びた人の立ち居姿。
「鹿嶋君、・・・」
「きみが今は・・・」
二人は同時に喋り出し、口を噤んだ。ユキが頷いて、鹿嶋君に先を促した。
「きみが今はオーナーさんなんだ?」
「うん、…一応。・・・あの子はお気に召さなかった?」
きみちゃんを乗せた車は行ってしまったが、彼女の話題を出されると鹿嶋君は気まずかった。
「ごめん、あの子のせいじゃないよ。いつも僕は気難しい客かも知れない」
「よくコールガールを呼ぶの?」
「そんなにちょくちょくじゃないよ。たまにどうしても、っていう時があるんだよ・・・」
「分かるわ。それを商売にしてるから」
「・・・電話をするときにはどんな子が良いかと聞かれてもハッキリ言い表せない。でも来てくれた子には文句が止めどなく出てしまって・・・」
「まぁ、そう言うものだわ。」ユキは肩をすくめながら、うんうんと頷いた。
「いつも、呼びたい子がいるけれど、その子は呼び出せない事に腹を立てていたんだな」
鹿嶋君はユキの目を熱を込めて見詰めながら言ってみた。「今ようやく自分の要望に気が付いた。」
ユキはじわじわとにニヤけた。その目が一瞬、ウルッときそうになった後に、また持ち直してから、鹿嶋君の顔をつくづくと眺め、やがて、ニコリと大人の微笑に落ち着かせた。
「会いたかった、鹿嶋君・・・」
「僕も凄く会いたかったよ」
ユキの頭がぐらりと傾ぎ、抱き締めてもらおうと、こちらにあと一歩近寄って来る。鹿嶋君は寸前のところで、彼女の肩をグッと両手で掴んで押さえ、距離を保った。
「すまん。ひとつだけ聞いていい?」
「何?」
「ゆきの事は知ってるか?」
「・・・ええ。私の事じゃないのね」
「きみを捜してあの”城”に行ったんだよ。もう、…何年も昔の事だけど。そこで知り合った女の子だった、きみの次にゆきと名乗って働いていた・・・」
「うん。知ってる。」
「しってるのか?!・・・あの子は、あの子の事はきみの仕業・・・か?」
「いいえ」
「でも事情は知ってるんだな?」
「すべて後から聞いた。お気の毒な事だったと思う。可哀想に・・・」
鹿嶋君はユキをジイッと睨んでいてから、目を閉じ、フウッと息を吐いた。指の力を緩めた。
「私があなたの奥様を殺したと思っていたの?」
「関与してるかとは、ちょっと考えていた」
「全く私とは関係のない事件だわ」
「そう?本当か?きみの周りの誰かがきみのためにやった事でもない?」
「違う」
「きみはいきなり失踪したじゃないか」急に話題はさらに時間を遡った。
「ええ。ごめんなさい」
「ごめんなさい?」ハハ…、と笑い声が聞こえ、ハッとあたりを見回した。一瞬、誰の嘲笑が聞こえたのか分からなかったのだ。それから、自分の笑い声だ、呆れて笑い声を上げたのは自分だと気付いた。
「身を切られるような思いで心配してたんだぞ。あの当時は・・・苦しくて、眠ることも出来なくて・・・きみがどこで誰に何をされてるのかと、…考えると…それとも誰かと僕を嘲笑ってるのか、僕のことなど微塵も思い出しもせずに楽しく過ごしてるのかとか、・・・何にしろ、辛かった!いっそきみが死んでくれてれば良いのにとさえ思えたくらいだ、でなければ僕が死にたかったよ・・・きみの安否を心配しすぎてこっちの気が狂いそうで・・・」
「どうしようもなかったの・・・死にたいくらい私だって何度も思ったけど、その選択肢さえ選べなかったの…自分では・・・あなたと逃げたけど、また見付かって、捕まって、連れ戻されて・・・」
「・・・そうか・・・」
「あなたに知らせる余地もなかった」
「・・・そうか」
「それからは、長い間、薬漬けだった。逃げよう、抵抗しようとしたけど、すべて無駄。暴れたら、圧倒的な力で押さえ付けられるだけ。意識を飛ばされ、何日も記憶が無い日々の後で、ズキズキする頭を抱え汚い床で目を覚ますことになる。無我のうちにこの体をどう利用されていたかも知り様がない。全身の痣や傷痕から憶測するだけ。そのうち薬が無くても飛んでいられるようになった。運ばれていく自分の体を俯瞰で眺めてるの。魂が先に体を捨てて彷徨い出し、身体の方の命が潰えるのを待っていた。だってどこへ行ってもこの世は地獄、あなたのそば以外・・・
・・・薬への依存から抜け出して立ち直るのにかなり苦労した。と言うか、・・・今でも、依存から完全に立ち直れたとは言いきれないのかも知れない。・・・定期的に、急に変な汗がドッと垂れてきて、足元からふらつき、今目に見えてる物が幻覚なのか現実なのかが分からなくなり、立っても居られないほど気力が失せることがある。脈拍、鼓動が乱れ、生きてることそのものが苦しくなって、…そうしたら嗚呼、来た、ダメだわと分かる。体が勝手にぶるぶるガタガタ震えて止められない、どうしたらスッと簡単に発作を鎮めることができるのかは分かってるのよ・・・なのに・・・ええ、・・・でも、二度と頼らないと決めたの。あの・・・クスリにだけは。・・・
そうなの・・・(ユキはその症状について話すだけでも苦しげだった)、
・・・私の机の引き出しにね、一本の注射器がすぐ使える状態でしまってあるの。ただし、それを使ったら最後。致死量を優に超える純度に配合してあるから。この次にあれを体内に打ち込む時はこの命を終わらせるとき。そう決めてるのよ」
「ユキ…」
彼女は首を振った。
「そうそう簡単には死なないわよ。でもそのくらいの覚悟が必要だと言うこと。薬物依存ってそれくらい怖いの。魔物との取引よ。一生切れない契約を結んでしまってるの・・・
・・・今でも、冷静に、真剣に過去の最悪すぎる一時期の記憶を思い出そうとして見ても、その時期の…18~22、3歳頃の記憶は…自分のことなのに・・・暗い深い穴に飲み込まれたように、全然思い出せないの・・・まるでブラックホールに入り、出て来たみたいに・・・だけどその間に私と知り合ったという人には会うし、その間にしていた仕事の実績もあるの・・・不気味よ・・・まるで誰かに体を乗っ取られて数年生きていたみたい・・・」
「あの時も・・・」鹿嶋君は合点がいった。「嗚呼、そうか、あの時、きみは・・・確かに目付きが異様だった。・・・一度は、僕はきみを捜し当てたんだよ・・・」
ユキは首を傾げ、ゆるゆると横に頭を振った。思い出せないらしい。
「目が合ったんだ、きみと。撮影中のスタジオで。あの時きみが僕を見て、黒服に何か交換条件を出し、僕らは無傷であのビルを出られた。きみとゆきはあの時一度顔を合わせていた・・・きみが助けてくれたんだろ、僕達を」
「ごめんなさい。何のことかさっぱり…」
ユキは本当に分からないと言う顔をしていた。真剣に、こめかみを指先で強く押さえて。
「まぁ、分からない方が良いかもな。あの時のきみは本来の姿じゃなかった。ガリガリに痩せて、涎を垂らして・・・まるで追い詰められた狂犬病の・・・いや、思い出せないままの方が良いよ・・・何もかも…」
「・・・」
「今は元気そうだ。」
「・・・少し回復して自由が利くようになってから、あなたの事を調べたの。あなたの元に戻りたくて、そのことばかり、それだけが胸に灯る唯一の希望だった。どんなにつらい日々もまたあなたと暮らせる日が来るならと乗り越えられた、・・・。そして、やっと、ついに、せっかく逃げ出せたのだけれど、あなたの新しい住所には、もう新しい女性が・・・
・・・あなたのお家に入って行く彼女の後姿を見ちゃったの。艶のある綺麗なショートボブ。膨らんで重たそうな買い物袋からは、お葱や大根の葉っぱが覗いていた。それに、薄桃色のリボンで縁取りのされた、お腹に赤ちゃんがいますマークのバッチ。彼女はあなたから渡された合鍵でドアを開け、あなたと食べるお鍋をこれから作るんだなぁって、一目見れば、分かった。未練がましくも、本当に部屋番号が合ってるかどうか、確かめるためにドアの前まで行ってみたわ。台所からは慣れたリズムの包丁の音、トントントンと、整った・・・そのうち、お出汁の香りが・・・私の空いた胃にまで染み入ってきた。・・・やがて、どこか遠くで、夕暮れの時報を知らせるメロディが、夕焼け小焼けが、聞こえてきて。・・・
…これ以上ここに居たらダメだ、あなたが帰って来るかもしれないと気付いて、立ち去ったの。
・・・私は行く場所を失い、死のうと考えた。もうそれしかない。・・・歩きながら、海の方へ・・・目では、もっと手っ取り早く、すぐに部外者でも上れそうな屋上のあるビルを求めて・・・
でも、迎えの車が来て・・・
・・・それで、私は私の居るべき場所にまた戻ったの。自分が必要とされてる場所へ。いつもの。・・・そこでは、みんなあなたの事を前から知ってて私にだけは黙ってくれていたのね。心の逃げ道だけは奪ってはいけないと。仲間達の、私への愛情を感じた。事務所に戻ると、誰も何も聞いて来なかったけど、私があなたの新しい住所を突き止めそこへ行ってみた事、何か見て帰って来た事に、みんな薄っすらと勘付いてるみたいだったわ。でも逃げたことは黙殺してもらえ、・・・客と客の間の移動の途中に送迎車と行き違いがありちょっと遠回りして寄り道してる間に道に迷ったとか、何とか、そんな風な扱いにしてもらえたの・・・そして・・・また働いた・・・それからは働くことだけが生きがいになった。あなたとの事は私の思い出に・・・大切な・・・」
ユキの言葉が詰まり、鹿嶋君も声が出ず、頷いた。
(僕には耐えられない修羅場をこの人はいくつも耐え抜いて来たんだ、…)と鹿島くんは思った。
ユキの目に落ちそうな涙が溜まっていた。目を逸らし、俯いて、見せずに捨てるように下へ雫を落とした。
「一つ、お守りを持つようなものだった。辛い事があるたびに、そっと、心の中で開いてみるの。私にも、もう一つ別の人生があったかもしれない事。あなたと過ごす生活。語られるほどのドラマはなく平凡で静かな別の物語。それはスノードームの中に封じ込められ、綺麗で、変わらなくて、神聖で、・・・いつ見ても、辛くて、でも和むの。ずっと同じなのに、見飽きることが無い。
・・・だけど普段は、箱に入れて蓋をして、目に触れないように何層も地下の心の奥底にしまって置くの。誰にも気づかれないように。気付かれたとしても取り上げようのない物なんだけど、でもね。それでも、自分の目にもあまり触れないようにしておかなくちゃ。過去を振り返ったり、手に入らなかったものの事ばかりいつまでもぼんやり考えて、今目の前にいるお客様を蔑ろにはできないから。・・・今目の前に居てくれる人を大切にしないと・・・例えそれが行き擦りの人々であっても、名前も身元も何もかもが嘘でも、とにかく今だけは、私との時間を買ってくれてる相手なんだから。私の人生はそういう、継ぎはぎの積み重ね、その場限りを積み木してなんとか成り立って来たんだから・・・」
鹿嶋君はたまらず、相手の寂しげな肩を抱きたかったが、このまま触らせてくれるものかどうか、触って良いのかどうかが分からなかった。
「ところで、きみの料金は・・・?」
ユキがビックリし大きく目を見開いて顔を上げ、鹿嶋君の顔を見た。素早く彼女の目の中に複雑な心理がマーブル模様を描き、それから、笑みに落ち着いた。
「無料よ」
「触って良い?」
「触って。私もあなたに触りたい。良い?」
「うん」
二人はそろそろと手を伸ばし、にじり寄り、相手の体に触れ、両腕を巻き付け、胴を押し付け合い、蔓草同士が出会ったように、凭れかかり、きつく抱き締め合った。ギュウウ…と。
長過ぎた離れ離れの時を飛び越えて、互いの体の香りを吸い込み、背中を手のひらで擦った。
「寂しかったね」
「うん。本当に、寂しかった。・・・奥様の事は私がやったんじゃないと信じてくれる?」
鹿嶋君は頷いた。
「時々あなたの事は考えたけど、一度しか家の前まで行ったことはないの。事件の事はニュースで知った。それで少し私も調べてみたの。これは憶測でしかないけれど、彼女、あなたの奥様ね、過去に一緒に働いていた友達の必死の懇願を断り切れず、ちょっとした出来る事にだけ手を貸してあげようとしたんじゃないかしら。例えば、お昼間に、喫茶店とかどこか安全そうに見える場所で、その友達と一緒に、切りたい客に一緒に会ってくれとか頼み込まれて。・・・友達も客の役の男とグルだったとしたら、飲み物に何か混ぜられて意識混濁のうちに担がれ、車にでも乗せられ、どこへでも簡単に連れ去られたでしょう。一時間もしないうちに、嫌な写真や動画を撮られ、その日のうちに家に帰されたら、あなたにも分からなかったかもしれない。人気のある女の子ほど急に辞められたりすると、過激な手法で連れ戻そうとする動きは必ず起こる。そういうものなの。”お城”ほど巨大な組織のトップから見れば、一人二人の女の子が急に辞める程度の事は些細な黙殺すべき事とされていても、現場からすればそうじゃない。直属の黒服やらその上からの圧力やらがかかって、金の卵を産む鳥は血眼に捜索され、一度足を突っ込んだ沼が頭まで沈めようとどこまでも追いかけてくる。連中は力づくなの。有無を言わせない。見つかったら、終わり。こちらに選択肢はない。人権もへったくれもない場所へ連れ戻される。
・・・私の時だって、そうだったの。・・・
・・・あなただって、仕事でへとへとに疲れて目を開けてるのもやっとの状態で家に帰ってくることも多かったでしょう、・・・昼間奥様がゆすられたり、何か強制させられていたりしてても、本人があなたに必死に隠そうとしていたなら、気付けなかったんじゃないかな・・・」
鹿嶋君はどこに向けようもない怒り、悲しみが込み上げ、何も言葉に出来なかった。ただユキをギュウッと更にきつく抱き締めるばかりだった。強迫観念のように子供を欲しがっていた妻の遺品から何故か避妊薬の新しい処方箋が出て来たのを、あの当時の混乱と恐慌の最中にもふと不可解に感じた刹那が蘇った。
「きみ達の仕事は危険過ぎる・・・」
「懐に抱かれてしまえば安全なの。」
鹿嶋君はユキの体から手を放した。
「・・・こんなところで話してるのも、寒い。中へ入ろう」
ユキは屈んでブーツを脱ぎながら、モゴモゴ言った。
「ゆきさんは清廉な人だったのでしょう、あなたを護るために自分の命を消したのなら。あなたはそれほど愛されてたと言う事・・・だけど、これは私の憶測でしかない。命を賭してまでも封印したがった死者の秘密を暴いてやろうと言うんじゃないの、ただ・・・」
「もういい、誰かに殺されたのかとか、自分で自分を殺したのかなんて、今はどうでも。とにかく妻は死んでしまった。きみと違って、行方が分からないまま死んだのではない。僕の手の中で死んだんだ。きみがあの子の死に関わってないと言うんなら、今は話したくない。あの子の事は」
ユキは頷いた。
「あの後はすぐにあなたは国外へ出張に行ってしまったでしょう、」
「志願したんだよ。会社もちょうど僕を飛ばしたがっていた。」
「飛行機では隣に座ってたのよ」
鹿嶋君は廊下の途中で立ち止まり、ユキを振り返って見た。
「そうなの。私はもう一度、仕事を抜け出し足を洗うチャンスだと思って、あなたと同じ便の飛行機のチケットを手に入れたの。そのためには凄い犠牲を払って・・・言いたくはないけれど、後戻りの利かない最後の・・・
・・・でも、声がかけられなかった。意識して引っ込めていなくちゃ肘が触れ合ってしまうほど狭い座席に隣り合って何時間も押し込められて座っていたのに、あなたの目に私は微塵も映らなかった。まだ全身全霊を込めてゆきさんを弔っている最中のあなたに、話しかけることは出来なくて、やっぱり、私は、また戻ったの。私の居るべき場所に。あなたの背中を見送り、メルボルンの空港から出もしなかった。一つだけ、私の恋の終わりの記念にお土産を買って、すぐに引き返す便に乗ったの。」
「それ、本当?」
「作り話をしてるように見える?」
「いや、でも・・・あの飛行機で・・・?・・・僕はじゃあ、何を見てたんだろう・・・」
「窓の外よ。あなた雲ばっかりぼんやり眺めていたわよ。時々、窓ガラスに映るあなたの目と目が合ってると錯覚した。何度も。でも全部が私の思い違いだった。あなたは現実に目の前にあるものなど何も見えないらしかったわ。美人の客室乗務員に力いっぱい肩を叩かれ、目の前に差し出されたメニューからビーフを選び黙って機内食を食べ、また窓の外へ向いてしまった。ちょっとだけウトウトして、魘されて、目を覚ましてからは忍び泣いてるのを、横目に盗み見ちゃって…。心痛くて、私に気付いてなんて声をかけられる状況じゃなかった。とてもとても・・・
・・・あの頃の事はバタバタで断片的にしか思い出せないんでしょう?あなただって疑われていたものね?第一候補の容疑者として、刑事さん達から」
「・・・凶器がまだ出て来ないままなんだ・・・」
「・・・」
「・・・」
寝室の方で、微かに物音がした。誰も居なくても空間が立てる軋みみたいな、わずかな物音が。まるで死んだゆきの魂が塵になって舞い落ちてき、いつの間にか部屋いっぱいに満ちているかのようだった。
「この話はやめよう。本当に」あの午後の凄惨な情景、生々しい血の匂いが鼻腔に蘇って来る気配がした。
「うん。」
ドアに鍵をかけ、ユキの手を引いて廊下を進もうとした。しかしユキに引っ張られ、その場で向き直ってまた彼女を抱き締めた。吹き抜け一新された風が閉じ込められ、ユキが今使っている香水の香りが溶け出して、馴染み広がっていく気がした。
「男の一人暮らしの匂いがする?この部屋、臭い?」
「あなたの髪の香りがする。懐かしくて良い匂い。シャンプーを変えてないのね」
「本当に?気を遣って言ってくれてるんじゃない?」
「大好きな匂いよ。私にはずっと。」
ユキは鹿嶋君のシャツの襟元に冷たい鼻先をグイグイ押し付けてスンスン嗅いだ。小犬みたいに。
「ずっと嗅いでいたい匂い」
「そうかなぁ」
「私にはね。他の人にはどうか知らないけど。」
「・・・ふうん、なるほど・・・」
「・・・」クンクン。スーハ―。
「そんなに嗅いだら僕から匂いが抜けちゃうよ」
「そんなことはないんじゃない?」
鹿嶋君は自分もユキの髪に鼻をくっつけた。「・・・きみも良い匂いだよ」
「えっ!?ダメ!あなたは息を止めてて!」ユキはパッと離れ、鹿嶋君は思い出した。前にもこんなことをしていた。よくこう言う事をしていた。彼女とは。懐かしさが洪水のように押し寄せる。全然、さっきの女の子とは大違いだ。あの子は他人。若くても綺麗でも、知らない人。それに比べればユキは・・・家族ほどにも親密な近しい女性だ。どんなに長く遠く離れていようと。
「きみはいつも狡いんだよなぁ、俺の匂いは嗅ぐくせに自分の匂いは嗅がせない・・・」
「私は、・・・仕事をして来たから・・・」ユキが言葉を選んで言った。
「え、・・・あ・・・そうか・・・今日も・・・?」
「いいえ。でも、朝から動き回ってたから・・・」ユキはキョロキョロして、浴室を見付けた。
鹿嶋君は寝室の方へユキを誘おうと手を引っ張ったが、ユキは浴室の方へ黙って引っ張り返した。
「もうそのままで良いよ・・・」
「ううん・・・」
やっとやっと会えたのだしこれからすることは彼女も承知のうえで、もう待ち切れないと言いたいところだったが、引っ張り合いがじゃれあいの域を越え彼女の踵が否応なく宙に浮き引き摺られだすと、腕の中でユキが「いや!」と大声をあげた。ハッとして鹿嶋君がちょっと力を緩めた隙に、ユキは飛び込むように浴室へ逃げた。
「分かった分かった!」鹿嶋君は浴室の中に着衣のまま立つユキを手招いた。「居間のラグソファ(指をさしても示した)あそこで、タバコでも吸って待ってて。浴槽を洗うよ。お風呂を溜めて浸かろう。きみの体、凄く冷えてる・・・」
ユキもちょっとチラリと壁のタイルを見やった。まださっきキミちゃんと鹿島くんが使ったシャワーの水しぶきで床も壁も濡れている。泡も残ってる。
「掃除道具はどこ?私やるけど・・・」
「いいって。きみは座っててよ」
鹿嶋君がいそいそ腕捲りし屈んでズボンの裾も捲り上げ何だか意気込みが感じられるので、ユキは彼の言葉に甘えることにした。浴槽をゴシゴシ擦る後ろ姿をしばらく眺めていてから、居間へそっと入って行った。彼の吸った煙草の香りが漂う。深呼吸・・・コートを脱ぎ、あそこに座っててと指定された場所へそろりと腰を下ろした。正面には何も映ってない大きなテレビ画面、ローテーブル、壁沿いに本棚、その上の壁にかかったカレンダーは12月のままだ・・・
鹿嶋君は不思議な感覚だった。新鮮でもあり懐かしくもあり。布を被せ隅の方に押しやって裏を向けて壁に立てかけていた描きかけの夢、忘れ去っていた古いデッサンが勝手に色付き、次々に鮮やかに、埃を払われ、瞼の裏に蘇ってくるみたいだ。
高校の終わり頃から同棲を始めた家では、ユキと毎日一緒に湯船に浸かっていた。ユキはお風呂に浸かるのが大好きで、湯に浸かっている彼の体をジロジロ見たり体や頭を洗ってくれるのも好きらしかった。長風呂が苦手な彼は今とは逆に、煙草を吸いながら暫くソファで待っていて、ユキの呼ぶ声が浴室から響いてきたら、服を脱いで一緒に湯に浸かりに行った。寒がりな彼女は一旦浸かっていた浴槽から出て来て、服を脱ぐ彼を満面の笑みで見詰めながらシャワーの中で待ち構え、両手のひらにボディソープやシャンプーを付けひんやりする彼の肌に自分の温もった肌を押し付けてき、「冷たい!」とかキャアキャア騒ぎながら抱きついた全身でもう一度また自分も泡だらけになって洗ってくれた。つるつる滑ってすべすべ触り合って良い匂いがして気持ち良くて綺麗になれて・・・
あの楽しいお風呂の時間をこれからもう一度体感できるのかと思うと、鹿嶋君は知らず知らず口元が綻んでいた。
「ねえ」
すぐ後ろから急に声をかけられ、ヒャッとビックリして、振り返ると、ユキが片足立ちしてストッキングを脱いでるところだった。
「居間は寒くて。私もお風呂洗い手伝うよ。私、タバコは吸わないし」
煙草を吸うのは由貴だ。なんで間違えたんだろう、この薬中歴を持つユキは普段は健康オタクなんだった。
「きみはあっちで座って・・・」
「もう待ちきれないの!一緒に入ろ?だけど、あなたから先に脱いで」
鹿嶋君は濡れないよう折り返していたズボンの裾を屈んで元通りに戻してから、服を脱ぎ始めた。ユキも彼が脱ぐのを見ながら自分のワンピースをゆっくり脱いだ。
「何か…恥ずかしいもんだなぁ、裸を見られるのは」
「当たり前でしょ」
「きみも?」
「・・・長い時間が経ち過ぎたから・・・」
アルバイトを掛け持ちして日夜力仕事に明け暮れていた頃は筋肉も隆々、我ながら男らしかったと思うが…鹿嶋君は臍に力を入れてお腹を引っ込めながらTシャツを脱いだ。腹筋に力を入れ続け。さてこれがいつまでもつか…
ユキも胸やお腹やお尻や二の腕やら気になるところは随所にあった。しかし自分の方が人前で裸になり慣れている。この体が一番綺麗だった時期だけを記憶している鹿嶋君の前で今更また裸になるのは恥ずかしいけれど、彼女はやりようを少しは彼よりも心得ていた。
「明かりを消すね」
「何も見えなくなっちゃうよ!」
「脱衣室の明かりだけ点けて間接照明にしよ?」
職場ではキャンドルを使う事もある。30を過ぎてから昔先輩が話してくれていたアドバイスを思い出したのだ。(揺らめく炎と壁に拡大された影が全ていい風に誤魔化してくれるの)(大切なのはムード)(私達はもともと誰かの代わりでしかないの、まやかしそのもので良いのよ・・・)(相手が見たいものを見せてあげるのよ、ありのままのくたびれたあたしじゃなく)・・・
「鹿嶋君」スイッチに手を伸ばしかけた彼に彼女がピシャリと言った。「目を潰すよ?」
「ごめん・・・」
鹿嶋君は一旦は引き下がった。しかしすぐに、泣きそうな情けない声を出してみせた。
「でも眼鏡を外すと本当になんにも見えなくなるんだよ!」
「じゃあ、仕方ないな、眼鏡だけかけてていいわよ」
眼鏡は瞬時にして曇った。まるで顔の前に分厚い雲をぶら下げてキョロキョロ目を凝らしてるようなものだ。それでも不安症みたいに鹿嶋君は眼鏡をかけて風呂に入った。こんな事ならコンタクトを仕入れとくんだったのに!
ユキの手が彼を優しく誘導し、シャワーの温かい雨の中に引き込んだ。ボウッと突っ立っているだけで、身体ごとすべらかな石鹸そのもののようなユキの肌がピッタリと密着し、モチモチと彼の硬い体で押し潰され、そのまま横へスルスル滑り、彼の体中に腕が伸び指が絡みつき解け、窪みと言う窪み、突起と言う突起を泡で包み、くすぐり、陰毛を指で梳いた。
「腕を上げて。…はい、じゃあ今度はこっちの脇の下も・・・
もっと足を広げて立って。・・・そう。・・・リラックス・・・くすぐったい?ごめん・・・
じゃあ、今度は座って。私の膝に足を置いて。・・・逆の足も。うん・・・」
言われるままにしてるだけで、身体の力が抜け、凝りがほぐれ、体表の汚れと共に体内に溜まっていたどす黒い疲れまでもがどんどん湯に溶け出し洗い流されていくようだった。
「きみは素晴らしいね」しかしそう言った自分の声が如何にもオジサン臭く反響した。ユキを褒め称える数多いるオジサンの一人に過ぎなく感じさせた。
「あなたの体が素晴らしいわ」ユキは鹿嶋君の煩悶を吹き消す甘い声で耳のそばで囁いた。
フフ、と笑い、「言おうかな、どうしよう・・・」目も見えず鹿嶋君は苛々とユキの体を手探りし両手で脚の付け根とお尻を捕まえた。
「何?言えよ」
「私はレーシックしたの。だから全部よく見える・・・」鹿嶋君の胸が撫でまわされ、その手が下に滑り落ちるかに見えて、腿に逸れた。それから急に口に含まれた感じがした。
「あっ!おい」
フフ…、「やりたい放題♡」ユキが自分の行為に命題を付した。
湯船に浸かると、曇り眼鏡も湯につけてはまた鼻にかけることによって、鹿嶋君もいくらか断続的に視力を取り戻すことができた。二人は向かい合って湯に浸かった。脚を相手の腰の向こうで組んで下腹をくっつけ合わせ、腕で胴と首に巻き付き、肩口にひんやりする鼻先を埋め合った。少し身じろぎしただけで波が二人の体をふわふわと引き離したりまた寄せ戻したりした。微かな肌と肌の擦れ合わさり方が快かった。
「・・・ふうぅ・・・ちょうどいい温度!」
「僕にはちょっと熱いよ」
「本当?」
ユキが腕を伸ばし、シャワーの湯に水を多めに混ぜて鹿嶋君の頭の後ろに降りかかるようにしてくれた。
「嗚呼、良いなぁ、凄く気持ち良いよ。これで・・・」
「いつまででも浸かって居られそう?」
「まぁね・・・限度はあるけど・・・」
ユキの背中を支えるように添えられていた彼の手が下へ下へと移動し、お尻を掬い上げ、更に奥まで進もうとする。ユキが手首を掴んで止めた。するともう一方の手がスルスルと移動を開始し、乳房の一番天辺のとんがり部分へ指を伸ばし始める。「もお」ユキは鹿嶋君の腿の上で身を捩じって逃げ回った。
「ここじゃ危ないから!だめ!」
「なんで?俺にも触らせろよ?」
「私だけ良いの!」
「ズッル!」
「だってあなたの触り方、ガサツで痛いんだもん」
鹿嶋君がショックを受けて茫然となっている間に首の後ろで手を組まされ、ユキだけペタペタと彼の体をあちこち確かめるみたいに触った。湯の中で小さな両手が可愛い二匹のすばしこいヒトデみたいにひらひら動き回り、色んな場所で押したり引っ張ったり抓ったりしてみている。ユキは湯の中にゆらゆら揺蕩う真っ黒い海藻みたいな鹿嶋君の腋毛が特に気に入ったらしく満面嬉しそうにニヤニヤして「腋毛~」と言いながら指に絡めて遊んだ。
これじゃ俺には面白くないなぁと鹿嶋君はしばらくムッツリ拗ねていたけれど、ユキがやたら嬉々としていつまでも楽しそうなので(まぁいいかなぁ)と思い直した。膝を揺すってユキの体を底からグラグラ揺らし大波を立ててキャアキャア叫ばせ、(まぁ好きに触りな)と諦め、目を閉じた。鹿嶋君が諦めてしまうとユキもやっと飽きてきて、頬に頬をぎゅ~っと押し当て、凭れかかってきた。
自分の胸板と彼女の体の間で押し潰される二個の柔らかい桃みたいな胸を感じた。押し付けられる硬い粒の二個の種みたいな先端の感触もある。両腕で締め上げるように抱き付かれ、鹿嶋君も腕をおろして彼女の体に巻いた。二人はゆっくり揺れ、それから動きを止めて、反復する波の揺れに身を預けた。
湯気もうもう、なんにも見えず、左の肩でユキの息遣いを感じとる。下手に手を動かしたらまた怒られるので、ずっとすべらかな背筋を撫でていた。これが案外ユキには気持ちが良いらしかった。
「もう点検はしないのね?」
ユキの言葉で鮮やかに思い出した。
付き合いたての頃、どうしてもまた”城”での仕事を再開しなければならないと言われ、(『なんでだよ?きみに働いてもらいたくなくてこっちが必死になって頑張ってるのに』『お金のためじゃないの』『じゃ何のため?』『忠誠を誓ってる人がいるの。女の人よ。母親よりも濃い繋がりの私の育ての親なの。これを最後の仕事にするから』・・・)厭々彼女をまた働かせていた時期もあった。その時は風呂の中で帰宅した彼女の体を隈なく点検していた。ユキの繊細な肌はスフレのように柔で、赤い痕を残しやすく、腰や胸に荒っぽく扱われた爪の傷を付けられて帰って来られた日にはユキ本人よりもこちらの方が心の底から落ち込み、辛く、傷付けられた。涙を流してわぁわぁ泣き出したいほどだった。
苦い気持ちが蘇った。
ユキに鹿嶋君の体内に溢れ出した悲しみが伝わったように、彼女の抱き締める力が強くなり、もどかしげに揺さぶった。
「仕事中、誰かに付けられた傷なんて私には大したものじゃなかったの。それは数いる誰だか分からない客の中の一人に付けられた体の表面の擦り傷に過ぎない。仕事してたら多少の怪我くらいはいつの間にかしてるものでしょ、あなただってよく割れたガラスやらカッターやらで手やら脚やら切ったり打ったりして帰って来てたじゃない。『何しててこんな痣になったの?』って聞いても、『さぁ、分からない、』・・・『いつ怪我したのかも分からないの、痛っ!今切ったなってちょっとくらいも思わなかったの、』って聞いても、『う~ん、放っとけば治ってるさ。いつの間にか』…って。そんなのと同じ。
私だって、こなさなければいけない業務を必死になってやり過ごし、後から鏡を見て気付くことも多々あった。凄く嫌な暗い気持ちになった。
だって、私なんかよりもあなたの方が悲しがるんだもん。
でも私から言わせてもらえば、私を一番深く傷つけられたのは、いつもあなただった。あなたの何気ない一言で私の存在全部が脅かされ、揺さぶりをかけられ、あなたに嫌われる不安、捨てられる恐怖に、常に支配されていた。どうでもいい客から何を言われようが、どんな目に遭わされようが、あなたさえいてくれれば私にはどうと言う事もなかった。屁みたいなやつらが屁みたいなこと言ってるわ、ってなもんよ。でもあなたから『あれ?』って、背後から言われただけで、もう私はビクッと縮み上がってた。何か決定的な穢れを見付けられたんじゃないか、これで嫌われ捨てられるのか、って・・・
あなたの存在は私の心の支えだった。その人を傷付ける仕事をしていて私だって平気でいられるわけがなかった・・・あなたが悲しめば、私だって悲しかった。あなたのためだけの体じゃない自分の体が気持ち悪くて、嫌でたまらなくもなったし・・・
・・・心の傷の方が深く残り、治りにくいの。記憶と共に、いつまでもここにあって(ユキは自分の心臓を指差した、)目には見えなくても、何度でも傷口が開いて血を流す。思い出すたびに・・・
仕事中にまた会う事もないお客さんから手荒にやられて目立つ箇所に傷を付けられちゃった日には、傷跡が消えるまであなたのもとに帰れなくて、泣いて過ごした数日もあった。そのまま職場に泊っていたの。何故帰って来られなかったのか、あの当時は打ち明けられなかった。ふらっと戻って、へらへら笑って誤魔化すことしかできなかった。正直に言えなくて・・・
ごめんなさい…」
「きみは何をやってたんだ?一体・・・あの当時・・・」
「密偵よ。どうしても私が行かなくちゃいけなかったの。母のような人からの頼みだったから・・・他の子じゃできない仕事があった。あなたを巻き込めなかった・・・」
「密偵って・・・」
「貴賓室に出入りできるのが限られたキャストだけだったの。そこまで潜り込めたのが私一人だけだった。ママの・・・私を拾って育ててくれた人からの最後の頼み・・・県警トップとの繋がりを保つ事・・・それから別の案件でも・・・」
「県警・・・?」
「当時のね。今も生きてたらこのことは喋れなかったけれど、彼はお亡くなりになったから・・・でも口を滑らさないでね。絶対よ」
鹿嶋君はユキの真剣な目に射られた。親指と人差し指で、唇の上下を摘ままれた。
「うん・・・」
くらくらしてきた。のぼせてきた。
「・・・もう上がっても良い?このままじゃ体が全部汗になって無くなりそうだ」
「私も汗になれそう。溶け合えるね」
「上がって良い?死んじゃうよ」
「うん。良いよ」ユキは残念そうながら組んでいた脚を解き、彼の膝の上から滑り降りて狭い浴槽の中に立ち上がるスペースを空けてくれた。一人で湯に浸かったまま、鹿嶋君が外に出てシャワーで流し、タオルをとって全身を拭くのを、とくと眺めていた。
居間に戻ると、なぜ彼女がここで待ち切れなかったのか、灰皿を見て理解した。桜色の口紅の付いた吸い殻でいっぱいになっていた。今更ながら、慌てて片付けるも、後からすぐ風呂を上がってきたユキにからかわれた。
「良いじゃない。あなたを好きな人がいっぱいいて。私はそんなこと平気よ。魅力に溢れてるんだから当然のこと。全く1mmも、なんにも思わないわけじゃないけど・・・」
「いや、これはさっきの子のかも知れない…」
鹿嶋君は一回限り呼んだだけのユキの店のキャストさんに罪を擦り付けようとしたが
「あの子のじゃないわね。彼女は喘息持ちなのよ」
嘘は瞬時に見破られた。
(ねぇ、鹿嶋君。あなたのことで私の知らないことがあると思ってる?私はあなたのことを誰よりもよく知ってる。あなた以上に知ってるかもしれないくらい、よく知ってるの・・・)
ユキの笑みに含みがあるのを彼は感じとった。
「私が筆おろししてあげたあの坊やも20年でプレイボーイになっちゃったのかぁって、ちょっと思っただけ」
鹿嶋君は急に思い出した。
「きみは僕と同窓生だったんだ!何故あの頃すぐに教えてくれなかった?後からクラス名簿を見せられたんだぜ、嫌な奴から・・・何て名だったかちょっとすぐには今、出てきそうにないけど、ねちねちした奴だよ。俺よりきみのことをよく知ってるとかぬかしてきやがったぜ!あいつ!」
「ああ」ユキは鹿嶋君が名を失念した同級生が誰だかに思い至ったしその男子生徒の名前を記憶してもいたが、口に出しはしなかった。
「きみは同じクラスにいたんだ・・・1年の時と3年の時に・・・写りが別人みたいに見えるきみのクラス集合写真を見たよ!きみは年上のどっかの大学のお姉さんなんかじゃなかったんだ。同じ高校の同じクラスで、巧妙に映らずに済ませられる学生生活風景とか卒業旅行の写真には1枚も写っていなくて、名前も借り物だった!それに卒業前に辞めちゃってた!ちょうど僕と出会った頃ぐらいじゃなかったの?1日も登校しなくなったのって・・・?三年生の卒業アルバムでは五人、生徒が減っていた・・・そのうちの一人だったんだ、きみは・・・」
「あなただって私との生活のために進学を諦めたじゃない?そのせいで生家とも縁を切られたでしょ。隠し通したつもりかも知れないけど、私は当時から知ってた。今更謝っても、もう遅いし、ごめんで済む話じゃないのも分かってる。でもあの時は私もあなたに必死にすがって生き方を変えようと・・・」
「聞いてるのはきみの高校の時の話だよ!一体何しにあの高校へ潜り込んだんだ?あの地味で何の変哲もないただの県立の高校に一体どんな大物の子息とかが紛れ込んでたの?きみの闇の巨大組織が組織ぐるみで陥落しなくちゃいけなかったような・・・」
「ただの登校日数不足。辛うじて三年生にはなれたけど、もうほとんど最後の1年は勉強どころじゃなかったの。誰のことも陥落しようとなんてしてない。ただ・・・普通の女の子のやってることを私も真似してやってみたかっただけ。でも諦めたの。それだけのこと」
「でも・・・そうなの・・・?」
「そう。あの学校へ行きたかったのは何の変哲もない普通の普通の高校だったからよ。私は普通ってものがどんなものなのかを試しにやってみたかったの。生まれも育ちも一般的な自分と同じ年頃の女の子達がどんな生活をしてどんな話題に笑いどんな夢を持ってどういう遊びに夢中になったりするのか、紛れ込んで一緒になって学生生活と言うものを満喫してみたかったの。でも・・・
・・・今更もうそんなことどうでも良いじゃない・・・ベッドへ行きましょうよ」
「でも何故・・・何故あともうちょっとで卒業だったのに・・・」
「何故卒業しなかったのかって?そのもうちょっとが凄く・・・どうしてもきつくて、無理だったの。結局・・・未来が決まってたからかな・・・普通の子みたいに毎朝学校へ登校して普通の将来を思い描いてみたいって思って中学から通い始めたけど、何か・・・飽きちゃったのかな・・・それに高校からもっと仕事が忙しくなり出し、クラスの他の女の子達との世界観の違いにも絶望した・・・学校では誰とも話が合わなくて、やっぱり職場の同僚と喋ってる方が居心地が良い事を再認識したの・・・」
ユキも思い出してきてしまった。同じクラスの女生徒のお父さんを相手に仕事を受けてしまっていたことに後から気付いた一年生の終わり。翌年には、”お城”で働く同僚の困った顧客が前年同じクラスだった男子生徒の兄だと判明した。そのうち”城”の中で誰かの母親に出くわすかもしれない、教授が紹介等で自分を指名して来店するかもしれない、同じクラスの男子生徒と直接職場で顔を合わせるかもしれない、・・・そんな不安が日々増す中で、この先一般的な就職もすることはない自分が、ここに居る意味は?と授業中常に思われ出し・・・
(周りの子達への羨ましさで、潰れてきてもいたんだった・・・)苦い思い出を掘り返してしまった。
(勉強は楽しかったけど、宿命的に定められている仕事はもう変えようがない・・・この先、大学に進学したとて、どこか別の社会へ就職したり転職して今までの仕事から逃げられるわけでもない。自分はどこへ向かおうとしてるのか・・・何やってるんだろう?こんなところで・・・?)
現役高校生の証明手帳はブランド力もあった。授業中、職場からLINEで放課後の仕事のスケジュールがどんどん過密に埋まっていく報告を受けた。机の下で携帯を確認するたび溜息が出た。
『18時30~20時50分、Nさん。』
『21時~23時のAさんの予定、丸ごと時間とコース内容そのままでB氏に変更。3倍の額を余分に積まれちゃあ断れないよね!Aさんにはあなたは体調不良って言ってあります!その旨よろしく!』
『ビックリ!B氏のまたまた3倍積んでくるのが居たので再変更!C君。時間・コース内容そのまま。B氏にもあなたは体調不良って事で!稼げるときに稼ぎましょう!』
『お願い!!25時までのシフトとは分かってます、が、重要人物からのご指名!!10分休憩を5分休憩に切り替え、何とか枠を設けましたので!ここは気合で受けましょう!!最悪明日は学校休めばいいから!!お願いします!!M先生。』
お金お金お金・・・店にとっては私はお金を生む独楽かぁ・・・、回せ回せ、回れなくなったらゴミ箱へ捨てろ、ポイ。・・・お客さんを選ぶ基準も、全部お金お金お金・・・他に無いのか・・・、嗚呼、・・・しかし学費もお金、奨学金も今年度で打ち切られた・・・自分で稼がねば・・・お金を必要としてるのはお店だけじゃない、自分もだ・・・ママ・・・嗚呼、・・・ママの店にもしばらく顔を出せてない・・・あの人の良い笑顔と細くてしっかりした腕に抱き締めてもらいたい、頭を撫でてもらいたい、小さい頃みたいに・・・だけど・・・いつ会える?・・・どこかで休みを取らなければ会えない・・・毎日報告は入れてるけど、直に会いたい、でも・・・休めない・・・休んだらその分お金が稼げない・・・お金お金お金・・・あんまりママに甘えて出して貰ってばかりも悪い・・・嗚呼、・・・学校を休もうかなぁ・・・ダメだ、何のために頑張ってきたの?今まで・・・何のため?・・・何のためだったっけ、・・・虚しいな・・・でも頑張らなくちゃ・・・いつまで・・・?でも頑張らないと・・・嗚呼、・・・嗚呼・・・1回で良いからゆっくり眠りたい・・・ちゃんと考えなくちゃ、でもちゃんと考えるほど・・・虚しいなぁ・・・
・・・良いなぁ、クラスの他の女の子達は・・・
・・・
「ねぇねぇ、鹿嶋君・・・!」
ユキはこの上なく甘い声音を使った。
「お喋りは後にしましょう?」
ラグソファの背凭れの後ろ、細く隙間の空いた襖の向こうに、ベッドが見えた。ユキは鹿嶋君がもっと何か言い出す前にスルンと先に彼の寝室に入った。
ここにも彼の香り。濃密な。彼の髪と煙草と・・・ユキには瞬発的に分かった。本能で。
成熟した大人の男性のフェロモン(それもずっと好きだった人の)がこの部屋の空気には特に濃く含まれており、それが呼吸によって取り込まれ、肌にも付着し、自分の体内で性衝動をカチッと作動させる。自分は発情する。
さっきからのがほんの下火に思えるくらい。火薬庫でマッチを擦るようなもの。誘引物質まみれで、引火、爆発が起こる。否、マグマの噴火と言った方が近いか・・・
「鹿嶋君・・・」息が掠れて声もろくに出ない。脚を広げてベッドに腰を下ろし、タオルをわずかにずらして、腿に伝う切なく熱い蜜をそっと見てもらった。
彼の熱い息が顔にかかったと思ったら、・・・
ユキと繋がり一つになれた途端、(嗚呼、ダメだ、もうもたない!)とハッと気付いた。この頃はそんなことなかったのに!まるで16歳の頃に戻ったような心に連動し、体まで若い頃に戻ってしまったみたいだった。(きみのことが好きすぎて・・・)
「どうしよう、もう駄目だ」ユキの目を見てそう言った途端、ズンと深部に脈動が突き上げ、勝手に始まり、止めようがなく、終わってしまった。射精してしまった。恥ずかしく、悔しく、何故なんだと不思議で自分に腹が立つ、情けない気分。
「まだ。このままでいて・・・」背中に回された細いユキの両腕がぎゅうっと締め付け、さらに両脚でも鹿嶋君の体が離れるのをギュッと防ぎ閉じ込めた。自分の体重で彼女を押し潰さないようにと遠慮していたのが、ユキが下腹をさらに強く押し付けてしがみ付いてくるので、むしろ彼女の体の重みを感じた。彼女の尖った胸の先端が擦れ、喉が仰け反り、ひゅぅっと息が吸い込まれ、鹿嶋君は彼女の痙攣をハッキリと感じとった。吸い絞られるような感覚。
「離れないで!まだ・・・」
抱きつくユキの力がふーっと抜けかけるのを感じ、身体を放そうとしたのだが、それを感じとりすぐまたユキが力を籠め直した。ひしと抱き付いてくる。
「抱き締めたままでいて!」
「重たくない?」
「全然。もっと力を抜いて!」むしろ怒ってる口調だ。じれったそうに身悶えして。
「きみが潰れちゃうよ?」
「潰して!」
「・・・」ユキに乞われるまま、鹿嶋君はそろそろと体の力を抜いていき、自分よりもはるかに華奢な彼女の上に慎重に身を委ねてみた。すぐに折れてしまいそうな鳥のような骨組みを体の下敷きにして、危なげ。ぽきんと言わせてしまったら一大事である。しかしユキはしなやかに微かにもがいて受け流し、互いがゆったりと凭れ合って力を抜ける位置を定めた。相手の骨に自分の骨が食い込み、それでも痛くない場所。うるさい位の互いの鼓動、息遣いを全身に感じとれる。はあはあドキドキ。コクッと唾を飲み込む喉の音、相手のお腹の中で胃がコポコポ動く音。
「お腹空いてる?」
「…え?私?」
「今鳴ったのはきみのお腹じゃないの?」
「私お腹…空いてるのかな?私かなぁ?あなたのお腹じゃない?」
「多分きみのお腹が鳴ったんだよ。・・・今何にも冷蔵庫に無いなぁ・・・何か食べに行こうか?」
「ううん。このまま眠ってしまいたい」
「寝たら抜けると思うよ」
「抜ける?」
「これが」鹿嶋君は目で下を示した。「僕のが」
「そう?なんで?」
「寝たら小さくなると思うから」
ユキはクスクス笑い出し、鹿嶋君もつられてちょっと可笑しくなった。笑うと振動がまだ繋がり合っているところにも伝わった。
「抜けても構わないからこのまま眠りたい。起きた時もこの状態で目覚めたいの」
「しばらくこのままでいてあげるから寝たら良いよ、僕は眠れないよ、完全に気を抜いたら寝返りとかしてしまうだろ。目が覚めたら俺の下敷きできみが圧死してたら寝覚めが悪すぎる・・・」
(このまま眠ってしまって目覚めなかったら私には最高だけどな・・・)
ユキが何がそんなに面白いのか鹿嶋君にはちょっと不思議なくらいだったが、彼女がクスクス笑い続けでプクプク微動が続き、何よりもずっと最上級に幸せそうなのが分かるので、彼も楽しかった。
ユキは体内に留まっている鹿嶋君の一部分がまだしっかりと大きなままで、時折ピクッ、ビクンと動くのを感じてそのたびに更に可笑しかった。応えるように自分の膣も時々キュン、ギュッと締まる。
「ね、この子達もこの子達で、お喋りしてるみたいじゃない?」
アハハッ!と鹿嶋君は思わず大声で笑った。「久しぶりだね、って?」
「うん」フフフとユキが笑い、「元気だった?」「そっちはどう?」と突き合い、二人で面白がっているうちに、なんとなくもう一度揺れ動き始めていた。どちらからともなく。
目と目が見かわされ、もう互いに相手が笑っていないのが分かった。
「このまま?もう一度?」
「良い?」
ユキの目が閉じ、柔らかい唇が合わさってきた。それが了承のサイン。自分も同じ気持ちだと示す彼女なりの仕草だ。
鹿嶋君は二度目は自分の剣の暴走を抑えられ、色んな姿態のユキの姿を目の当たりにすることができた。後ろ向きにさせたり、脚を抱え上げたり、ベッドの上に立ち上がってトランポリンみたいにポンポン跳ねたりして。
昔の彼女は、もっと硬い印象だった。肌が張り詰め、胸もお尻も今ほどには柔らかくなかった。それに気持ちの面でも。昔の彼女は、何か、胸の奥底に秘めた大切な硬い脆い物があり、それを壊されないように必死に守ろうとしながら、合わせられるところで出来るだけ合わせてくれてるみたいな感じがしていた。自分もそれで、彼女の自分に向けて開かれる域を広げるようなつもりで、壊さんばかりの勢いで彼女を犯した。自分に対して守られている防壁を少しずつ打ち砕き、いつかは完全に無くしてしまいたいと、攻め込むような感覚。毎日少しずつ傷付け、修復されていくユキが自分により近くなりより似れば良いと思っていた。
でも今は、彼女は、柔らかく、ただ二人の行為の行きつく先を極限まで高めようとしている。恥ずかしがりながらも大きく開脚し、すべて受け入れ、何も隠し事などないかのように。
16歳の腕にユキを抱いていたあの頃、彼女の背後に何があるのかを全く知らず、それがどんな大きな逃れようのない深い闇かも気にすることすらできずに、ただ一対一の恋人としての行動をとっていた。
しかし今は違うのかも知れない。自分はユキの秘密の核心についに手が届き、それでユキはこんなに柔らかく温かく包み込み飲み込んでくれるのかも知れない。ひたすらに優しく。彼女の秘密は暴かれ、それを知った今も変わらずに受け入れて愛する姿勢を見せる鹿嶋君へ、ユキの心は底まで貫かれ一色に染め上げられたのかも・・・・
上に跨った時、ユキは自分が声を上げすぎないように、自分を律し始めた。彼がドンドン突き上げ、ジョッキーが振り落とされぬよう身を低く伏せしがみ付いたような姿勢をとった折、耳がちょうど鹿嶋君の喉元に擦れ、「んっ」と言う切ない甘い声が聞こえたから。
(まだいきたくなくて我慢してるのかな?もう少しこうしていたくて?・・・)ユキにはそう聞こえた。(セクシー!もっと聞きたい・・・もっと喘がせたい!)
胸と頬に触れてくる相手の両手を捕まえ、頭の上へ上げさせて、その両手の指に自分の左手の指を絡めて押さえ付けた。唇に口をくっつけ、舌を合わせ、激しく腰をくねらせた。彼の息が上がっていく、手足に力が籠る、彼の香りが香り立つ。
「ん・・・」また聞こえた!嬉しくて、ユキは自分の情熱も体温もまた一段と上がるのを感じた。痛くても構わない!彼の声がもっともっと聞きたい!どういう意味がある音なんだろう・・・?苦しげな表情の意味は・・・?
しかし聞いてみるのは後回し。息の続く限り加速し、息するのも忘れて加速し、熱烈に、びしょびしょに汗をかきながら彼の気持ち良いところを捜し回って貪り舌を指を這わせた。
嗚呼、溺れそう!なんでこんなにも良い香りなの?クリーム色の鍛えすぎてない筋肉質、日が当たらないところは私よりも色白。懐かしい、変なところに一本だけ生えた毛!思わず笑いそうになる。
(久しぶり!あなたも元気そうね!)
力を抜いていればグデ~っと柔らかく、力むと瞬間、ガチッと筋肉が盛り上がる。彼の上になると海の上、波の上に乗ったよう。
控えめにもがき始めていた鹿嶋君がちょっと本気を出して、指の縺れを解き、熱い手を腰に回してきた。ガッチリ抱き締めて彼女の動きを封じようとした。
「なんで?」執拗にさらに激しく攻め続けようとしながら聞いてみた。「苦しい?痛いの?」
黙ったままで鹿嶋君が起き上がり、まるで大波が小船を転覆させるのを止める術がないように、つかの間ユキはバランスをとるのに精一杯になり、気が付けばガッチリと体に腕が回されていて、自分がリードできる時間が終わってしまっていた。
「ゆっくりしようよ。今度は長く繋がっていたい」
やってやりたかったのに、私だって・・・ユキは動こうとしてみたが強い力に優しく抑え付けられた。体の大きな男の人に力を出されたらどうしようも太刀打ちできない。もう分かり切った話なので、悔しさもサッと切り替え、すぐに諦めも付いた。汗をかいた背中を撫ぜ擦ってくれる鹿嶋君の大きな熱い手も心地良かった。
もう一度ゆっくり仰向きに寝かされる。脚を上げさせられる。体位を変えようとしてるのかなと思ったけれど、すぐにそうするのではなく、鹿嶋君はユキの足の小指の爪のペディキュアに目を凝らしていた。そんなところ、よく見られて大丈夫だったかなと、慌てて引っ込めようとすると、余計力を入れて引っ張り、チュッと足指に口付けられた。
「やめて」でもまんざらでもない。
二度目は互いの体を隅々まで確かめ合い、懐かしさに喜び変化に感じ入った。繋がったままで色々に体位を変え、疲れ果てるまで思う存分ゆっくり楽しめた。
「明日は・・・?」眠りに落ちる間際、鹿嶋君が聞いてきた。眠たそうな声で。
「土曜日?」あなたは休みなんでしょう、鹿嶋君?会社員の人は明日はお休みでしょう、だからそもそもお店へ電話して来たのよね…?長い孤独の縁から落ちたくなくて・・・でも何故そんなこと私に聞くの?・・・
ユキにとって、次に来る質問を予測するのは簡単だった。愛し合って眠りに就く間際の、この会話の流れが初めてという女ではなかった。
「きみは・・・忙しいんだよね?」
「ええ、・・・」土曜は特に、週の中でも一番。一日中忙しい日…でも・・・
「・・・」
「でも、夜はまた会えるわ」鹿嶋君が自ら誘ってくれるまで待っていられずユキはすぐ言ってしまった。
「本当?」彼の口調が明るく弾み、嬉しそうだったので、ユキは心からホッとした。
「ええ。また会いたい」
「じゃあ、会いに来てよ。俺も会いたい」
「うん」
「・・・」
彼が何か頭の中でグルグル考え始めたのが分かった。これも簡単に予測が付いた。
(お金は要らないわよ、頼むから鹿嶋君、お金のことなんか言わないで・・・)
「あなたの作ってくれたお鍋。美味しかったなぁ」
「え?」鹿嶋君は急に話題を変えられて上の空の生返事だった。まだ頭の中に燻る問いに悩まされているのだ。
「報酬はあなたの手作りのお夜食で受け取るわ。」
「・・・え・・・ああ・・・」
「お金は要らないと言ってるの!」ユキはもう面倒になり自分からバラしてしまった。「楽しみだなぁ。明日の夜は何十年ぶりかしら?あなたの手作りご飯でお腹いっぱいになれる?」
「うん。じゃあ作っておくよ。・・・」
鹿嶋君がこちらへ寝返りを打ち、ギュッと力を入れて抱き締めてくれたので、ユキはこの上ない幸せのうちに眠りに落ちた。
どちらかの眠りがもう片側の眠りを妨げ、寝返りを打って相手に肘や膝をぶつけ、どちらからともなく眠りが弱められ、破られた。
(夢じゃないよね、これ・・・)
(自分も同じこと考えてた・・・)
だんだん本格的に覚醒しつつ、両腕を広げ伸ばし合って相手の体を捕まえ合い、くっつけあった。目を擦ろうと上げかけた手を取られ、無言で鹿嶋君に手を導かれ、カチカチのものに触れさせられる前から、腿に押し当たる感触でユキにも早々と分かっていた。彼が大きく伸びあがってガサゴソ眼鏡を手探りし、ユキは何がしたいのかにすぐ、ピンと来た。
「5時。」眼鏡が見当たらない彼のかわりに、ユキが壁の時計を読んであげた。
「1月6日。土曜日。曇りのち晴れ。外は今3度。最高・・・」
「まだ行かなくて良いよね?」
鹿嶋君は既にパンツを降ろし始めていた。
「抱かせて」
ユキは嬉しくて2度も頷いた。
朝の鹿嶋君は元気が漲っていて、自分も充電が満タンに補充されており、燃え上がり過ぎて終わるころには再びヘロッヘロになっていた。眠る前よりもクタクタだった。さすがに、ちょっとズキズキもした。
「あなたって変わってない・・・」
「何が?」
「私が仕事に行く前は物凄いの」
「行かせたくないからだよ」
「知ってるけど、それにしたって・・・」首を捩じって時計を見上げる。
「噓でしょ!!え・・・ヤバ・・・」見間違いかと思ったが間違えてない。
「もう8時・・・!!」急いで起き上がろうとするも鹿嶋君の重い腕がお腹にしっかりと巻き付いていて起き上がれない。
「ダメダメ!行かなくちゃ!・・・ねえって!!怒るよ!!!」
「休んじゃえよ。今日くらい」
「・・・無理・・・」しかしユキの頭の中で歯車が高速回転を始めていた。色んなものが手早く天秤にかけられ、全てが軽々高く持ち上がった。重たいのはとにかく鹿嶋君の腕だった。この腕に凭れて過ごす1日に代えがたい物って・・・何かある?
これからもう一度一緒にお風呂にゆったり浸かれるのだ、それから何かを食べに行く・・・鹿嶋君がモグモグガツガツ食べ盛りのゴールデンレトリバーみたいに育ちの良さをギリギリ発揮しながらモリモリ食べるのを見るのがユキは何よりも好きだった、それに彼の運転する車に乗せて貰えて出掛けられるんだろう、初めて!そんなのって、素敵すぎる!
ドキドキ!少女のような胸の高鳴りを抑え切れず、ワクワクし過ぎてブルッと身震いが来た。
「・・・でも、事務所に電話だけは入れなくちゃ・・・私が昨日で死んだと思われるわ・・・」
最期に丸一日の休みを取ったのはいつのことか。みんな仰天して看病に駆けつけるのではなかろうか・・・どうしよう、仮病なんてどうやるんだったっけ・・・?
「僕が電話しようか?」
「そんなわけにいくかいな!」思わず秘書のおばあちゃんの口癖で突っ込んでしまった。
「あなたが私を殺害したと思われるわよ!ハルサメ君が飛んで来ちゃうわ!・・・昨日のあのでっかいドライバーのあだ名よ、ハルサメって」
「ヘルシーだな、名前負けしてる・・・」鹿嶋君がボソボソ言っている。
「ああ、もう、どうしよう!?もう心配され始めてるわ、あたし職場の上が住まいなんだから!・・・いつも当番で起こしに来るのよ、住み込みの小っちゃいガールの子が・・・一旦帰って頭整理して事情を説明してからまた来るわ、ここへ・・・」
「普通に『今日は休暇を取りたい』で良いじゃないか、きみがオーナーなんだろ」
「・・・」ユキは黙り込み、その線で考えてみた。確かに。シンプルで、嘘もない。
「よし。じゃあ、・・・電話して来る」
玄関まで行ってみて鞄を捜したが、鹿嶋君の皮靴に倒れかかってるブーツがあるだけで、そもそもポーチすら持って来てなかったことに思い至った。
(じゃあどこに・・・?)昨日の情熱的夜を早送りで巻き戻して見て、コートがソファの上にあるのを発見した。そのポケットの中に携帯電話があった。既に着信履歴が2回。すぐかけ直す。
「もしもし」
「私よ、ええ、何事も何も、何もないわよ。無事よ。全然平気・・・うん、・・・うん・・・」
鹿嶋君はごく朗らかな気分で仕事をズル休みするユキの方便を聞いていた。襖1枚で隔てられた隣の部屋からユキが部下にちょっと圧をかけてる。
「・・・何?私が休みたいの。文句ある?」
1日休むのがそんなにも一大事と受け取られるとは、いったい今までどんな働き方をして来たんだ?休んだら死ぬのか?止まったら窒息死するマグロか?鮭か?・・・
「ふぅぅ・・・」電話を切ったユキが戻ってきた。
「あなたと行ってみたかったところがいっぱいあるの。電話しながら思い出してて・・・ドライブに連れ出してくれない?」
「まずシャワーを浴びよう」鹿嶋君も運転したい気分だった。窓を開け、隣にユキを座らせて。
お天気は快晴。
鹿嶋君の男物の洗顔料で顔を洗ってお肌やら何やらが心配なユキは、最初のコンビニまでは彼のキャップを目深に被り彼のマスクで目から下を覆いまるでイスラム圏の女性か強盗犯かみたいないでたちだったが、コンビニでクリームとアイブロウ、口紅を選び、必要なさそうで実は欠かせないラメまで鹿嶋君に買って貰って、それらを顔に付けると、ホッと人心地ついた。
「何が食べたい?」
「あなたが食べたいもの」(お財布を持って来てないユキは金を使う話になるたびにいちいち居心地悪く、久しぶりに迷い猫の心境、あの人が捨てたゴミ場を漁って暮らした幼い頃が思い出された。
『一度事務所に寄ってくれれば・・・』鞄を取って来られるのに、と何度も言うのだが、
『絶対嫌だ』鹿嶋君は断固拒否。どこへ向かうかまだ決めてない段階から、とりあえずとにかくユキの事務所がある街から遠ざかる方向へ車を出した。『必要な物があれば僕が買うよ』)
「俺は何かガッツリしたものが食べたいなぁ」
そらそうでしょう、プッと噴き出した。あんなにガッツリ消費したんだから・・・
「私も同じ気分」
二人は隣の県までのんびりドライブし、このあたりで名物らしいステーキハウスでちょっと並んでからステーキを食べ、サラダをお代わりし、ロブスターまで追加注文した。
「嗚呼、もう食べきれない!欲張っちゃった・・・」
「どれ?残りは僕が食べてあげよう」
ユキはレモネードをチビチビ啜りながら、モリモリ食べ続ける向かいの男を惚れ惚れと眺めた。やっぱり食べっぷりも知ってる頃そのまま。自分の食べ残しを綺麗に平らげてくれるところも好きだった。変わってない・・・
昨日の夜は彼の頬が少しこけてるように見え、そのかわり服を脱いだ彼の胴周りがちょっぴりぷよぷよしてる気がして、(心労、運動不足かな)と内心思った。でも今朝の彼の体は既に肉体改造が内部から始まったかのよう、たった一晩で腰の肉感が昨夜とは違って来ていた。
「何?」
鹿嶋君はふと不安になったように紙ナフキンを取って口元をゴシゴシ拭った。
「ケチャップ付いてた?」
「舐めて取ってあげたかったのに」ユキが冗談を言うと
「ここでじゃダメだよ」大真面目に囁いて返して来た。「どこか場所を移そう」
このドライブがいつまでも終わらなければいいのに・・・ユキは思った。運転する彼の横顔を眺め、手や膝に自分の手を置いたりしながら。
二人は植物園をゆったり散歩し、アウトレットで買い物し、お茶を買いに立ち寄った道の駅では、リードをズルズル引き摺って心細げな顔をした迷子のトイプードルを飼い主まで届けた。
「良かったね、あの子」
「可愛かったなぁ」
「大人しかったね」
「誘拐されなくて良かったよ」
「誘拐しちゃえばよかったかなぁ」
「あなたでもそんな悪い事考えるのね」
「いつも悪い事考えてるよ」鹿嶋君が片手を伸ばしてユキの近い側の胸をチョンと突いた。
「それは良い事でしょ」ユキがシートの中で脚を組み替え、姿勢をずらして彼の手をスカートの中へ引っ張り込んだ。
「分かる?ここ、ストッキングに穴が開いちゃったみたい・・・」
「こらこら!事故を起こしちゃう!平常心!!」
鹿嶋君が手を抜き出し、ユキの頭をポンポン撫でた。しばらく無言。それからユキが言った。
「でもワンコは死んじゃうから・・・覚悟してるつもりでいてもいざとなったらやっぱり結構悲しいもんよ」
「飼ったことあるの?」
「・・・昔・・・子供の時に。飼ってる友達がいたの」
「ふうん」
「・・・」
「・・・」鹿嶋君は自分の相槌の打ち方が気のない返事過ぎたかなと後悔した。ユキがその犬を飼ってた友達の話をもっと詳しく聞かせてくれるだろうと期待したのに、彼女がむっつり押し黙ってしまったから。
(まあいいさ)彼は思った。(無理に話さなくても。彼女の過去には辛い経験が多そうだし・・・)
でも昔付き合いたての時にも、これまでの彼女の全てを聞き出そうとして嘘ばっかり吐かれたことなどが思い出され、寂しい気持ちが忍び寄ってきた。
(ユキ、きみはどこから来てどこへ向かおうとしてるんだ?きみが何者なのかを決めるのはきみなんだよ?・・・)
「・・・この間も、チワワを置き去りにして居なくなっちゃった若い女の子がいて、困ったわ・・・」
「ふうん」最近の話なら出来るんだなと鹿島くんは思った。よし。それでもいいぞ。それも聞いてみたい。
「スタッフや女の子たちみんなで当番制にして餌やりしたり散歩させたりしてたけど、最終的には、居なくなっちゃった飼い主の常連客だった人が引き取ってくれて。一月くらいは、環境が変わって寂しがり夜鳴きしたり餌を食べなかったりしてるって、どうしようかと相談されて、またお店に戻そうかって話にもなりかかってたんだけど、2か月目にはもうすっかり懐いたって言って甘えんぼな可愛い動画を送ってくれて。それでようやく1件落着。」
「時々あるの?そう言う事って」
「あるわ。置いて行かれるのが犬じゃない時もある」
「猫とか?」
「そうね。猫は自立が早くて良いわね。子猫は私も好きよ。死ぬところを人に見せないし。でも、最初は4足歩行、次に2足歩行で最後に3足歩行する生き物だと、もう、大変」
「人かよ!赤ちゃんを置いて行くのか」
「ええ。もしかしたら一番多いかも知れないくらい。」ユキは鼻からフーッと溜息を吐いた。
「人間の赤ちゃんが一番置き去りにされるわ」
「どこへ?!」
「私の店によ。内と外に託児所があるの。仕事が引けてもそのままどっかへ飛んじゃって、引き取りに来ないのよ。住み込みで働いてて部屋を貸してる子もいるわ。稼げる子達にしか部屋を与えてないんだけど、そんな子でもたまにある。ベビーシッターが『あたしもう帰る時間なんですがお母さんのお戻りがまだなんです』と私に電話で知らせて来るの」
「どうするんだ?そんなの」
「場合によるわね。チワワと一緒。オシメ変えたりベビーフードあげたりしてうちで何日か預かってるうちに、母親が泣きながらごめんなさいと言って戻ってくるパターン。これが最も多い。私はひと月は様子を見ることにしてる。それから父親を捜し始める。赤ちゃんを託せそうな環境かを先にちょっと調べさせてもらってから、連絡を取るの。」
「父親が誰だか分からないこともあるだろ?」
「父親も祖父母も探し当てられなかったら、そこからが問題よ。赤ちゃんと相談するの」
鹿嶋君はミラーでユキの顔を見、目が離せる交通状況になってからもう一度、ユキの顔を見た。
「正気?」
「ねぇ、鹿嶋君、運転そろそろ疲れて来たでしょ?代わってあげましょうか?」
「・・・え?・・・きみ、免許は?」
「無いわ。でも上手よ。特にパトカーの追跡を巻くのが」
「ユキ・・・きみいつか摑まるよ」
「捕まらないのよ。こっちが先に相手の肝を握ってるから。この手中に」ユキは右手をパーにしてからグッと握り締めた。
「・・・運転はこのまま僕がするから。置いて行かれた赤ちゃんの話、続きをしてよ。きみが育ててる子もいるの?」
「5人いる。一番上の子は今年18歳。今月初めからうちの店で働いてくれてるわ。賢くて、別の道も開けてるけど、何度言ってもここで働かせてと本人が望むの。妹達とも離れたくないからと。私が一から育て上げたと言えるのは一番上のその子だけ。後の下の子達は、上の子達が順繰りに面倒見てくれて。子供達同士が自分達同士支え合ってうちで暮らしてるだけなのよ。名義は私の養子となってるけどね。ライセンス。あなた方が言うように、『きみ、免許は持ってるのか?』」
ユキは鹿嶋君の口真似をしたが、その口調にはどこか棘が潜んでいた。
「あなた方って?・・・ここには僕しかいないよ・・・?」
鹿嶋君が優しく思い出させてあげると、ユキはハッと我に返ったようで、フロントガラスを突き破りそうに尖っていた視線が元通りの柔らかな目に戻り、謝った。
「そうね、ごめんなさい。・・・母親としての資質とか資格だのの事では、ちょっと色々と役所からトヤカク言われがちなの。」
「・・・きみが面倒を見ないと決めた子もいたの?赤ちゃんと相談ってさっき・・・」
「嗚呼。居たわ。」ユキの目がまた暗くなった。さっきよりも一段と暗く。
「すぐ病院に知らせないといけない状態で見付かる赤ちゃんもいたし、私が抱いてもあやしてもイヤイヤしてずうっと泣き止まない子もいた。表面から見ただけじゃ分からないけど体内に何か異変が起きてるのかも知れない。やっぱり病院に連れて行かないといけないじゃない?赤ちゃんは泣くもの、オムツ変えてもミルクあげても泣き止まないなら泣かせておけばいいとも言われたけど、そんなの・・・産みの母親にしか聞き分けられない泣き声の異常さってものがあったとしても、私には分からない。放っておいて死んじゃったら、それこそ、駄目でしょ?
で、病院に連れて行ったら、あなたがお母さんですか?と、聞かれるわけ。ハイと答えるわけにはいかない。だって、本物の母親が次の日に現れた場合、事態がややこしくなるから。中には土壇場で裏切る女の子もいるのよ。良くしてあげてきたつもりなのに、自分の体裁を護りたいばっかりに、赤ちゃんを私が誘拐したと騒ぎ立てたりしてね。そんな子に限って育児放棄を繰り返したりする。自分の非を認めないで人に擦り付ける事ばかり上手になって行くの。ライセンスって?ナンセンスと響きがよく似てるじゃない?子育てに許可が必要なら私の方が・・・」
鹿嶋君がユキの膝に手を置くと、ハッとユキも彼を見返した。
「何か具体的な揉め事を思い出させちゃったね」
「・・・うん。赤ちゃんのこととなると・・・私も・・・でも、とにかく、病気がちな子は面倒みてあげられないの・・・内雇いのお医者もいるけど、専門家じゃないし、一般の小児科で見て貰ったら、そこからは行政に託すしかなくなる。小さな子ってすぐ病気にかかるし体が小さいからあっという間に死んじゃいそうな気がするのよね。数年手元に置いてても、お別れしなきゃいけない子だっていたわ。もう喋れるようになっていたから、私の事ママ、ママ、って呼んで泣くの。あれは辛い別れだった。あの子にもひどいことをしてしまったわ。そこから、今のスタイルを構築したの。1か月は待つ。でもそこからは、私の子になるか、ならないか、赤ちゃんと目を見て相談するの。色々壁にぶち当たって、試行錯誤繰り返して、何とか一番いいやり方を私も身につけて行ったの。先代の手引きもあって。・・・でも・・・とにかく・・・泣き止まない赤ちゃんは私の手を離れて行くわ・・・」
ユキの目が銀色に光って、涙をこぼしそうになっているのが分かった。
ふと鹿島くんは疑問に思ったことをそのまま口に出して聞いていた。
「きみ自身は自分の子を産んでるの・・・?」
その後に訪れた沈黙の凍り付く冷やかさ。鹿嶋君は(シマッタ・・・)と今更ながら手で口元を撫でまわした。
「・・・うん」だいぶ経ってからユキが返事をした。
鹿嶋君が耐えられそうになくなってラジオを付けようと操作パネルに指を伸ばしかけた頃になって。
「ふ、ふうん?・・・」
何か他に言葉が続くはずと思って待ったが、ユキは何も言わない。鹿嶋君もなんだか怖くなって聞けそうになかった。その子はどこにいる・・・?誰が育ててる・・・?今いくつ・・・?・・・誰との子なの・・・?
ユキは膝に目を落としてゆっくりと深呼吸を繰り返していたが、そのうち窓の外へ顔を向けてしまった。
「私達、次はどこへ向かってるの?」
「着くまで内緒」
ユキの手が伸びて来て、鹿嶋君の手を探り当てた。それから彼女の顔がこちらへ向いた。もう切り替えた笑顔。
「楽し」
プラネタリウムで星座を学び、車に戻る頃には、頭上、本物の天に本物の星が瞬いていた。
「この次はどこへ行きたい?」
「うーん・・・もうそろそろ帰る?」
「・・・そうだな・・・でもその前に晩飯を食おう。」
「え、お腹減ったの?」
「減ったな。きみはまだ?」
そうか、鹿嶋君はずっと運転してくれてたんだもんな、とユキは思った。彼といるのは凄く楽しかったが、自分無しで1日業務を回した会社が、日常が、少し心配になってきていた。今日出勤してくれた子達、みんな無事だっただろうか、客と揉めたり嫌な目に遭ったり客に粗相をしでかしたりしてないか?・・・大部分の昼勤の子達はもう引き上げ、夜勤の子達と入れ替わっている頃だ・・・
いつの間にかユキはウトウトしていた。気が付くと車はどこかの砂利敷きの駐車場に乗り入れて、鹿嶋君が窓を開け和装姿の案内のおじさんと話していた。それから、バックで指定の場所へ車を停める。
(え・・・?)と内心思ったが、声には出なかった。
「着いたよ」
「着いたって・・・鹿嶋君・・・」ユキはサッサと降りてしまった鹿嶋君の後ろ姿を目で追いかけた。彼は後部座席からアウトレットで買ったばかりの紙袋をヒョイと取り上げ、バタンと扉を閉め、ぐるっと回り込んできてユキの側のドアを外から開けてくれた。
「ここって・・・」
「まぁまぁ、良いから。晩御飯食べよう」
靴を脱ぎ、着物を着た仲居さんに先導され、廊下の奥のお座敷に到着。部屋から露店風呂への行き方の説明を受け、浴衣のサイズを聞かれ、(若くて可愛い仲居さんにジッと見詰められるもボウッとなって何も答えられないでいると『Mで』と鹿嶋君が言った。)明日の朝ごはんの時間を何時にするかなども、全部勝手に鹿嶋君と仲居さんが取り決めをしてしまった。
「7時で良かったよね?」
ユキはううん、と首を横に振ったが、鹿嶋君はもう既に後ろを向いて、楽しそうに障子を開けたり箪笥を開けたりして、はしゃぎ始めていた。
「お風呂入ったらきみもお腹が空いてくるよ!・・・浴衣って風呂上りに着るものだよね?あ、見てごらん!ほら!雪がチラついてるよ!わあ~・・・綺麗だなぁぁ・・・!」
ユキは呆然と白紙の脳を絞り、明日の朝の予定を思い出そうとしてみた。最近やっと紙の手帳から携帯電話でスケジュールを管理するようになったものの、自分よりも秘書や周りの子達の方が自分の予定を頭で覚えてくれていた。
「・・・じゃ、お風呂・・・お風呂に・・・」玄関の下駄をちらと見る。
「いや」さっきまで窓辺にいたはずの鹿嶋君がすっ飛んで来て、やけに強い力で腕を掴んだ。「内風呂に入ろう。一緒に」
彼は彼女が女湯から事務所に電話をかけて迎えを呼ぶつもりかと考えたらしい。
「でも・・・」
「いいや。別々の風呂になんて行かせないよ。せっかくきみと出会えたのに。そんなの時間が勿体ない!家族風呂も予約してあるから後で露天でも浸かれるよ。風呂に今入りたいならここのに入ればいい。飯の時間まで、外に出る必要はない。」
これでは軟禁である。ユキは鹿嶋君と見つめ合いながら(どうしようか・・・)と頭の中で考えた。顔はニヤケそうである。ちょっとでも気を抜くと。
しかし嫌か嫌じゃないかの感情論は一旦置いといて、自分にしか果たせない仕事が明日の早朝に入ってるかどうかに全てはかかっている。
はあああああ、鹿嶋君の胸に顔を埋めながら大きな溜息を吐いた。「明日の予定確認する。事務所に電話を一本入れさせて・・・」
「ああ。良いよ。どうぞどうぞ」
鹿嶋君がしてやったりとニヤニヤ笑いながらユキのスーツパンツの尻ポケットから彼女の携帯を取り出してくれた。
ご馳走を前にして、ユキはやっと鹿嶋君のニヤニヤ顔に慣れてきた。
「それで要らないって言ってるのに下着やら着替えを買ってくれたわけね。」
「うん、そう」鹿嶋君はニコニコ機嫌良さそうに蟹の足をポキンと折った。
「道理で・・・嗚呼、じゃあ、あの時にここを予約したの、あの道の駅のトイレ休憩・・・」
「そうだよ」
「なかなか煙草を吸うのに時間かけるんだなぁと思ったの!変だなぁ、一箱吸ってんのかしら、本当はお腹壊したのかしら、って・・・」
「ん~ん、」ニンマリ。ホッペいっぱいに頬張っている。
今夜も泊まるなど一言も、泊りのトの字も、聞いてない。断りも相談も無しだったけどなぁぁ・・・なぜこんなに平気で罪のない顔していられるんだろう・・・
はあっ。首をフリフリ。「まぁいいや。そんなにも嬉しそうな顔されてちゃ怒る気にもなれない。・・・むしろありがとう。お陰様でこんなゆったり仕事から離れられたのは初めて」
「あれを着て見せてね」
鹿嶋君が何の事を言ってるのかユキは咄嗟にピーンと理解した。
「あのランジェリー!だからかぁぁ!!」
もうこの頃ではイケイケの商売風衣装を身に纏う機会はほぼなかった。自分自身は裏方に回り、これから売り出したい新しく入った子、若い子達をドンドン前面に押し出して、彼女らの育成やサポートに力を注いでいた。古馴染みで一本気で、ユキが「私の分身と思って可愛がってあげて下さいよ」といくら後輩を紹介しても絶対首を縦に振らない頑固な客達の相手だけはまだしていたが、彼らはもはや会うたびにユキの体を求めるわけでもなかった。
『きみが元気にしてるかどうかを見に来てるだけなんだよ』このところ指一本体に触れてもくれないので寂しくて、こちらからお誘いした方が良いのかしらとそっと身を寄せに行ったら、A氏は言った。
『きみの顔を見たいだけで来たんだ』常にバタバタと忙しいB氏はユキの顔を見るとまだ時間もたっぷり残っているのにとんぼ返り。
酷い人など、会いに行く時間が作れ無くて悪いからと、花や菓子やプレゼントを送り付けて来たり送金だけしてきたり・・・
(あなたの方がよっぽど下衆なんだけどなぁ、鹿嶋君・・・)
彼が選んだほぼ紐だけで出来てるような濃紫の卑猥なランジェリー姿で彼の前で踊りを披露しながら、ユキは思った。
(鹿嶋君だって、狡くて、身勝手で、変態で、私を軽んじることがある。力加減はいまだに出来ず痛い思いをさせられるし、欲張りで強引で・・・彼よりもよほど紳士で礼節をわきまえ私をほとんど崇拝してくれてる優しいお客様だっていっぱい、それこそいっぱい、居てくれてる・・・なのに何故・・・)
ユキは内心真面目に首を傾げた。(なぜ私はこの人のことが誰よりも好きなんだろう・・・なぜ私はこの人だけ特別に想ってしまうんだろう?・・・)
「おいで」鹿嶋君が腕を伸ばして呼んだ。「ユキ」
するとすっかりユキは何を考えていたか忘れてしまい、鹿嶋君の胸に倒れ込んだ。
もう何度目かの、尽きせぬ情熱。髪が縺れ合い、息がピタリと一つに重なる。二人は愛のアスリートに極まりつつある。そのためにある体力、それにしか使う気のない体。相手の肌の表面に触れているだけでは収まらず液体のように混ぜ合わさりたい。2つの魂は肉体を溶け出して高まり屋根を突き破って昇り詰める。一つの花火となって夜を染める。
泥のようにぐったりと疲れ、充足感に満たされて、ベッタリと腹這いになりながらユキが聞いた。
「ねぇ、明日は日曜日ね?」
「そうだな」鹿嶋君の返事は既に欠伸交じりだった。
「明日は何をするの?」
「・・・さぁ。きみ次第だ。・・・きみ、ここに泊って行くんだよね?今夜は」頬杖をついて横に寝転びながら鹿嶋君が聞いた。
「うん」
「明日のきみの予定は?仕事は明日も休めそう?」
「・・・まあね。聞いてたでしょ?」
鹿嶋君は笑って頷いた。ユキが事務所に電話してる時同じ部屋にいて声が丸聞こえだったのだ。(『私。明日の予定って代理でいけるかしら?そう、明日も休みたいの。・・・うん。・・・うん、大丈夫よ、私は。あなたも大丈夫・・・?・・・うん、・・・うん、・・・あら!そう?・・・ええ、・・・ええ、・・・それは帰ったら詳しく聞くわ。どう?あなたなら出来るでしょ。今日も回せたでしょ?明日はちーちゃんもいるし・・・・ええ、明日は帰るわ。・・・うん・・・何時かは分からないけど・・・』
「じゃ僕と一緒に寝てくれるんだね、今夜も!朝まで」
「うん、もちろん、喜んで」
「幸せだなぁ」
「うん・・・」
ユキは感極まって泣きそうになり、鹿嶋君の脇に目鼻を突っ込んだ。
「うわっ!くすぐったい!やめて」
濡れた腋毛に頬を撫でられユキもクスクス笑った。こんなにも楽しい事ってこの世にあったんだ!
鹿嶋君が笑い止み、しばらく静かになった。眠ってしまったかなとそっと顔を見上げて見てみると、目が合った。
「何?」昔と同じ不安が呼び覚まされかけた。真面目な顔でまじまじと見てくる。しかし次の鹿嶋君の声が不安を消し去ってくれた。
「綺麗だなと思って見惚れてただけだよ」
「フフ・・・あなたも綺麗。浴衣似合ってる。セクシーよ」
「不思議だなぁ。僕も全くおんなじこと考えてた。」
「フフ・・・あなたって、声もエッチで素敵よ」
「えっ!?俺声なんか出てる!?」鹿嶋君の動揺で地震が起きたようにユキの体もグラリと揺れた。
(可愛い人だなぁ)ユキはまたクスクス笑いの発作に襲われたが、流石にもうへとへとに疲れていて、長く笑い続ける元気も残ってなかった。トロンと甘美な眠気が瞼の上に降りてきた。
二人は、2つ敷いてもらった片方の布団しか使わなかった。
日曜日、恋人たちは手を繋ぎ観光地を巡った。
(朝ご飯を食べながらユキが提案した『イチゴ狩りは?』『え、これ全部食べたら腹いっぱいだよ、その上まだ食べたい?きみの方が食べられない癖に』鹿嶋君に却下された。
『なってるのを見るだけでも可愛いのに・・・それに私、あのビニールハウスが好きなの。外は極寒、雪がチラついてるのに、あの中に入った途端、わぁぁ!上着脱ご~!ってなって。蜜蜂が飛び、甘酸っぱい苺の白い花と果汁の香りが満ちてて、まるで天国へ来たみたい。あの白い薄いビニール1枚を隔てて・・・』
『分かった。じゃあ、苺狩りができる農園は、腹が減ったら探そう。昼頃』
『お昼にはもう赤い実が食べ尽くされちゃって残ってないわよ』ユキは抗議したが、小さな甘えた声だった。
荷物を積み込み、鹿嶋君はハンドルに携帯を凭せ掛け、片手でユキの手を握ったまま操作して今日のデートコースを考えた。ユキは自分の携帯電話を出してそもそもここがどこなのかをやっと知った。
『割と近くに有名な動物園があるよ』
『動物園は・・・ちょっと苦手かも・・・特に大きな生き物が・・・虎とか白熊とかが狭い檻に閉じ込められておんなじ所をグルグルグルグル回るしかなくて、ずうっとグルグルグルグル回ってるの、あれ、気が狂っちゃってるんじゃないかと思うのよね。見ててこっちの気も変になりそうなの・・・大自然の中で自由に走り回ってるのが普通じゃない?ああいう大きい生き物達は・・・きっと納得してないのよ、それでたまにウンチ投げつけて来たりするんだと思う。怒ってるんだって、ジロジロ見てるヒト達に分からせるために』
『どこの動物園の事?最近はそんなことないけどなぁ・・・檻が檻らしく見えない広さだよ』
『さぁ。大昔に連れて行ってもらって以来、行ったことないの』
『じゃ水族館か植物園なら大丈夫?』
『魚は優雅ね。おんなじとこグルグル泳いでても、見え方が綺麗。』
『よし。決めた』
鹿嶋君が車をスタートさせた。
『どこへ行くの?』
『着いてからのお楽しみだよ』
『そう言うと思った』ユキはワクワクしてきて彼の腕に頬擦りした。)
しかし楽しかったのはお昼間までで、午後からぼんやりと鹿嶋君の頭が痛みだし、ユキも彼が不機嫌になりだしたのをすぐに感じ取り、それが明日からの離別を思ってのことだと察せたので、二人してどんよりと暗い気分に落ち込んでしまった。
いきなり彼が高速を降りて安ホテルに車で突っ込んだ時、その荒いハンドルの切り方にも、ユキは若干怖くなった。
「今夜はここに泊ろう」
「え・・・」ユキは時間を見るために携帯を出した。「今から?・・・まだ6時・・・」
しかし携帯電話は鹿嶋君に取り上げられた。ガッと鷲掴みにして毟り取られたので、指が痛んだ。
「携帯頂戴、って言えば渡したのに・・・」
しかし彼は聞いてもない。既に車を降り、回り込んできて助手席のドアを開けた。ユキはまだシートベルトも外してなかった。
「早く。行くよ」
「でもさすがにもう・・・痛い・・・」男の方はそんなことないのか、それとも怒りで痛みには鈍くなってるのか。とにかくユキは車から降りたくなかった。鹿嶋君が漂わす暴力の匂いを嗅ぎとっていた。
「こんな安ホテルじゃきみみたいな高級娼婦は御不満か」
ユキは上目で彼の目をちらと見た。やはり。怒りに顔が歪んでいる。ゆっくりと首を横に振った。
鹿嶋君がユキの腕を掴んで無理矢理に立たせようと引っ張りかけた時、”関係者以外立ち入り禁止”の張り紙をしたドアが開き、おじさんが一人出てきた。こちらをジロジロ見ながら車の前を横切って左から右に歩いて行った。二人はハッと動きを止めて内輪揉めを一時停止しおじさんを見送った。
「あの人、きっとモニターで駐車場を見張ってたのよ。」ユキが言った。「あなたが私を強姦しようとしてるんじゃないかと疑って、牽制しに出て来たのよ」
「多分そうだな。でももう行っちゃったぜ」
鹿嶋君がまた引っ張ろうと腕を持ち上げた。
「また来たわよ!」ユキが囁いて知らせた。右から左に、今度は何か手に工具のようなものを持ち、同じおじさんがゆっくり歩いて通り過ぎた。ジロジロとこっちを執拗に睨みつけながら。
「ほらね。うちで揉め事を起こすなよって目で語ってた」
「関係あるか」
鹿嶋君にグイグイ乱暴に引っ張られ、引きずられて、ユキもだんだん腹が立ってきた。
「明日も一緒に居たいんだったら、あなただって休めばいいじゃない!鹿嶋君!私の仕事は休ませたくせに、自分は社畜で仕事休めないからって、私に矛先ぶつけるのはやめてッ!」
鹿嶋君は怒りの根本をズバッと言い当てられ、気まずくなったのかユキの手をそろッと放すと、叱られるべくして叱られてる犬のような気が抜ける表情を浮かべ、頭の後ろをポリポリ掻いた。
ホッとしたのと、鹿嶋君のこの仕草や顔がいかにも昭和で可愛くて面白かったのとで、怒りも続かず、ユキは噴き出し、溜息が出た。
「帰りましょう。あなたの家に。何かスーパーで食べ物でも買って」
鹿嶋君は頷き、すごすごと運転席に戻ってきた。
「日曜ロードショー観ましょう。今日は何やってるかなぁ」
しょんぼりしてる鹿嶋君を励まそうと、ユキは取り返した携帯で調べてみた。
「月曜日は一番休めない日なんだ、仕事がドッサリ溜まってて・・・」
「会社員の人ってそうみたいね」ユキは期待してもいなかった。
「月曜日に休むのは一番良くないって、休むと周り中からも言われちゃうよ」
「まぁ、そうなんでしょ、知らないけど・・・」
「嗚呼、事故った事にでもしようか?また・・・」
ユキは肩をすくめた。ドキッとして彼の顔色を横目に窺ってみたが、鹿嶋君は前に事故った時にユキに介抱されたことに気が付いてるわけではないらしい。明日の欠勤理由をどうしようかと悪知恵を絞ってるだけのようだ。
「別に体調不良で良いんじゃない?あなたあんまりにも仕事に行きたくなさ過ぎて体調悪そうだもん。嘘じゃないじゃん」
「う~ん・・・でも駐車場に車が無くて体調不良は・・・」
「じゃあ一旦車停めにお家に帰りましょ。また電車で出かけるか、明日は1日映画でも見てお家でゆっくり寛げば良いんじゃない?」
「きみと?」そこが肝心だよと鹿嶋君は思った。ユキはまたまた職場に電話を入れた。
「私と。」
「よし。じゃ休もう」大人になってから記憶の限りこれが初めてのズル休みだ、と鹿嶋君は思った。「一度車で事故を起こして2週間近く無断欠勤してしまった事があったんだ」
「へぇ」
「何かあれは今でも辻褄の合わないことが多い妙な事故だったなぁ」
「ふぅん・・・」
「山道を走ってたんだ。一人で。ちょっと飛ばしてた。考え事をしたくなくて。考えてもどうしようもない事だったから。そしたら、急に・・・あれは人間の子供のように見えたけど、錯覚だったのかなぁ、あんな時間にあんな場所に小さな男の子なんかが歩いてるはずはないんだ・・・」
「避けようとしたの?」
「そう。ガードレールをぶち破り、崖を落ちた。それで頭を打って、2週間記憶が無いまま・・・夢遊病者のように山の中で彷徨っていたのかも知れない、・・・」
「・・・」なるほど、鹿嶋君の独自の解釈を聞いてみよう、とユキは思った。
「多分、朦朧としながらも、どこかの時点で僕は意識を取り戻し、さかさまになった車から脱出し、何とか山を下りなくちゃとヒッチハイクしたんだな、きっと」
「ふむ」
「そしてまず男女が乗った車に拾われた。」
「ほぅ?」
「男の方は僕を早く降ろしたがっていた。デートの最中だったんだな、きっと。彼女が怪我をしてる僕にばかり構うんで、苛々していた。男はとにかく僕を早く排除しようとしてたけど、女性の方は本当に優しかった。彼女が近くにいると良い匂いがして、ヒンヤリした優しい手が触れて、僕の寝心地を良くしようとあれこれ枕の位置を変えたり甲斐甲斐しくやってくれたんだ。でも、男が、ヤブ医者へ僕を売り飛ばした!」
「ヤブ医者?!」ユキはガーンとショックを受けた。それってウラ君のことだろうか?
「そう、あれはヤブと言うより、腕は確かなのかもしれないが頭はイカレてる変態闇医者だな。変な手術を僕にしようとして来たんだ!あいつから借りた革ジャンやズボンが無かったら、あの悪夢みたいな手術室が実際この世に実在するとは信じられなかったはずだけど、あれだけは嘘みたいな本当の現実だったよ。」
「逃げ出したの?」ウラ君と繋がっているタツからは、その後、鹿嶋君はちゃんとしっかり自分の足で歩いて帰ったと聞いていたが、ちょっと思い描いていた顛末とは違っていた。でも確かに、自分の足で歩けて帰れたのならまぁまぁ同じことではある。
「後で、ちゃんとした病院には行ったの?」
「いや、行ってない。それよりも車のことやら会社のことで色々と大変でね。ちょっと左の足首やら腰の関節がおかしい気がしてたけど、1年もすると勝手に治っちゃった。毎年の健康診断もいつも通りだし」
「頑丈ね」
「うん。頑丈なだけが昔っから取り柄だから・・・」
お店に帰ったらウラ君に会って一言言ってやらなくちゃ、とユキは内心で思った。ウラ君はタツと仲良くなってからまた弟とも手を組んで仕事をし始め、今や半分うちで雇ってる医者の一人となっている。
「考えてもどうしようもない悩み事って、何だったの?それは解決した?」
「いや・・・」
ユキはへの字に口を噤んだ鹿嶋君の口角をじっと見つめた。味のなくなったガムをどこに出そうかと悩みながら噛んでるように、ムズムズと口元が動いている。待てば何か話してくれそうだったが、しかし
「きみがそばに居てくれれば解決する悩みだよ」はぐらかされた。
「明日までは一緒に居よう?でも火曜日は一緒に居られない」
「何故?」
「火曜日は外せないの。私が行かなくちゃいけない得意先があるのよ。かわりが利かないの」
「ふうん」途端に鹿嶋君の目が細くなり、こちら側の肩が強張り、視線が尖り、声もオーラも硬くなった。
「あなただって何日もは休めないでしょ?」
「・・・そうだね」
「私だって仕事があるの」
「・・・ふうん」
路肩に車が止まった。
「きみ、ここで降りてあとは好きに帰りなよ」
え、と思ったが、鹿嶋君の方を向いてみて、ユキはすぐ言われた通りにした方がよさそうだと見て取った。彼はひどく自制してる顔をしていた。手近にある何でもいいから何かを殴りたがってるみたいだった。すぐにシートベルトを外してドアを開け、外に降り立った。ドアを出来るだけそっと閉めると、閉まり切らず、もう一度ちょっと開けてパタンと閉めた。バイバイとこちらを向いてない彼の横顔に手を振った。
寒くて、コートの前をギュッとかき合わせる。
ここがどこなのか分からない。でもどこへでも迎えはすぐに呼べる。早くもかじかみ始めそうな指で液晶を操作する。マップを開き、ドライバーの田中君に現在地を転送し、『ここまで迎えに来れる?』と文章を打ちかけていたら、送信する前に、なかなか動き出さない車の運転席から鹿嶋君が身を乗り出してこちら側のドアを押し開けた。
「乗って」
「えぇ・・・?」ユキは車に乗り込んだ。「どっちなの?あなたが降りろって言うから私・・・」
「仕事を辞めてくれ。結婚して・・・僕と結婚して?」
ユキはビックリ仰天してちょっと言葉に詰まり、笑い出しそうになり、次いで彼の深刻な表情を見て笑ってはいけないと思い直し、キチンと姿勢を正した。
「鹿嶋君・・・」
「潮時だよ。きみももう良い大人だ。家出少女が勢いでやるようなその場しのぎの仕事にいつまでも身を染めていられるわけでもないだろ?もうやめろよ。ここらで・・・
僕だってもう大人だからきみを養えるよ。あの頃みたいに我武者羅にバイトを掛け持ちしなくても・・・毎週デートに連れて行ってあげるよ」
「・・・」ユキは何から話して良いか分からず、彼の綺麗な瞳や男らしい鼻梁をただぼんやり眺めていた。
「毎月海外旅行に連れて行ってとか言われたらそりゃ無理だよ?毎月ハイブランドの服も買ってあげられないけど、それでも普通の平和な暮らしは出来るよ。昔きみは言ってたじゃないか、ベランダに花の鉢をいっぱい置いて水やりがしたいって。図書館で本を借りて1日中本の虫になっていたいって。やる気と時間と食べてくれる相手さえあれば料理の腕前も上手になれるって言ってたよね?実際昔きみは上手になりかけてたよ!あれを今からもう一度やり直そうよ。初めのうちは鍋を焦がしちゃったり量を間違えたりもするかもしれないけどさ。付き合うよ。それにも。・・・でももし家に居るのが退屈ならパートをしたって良い。何でもできるよ。きみは根は真面目で仕事人間なんだから社員登用もすぐされるさ。ボチボチでやりたければ、辞退すれば良いし・・・」
「鹿嶋君、」ユキは言い辛くて言いかけた言葉を変えた。
「今更私に他の仕事は何もできないし、それに、捨てられたら怖いじゃない?あなた今は情熱的でそう言ってくれてるけど、後10年も経てば嗚呼やっぱりこんな女やめとけば良かった、って気付くかもしれない。やっぱり独身の方が良かったなぁって思って、サヨナラ~ってさっきみたいに私を道端にポイと捨て去るかも。そしたら私はどうなる?その時からまたこの今の仕事に戻る方がよっぽど大変じゃない・・・」
「どうしたら分かって貰える?」鹿嶋君が真剣にこちらへ身を乗り出してきたので、ユキはいよいよどうしようと焦った。「どうすれば信じて貰える?僕は死ぬまできみを大切にするよ!」
「ごめんなさい、結婚してるのよ。私・・・」
ユキはしばらく目を上げられなかった。今なら殴られても仕方が無いと思った。しかし彼は拳を固めもせず、何も殴らず、ただ前を向いただけだった。やがて静かに車を始動させた。
「そうかよ。きみも結婚してるのか」
も?ユキは鹿嶋君の横顔を見た。も、って?他に誰の事を言ってるのか。彼に関する寄せ集めの情報を今一度一つ一つじっくり取り上げて検討するまでもなく、すぐピンと来た。あの灰皿の煙草・・・品の良い桜色の口紅を好んで付けてそうな、彼の周りにいる既婚女性・・・一人思い当ればもう充分。
「由貴さん、離婚したがってるでしょ?あなたと結婚し直したいんじゃないの?何故あの子としてあげないの?」
鹿嶋君は一瞬、急ブレーキをかけそうに見えた。しかし後続車がいたため、走り続けた。
「きみ、僕を監視してるのか?どこかに盗聴器つけてないよな?」
「やっぱり由貴さんか。・・・カンよ。」
「・・・そう言えばストーカーが居たみたいな目に遭ったんだ。この頃も。きみを捜し回ってた昔にも、一度、いや何度もかも知れない、家の中に他人が出入りしたことがあった!キミに渡してた合鍵で・・・あれはきみの仲間か?!やっぱり妻を殺したのも・・・」
「いいえ。いいえ。ねぇ、鹿嶋君。同窓会のお誘いが来るのはあなたの家だけじゃないのよ。私もあなた達とは同窓生なの、忘れた?」
「同窓会・・・」
「そう。私は行けなかったけど、かわりにウチの従業員にテキトーな元生徒に化けてもらって行って来てもらったの。それに行ってきた他の女友達とも後でランチを食べた。不倫は気を付けてしなくちゃ、鹿嶋君。ちょっとあなた達、地元じゃ有名人になりつつあるわよ」
「・・・」
「・・・」
「・・・きみの結婚相手の話をしてくれよ」
「山道を事故るほど猛スピードで走ったりしなくちゃならないような悩みって、由貴さんとのことよね?」
「・・・きみの結婚相手の話を聞こう。」
「言っても分からないわよ。あなたの知らない人。同級生じゃないもん。」
「本当にきみ結婚してるのか?」
「そうよ」
「じゃそいつは奇特な奴だな」
「なんで?」
「きみの仕事を許してる」
「・・・」
「客の一人か?」
「・・・」鹿嶋君に話しても分かって貰えない。否、話したくない。彼にも妹が一人いる。しかし、いや、だからこそ、彼に理解して貰えるわけがない・・・
ユキは経営上の都合により弟と籍を入れていた。二人とも偽装の身分証で戸籍上は他人同士だったから何の咎もなかった。寝室も同じにしていた。時にはごく普通の夫婦がやる行為を行うこともあった。子供を作らなければ血が濃すぎる子が生まれることもない。二人とも避妊手術は済ませていた。
(彼、二年前からは亡くなったことになってるの。経営敵のビルに単身話を付けに行った晩から帰って来ない。その夜そのビルが大火事になり、何故だか、相手方の焼死体は全てボロボロに崩れて跡形も残らなかったのに、あの子によく似た体格の黒焦げの焼死体が一体だけはっきりとした人の形をして見付かった。ビルの一階部分、比較的燃え方がマシだった出入り口付近で弟はコートを預けたらしく、それも奇跡的に燃え残っていた。警察が私に連絡してきて、私が頷き、それで身元特定、一件落着となった。表向きはね。でも、毎月彼から連絡がある。無言電話だけど、息遣いで分かる。私にだけは、あの子だって。・・・喉が焼けただれて声が出せないのかも知れない。それとも、全くの別人がかけて来てるのか。・・・分からないけど、私の声が聞きたくなってかけて来てくれたんならと、一人で喋ってあげるの。当たり障りのない世間話をね。眠れないのかしらと、子守唄を歌ってやる日もある。でもそんなにちょくちょくは電話を寄こさないの。それに、こっちからはかけられない。私はいつもかかってくるのを待ってるだけ。)
ユキは弟との秘密を鹿嶋君にぶちまけてしまいたかった。
(あの子が半分運営を回してた事務所には毎月月初めに指示書が送信されてくる。誰かがあの子の携帯をまだ使ってるの。簡単にくたばるような子じゃないとはみんな知ってたけど、ついに本物の死神になっちゃったのよ。生前最後の方は、敵が多すぎ、みんながあの子の首を狙ってるとしか見えなくなってた。楽観主義の私にさえも。・・・でも今や、姉の私にさえ、あの子に手が届かない。昔から本人の望んでた通りになったの。俺は陰に潜んでいたい、本物の黒幕になりたい、誰にも顔を知られずに暗躍したい、って・・・)
「・・・嘘なんだろ?結婚なんて。ほんとはしてないんでしょ?きみの相手ができる男なんていないよ。僕の他に」
ユキは微笑んで首を横に振り続けた。鹿嶋君にはどっちか分からなかった。そのうちにどっちでも良くなってきた。
「まあその程度の夫なんだ。いるにしても。」
(『姉さん、俺とは違ってあんたには冷酷さってものが無い。敵みんながあんたなんか消そうと思えばいつでも消せると確信してる。だからまだ殺されず、狙われてもいないんだよ。それに俺さえ片付ければ、ひ弱な姉はいつでもどうにでも好きなように動かせるとも思われてる。舐められてるんだ。でももしかしたら、それがあんたの強みかも知れない。ほとんど無に等しいほど、弱っちぃ存在。ひとひねり。プチュ。』・・・
弟が腕枕をしてくれながら語っていた言葉が耳に蘇る。
飛んできた小さな羽虫を中指と親指で捻り潰した仕草をした。あの自分とよく似た指、爪の形。
『でも俺がいる限り姉さんに手が出せるやつはこの世にいない。もし俺が死んだら、絶対に一人で密葬して、誰にも言うな。俺が生きてるふりをし続けろ。あんたが老衰で死ぬまで、俺が生きてるふりをし続けろ』・・・)
死んだのだろうか、生きてるのだろうか、私の夫、私の唯一の血縁、私の・・・弟は?
「顔を見たこともないの」ユキは口から出鱈目を言ったつもりだったが、図らずもそれは、無意識に弟が帰って来なくなったあの夜からずっと考え続けて来た事だった。(弟は顔が焼けただれて自分が見てももう分からないほど風貌が変わってるかもしれない。)また弟のことだから、別人として新たに身分証を手にし、整形を経て、それと知らぬ間に自分のそばに舞い戻ってきているかもしれない。例えば最近雇い入れたあの有能だが無口なドライバー。弟が好きだったのと同じ車種に乗り、ハンドルさばきもなんとなく弟の運転を彷彿とさせる。ちょっと気味が悪くて自分の専属にはせずに出張キャストの送迎に当たらせてるけれど・・・
「そうか、顔も見たことがない・・・」鹿嶋君はなんとなく満足げに繰り返した。ユキにとっての彼の美徳、自分に心地の良い嘘は即信じてくれる。
三日連続で一緒に過ごせた。これは夢を見てるように楽しかった。現実であろうはずがないほど、幸せだった。しかし会えない一日があると告げられるだけで、地獄の苦しみを味わされる。愛が深いほど負う傷も深い。
「明日の夜だけは・・・・」と言われただけで、鹿嶋君は死にそうになった。一体誰と過ごすんだ・・・?「怪我をさせてでも閉じ込めようか、きみを。あいつらだってやったんだろ?」
「あいつらって誰の事よ?」
「17の時のきみに薬を盛った奴らのことだ・・・」
「その人たちならもう死んだわよ。昨日も言ったはずよ、火曜日の夜だけは・・・」
「じゃあ、こうしよう。きみを縛り上げて・・・」
「やめてよ。私が時間までに戻らないとすぐ弟分達があなたをとっちめに来るわよ。私があなたと一緒なのはうちの会社に秘密でも何でもないんだから」
「一緒に崖から飛び降りようか?!」
「それなら良いわよ。一緒に飛び降りてあげる」
鹿嶋君はユキを睨みつけていたものの、しばらくすると溜息を吐いて、諦めた。この肝の座った守るもののない女、こいつにだけは敵わない。
「俺も浮気する。明日の夜は」
「どうぞ。由貴さんも喜ぶわ」
ユキはフロントガラスの向こう、雨を見ていた。鹿嶋君が疲れ果てて車を家に向かわせるまで、この迷走ドライブにただひたすら付き合い続けるだけだった。二人はもう目も合わせず、雨を裂いて走り続けた。
火曜日の夜、ちょうど鹿嶋君が退勤した頃の時間帯から、執拗に携帯が鳴り始めた。その時ユキは彼女の毎週の火曜日を貸し切ってくれている固定客と向き合って眺望の良いレストランでワインを選んでいるところだった。
(横並びのソファ席でなくて良かった、)とユキは思った。椅子の背凭れと自分のお尻の間に置いてあるポーチの中で携帯は振動してるのだが、これが横並びの同じシートに腰を下ろしていたのだったら相手にも分かってしまったはずである。
流石に10回も鳴らせば今夜は本当に私が電話に出られる状態じゃないのが鹿嶋君にも分かって貰えるだろうと思ったのだが、20回も30回も携帯は鳴り続けている。終いにこっちが根負けしてきて、火曜日の紳士の話も何一つ頭に入って来なくなってしまい、気もそぞろ、(もしや彼の身に何かあったんだろうか、また車を飛ばして事故を起こして他の番号にかけることを思い付けず私だけを頼りにかけて来てるとか?そんなことある?ないない、でももしかして・・・)
「美月さん、どうしたの?」ハッと向き合ってる相手の表情を見る。
「ごめんなさい、何?」
「・・・今日は顔色が優れないね。何かあった?話せる事なら聞こうか?」
ユキは微笑んで首を横に振る以外思い付けなかった。まさか『さっきから間夫が電話を慣らしっぱなしでお尻がブルブル震えて一個も話が耳に入って来ないんですよ』なんて言えるわけがない。
体調が優れないと見てくれた優しさに便乗し、
「ちょっとだけお腹の調子が・・・」と言いおいて、唸り続けるポーチを掴みお手洗いへ。
「もしもし、鹿嶋君?」迷惑なんだけどと言う前に相手の喚き声に鼓膜を破られかけた。
「もしもし!?何言ってるのか聞き取れない!」これはもしや頭を打ち付けて脳震盪で助けを求めて叫んでるのかも知れないと勘違いしかけた。しかし、相手も少しずつ息が切れ、落ち着いてきたのか、声を限りの絶叫がだんだんと人間らしく一語一語区切られ、罵る単語が聞き分けられるようになった。
「売女が!!、??、汚い、俺の??を返せ!!、??、売春婦が!、??今どこにいる?!」ところどころはまだ何を喋ってるのか聞き分けられない。しかしとにかく憎悪の激しさと怒りの半端ではない熱量だけは恐ろしいくらいにヒシヒシ伝わってくる。音量を一番下まで下げてもまだ携帯電話を持つ指が痺れる気がする。
「あなたはどこに居るのよ?鹿嶋君?どこでそんな声で叫んでるのッ!?」
知らぬ間にこっちも語調が荒くなる。
「お前の、??、ホテル街だよ!!汚い!!、??、どこだよ?!おおい!出て来やがれ!!」
「お酒でも飲んでるの?!」
「しらふだよ!!クソ女!!早くッ!!迎えに来てやったから!!出てこぉぉぉい!!」
ホテル街の路地に立ち窓々に向かって叫んでるのだろうか、信じられない。こんなことになるなんて!狂ってしまったのか、このままでは鹿嶋君が職質されてしまう。下手をすると注意喚起だけでは済まされず、検挙されてしまうかもしれない。お巡りさんを突飛ばしたりしたら一大事だ。
(あの人が勤めてる会社も色々と今まで目を瞑って来てくれてるが今度ばかりはもう駄目かもしれない。可哀想に、とうとう解雇かも知れない。彼、仕事だけが生きがいの社畜なのに・・・)
ユキは息の根を止めるように通話を切った。またぞろ手の中で震えだした携帯電話の電源をしっかりと落とした。ゾンビの首を胴体から切り離すみたいに。
(鹿嶋君が路頭に迷っても私がヒモにしてあげるだけだわ。思い知ればいい。私の仕事だって馬鹿にするもんじゃないって事。)
それからせっかくトイレに来たのでトイレでしか済ませない用を済ませ、その間に思い直し、電源を入れ直し、便座に腰かけて鹿嶋君からのLINE電話や電話をプツンプツン切っては着信拒否にして、事務所にかけ、周辺ホテルで喚いてる40歳くらいのそんなに見栄えは悪くない男が居たらお巡りさんが来る前に何とかできないかと相談してみた。今度はヒソヒソ声で。
「何とかって?」事務所の人間の間で電話が回され、鹿嶋君の顔を知ってるハルサメで止まり、彼が困った声を出した。
「つまりね、お巡りさんが駆けつけて来て大事になる前に、何とかできないかって話よ」
「そのナントカってなんですか?どうして欲しいんですか?」
「眠らせて誘拐するとか何とかよ!」
「えぇッ?!正気ですか?!それこそ犯罪ですよ!」
「一晩の事よ」たった一晩。
「そんなことやったことありませんて!映画じゃあるまいし!」
(嗚呼そうか、ハルサメは元からいるメンバーじゃない。図体はでかいがそれを活かして実際に何かをやったと言うことはない。)
「もう良い。アイ君にかわって。」
彼ならばとユキが指名替えして選んだのは弟と共に死線を潜り抜けてきた旧”園”からの幼馴染みだ。同じことを彼に頼むと、
「しかしその現場をサツに見られるとこちらが現行犯で捕まりますね。」
冷静に指摘された。「それでもやれと姐さんが仰るなら・・・」
ユキは大きく溜息を吐いた。
「もう良いわ。ごめんなさい。私情で会社に迷惑かけるところだった。もう頭を冷やしたわ。」
「そうですか?一応ホテル街を回ってみますが、姐さんもお仕事中では?」
「そうだった!行かなくちゃ。私も。ごめんね」
「いいえ。では」
「うん。」
テーブルに戻ると、火曜日の紳士は辛抱強く待ってくれていた。彼の皿は空になり、コース料理の序盤でワインのボトルが早くも空きかかっていた。ユキは急いで席に着き、自分の冷めた料理をさも美味しそうに平らげた。(もうここからの失敗は許されない。挽回しかない)ユキは普段なら遠慮するパンのお代わりもした。電話はあれ以来鳴らなかったが、次にお手洗いに行けるチャンスでアイ君からの報告が来てるかLINEを確認すると早くも決めていた。完全に鹿嶋君の気が違ってしまわないか、お巡りさんとウチの部下のどっちが先に彼を見付けてどんな対処をしてくれるか、気が気でなかった。
「今夜は僕の美月さんの様子がなんだかおかしいな。早くあなたの可愛いその頭から他の考え事を叩きだしてやりたい。頭の中まで独占したい。もう行きましょうか」
いつもならもっとゆったりとお酒を楽しんだり一週間のうちに見たお芝居や映画や読んだ本の話などで語り合えるのに、火曜の紳士がユキの手を握り締め先を急いだ。
「今夜も最上階の一つ下だよ」
スーツの胸の内ポケットからカードキーを出して部屋番号を見せてくれた。
「もうこの部屋には飽きてしまいましたか?」
「いいえ、絶対にそんなことは・・・」
ゆらゆらと瞬く夜景の綺麗な窓辺には花束が、ローテーブルにはリボンのかかったチョコレートの小箱が置いてあった。その薔薇の品種も、そのチョコレートの銘柄も、彼と知り合った頃に自分が何気なく『これが好きで・・・』と話した品である。いつもと同じ。変わらない愛情がありがたく、今目の前に居てくれている彼に熱中できない自分が情けなかった。
「嗚呼、いつもありがとうございます。いつ見ても綺麗・・・」
ユキは夜景の事を言ったのだが、
「うん。いつ見ても綺麗ですね」火曜日の紳士は窓の外を見ていなかった。彼がじっと見つめる側の自分の頬が火照ってくるのを感じた。
男性にも勘の鋭い人はいる。火曜日の彼は普段ならもっと大人しくて、何ならシャンパンを共に啜り添い寝するだけでも十分に満足だと言うタイプの人だった、普段なら。しかしこの日に限ってはユキの手からポーチを取り上げ、それを手近な台の上に置くと、すぐ腰を抱いて唇を求めた。性急な手がセーターの下、ブラウスの下にぐいぐい入り込み、シルクのキャミソールをズボンから引っ張り出し、レースの繊細なブラを壊しそうな勢いで留金を無視しグイグイ引っ張った。ユキは相手の勢いに飲まれ、ぐらぐら揺さぶられ、でもストップをかけて水を差しては悪いと遠慮して、出来るだけしたいようにさせてあげようと息を合わせる努力をした。パンプスで彼の足を踏んだり蹴ったりしてしまわないよう、爪やアクセサリーの尖った角で彼の手や肌を傷付けてしまわないよう。
まるで踊り慣れてない人同士がいきなり組んで必死に踊ってるみたいだった。部屋の明かりも落とさないうちにユキは半裸にされ、まだベッドへも辿り着かず、半分ずり落ちたズボンの中で脚が泳ぎ、目玉まで吸い出されそうな勢いの猛烈なキスに足がガクガクなった。
「行きましょう、ベッドへ・・・」息も絶え絶えにユキは相手のベルトを指先で捕まえ、誘導した。
火曜日の彼が頷き、二人してズボンと靴をその場に脱ぎ捨て、縺れ合ってベッドに倒れ込んだ。
彼の感触が体内に侵入して来た時、ユキはまだ左の肩からブラストラップを外そうと藻掻いていた。しかし絡まったキャミごと相手が手でシーツに押さえ付けているので、難しい。相手の肩に担がれている自分の両足首からはストッキングもまだ抜けていない。しかし火曜日の人がそのまま激しく突き出したので、すべてを諦め、その情熱に身を委ねた。窓の外では赤い観覧車がカラフルなライトを灯しまだ回っていた。(だからまだそんなに夜更けじゃない・・・)とユキは感覚的に感じた。嬌声を聞くにつれより興奮する人と知ってるので、声を我慢せずに上げた。
自分は薪、相手は炎、熱は増し、火柱は高く、ますます高く、薪もますます音高くはぜる。お正月なら自分は臼であり餅であり、彼は杵、そしてそれを振りかざすヒトだった。
「・・・ストッキング、ごめんね・・・」いった後、火曜日の彼が落ち込んでいるように見えたので、ユキまで泣きたくなって彼の髪をサラサラと撫でてあげた。
「ストッキングなんてそこらじゅうで売ってるから・・・」
「いや、そんなことを言ってるんじゃない・・・」
彼もまた繊細な人だ、とユキは思った。襲うようなやり方で体の欲求だけが尽き果てたことに不本意な寂しみを感じてしまう人なのだ。分かり合い求め合って一緒に同時に気持ち良くなりたいのである。とても要求が贅沢なのだ。性に対してある意味貪欲、グルメなのだ。理想が高すぎほとんど奇跡に近いものを求めてしまってる事に自分でも気付いているから、それなら、手に入らないなら無理に手に入れようとしないだけなのである、普段なら。
「・・・お風呂入ろうか・・・」
二人とも潔癖の気がある。いつもなら部屋に入ると真っ先にシャワーを浴びる。浴室の大きな窓からも夜景が見えるので、湯を溜め泡風呂に苺やシャンパンなど持ち込んでそこでのぼせるまで過ごすことが多かった。そして清潔なベッドで隣り合って眠るだけ。朝までただ一緒に過ごすだけ・・・
今日は何かが最初からいつもと違っていた。
「今日は、何かあったんじゃないのかな」
ためらいながらもやっぱり聞かずにおれなかったらしく、火曜日の紳士は聞いてきた。
「私生活でのトラブルが・・・ちょっと、会社にも影響を与えそうな・・・結構深刻かもしれなくて・・・」ユキは言葉を濁した。
嘘を吐くのが下手ならば本当のことをちょっとだけ言い、後は濁す。そうすれば相手が好きなように解釈してくれる。相部屋で先輩に教わった術。今も活かされている。
「差し迫った状況なのかな?」火曜日の紳士はまだユキが何も言いだす前に頷いた。
「そのようですな。顔を見れば分かる。朝までは一緒に居る約束だけれど、今夜は帰りましょうか」
慎重にユキは首を横に振った。演じだすと入り込む彼女は、今や本気で帰りたくなくなってきていた。
「いや。僕が帰りたい。あなたも今日は帰った方が良い。トラブルは出来るだけ芽が若いうちに解決した方が良い。僕にも多分同じような経験はあります。また来週落ち着いてあなたにお会いしたい。」
氏のきっぱりとした態度に、これは問いじゃない、とユキには分かった。決断権を持つのは自分ではない。彼が帰ると言ったら、帰るのだ。
「分かりました・・・」本気で寂しくてユキは火曜日の人の肩に唇を寄せた。週に一度しかない彼との時間を自分が蔑ろにしたことで台無しにしてしまって本気で悔しかった。
同じ湯上りの香りを漂わせ、タクシーに乗り窓越しにバイバイと手を振り合って彼の姿が見えなくなると、しかし、すぐ頭が切り替わった。
ポーチから携帯を出し着信拒否設定を全て解除する。19時から鳴り通しだった鹿嶋君の番号からはもうかかって来ていない。途中からは非通知設定でかけまくって来ていたようだが。今はアイ君か警察に保護されてるのか。直接今から電話をかけて大丈夫か?とりあえずアイ君に電話を掛けてみる。
「日本橋へ行ってみてください。」アイ君は言った。「自分も様子を見て来て今事務所に戻ったところです。ユキ、ユキって叫びまくってた男が居ましたけど・・・」
「嗚呼、その人どうなってる?今」
「大丈夫ですよ。うちの息のかかった者に保護させてます」(相変わらず色んな名前でお呼ばれで・・・)
「ありがとう」「運転手さん、」ユキは運転席のシートの首に取り付いた。「行き先変更で。日本橋へ向かってもらえません?あの、橋を越えたところ、グリコやらの看板の裏側へ」
「はいはい。一粒300メートルね」運転手さんは要領良くUターンした。「生産停止になっちゃったね」
「えっ?そうなんですか?あのハート形の・・・」
「寂しいねぇ。年々小っちゃくなっていって、ついには消滅・・・」
ユキは前のめりに車窓の風景を眺めながら頷いた。
鹿嶋君はパトカーの後部座席に座らせられていたが、ちゃんとアイ君が手を回した警部がピタリとそばに付いてくれていた。年頃が近い二人は自販機で買ったホットココアを一緒に飲みながら雑談し、警部が彼をなだめてくれていた。工事中の建物の壁沿いに停めたパトカーはサイレンは鳴らさずに赤い警報灯だけ回しており、車の窓の中まで珍しそうに覗き込んで行く外国人観光客や酔った通行人の目からも、奥にいる鹿嶋君の顔は見えにくく隠されていた。本人はそんな事に構っていないみたいだっだが。
タクシーを降りて走って近付いて行くと向こうから立ち塞ぎ出迎えるように若そうな警官の相方が近付いてきた。マスクと制帽で顔立ちは全然分からない。
「あの、彼がここに居ると聞いて・・・」
「奥さんです?」
「はい?ええ、・・・御迷惑をおかけして・・・」
「ゆきさんですか?」
「はい。そうです」
「誰から連絡が行きました?」
「えっ・・・と・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・何か身分証お持ちですか?」
「いいえ、」持っているがそんなもの出すつもりはない。それにそこに記載された名前はユキではない。「主人を連れて帰ってもよろしいです?」
警部が若い警官の背後に現れた。「奥さん。旦那さんがお待ちかねでしたよ」
ユキは急いで若いひょろりと背の高い新米警官の脇を通り抜けた。若い警官は不信感を滲ませ不服そうながらもユキの後ろを黙ってついてきた。
「あなた、行きましょう」名前で呼ぶのは避け、開いた窓から手を差し入れて肩を叩き、呼びかける。鹿嶋君は車中からユキを見上げ、その唇がひん曲がったが、黙って渋々パトカーから降りてきた。のっそりと。
今朝剃ったばかりの髭がもう伸びてまだ明けてもいない一夜でげっそりやつれたように見えた。パトカーのすぐ前に停まってるのが鹿嶋君の愛車だった。
「運転できますか?」厳しい目をした新米警官が容赦ない口調で鹿嶋君に聞き、ユキが答えた。
「私が代わりに・・・」
「いや、きみは免許を持ってない。僕が運転する」鹿嶋君がTPOをわきまえぬ物言いをし、若い警官はますます眼を鋭くしてユキを見据え、何か言いたげだったが、柔らかい物腰で警部が見送ってくれた。
「ではお気をつけて。仲良くね」
テーマパークの人気キャラみたいに警部がのほほんと微笑んで手を振る隣で、正義感にまだ満ち溢れていそうな新米警官が憮然と立ち尽くしマスクと制帽の間の目をギラつかせて、走り去り際の鹿嶋君の車のナンバープレートを睨んだ。
「これで満足ですか?旦那様?」パトカーが見えなくなってからもしばらく黙り続けていたが、ユキから口火を切った。鹿嶋君はもうしばらく黙っていた。今日の分だけでなく声を使い果たし喉がガラガラなのかもしれない。
「私の仕事を潰してちょっとは清々したんでしょ?まだ火曜日よ、何か言ってよ?のど飴食べる?」ユキは答えを待たずポーチから取り出した飴の個包装を剝き鹿嶋君のへの字の唇にぐいぐい押し当てて歯の間に無理矢理捩じ込もうとした。彼は歯を食いしばり犬のように唸り首を振り腕で払いのけ、飴は後部座席の方へ飛んで行った。
「あ、そ」ユキは自分のために飴をもう一つポーチから取り出して今度は自分の口に入れた。
「あなたは頭の切り替えに時間が必要なのね。私はもうあなたの隣に居るのに。この上、何がご不満なの?
・・・ちょっと、今日のことで仕事上連絡を入れなくちゃ。店に」
ユキはLINEを開いて事務所の者とやり取りした。
『火曜の紳士に返金しておいて。今日の分の私の代金と、ホテルの宿泊費、ディナー代も。それに彼の会社にお花を贈るわ。これは私がやっておく。(今夜は彼から贈られた薔薇の香りの香水をつけて来るのもポーチに入れて持ってくる事さえも失念していた。すごい失礼なことをしてしまった。せめて薔薇の花束を贈りたい・・・来週の火曜まで花弁が落ちきらない蕾の薔薇を・・・)」
『あの方って独身でした?』
『ええ、そうよ。前にもオフィスに私を招いてくれたことがあった。彼自身が。そこはぬからないわ。絶対に花を贈っても困らせない。喜んでくれると分かってる。』
『なら良いんです。了解』
事務所とのやり取りを終え、相手は誰だったんだろうと考えながら携帯電話を鞄に戻す。弟亡き後、代表としては一応自分を立ててくれているが実質会社を支えているのはアイ君だ。きっと彼がさっきのLINEも返信してくれたのだろう。いつも事務所に寝泊まりして仕事に明け暮れている。一体何をそんなにすることがあると言うのか。自分の人生さえも投げ打ってまで。
一時期の弟同様、中途半端に偉くなりすぎ責任感を持ってしまうと、男の子って何か研ぎ澄まされた切っ先の鋭い先端みたいに孤立して脆そうで、かといって手伝えることはないかなどと迂闊に手を差し出そうものなら噛み付かんばかりに拒絶してきて、(まるで食べている最中の飼い馴らせてない犬に手を出すようなもの、)大事な大事な仕事を横取りさせるものかといきり立つ。可哀想で、寂しそうで、痛々しくて、見ていられない。
「風呂から上がりたての匂いをぷんぷんさせてきやがって・・・!」
鹿嶋君がついに話す気になったようだ。
おぅ、受けて立とう、夜は長いぞ、と、ユキは腹を括り返答のために大きく息を吸い込み、肩を怒らせた。
「分かってるのか、きみは?自分の人生を狂わせた職業で今はきみ自身が・・・若い他の女の子達を周旋してるんだ!・・・ポン引き・・・斡旋・・・斡旋婦だ、そんな言葉があるのか知らんが・・・売春婦よりも酷いよ、とにかく。きみって、凄く酷い奴なんだよ!そんな仕事、胸を張って人に言える職業なのか?信仰する神が居ないなら、自分の胸に手を当てて聞いてみろよ!自分自身に対して恥ずかしくないのか!?」
ユキはボウッと幕を張ったような瞳で鹿嶋君を真っ直ぐ見詰めていた。無表情。何層もの無表情、その奥に、聞き飽きた、言われ慣れている罵詈雑言を右から左へ聞き流す完備されたルートがあるのが見え透いた。それでも、鹿嶋君ほどユキの琴線に触れる恋しい相手から、意図して貶してやろうと投げかけられられた尖った言葉をただ黙殺するには忍びなかったらしく、一応返事を返してくれた。
「私を見て。鹿嶋君。今の私、胸を張ってるでしょ?
・・・人に言える仕事かどうかですって?・・・職業を何故他人に触れ回らなければならないの?他人には関係ないことでしょう?・・・例え今は世間に顔向けができない心境でウチで働いてる女の子達でもね、彼女達それぞれの人生の、ここを今、歯を食いしばって踏ん張って乗り越えねばならないと言うところで戦ってるのよ!誰にも頼らず、自分の身一つで・・・! 私は出来るだけ彼女たちが働きやすいように環境を整え周辺を整備してる。客、女の子、両者の秘密を守り必要なら心身のケアをして。立派な仕事よ。私を貶めた胸糞悪いやり方をする奴らとは違う。同業ではあっても正反対のつもりよ。今でも、ライバル店には忌々しい経営方針を執ってるのがいるわ。女の子をまるで物のように扱ったり・・・ウチのやり方とは絶対に真逆・・・あんなのは、敵よ・・・!」
何か思い出しでもしたのか、ユキは目に炎を灯らせ、下唇を噛み締めた。
「・・・あなたにそれが分からなくても構わないわ。自分にさえ分かっていれば…業界にいる仲間達には分かって貰えてるし、だからそれで充分なの。・・・
・・・胸を張れることが職業を選択する上での第一の決め手というのは、あなたにとっての話でしょう?あなたが勝手にご自分の職業に胸を張ってれば良いんじゃないかしら?・・・そうじゃない人もいる、職種を選べない子達、そういう状況に追い込まれてしまった子達もいる、それに好きで天職と考えて楽しく働ける子だっているって事も分からないねんね君なの?あなたって?・・・」
(だとしたらごめんなさい、見損ないそうだわ、鹿嶋君…)ユキは目を閉じ、ギュッと何かを堪えるように目を瞑り、それから溜息と共に再び目を開けた。
「煙草頂戴。吸ってみたい気分だわ、今なら」
「どうぞ」
鹿嶋君は煙草とライターを貸してあげた。カーブの多い山道の運転中で美貌の鼻先に火を差し出して点けてあげることができなかったのだが、ユキは一口目でゲホゲホ咳き込んだ。
「あげる」ユキは火を点けた煙草を鹿嶋君に咥えさせながらピンと来た。
(あの灰皿の吸殻…全てに口紅が付いてたのはこういう事情だったのね…由貴さんが毎回この人に火を点けてあげてたんだわ…自分が吸いたくなると相手にも吸って欲しくなるのか、・・・彼女の方がきっとこの人よりもヘビースモーカーなのかもしれない…そんな気がするなぁ・・・)
鹿嶋君のこちら側の横顔を横目に見ながら、この場には居ない由貴さんを想った。
(常識的な二人。高校時代から優等生同士だった恋人達。二人は最初から今もお似合いだなぁ・・・高校時代から、きっと今も、手を染めた最大の悪事は喫煙くらいのもの・・・本当に、よくお似合いの二人…)溜息が出そう…
実際ユキは溜息を吐いていた。鹿嶋君は急にシンと静かに内に沈んでしまって無口になったユキの物思いする頭の中を見て見たかった。
(ライバル店、忌々しい経営敵と言ったな・・・彼女、今でも危険な水にどっぷり身を浸してるんだ…気が休まるときはあるんだろうか…誰か本当に心の底から信用できる人間がいるのか・・・?誰か、仕事を代わってやってくれる後継者は育ててあるのか?いつまで続けるつもりなんだ、こんな危なげな商売を・・・?彼女の経営してるハイクラスの店では政治家や一角の名士も顧客にいるという。そんなの情報漏洩を恐れていつ口封じにまとめて消されないとも限らない・・・それに経営者間の抗争なんて勃発した日には・・・このペラペラに吹けば飛びそうな薄い肩幅の平和主義な優しい女に太刀打ちができると言うのか・・・?これまでも戦って来たって・・・これからも今も戦い続けているのか・・・僕には想像もつかない世界で・・・・?
・・・口を閉ざしてしまったのは…頑なな僕に何を話しても無駄と、理解を求める気も失せたから・・・?)
目を合わせてくれるかとチラチラ様子を窺ってみたが、彼女はこちらにも、窓の外の夜景にも気付かない。
「もうすぐだよ。一瞬だから」
外を見るよう促した。
「何・・・嗚呼、夜景スポット・・・?」
鹿嶋君はそのカーブを出来るだけゆっくり走行してくれた。星掬いの丘。街の、天の、両手でも受けきれず溢れそうな瞬き。遠く近く、手の届かぬ光・・・
「綺麗だったね・・・」
「Uターンして。もう一度見よ?」
「ハハ」欲張りだな、きみらしい・・・鹿嶋君はユキの気が引けてそれでも少しホッとした。
「きみに見せるためにここまで来たんだ、ご所望の限り何度でも」きみが嫌なことを少しの間でも忘れていられるなら・・・
行ったり来たり、峠を越えてしまわず、町へも降りてしまいきらず、二人は無言でドライブを続けた。
街灯の乏しい山道、次の光の溜りからその次の光の溜りへ繋がるヘッドライト、遠い別の車のテールランプが見え隠れする・・・そして一瞬の、息を飲む美・・・それはすぐにリアガラスの更に彼方へ消え去り…もう一度、もう一度と幼子みたいにねだるユキ・・・
(子供の頃のこの子に誰か夜景を見せてやった大人は居なかったんだろうか、信頼のおける近親者は・・・?両親は居なかったと聞いてるが・・・他にも誰も居なかったんだろうか…?・・・この人の住む世界は僕の世界と隣り合わせにあって、一般人には知られることが無い闇夜なんだ…日の出の来ない・・・日没から夜明けまでの世界・・・僕みたいな部外者が生半可に首を突っ込めば、手痛く排除される・・・)
ユキは鹿嶋君の横顔越しに由貴さんに想いを馳せ続けていた。
(今もこの夜景の中どこかでお腹に命を宿してる由貴さん…母子ともに眠ってるかしら、それとも眠れないで今も窓からこっちを眺めてるかしら・・・彼は違うと言い張ってるけど…お腹の子は鹿嶋君の子なのかな・・・きっと可愛いに決まってる・・・彼の子じゃなかったとしても誰との子でも、だって彼女可愛い顔してたもの・・・パートナー選びのセンスも良いし・・・
・・・高校時代のあの子は、男子達の憧れの的。これぞって感じの清純派。飾らなくても、ノーメイク美人。一言も喋り出す前から、クラス中みんなが彼女の声に聞き耳を立ててる感じ。由貴ちゃんがどう考えるか、どうしたいかでほとんど決まってしまうホームルーム・・・クラス分け初日の委員決めや体育祭の振り分けも文化祭の出し物も…)
(嗚呼、こんなお嬢さんならきっと・・・)とよく妄想の糧にした。
(・・・お家に帰ったらピアノのお稽古とかバレエの習い事とかに行くのかなぁ・・・本気で仕事にするつもりじゃなく子供時代の記念にするための余分な習い事に打ち込める青春・・・お父さんに肩車されて動物園に行った幼稚園の頃の写真なんかが飾ってある部屋で・・・)
一つ下の学年に妹がいることを知ってからは、もっと妬ましく羨ましくなってしまった・・・
(当然のように兄弟姉妹で同じ屋根の下に暮らせる贅沢…それが贅沢だと知り様がないと言う贅沢・・・望まれて生を受け存在自体が必要とされていて常に何の見返りもなく愛してくれる親がいる・・・そしてそれが当たり前だという日常、そういう人生・・・あんな女の子に自分も生まれていたら・・・)あの頃、高校に通い出してすぐから、あの子が羨ましくて憧れで、気になって気になってしかたが無かった・・・予定外に早く授業が終わってしまいバイトまでまだ時間が空いた日など、下校するあの子をお家までつけて行った・・・ほとんど想像通りの小綺麗な一軒家にあの子は住んでいた・・・多分この部屋なんだろうなと思う出窓の日当たり良さそうな寝室まで目星をつけたほど・・・
(鹿嶋君、あなたが由貴さんを見付けるのが先だったか、私の方が先だったのか分からないわよ・・・)
ユキは妬ましいほど憧れの由貴さんの持ち物から、好きなバンド、趣味、お菓子の好みまで、恋する男子生徒以上に彼女について詳しかった。同性の強みで、愛用の下着のメーカーまで知っていた。由貴さんの好みは当時の良家の娘さんがこぞって好きな主流の流行から逸れていなかった。ユキは由貴さんを取り巻く大親友たちからは遠ざかっていながら、むっつりと秘かに観察眼を光らせ続け、可憐な小柄なままの彼女よりもグングン背丈ばかり伸びてしまう自分の背骨を呪い、自分の胸がふっくらと柔らかそうな彼女のよりはるかに膨らみ方がのろく硬いままなのを呪った。
彼女と同じ物を食べれば背骨の成長が止まり生まれついての気品が身に纏えるかと思って、グミを一生懸命モグモグ嚙み、芸能情報に詳しくなった。自分を出来るだけ彼女に似せたかった。なれるものなら彼女になってしまいたかった。
これはほぼ恋心に等しかった。どう願っても自分の手には入らない物の全てを生まれながら持っていた由貴ちゃん。その存在自体が幻、夢の具現系であり、目が離せないアイドル…クラスのヒロイン・・・
同級生であり、私の名付け親にもなってくれた由貴さん・・・本人はそんな事、露とも知らないでしょうけれど…
彼女が捨てた鹿嶋君をユキが拾ったようなもの・・・
今となっては、そういう風にも考えられなくもない…
そして今や、彼女との間で鹿嶋君を貸し借りしてるようなものである・・・
「鹿嶋君」刹那の幻のような本物の夜景を目に焼き付けようとしながらユキは呟いてみた。
「あなただけよ、私が好きになった男の子は・・・」
鹿嶋君の耳にはその言葉がちゃんと届いた。
「結婚しよう」
「・・・」
しばらくタクト君の提案を宙に浮かせ、余韻を見詰めていた。それからユキはそろりと両脚を揃えてベッドから降ろし、二人分のコーヒーを淹れに台所へ向かいかけた。急いでタクトくんはユキの腰に腕を回してドスンと尻もちをつかせ、ベッドへ引き戻した。
「聞こえなかったふり?」
ユキは笑い声を上げた。切ない笑い声。落ち葉の上にさらに枯葉が落ちて来て乾燥した風に吹かれて立てる音のような。
(寂しいなぁ、笑って誤魔化そうと言うんだな)、鹿嶋君は思った。
爪を立てぬよう、鹿嶋君の腕を外そうとして、ちょっと身をくねらせ、頑張ってみたものの、力で勝ち目はないと早々に諦め、ユキは消え入るような声で
「私達は生きてる世界が違う・・・」
「同じ世界に生きてる」
二人は10代で知り合った頃から何度となく繰り返してきた喧嘩の中で、何度も何度も同じこの台詞を互いに投げ合ってきた。
「由貴さんの事はどうするの?彼女と赤ちゃんの事は?あの子には貴方が頼りなのに」
「僕の子供じゃないと思う」
「それは、遺伝的にって事?それとも、心情的にそう思いたいの?」
「両方だよ」
ユキは大きく息を吸い込み、吐き出した。
「私は貴方を頼らなくても生きていける。子供もいるし、結婚もしてて、現状何も不足が無いのよ」
「頼る頼らないじゃない。それなら僕がきみに頼んでるんだ。異常な婚姻関係、不幸にしか見えない環境から一度出て来て、違う幸せの在り方を知って欲しい。僕との。平和で平凡で退屈なくらい、安泰だよ。僕を幸せにしてあげると思って、こっちにおいでよ。時間はかかるかもしれないけど、いつかは必ず分かって貰えるはずだから・・・きみにも」
「もう分かってる。貴方と一緒に居られたら私は幸せ。今こうしてて幸せだもん。(ユキは鹿嶋君の腕に頬を押し付けた。)これがずっと続くってことなら、幸せそのもの・・・」
「じゃあ、良いじゃないか…」
「違うの。幸せのために結婚するのじゃない。私が今してる結婚は無効にはできない契約なの。結婚って、契約なの、私にとって。あなたとはそんなこと、・・・別に契約なんてしなくても今もう幸せよ!このままで・・・!」
「こんな宙ぶらりんな状態じゃ僕が落ち着かないんだよ!」
「・・・私にどうしろと言うの・・・」ユキの声がぐっと低くなった。「・・・何もかも投げ捨てて来いって・・・?あたしのこれまでの全て、あたしと言うものの全てを消し去れと・・・?」
鹿嶋君はユキをベッドに押し倒し両手両足をきつく巻き付けて力づくの祈りを込めた。「うん」
腕の中で強張るユキの体を感じた。その細さ。可愛い小っちゃい筋肉の中の可愛い小っちゃい骨がパキポキ鳴り、それでもさらに力を籠め続けると、肺が絞られ、彼女の喉から(ぐぐ…)とくぐもった息が漏れた。これ以上力を加え続ければ殺せる。簡単に関節を砕き臓器を圧し潰して死なせることが出来る。鹿嶋君にそれが分かると同時に、ユキにも分かった。ユキの体から緊張が解けた。柔らかく、全て受け入れた肢体。(そうだ、この人は死ぬのは怖がらない。ただ生きているうちに僕だけのものにはなってくれない人なんだ…そうなんだった、いつも・・・昔っから・・・)
そう思うと、泣けてきた。この感慨は初めてのものじゃない。10代の終わりにも何度も味わって来た、苦い、既視感ある絶望。ギュッと閉じた目からも、涙があふれ、ユキの髪を濡らした。鼻水も垂れてきて、余計に情けない気持ちになって来た。
「こんなに愛してるのはきみだけなのに・・・」こんなに分かり合えないなんて…
(私もそう。愛してるのはあなただけ・・・)でも分かって貰えないのもよく知ってる…とユキは胸の中で思った。強い力で締め付けられ過ぎて、声を出すことも息を吸う事も叶わない。(本当にもう死ぬ・・・本望だけれど。この人に絞め殺されて死ねるなら・・・)と、気が遠くなりかけたところで、鹿嶋君がフッと力を抜いた。ユキの肺、体はゲホゲホ咳き込んだ。意思は死にたがっても、肉体は無関係に生き延びようともがいた。涎が、涙が、洟が出た。鹿嶋君はまだ何か言っていた。
「結婚してるって言ったって、もともとが紙の上での形だけじゃないか?それも、隣合って並んだのは偽名同士で、顔も見たことが無い。その相手もとっくに死んでて生きてさえいないのに・・・生まれてすぐに取り上げられた子供だって今どこで何してるか分からないんだろ?」
「捜そうと思えば捜せるのよ。でも、その必要を感じないだけ。この世に、私のお腹で10ヶ月すくすく育ち産道を通り抜けて生を受けた赤ちゃんが、生きてる。どこかで。
時々、眠れない夜に想像するの。無限の宇宙、星々の間で、孤独な私が一人死に、この肉体が朽ちた後も、私から生まれ出た子はまだ生き続けるんだと。その子は私の事を知らないはずだけど、でも、少し私に似ていて、それでまだまだ歩き回って、食べたり、希望を持ったり、友達を作ったり、裏切られたり知らず知らず自分が人を傷つけたりしながらも、暮らし続け、そのうちいつか大切にしたい誰かと出会って愛し合ってもっと小さな子をもうけたり、する可能性があるんだなぁぁ・・・って。
成長した姿も見たことないけど、今年18歳なのだけは分かってる。
・・・だから、うちの店に応募して来る子が18歳だとね、ついつい、思い入れを込めて念入りに話を聞き、ジッと見詰めちゃう。それだけじゃなく、街中やどこででも、18歳くらいの子を見かけるとね…別にどの子が私の赤ちゃんかを見極めなくたっていいのよ、みんな可愛く見える、その方が良い。若者のどの子かが自分の子供で、どの子がその子か分からないことによって、みんなその可能性がある子供達なんだから・・・」
(昔そう言う事を言ってたなぁ、そう言えば・・・)と鹿嶋君は感慨に耽った。(あれは彼女自身が子供だった頃のことだ。『赤ちゃんたちは富裕層の子も貧困家庭の子も、みんな一様に生まれたらすぐに親から取り上げて一緒くたにして国や地域で平等に公に育てるべきだ、』と彼女は言っていた。『どの親が自分の親か、どの子が自分の子かも、子供にも親にも誰にも分からないようにトランプみたいにシャッフルして、面倒見の良い親が子供達全体の面倒を見、望まずに親になってしまった人は子育てから逃げられるし、愛情が余り過ぎて手が出てしまう親も、誰を殴れば良いのか分からない、そういう風に大きな施設が子供を育てるべきだ・・・』とかなんとか・・・未だに夢みたいなものを見続け追い続けてるんだなぁ)と鹿嶋君は思った。(しかし、なるほど、確かに彼女は今では小さな一国を形成しある程度まで夢みたいな空想を実現させてもいるのだ・・・)
「・・・つまりね、子供は誰の子であっても可愛いの。」ユキはうっとり自分の声に酔いしれ語りに自分で夢中になりだしていた。
つまり、私は貴方を頼らなくていい。でも由貴さんは、貴方を選んで必要としてくれてるでしょ?子供の父親は貴方だって、彼女は主張してるわけよね?」
鹿嶋君は急な第三者の名前の登場に眩暈を覚えた。
「え?何で今、僕たちの会話に由貴が出てくるわけ?きみが身を引きたいと言ってるのは分かるよ。でもその言い訳に、あいつとそのお腹の子を利用しようとしてるのが気に食わない。綺麗に辞退すると見せかけて由貴の事を持ち出してくるなんて性悪女・・・」
「いいえ!いいえ、私が言ってるのはこう言う事よ、
私はまだ仕事を辞められない。まだまだ辞められない理由があるの。若い子、下の子達の面倒を見ながら育成しなくちゃいけない。まだ引継ぎの終わってないお客さん、多分別の子になんて引き継がれてくれないお客さんの面倒を私がこの体と魂で最後まで責任もって見なくちゃならない。あなたにそれが耐えられる?16の時のあなたには耐えられなかった。今は違うと思う?いいえ、耐えられない。あれから20年が経った今も、これから20年が経とうとも。それがあなたなのよ。私が好きなタクト君。あなたって、そういう人なの。一度に一人しか愛せず、そうじゃなきゃ自分さえ許せない。そしてそれを相手にも求める。きつく求め続ける。命懸けくらいの生真面目さで。
綺麗事を地のままいってるのは貴方の方なのよ、だからあなたは綺麗。細胞の一つ一つに至っても。穢れ知らず。そのままでいて欲しいの」
「きみ、僕に何を望んでるのさ?」鹿嶋君は話が見えなくなって音を上げた。
「私があなたに望んでる事を聞いてみたい?・・・
・・・それを私に言わせるなんてね…
私は…私は、あなたが幸せになれることを望んでる。あなたが望むものを手に入れて…」
「じゃあ・・・」
「違うの。あなたが欲しいのは幸せな家庭なんでしょ?・・・細やかに見えて、そんなものはほとんど幻よ?・・・
・・・男冥利に尽きると思う。あなたが由貴さんと結婚してあげたら、あなたをもっと好きになるかもしれない、私。そして願わくは、私のことは愛人にして欲しい。彼女も表面上は許さないでしょうけど心の底では許してくれると思う。あなた方ご夫婦が何か困ったときには、友人として私も助けられる。」
「きみって…」言ってることがさっきと真逆、矛盾過ぎて話にもならない、それに無邪気を通り越して狂ってる・・・由貴にも俺にも失礼なのではないか?
憤りに震えだしたタクト君の腕にそっと乗せようとした手を激しく振り払われても、ユキは落ち着いた微笑みを保った。
「うん、怒ると思ってた。でも私の本心を聞きたがったのはあなたよ。私はちゃんと包み隠さずぶちまけちゃっただけ。今あなたを必要としてるのは私じゃなくて由貴さんでしょ・・・」
「必要としてるかどうかじゃないんだよ、結婚て・・・」
「いいえ、結婚って、必要とする人にとっては切実に必要な合法的救済なの。保険なの。保護なの。愛とは等しくもありまた全く別物でもある、手続きなの。
私とあなたは今、愛し合ってる。この事に関して私は自信しかない。それ以外の何も必要がないくらいに自信があるの。私とあなたの間に通う愛情に書類や法律や他人の承認やハンコは要らない。漲る自信だけあったらそれだけでいいの。この気持ちをどこかに書き留めておく必要性を感じない。
でも、由貴さんは?あの子には誰かが必要なんでしょう。それをあの子は『あなたが良い、あなたしかいない』って言ってるんでしょ?そしてあなたは、今は面と向かってる私だけを好きなことにしてくれてるけどね、情も責任もあの子に対してあるのよ」
そう言われると鹿嶋君は内心弱り、潔白なはずなのにも関わらず焦り、意識的に突っぱねようとユキを睨みつけたが、そこには結構な意志の力が必要だった。
「由貴さんの事は私には無関係、部外者が口を出すなとあなたは思うかもしれない。でも一般的な立場から見てもね、プロポーズしてくれてる相手の背後に妊娠中の人妻の影が見え隠れしちゃってるのは、気にかかるものよ。口を出したくもなるわ。」ユキはここぞと畳みかけて来た。
「・・・由貴の家庭の事情は僕にも…僕も悪いかなというところはあったけども・・・可哀想だとも思ってるけど…」我ながら口を開けばしどろもどろである。
「あなたが居なかったら子供をおろしていたとまで、由貴さんは言ってるんでしょ?」
「それも嘘かも知れない…」
「嘘だとしてもよ。たとえ全てが嘘だとしても。もう後戻りはできないところまで赤ちゃんが育っちゃってるのよ。子供が生まれてくる事だけはとにかくどうしようもなく真実なんでしょ」
「僕の子じゃな・・・」
「例え遺伝子があなたの子じゃなかったとしたってね、あなたの子だったら良かったのにと母親は思ってるの!見え透いた嘘でもなりふり構わずにあなたの子にしたがってるの、自分がこれから生む赤ちゃんを!彼女は、由貴さんは、あなたと育てたい子を今これから現実に産もうとしてるのよ!」
鹿嶋君はユキの金切り声に耳がキンキンし次いで言葉の内容の重みに途方もなく頭がボーっとなって来た。
唯一確かに分かること、それは、結局、彼の望みのままにはユキは手に入らないらしい、ということだけ。
いつものごとく蝶のようにヒラリと彼の手から逃れ、彼女は裸足の爪先立ちでバレリーナのように歩いて台所に立ち、こちらに白い背を向け、寒そうに自分の肩を抱きながら湯を沸かし始めている。かわりに、深刻な子育て問題を彼の腕の中にズシリと置いて行った。
こうなってみると初めて、何故さっきユキが子供の話なんぞをし始めたのか、点と点が繋がって見え出して来た。ユキの頭の中では物事はシンプルな一つの円でしかなかったのだ。
・・・子供はできるだけ大勢の大人が協力し合って育てなければならない。子育ては大変なことだから。・・・
この世に遺伝子は遺したけれども自分の手では自分の子を育てられなかったユキ・・・そのせいで全ての子供が可愛く見えてしまうという逆立ちした発想、自分を愛するが故、愛人になりたがるという相変わらずブッ飛んだ野望、矛盾に満ちながらどこか確信を突いている真理。彼女の愛は広域過ぎて、ライバル視すべきはずの由貴ですらも覆いつくしている。彼女の愛には独占とか、排除とかそんなみみっちさがない。ドーンと世界中宇宙中全て愛しつくすようだ。その中でも特に中心に鹿嶋君を置いて。ようやく分かって来た。ユキ、彼女は太陽だ。皆の女神。決して一人だけの物にはできない女。
ユキがこちらに戻って来た。湯気の立つカフェオレを縁ギリギリまで波波に注いだマグカップを片手に二つ、もう片方の手には焼きたてライ麦パンの乗った小皿。小さい平皿に危なっかしいバランスで傾いたマヌカハニーの小瓶と蜂蜜スプーンも詰め込まれて乗っている。
「またそんな欲張って・・・」鹿嶋君が仕方なく立ち上がりカップを受け取ろうとするとそれまでギリギリに絶妙なバランスを保っていた両方の手の力が一気に抜けてユキはへらへら笑い、ポタポタ雫を床に溢し、スプーンとパンも順番に一つ一つポトポト落とした。彼女は一見いかにも危なっかしげに見えるけれども、放っておくほうが案外一人で最後まで上手くやりおおせるのだ。助けようと手を出したらそこからなし崩し的に全部ダメにしてしまう。
「手を放して」
「その机に置くよ」
「あっ・・・あっ・・・」
「何だよ。持ってるって」
「放してってば!」
「・・・もうこのまま、置いた方が早いよ・・・」
二人はやっとどうにかカフェオレとパンをベッドサイドの小机に載せた。そこからはホッとしてモグモグ黙って食べ、ズルズル啜って飲んだ。
「・・・三者面談するかなぁ・・・」先に食べ終わった鹿嶋君が歯を舌先で点検しながらユキを見詰め終わった後、呟いた。他にすることもないので声に出して言ってみたかのように。
「うん。それが良いと思う」ユキは素直に頷いた。「由貴さんと旦那さんとあなたと。三人で話すことだと思ってた。口を出してごめんね、あなたの事なのに」
「いや。プロポーズされたから口を出さざるを得なかったんだろ」
「まぁ、うん」
「・・・旦那の前でも僕に言ってる事と主張が同じなら、由貴の気持ちに矛盾は無いと言う事だな」
「そう言う事」
「・・・うん・・・」
言葉とは裏腹に煮え切らない気持ちだった。うん、とは言ってみたものの、鹿嶋君はそれでもユキに熱を込めた視線を送り続けた。僕が生涯添い遂げたいのはきみなのにという想いがありあり伝わる視線だった。ユキは鹿嶋君の寝間着のシャツの裾でパンの油分の付いた指を拭い、
「・・・ねえ、こう考えてみて。」温かいマグカップを持っていたことで温もりを得たユキの細い指が鹿嶋君の手の甲に触れ、指を掴み、手のひらを表に返して、両手で彼の片手を包み込んだ。
「私達に今から赤ちゃんが出来たとする。その子は女の子かも知れないわよね。男の子だとしても、凄く可愛いと思うけど。・・・勉強でも習い事でも、本人が興味を示してやりたがることなら何でもできるだけやらせてあげたいと思う、それは多分、私と鹿島くんも同じかな?賢くてもあんまりお利口さんじゃなくても、共学の飾らない小中学校へ行かせたいのが私の希望。でね、そこからよ。その子が高校生くらいになった時。私は、私の世界観、価値観、自分の見て来た目線でその子に物を教えようとする。」ユキは真剣な目で鹿嶋君の目の奥を覗き込み、二本の指を立てて、自分の二つの目に突き刺す仕草をした。「この目が見てきた世界の本質を。私は、我が子に、自分のして来たのと同じ仕事を経験させようとする。」
(きみがして来た経験?仕事?・・・)鹿嶋君はザッと背筋一面に鳥肌が立ち、ユキの手に包まれていた手をサッと引っこ抜いた。
「まさか、きみは・・・そんな・・・」
「ほらね。」悲しげに悪戯っぽくユキの瞳が失望して、鹿嶋君の視線から逸れた。
「私達の生きる世界。違いが見えた?ズレ幅がもう大き過ぎる。修正がきかないくらい・・・」
鹿嶋君が苦虫を嚙み潰した顔で怖気を振り払おうとしてる間に、ユキが言い尽くした。
「自分達の代でなら私達はぶつかり合え愛し合えても、次の世代へ継承したい生きざまはまた全く違う。まるで一回だけ交差する流れ星のようなもの。私達、子育てについても考え方が全く違うのよ。
その点、あの由貴さんの考える理想の子育てと、あなたが思い描く理想とは、さほどかけ離れたものじゃないと思えるの。生まれ育ちも大体似通ってるでしょう?私の目から見たらあなた方はほとんど同じ。一般的な中流家庭の出で、一人っ子だとか成長期の過程で親が片方死んじゃったとか多少の違いはあっても、とにかく育ち方がほとんど一緒。だから、女の子だったら女子校に通わせたいだとか、英会話よりも体幹を鍛え運動能力を伸ばす習い事を身に付けさせたいだとか、細かい教育理念の差はあれど、ほぼ自分達が育ってきたような道のりを歩ませて愛する我が子の成長を見守りたいだろうと思うの、二人とも。傍から見た私の見立てではね。理想とする家族の在り様がきっと一般的で似てると思うの」
「まあそうだろうな」
この点についてばかりはタクト君も認めないわけにはいかなかった。
「だからよ。私とよりあの子との方が、あなたは・・・」うん、と頷き、ユキはみなまで言わずにおいた。
口に出して認めるほどには彼女も割り切れない悔しさがあるのかも知れない。自分とよりも彼女と一緒になった方があなたは幸せになれる、なんて。急に疲れたような顔をして肩を落とし、鹿嶋君の肩にポソッと頭を凭せ掛けた。
「朝だ。元気出そうよ!」
「うん、そだね!」
「きみは何時から仕事?」
「何時からってことないけど、もう行くわ」
「僕もそろそろ出なきゃだ」
時計は7時を指していた。
「今度いつ会える?」
ユキはパッと振り返り華やかな笑顔を見せた。「聞いてくれてありがとう!いつでもよ。また店に電話して。」
おわり!
※メモ的ですがユキと鹿嶋君の話の終わり方はこんな感じかなぁと考え中。
もともとは失踪した彼女を捜してる間に色々あってから、最終的にまた巡り合える話をもっとシンプルに考えてたので…
弟のトモヤくんの最終話も考えなくちゃ…
この話は考えるの楽しくてどんどん膨らませちゃうけど、他のも書きたいし、そろそろ今年中12月中に終わらすつもりが全然小説書いてなくてとりあえず最終話の頭にあるパターンだけでも具体的に書いとこうと思い、・・・いきなり終わりを書いてしまいました!
思い付いたら、また別パターンの締め方も書くかも!
良い年が迎えたい!!
しかしバイトも頑張らなくっちゃ!!
テヘ(*´▽`*)♡
大きく息を吸い、深く吐き出す。よし。なら良い、金で解決してくれる女性を買うまでだ。
検索をかけ一番トップに出て来た店に電話をかける。イライラしてるし、ゆっくり時間をかけてあんな店もあるこんな子もいるなんて調べて遊んでいる気分ではない。本当に誰でも良かった。女なら。
「はい。”お隣さん”です」
「いま空いてる子で良いんで、すぐ来てもらえますか」
「はい・・・4名ほど、今ですと待機しておりまして、・・・お好みは御座います?」
「誰でも良いんで早くお願いします」
「えっと、ではですね」受付嬢の喋り口調も焦り、早口になった。鹿嶋君の早口の語調に滲み出る苛立ちを聞き取って。「では新人さんかベテランさんかだけ、お選びいただけますか?」
色々想像して選ぶのが何か億劫だった。意地のようなもので、女性にウンザリだと言うのに好みの女性を選ぶという行為をこの上課せられて、素直に考えられなかった。
「あんまり小さい子は苦手なんだ。四人いるなら、背が高い子にして」
「あ、・・・分かりました。場所は・・・?」
鹿嶋君は住所とコース時間を告げた。
「20分以内には参ります」
送りの車が女の子を寄こすまでの間に、部屋を簡単に片づけ、シャワーを浴びた。
20分後、でかすぎる女の子がドアをノックした。
「キャンセルって出来る?」
「え、えっと、キャンセル・・・?」
「ああ、きみ新人の方の子か?」頭の中であとまたもう20分待つことを考える。もう早くもどうでも良くなってきそうだ。「まあ良い。仕方ない。入って。」
「・・・シャワー使わせてもらっても良いですか?」
「うん。どうぞ」
浴室の戸口に立って、女の子が服を脱ぐのを眺める。それにしてもでかい。自分が大柄なタイプではなくスラッと背が高く華奢で胸が無いような子を無意識に想像していた事を思い知る。それがそのまま自分の好みという事だ。女の好みすら自分で分からなくなっていたとは。由貴との関係が出来てからこう言った商売の女性を家に招くのは久しぶりのことで・・・・
「あの・・・」女の子は嫌そうに揃いのメロン色の下着姿でソワソワした。
何だ?ジロジロ見過ぎだと言うのか?それだってきみらの仕事のうちなんじゃないのか?
「早く脱げば?どうせ脱ぐんだから」女の子は顔を歪め、目を洗濯機の角の一点に固定してブラを外し、パンツを一気に下げて、クチャッとまとめて丸めて先に脱いでいたワンピースの間に押し込んだ。名前も知らない彼女はなかなか風呂から出て来ず、長い間シャワーを使っていた。後で思えば、泣いていたのかも知れない。しかしそんなことに気付かなかった鹿嶋君は、更にこれで苛立ちを募らせた。
「お嬢様、やっと出て来たな。時間の半分が過ぎるところだよ。サッサと初めて貰いたい」
嫌そうに顔を引きつらせ、それでも仕方なく、大柄な女の子が鹿嶋君のベッドの足の方へ入って来た。彼のパンツの膨らんでいるところに手を置いて、ソロソロ擦った。手のひらの温もりはそれなりに温かく、触れられると気持ちが和む。しかし彼女はすぐにそれをやめてしまい、パンツの縁を両手で掴んでグイグイおろし出した。露わになったものを一瞬嫌そうにして身を引いてから、思い切ったように急に片手でガシッと掴み、ガシガシ手荒にしごきだした。腕をいっぱいに伸ばし、顔を仰け反らせるようにして。恐ろしく深い眉間の縦皺、鼻の横皺。鬼の渋面。
「・・・痛いな、ちょっと・・・やめやめ!そんなんじゃダメだ!おい!やめろ!」
「え、・・・すみません・・・」
「きみ研修とかしてもらってないの?」
「・・・」
「口でなら上手に出来る?」
「・・・」
「やってみて」
しかしダメだった。歯が当たって。
「ダメだ、ストップ!ストップ!」鹿嶋君は痛くて、束ねた彼女の髪をグイと掴んで遠ざけた。
「きみ、何ならできるの?」
ここで結界が崩壊。女の子は泣き出してしまい、「おいおい、仕事だろ?泣きたいのはこっちだよ、金と時間を返して欲しい。恥ずかしいのはこっちも同じなんだから」
彼女の泣き声が本格化して、
「ちょっと電話させてください、今から違う人とチェンジできるかどうか・・・」
と言うので、スッと頭に昇っていた血が冷え、冷静になってみれば少し可哀想になり、「チェンジはもう良いよ、お金も返さなくていい。キミの裸も見ちゃったし・・・ただ迎えに来てもらって帰って良いよ。」と言ってあげた。
彼女が店に長電話している間、鹿嶋君はネットニュースを読んでいた。もうすっかりそういう気分から気持ちは切り替わってしまっていた。
「チェンジの扱いで大丈夫だそうです」女の子が伝えに来た。「私を迎えに来る車に次の子が乗ってくるので」
「もういいって言ったのに・・・」
着替え終わり、無言で二人で彼女の迎えの車を待つ間、鹿嶋君はじわじわ冷静になり少し意地悪を言い過ぎたなと我に返って反省しだした。体格がしっかりしていて頑丈そうに見えても、気質は脆く気弱で優しい。まだ仕事に慣れていず不器用だっただけなのだ。(この子に八つ当たりしてしまったな・・・よく見れば目鼻立ちはあどけない。愛すべきお嬢さんだった。どういういきさつでこの仕事をすることになったのかは知らないが、店とのやり取りの中でも俺を悪く言うわけでもなかった・・・)彼女は、お客さんが自分を気に入らないようだから他の女の子に交換してあげて欲しいと繰り返していた。『いえ、自分が悪いんです。』二度ほどそう言ってるのも聞こえた。
迎車が来るのを待つ間、同じ部屋に居るのも気詰まりなので(それに鹿嶋君が煙草に火を付け喫い出すと、この子は申し訳なさそうに咳を堪え始めた)、台所の換気扇の下に立ち回転する白い渦向かって煙を吐き、次の一服を吸った。
そこからは開けた扉越しに居間のソファに座らせた女の子の横顔が見えた。
辛酸を舐めさせられたものの今は少しホッとしてもいるのだろう、俯き加減で、背を丸め、無の表情、ただとにかく時間が過ぎ去るのをひたすらに待っている。迎えの車が来るまでここで過ごさなければならない無為の時間を。・・・ここからだと、鹿嶋君にとっていかつすぎた幅の広い肩、厚い胸板に豊満過ぎる胸は見えない。ソファの背凭れに隠れていないのは首から上だけ。横顔だけが見えた。今更ながら気が付いた。顔だけ見れば彼女はかなり綺麗だ。消音にした深夜のテレビの映像を見ることもなく、ぼうっと床の一点に視線を落とし、移り変わる光に頬を照らし出されるままにしている。テレビに空が映れば、彼女のつるんとした肌は青く照り染まり、映像が変わって火山の噴火が映れば、彼女の頬も額も耳も鼻も、赤に染まる。瞳の表面も。光の粒子が彼女に当たって跳ね、弾け、皺も染みも窪みもまだ一つもないピンと張った若い肌はまるで白いスクリーンのようだ。
20歳くらい、自分の半分くらい。まだ人生の初期。この子に自分は何をしたか?傷つけてしまった事は間違いない。それは迎車の後部座席に乗って頭を一振りしさえすれば消し去れるほどの小さな傷かも知れず、この若さの輝くばかりのお嬢さんになら、屁でもない掠り傷かも知れなくて、それにこんな仕事をしていれば、これしきの事はこの先々いくらでもあるだろう、・・・しかし今すぐの致命傷には至らなくたって、重傷にも及ばなくとも、掠り傷も、傷は傷である。霧状の毒のように、数々の細かな塵のような屈辱、自分への憐れみ、折々の心痛が、つのりつのれば頭上から常に振り払えない黒雲となり、両肩にのしかかり、肺に滞留し、それが老いとなってこの子の肌表面にも優しい内面にも影を落とす。毒は見えないうちに心の奥底まで染み込み、根を下ろし、蝕み、そのうちにこの子も、疑り深い性悪年増女に・・・
鹿嶋君はギュッと目を閉じ、深く吸い込んだ煙になり、濁った魂と共に換気扇から排気された。・・・次に目を開いた時、自分の居間のソファに腰を下ろしてるお嬢さんの横顔を改めて見て、彼はふと気付いた。(この子の笑顔を見てない。会ってから一度も・・・)
(最初からこの子は怯え警戒していた。うちの玄関先で車から下ろされ、それからずっと怖くて緊張しっぱなしなんだ・・・社会人としては生まれたての赤ちゃんなんだ・・・このお嬢さんは。まだ・・・)
何とかしてこの子を笑わせることが出来ないだろうか、と彼は思った。彼女が帰ってしまう前に。クスッとだけでも。
しかし、傷付ける言葉はあんなにスラスラ無意識に言ってしまえたのに、頭を振り絞っても、今この子をこの場で喜ばす言葉は一言も浮かんでこない。
『きみ、よく見れば可愛いね、綺麗だよ』なんて、今時セクハラとかコンプライアンス違反とか言われて一番会社でも言ってはいけない事だ。この状況にしたって、(お前あたしに向かって今更お世辞かよ?あたしの顔見るなりチェンジっていきなり言ったのテメェだろ)と内心呆れられ、無理矢理引き出せても、苦笑いに決まっている・・・
(言葉とは凶悪なものだ。ポロポロと口を開けば殺傷能力の高い台詞が勝手に吐き出されてしまうのに、癒しになる一言がここ一番という時に、見付けられない…僕は口を閉じていなくちゃいけない人種なんだ…)嗚呼、早く時よ過ぎてくれ。この子を早く僕から解放してあげたい・・・
・・・僕ももう早く一人きりになりたい・・・
しかし祈ってもまだ時間はのろく、迎えの車は一向に来ない。窓を開けてみた。街から外れた住宅街の、更に大きな車道からは奥まった場所に鹿嶋君のアパートはある。そのため、遠くから飛ばしてくる車が急にスピードを落として幅の狭まる道をこちらへ曲がって来れば、ピッタリはまってなくてデコボコの鋳鉄製の溝蓋を踏むガチャンガチャンという音が寝静まった路地に響いて必ず耳に入るはずなのだ。
ふと見やると、彼女の方でさっきまでこちらを見ていたのがスッと視線が合わさらないように逸らしたところだった。
(何だろう?何か言いたいことがあったのか?換気扇は回してるけど、それでもまだ臭いかな?僕を見て何か思う事があったのかな?・・・)
・・・彼女の目に自分はどういう風に映ってるんだろう?と鹿嶋君は考えてみた。ただのおじさん?…いや、キモイおじさんだろうな・・・
これからお店に帰ったら、彼女は友達に何て言うだろう?
『キャンセルされたんだって?キモイ客だったよね?』
『うん、キモかった!』
『口臭かった?』
『うん、めっちゃ臭かった!』
『女選ぶ分際の前に、自分の歯を磨けってんだよね?ブレスケアひと缶飲み干してから電話かけてきなって』
『ホンマそれ!』・・・
鹿嶋君は妄想を振り払いながら、中指で下唇を押し、前歯を爪で削ってみた。舌で歯の内側をなぞってみた。歯磨きするのは忘れていたかもしれない。下半身は一生懸命洗ったけど・・・でも彼女に口づけはしていない…でも、でも、口臭が分かる程度には近寄ったし、ハアハア息が上がるようなことをしたんだから、匂いはしただろう・・・
彼女、家に帰ったらヒモの彼氏とかに愚痴るんだろうか?
『今日特に口臭かった客にチェンジされてさー』
『良かったじゃん』
『いや時間の無駄だよ。電話の時点でハッキリ自分の好み伝えろよって話』
『童貞オヤジか』
『ムッツリで自分の理想通りの女が黙ってて来るわけないって分かってないんだよ、阿保だから。』
『で、そう言うのに限って臭い?』
『うん臭い!自分の放ってる匂いに気付けないんだよ、普段から教えてくれる女がそばに誰もいないから』
『かわいそ』・・・
鹿嶋君は次々と煙草に火を付け、魂を込めて吐き出し、煙になって自虐妄想の自分自身を換気扇の刃に散り散りに切り刻ませた。
(まだ迎えの車は来ないか…先方さんだって、急いでくれてはいるんだろうけれども…)窓を開け放ち、外の路地を見下ろしてみる。
それからまた室内に目を戻すと、またしても、女の子が自分から目を逸らすところを目撃してしまった。彼女は所在無げに、しかし携帯電話を見るのは無礼だと思ってるのかソワソワと、自分が見られてることを意識しながら、何か目を留める物を捜して鹿嶋君の家の居間の床に視線を彷徨わせた。
こんな年若い見知らぬお嬢さんが自分の居間のソファに腰かけていること自体に、ふと、違和感を抱きそうになる。我ながら、金で買ったこの状況でなければ、こんなことはあり得ない状況なんだ…と鹿島くんは実感した。姪くらいも年の離れた女の子を相手に・・・
それも、この少女を自分が好きかどうかとか、そう言った自分自身の心の前置きさえまるで全く置き去りにして・・・
売春とは不思議。切ない行為だ。全く見ず知らずの相手に自分の一番大切な部分を曝け出し合い、互いに大切にしてもらえることを願う。それも一、二時間以内のうちに・・・とても無理なものを金で買おうと言う行動、売春とはそんなものに思えて来た。
何故この仕事をしてるの?と彼は聞きたくなったが、やめておいた。
(お前の知った事か)と思われるのがおちだ。下手したら(また批判されてる)と受け取られ、もっと傷付けてしまうかも知れない。質問の素朴な意図を理解してもらうには、時間が足りなすぎる。・・・迎えが永遠に来なくても、分かり合うには、足りないのだ。時間などいくらあっても、他者と分かり合えることは永遠に・・・
鹿嶋君はしんみりと悲しくなった。金を出しても買いたいものは買えない。
本来自分は女性と分かり合える和やかなひとときを求めていたのだ。
例えその場限りの偽物であっても良いのだから、孤独の緩和を求めていたのだ。分かり合えてるかのように振舞ってくれれば良かったのだ。
もし彼女がベテランの女の子だったら、戸口で、(嗚呼こいつ私の事がタイプじゃないんだな)と悟ったら、まあまあといなし、心のうわべだけでも寄り添って、サッサとシャワーを浴びベッドに入って明かりを全て消してしまい、真っ暗闇の中、体温と湿り気を帯びた柔らかい素肌、甘い香りと魅惑のうねりだけの姿となって、それなりの仕事を完遂させてくれたかもしれない。
(それに、自分の体の欲求はついでのようなものだったかもしれない。今となってはそう思えて来た・・・こんなに沈んでしまった今となってはそう思えるのかも知れないけれど・・・)
最初、女性の肉体を求めて電話をかけた時には、神経が逆立っていて気付けなかったが、本当に必要だったのは女性の体ではなくその中に秘められた神秘の心だったのかも知れない。今やどちらにしろ手に入れられなかったわけで、もう諦めが付いてしまい、どっちでも良くなって来てしまったが。
会話だけでも良かったかもしれないのだ。何か気がまぎれるような楽しい話をすればよかった。別に楽しくない話でも何でも良い。ただ、一人じゃないという気分になれたら、それだけで・・・
しかし今やすべてが手遅れだ。言葉を吐けば、どんな内容も意味が嫌味に受け取られかねない、この状況下では。
・・・心の欲求と体の欲と、どちらが先頭に立って彼を駆り立て小突き回して、女性の尻を追いかけ回らせ愚かに這いずり回らせるのか、分からないけれども、この果てしない自分の渇望には、本当に疲れさせられる。疲れても疲れても、枯れ果てて消えて無くなってはくれないのだ。この欲と言うものは…孤独と言うものは…
・・・もう、ベッドに行って、元カノたちの思い出を抱き、感傷に耽ってジメジメと眠りたい。もう、勝手に帰って貰えば良いかな。居間の彼女には・・・悪いけれど…
玄関の鍵は朝まで開けたままにしてていいから・・・
そう言おうと口を開きかけた時、車の音がようやく聞こえた。
迎えの車には、次に彼の相手にあてがわれた長身でスラリとしたバレリーナ体型のシルエットの女の子と、責任者らしきカチッとしたパンツスーツにガウンコートの大人の女性が乗って来た。ドライバーが用心棒役を兼ねているらしく逞しい屈強な強面だった。アパートの外に車が止まるのを鹿嶋君は窓から見下ろしていた。三人が車から降りてアパートの正門から入ってき、建物に入って見えなくなった。間もなく、三階の彼の部屋の玄関前に現れた。
チャイムが鳴ると、鹿嶋君はドアの小さな丸い覗き窓を覗いてから、鍵を開けた。ドアを開けた瞬間、部屋ごと川の中に浸したように、水流みたいな冷たい夜風が流れ抜けた。寝室の窓を開けていたから・・・と鹿嶋君は上の空で考えた。
しかし自分のクレームのせいで顔を揃えた相手三人の、その、新人の親代わり、謝りに来たマネージャーの女性の顔を見た瞬間、時がピタリと止まった。
「きみは・・・」ユキだった。
あんなにも、命懸けになって捜し回っていた頃には見付からず、こんなに何年も経ってから、もう捜していたことさえ忘れてしまった今になって、こんな気まずい再会を遂げるとは。
彼女は自分の店の新規客に新人のクレームを聞きに(と言うのが表側の半分、もう半分は女性に優しく接するようクギを刺して出禁にせずに済ませられる客かどうかを自分の目で判断しに)ここまでわざわざ足を運んで来たのだ。
ユキが、赤い舌先をチロリと出して唇を舐め、息を吸い込み、喋り出した。
「この度は・・・キャストも新人、また受付嬢も雇い入れてから日が浅いと言う経緯もあり・・・」
「かわりにきみが残ってくれないか?」鹿嶋君が言った意味が初めはユキにしか伝わらなかった。
他の連中はポカンとしていた。
「その子がかわりに来た子でしょ?」鹿嶋君はすらりとしたお嬢さんに頷いた。
「でも、僕はきみが良い」ユキに視線を戻すと、彼女の目はずっと自分の目を見詰め続けていた。
あの時のように。22年という時が一瞬にして遡り、二人ともが16歳だった、あの葡萄の色の絨毯を敷き詰めた螺旋階段で、初めて真正面から見つめ合った。あの時のように。
「はっ?」強面が冗談をからかう笑いの滲んだ口調で言った。「この人は経営者ですよ!オーナーが新規客をとることは無い。」
「話したいことが・・・いっぱい・・・あり過ぎるくらいあるんだけど・・・」鹿嶋君はユキだけを見て話していた。
「良いでしょう」ユキがそう答えると、「へっ?!」強面が衝撃を受け仰け反った。
「みんな帰って、仕事に戻って。さあ、行って良いわよ。彼は私の古い知り合いなの」
「顔見知りなんですか?」大男が威嚇するフクロウの様に胸を膨らませながら鹿嶋君の顔をジロジロ睨み回した。「本当に?大丈夫ですか?」
「うん。本部にも、私は今日はこのまま直帰するって伝えといて」
「・・・え、・・・へ?・・・たまたま?・・・ですか?・・・知り合い・・・?」
「ええ、たまたま彼は私の、」ユキは言い淀み、ちょっと肩をすくめた。「ちょっとした、昔の知り合いだったの。私達もお互い今ビックリしてるところよ。ね?」鹿嶋君は頷いた。
「へぇぇ・・・」運転手兼用心棒がユキと鹿嶋君をジロジロ見比べた。その目が鹿嶋君への警戒を解き、かわりにユキの意外性を面白がり昔の二人の関係性を勘ぐって好奇心の輝きを帯びた。
「あのぉ・・・」鹿嶋君の背後で声がした。
忘れるところだった、この子を返してあげなければ。これが一番本来の目的だったのだ!
鹿嶋君はドアを押さえたまま身を引いて、狭い玄関口から大柄な女の子が通り抜けられるよう道を譲った。
「きよちゃん。」ユキが呼んだことで、初めてくらいにして、鹿嶋君は彼女の名前を知った。
「大丈夫だった?ちょっと話を聞かせて?」
ユキは「後で戻って来るから」と熱い視線で鹿嶋君をジッと見詰め小声で言ってから、クルッと背を向け、きよちゃんの背中に手を当てて廊下を階段の方へ歩き、話し込みながら、そのまま階段を下りて行った。あとに残されたすらりと長身の女の子と、それから運転手も、一応鹿嶋君に一礼し、きよとユキの後に続いて廊下を行き、階段を下りて行った。
しばらく鹿嶋君は一人玄関のドアを開け放ったまま、待たされた。心臓がまたドキドキと鳴り出して、動き出したのが感じられた。しかし心は広い空白で、何をどう感じればいいのかに戸惑っていた。
寝室の窓から入った風が部屋の中の籠った空気を一挙に洗い流して出ていくのを、身に受けて感じながら、ぼおっと突っ立っていた。
やがて、車のドアが閉まる音、続いて、ヒールが階段を駆け上って来る音が近付いてきた。下で車が走り出す音がして、廊下の先の階段にユキが姿を現した。
鹿嶋君に一歩近づくごとに彼女の笑顔が広がりさらに満開に咲いた。どんどん歩幅を広げ走ってくるので、そのままこちらの胸に飛び込んでくるのではと覚悟して待ち構えていたが、さすがにその度胸はなかったのか、あと一歩と迫ったところで急にピタッと立ち止まった。骨のない軟体動物みたいにすぐしな垂れかかってきた昔とは、彼の知っている昔の彼女とは、今の彼女は違っていた。
どこかの塾講師みたいな、キチンとした装い。それなりの使命、責任を帯びた人の立ち居姿。
「鹿嶋君、・・・」
「きみが今は・・・」
二人は同時に喋り出し、口を噤んだ。ユキが頷いて、鹿嶋君に先を促した。
「きみが今はオーナーさんなんだ?」
「うん、…一応。・・・あの子はお気に召さなかった?」
きみちゃんを乗せた車は行ってしまったが、彼女の話題を出されると鹿嶋君は気まずかった。
「ごめん、あの子のせいじゃないよ。いつも僕は気難しい客かも知れない」
「よくコールガールを呼ぶの?」
「そんなにちょくちょくじゃないよ。たまにどうしても、っていう時があるんだよ・・・」
「分かるわ。それを商売にしてるから」
「・・・電話をするときにはどんな子が良いかと聞かれてもハッキリ言い表せない。でも来てくれた子には文句が止めどなく出てしまって・・・」
「まぁ、そう言うものだわ。」ユキは肩をすくめながら、うんうんと頷いた。
「いつも、呼びたい子がいるけれど、その子は呼び出せない事に腹を立てていたんだな」
鹿嶋君はユキの目を熱を込めて見詰めながら言ってみた。「今ようやく自分の要望に気が付いた。」
ユキはじわじわとにニヤけた。その目が一瞬、ウルッときそうになった後に、また持ち直してから、鹿嶋君の顔をつくづくと眺め、やがて、ニコリと大人の微笑に落ち着かせた。
「会いたかった、鹿嶋君・・・」
「僕も凄く会いたかったよ」
ユキの頭がぐらりと傾ぎ、抱き締めてもらおうと、こちらにあと一歩近寄って来る。鹿嶋君は寸前のところで、彼女の肩をグッと両手で掴んで押さえ、距離を保った。
「すまん。ひとつだけ聞いていい?」
「何?」
「ゆきの事は知ってるか?」
「・・・ええ。私の事じゃないのね」
「きみを捜してあの”城”に行ったんだよ。もう、…何年も昔の事だけど。そこで知り合った女の子だった、きみの次にゆきと名乗って働いていた・・・」
「うん。知ってる。」
「しってるのか?!・・・あの子は、あの子の事はきみの仕業・・・か?」
「いいえ」
「でも事情は知ってるんだな?」
「すべて後から聞いた。お気の毒な事だったと思う。可哀想に・・・」
鹿嶋君はユキをジイッと睨んでいてから、目を閉じ、フウッと息を吐いた。指の力を緩めた。
「私があなたの奥様を殺したと思っていたの?」
「関与してるかとは、ちょっと考えていた」
「全く私とは関係のない事件だわ」
「そう?本当か?きみの周りの誰かがきみのためにやった事でもない?」
「違う」
「きみはいきなり失踪したじゃないか」急に話題はさらに時間を遡った。
「ええ。ごめんなさい」
「ごめんなさい?」ハハ…、と笑い声が聞こえ、ハッとあたりを見回した。一瞬、誰の嘲笑が聞こえたのか分からなかったのだ。それから、自分の笑い声だ、呆れて笑い声を上げたのは自分だと気付いた。
「身を切られるような思いで心配してたんだぞ。あの当時は・・・苦しくて、眠ることも出来なくて・・・きみがどこで誰に何をされてるのかと、…考えると…それとも誰かと僕を嘲笑ってるのか、僕のことなど微塵も思い出しもせずに楽しく過ごしてるのかとか、・・・何にしろ、辛かった!いっそきみが死んでくれてれば良いのにとさえ思えたくらいだ、でなければ僕が死にたかったよ・・・きみの安否を心配しすぎてこっちの気が狂いそうで・・・」
「どうしようもなかったの・・・死にたいくらい私だって何度も思ったけど、その選択肢さえ選べなかったの…自分では・・・あなたと逃げたけど、また見付かって、捕まって、連れ戻されて・・・」
「・・・そうか・・・」
「あなたに知らせる余地もなかった」
「・・・そうか」
「それからは、長い間、薬漬けだった。逃げよう、抵抗しようとしたけど、すべて無駄。暴れたら、圧倒的な力で押さえ付けられるだけ。意識を飛ばされ、何日も記憶が無い日々の後で、ズキズキする頭を抱え汚い床で目を覚ますことになる。無我のうちにこの体をどう利用されていたかも知り様がない。全身の痣や傷痕から憶測するだけ。そのうち薬が無くても飛んでいられるようになった。運ばれていく自分の体を俯瞰で眺めてるの。魂が先に体を捨てて彷徨い出し、身体の方の命が潰えるのを待っていた。だってどこへ行ってもこの世は地獄、あなたのそば以外・・・
・・・薬への依存から抜け出して立ち直るのにかなり苦労した。と言うか、・・・今でも、依存から完全に立ち直れたとは言いきれないのかも知れない。・・・定期的に、急に変な汗がドッと垂れてきて、足元からふらつき、今目に見えてる物が幻覚なのか現実なのかが分からなくなり、立っても居られないほど気力が失せることがある。脈拍、鼓動が乱れ、生きてることそのものが苦しくなって、…そうしたら嗚呼、来た、ダメだわと分かる。体が勝手にぶるぶるガタガタ震えて止められない、どうしたらスッと簡単に発作を鎮めることができるのかは分かってるのよ・・・なのに・・・ええ、・・・でも、二度と頼らないと決めたの。あの・・・クスリにだけは。・・・
そうなの・・・(ユキはその症状について話すだけでも苦しげだった)、
・・・私の机の引き出しにね、一本の注射器がすぐ使える状態でしまってあるの。ただし、それを使ったら最後。致死量を優に超える純度に配合してあるから。この次にあれを体内に打ち込む時はこの命を終わらせるとき。そう決めてるのよ」
「ユキ…」
彼女は首を振った。
「そうそう簡単には死なないわよ。でもそのくらいの覚悟が必要だと言うこと。薬物依存ってそれくらい怖いの。魔物との取引よ。一生切れない契約を結んでしまってるの・・・
・・・今でも、冷静に、真剣に過去の最悪すぎる一時期の記憶を思い出そうとして見ても、その時期の…18~22、3歳頃の記憶は…自分のことなのに・・・暗い深い穴に飲み込まれたように、全然思い出せないの・・・まるでブラックホールに入り、出て来たみたいに・・・だけどその間に私と知り合ったという人には会うし、その間にしていた仕事の実績もあるの・・・不気味よ・・・まるで誰かに体を乗っ取られて数年生きていたみたい・・・」
「あの時も・・・」鹿嶋君は合点がいった。「嗚呼、そうか、あの時、きみは・・・確かに目付きが異様だった。・・・一度は、僕はきみを捜し当てたんだよ・・・」
ユキは首を傾げ、ゆるゆると横に頭を振った。思い出せないらしい。
「目が合ったんだ、きみと。撮影中のスタジオで。あの時きみが僕を見て、黒服に何か交換条件を出し、僕らは無傷であのビルを出られた。きみとゆきはあの時一度顔を合わせていた・・・きみが助けてくれたんだろ、僕達を」
「ごめんなさい。何のことかさっぱり…」
ユキは本当に分からないと言う顔をしていた。真剣に、こめかみを指先で強く押さえて。
「まぁ、分からない方が良いかもな。あの時のきみは本来の姿じゃなかった。ガリガリに痩せて、涎を垂らして・・・まるで追い詰められた狂犬病の・・・いや、思い出せないままの方が良いよ・・・何もかも…」
「・・・」
「今は元気そうだ。」
「・・・少し回復して自由が利くようになってから、あなたの事を調べたの。あなたの元に戻りたくて、そのことばかり、それだけが胸に灯る唯一の希望だった。どんなにつらい日々もまたあなたと暮らせる日が来るならと乗り越えられた、・・・。そして、やっと、ついに、せっかく逃げ出せたのだけれど、あなたの新しい住所には、もう新しい女性が・・・
・・・あなたのお家に入って行く彼女の後姿を見ちゃったの。艶のある綺麗なショートボブ。膨らんで重たそうな買い物袋からは、お葱や大根の葉っぱが覗いていた。それに、薄桃色のリボンで縁取りのされた、お腹に赤ちゃんがいますマークのバッチ。彼女はあなたから渡された合鍵でドアを開け、あなたと食べるお鍋をこれから作るんだなぁって、一目見れば、分かった。未練がましくも、本当に部屋番号が合ってるかどうか、確かめるためにドアの前まで行ってみたわ。台所からは慣れたリズムの包丁の音、トントントンと、整った・・・そのうち、お出汁の香りが・・・私の空いた胃にまで染み入ってきた。・・・やがて、どこか遠くで、夕暮れの時報を知らせるメロディが、夕焼け小焼けが、聞こえてきて。・・・
…これ以上ここに居たらダメだ、あなたが帰って来るかもしれないと気付いて、立ち去ったの。
・・・私は行く場所を失い、死のうと考えた。もうそれしかない。・・・歩きながら、海の方へ・・・目では、もっと手っ取り早く、すぐに部外者でも上れそうな屋上のあるビルを求めて・・・
でも、迎えの車が来て・・・
・・・それで、私は私の居るべき場所にまた戻ったの。自分が必要とされてる場所へ。いつもの。・・・そこでは、みんなあなたの事を前から知ってて私にだけは黙ってくれていたのね。心の逃げ道だけは奪ってはいけないと。仲間達の、私への愛情を感じた。事務所に戻ると、誰も何も聞いて来なかったけど、私があなたの新しい住所を突き止めそこへ行ってみた事、何か見て帰って来た事に、みんな薄っすらと勘付いてるみたいだったわ。でも逃げたことは黙殺してもらえ、・・・客と客の間の移動の途中に送迎車と行き違いがありちょっと遠回りして寄り道してる間に道に迷ったとか、何とか、そんな風な扱いにしてもらえたの・・・そして・・・また働いた・・・それからは働くことだけが生きがいになった。あなたとの事は私の思い出に・・・大切な・・・」
ユキの言葉が詰まり、鹿嶋君も声が出ず、頷いた。
(僕には耐えられない修羅場をこの人はいくつも耐え抜いて来たんだ、…)と鹿島くんは思った。
ユキの目に落ちそうな涙が溜まっていた。目を逸らし、俯いて、見せずに捨てるように下へ雫を落とした。
「一つ、お守りを持つようなものだった。辛い事があるたびに、そっと、心の中で開いてみるの。私にも、もう一つ別の人生があったかもしれない事。あなたと過ごす生活。語られるほどのドラマはなく平凡で静かな別の物語。それはスノードームの中に封じ込められ、綺麗で、変わらなくて、神聖で、・・・いつ見ても、辛くて、でも和むの。ずっと同じなのに、見飽きることが無い。
・・・だけど普段は、箱に入れて蓋をして、目に触れないように何層も地下の心の奥底にしまって置くの。誰にも気づかれないように。気付かれたとしても取り上げようのない物なんだけど、でもね。それでも、自分の目にもあまり触れないようにしておかなくちゃ。過去を振り返ったり、手に入らなかったものの事ばかりいつまでもぼんやり考えて、今目の前にいるお客様を蔑ろにはできないから。・・・今目の前に居てくれる人を大切にしないと・・・例えそれが行き擦りの人々であっても、名前も身元も何もかもが嘘でも、とにかく今だけは、私との時間を買ってくれてる相手なんだから。私の人生はそういう、継ぎはぎの積み重ね、その場限りを積み木してなんとか成り立って来たんだから・・・」
鹿嶋君はたまらず、相手の寂しげな肩を抱きたかったが、このまま触らせてくれるものかどうか、触って良いのかどうかが分からなかった。
「ところで、きみの料金は・・・?」
ユキがビックリし大きく目を見開いて顔を上げ、鹿嶋君の顔を見た。素早く彼女の目の中に複雑な心理がマーブル模様を描き、それから、笑みに落ち着いた。
「無料よ」
「触って良い?」
「触って。私もあなたに触りたい。良い?」
「うん」
二人はそろそろと手を伸ばし、にじり寄り、相手の体に触れ、両腕を巻き付け、胴を押し付け合い、蔓草同士が出会ったように、凭れかかり、きつく抱き締め合った。ギュウウ…と。
長過ぎた離れ離れの時を飛び越えて、互いの体の香りを吸い込み、背中を手のひらで擦った。
「寂しかったね」
「うん。本当に、寂しかった。・・・奥様の事は私がやったんじゃないと信じてくれる?」
鹿嶋君は頷いた。
「時々あなたの事は考えたけど、一度しか家の前まで行ったことはないの。事件の事はニュースで知った。それで少し私も調べてみたの。これは憶測でしかないけれど、彼女、あなたの奥様ね、過去に一緒に働いていた友達の必死の懇願を断り切れず、ちょっとした出来る事にだけ手を貸してあげようとしたんじゃないかしら。例えば、お昼間に、喫茶店とかどこか安全そうに見える場所で、その友達と一緒に、切りたい客に一緒に会ってくれとか頼み込まれて。・・・友達も客の役の男とグルだったとしたら、飲み物に何か混ぜられて意識混濁のうちに担がれ、車にでも乗せられ、どこへでも簡単に連れ去られたでしょう。一時間もしないうちに、嫌な写真や動画を撮られ、その日のうちに家に帰されたら、あなたにも分からなかったかもしれない。人気のある女の子ほど急に辞められたりすると、過激な手法で連れ戻そうとする動きは必ず起こる。そういうものなの。”お城”ほど巨大な組織のトップから見れば、一人二人の女の子が急に辞める程度の事は些細な黙殺すべき事とされていても、現場からすればそうじゃない。直属の黒服やらその上からの圧力やらがかかって、金の卵を産む鳥は血眼に捜索され、一度足を突っ込んだ沼が頭まで沈めようとどこまでも追いかけてくる。連中は力づくなの。有無を言わせない。見つかったら、終わり。こちらに選択肢はない。人権もへったくれもない場所へ連れ戻される。
・・・私の時だって、そうだったの。・・・
・・・あなただって、仕事でへとへとに疲れて目を開けてるのもやっとの状態で家に帰ってくることも多かったでしょう、・・・昼間奥様がゆすられたり、何か強制させられていたりしてても、本人があなたに必死に隠そうとしていたなら、気付けなかったんじゃないかな・・・」
鹿嶋君はどこに向けようもない怒り、悲しみが込み上げ、何も言葉に出来なかった。ただユキをギュウッと更にきつく抱き締めるばかりだった。強迫観念のように子供を欲しがっていた妻の遺品から何故か避妊薬の新しい処方箋が出て来たのを、あの当時の混乱と恐慌の最中にもふと不可解に感じた刹那が蘇った。
「きみ達の仕事は危険過ぎる・・・」
「懐に抱かれてしまえば安全なの。」
鹿嶋君はユキの体から手を放した。
「・・・こんなところで話してるのも、寒い。中へ入ろう」
ユキは屈んでブーツを脱ぎながら、モゴモゴ言った。
「ゆきさんは清廉な人だったのでしょう、あなたを護るために自分の命を消したのなら。あなたはそれほど愛されてたと言う事・・・だけど、これは私の憶測でしかない。命を賭してまでも封印したがった死者の秘密を暴いてやろうと言うんじゃないの、ただ・・・」
「もういい、誰かに殺されたのかとか、自分で自分を殺したのかなんて、今はどうでも。とにかく妻は死んでしまった。きみと違って、行方が分からないまま死んだのではない。僕の手の中で死んだんだ。きみがあの子の死に関わってないと言うんなら、今は話したくない。あの子の事は」
ユキは頷いた。
「あの後はすぐにあなたは国外へ出張に行ってしまったでしょう、」
「志願したんだよ。会社もちょうど僕を飛ばしたがっていた。」
「飛行機では隣に座ってたのよ」
鹿嶋君は廊下の途中で立ち止まり、ユキを振り返って見た。
「そうなの。私はもう一度、仕事を抜け出し足を洗うチャンスだと思って、あなたと同じ便の飛行機のチケットを手に入れたの。そのためには凄い犠牲を払って・・・言いたくはないけれど、後戻りの利かない最後の・・・
・・・でも、声がかけられなかった。意識して引っ込めていなくちゃ肘が触れ合ってしまうほど狭い座席に隣り合って何時間も押し込められて座っていたのに、あなたの目に私は微塵も映らなかった。まだ全身全霊を込めてゆきさんを弔っている最中のあなたに、話しかけることは出来なくて、やっぱり、私は、また戻ったの。私の居るべき場所に。あなたの背中を見送り、メルボルンの空港から出もしなかった。一つだけ、私の恋の終わりの記念にお土産を買って、すぐに引き返す便に乗ったの。」
「それ、本当?」
「作り話をしてるように見える?」
「いや、でも・・・あの飛行機で・・・?・・・僕はじゃあ、何を見てたんだろう・・・」
「窓の外よ。あなた雲ばっかりぼんやり眺めていたわよ。時々、窓ガラスに映るあなたの目と目が合ってると錯覚した。何度も。でも全部が私の思い違いだった。あなたは現実に目の前にあるものなど何も見えないらしかったわ。美人の客室乗務員に力いっぱい肩を叩かれ、目の前に差し出されたメニューからビーフを選び黙って機内食を食べ、また窓の外へ向いてしまった。ちょっとだけウトウトして、魘されて、目を覚ましてからは忍び泣いてるのを、横目に盗み見ちゃって…。心痛くて、私に気付いてなんて声をかけられる状況じゃなかった。とてもとても・・・
・・・あの頃の事はバタバタで断片的にしか思い出せないんでしょう?あなただって疑われていたものね?第一候補の容疑者として、刑事さん達から」
「・・・凶器がまだ出て来ないままなんだ・・・」
「・・・」
「・・・」
寝室の方で、微かに物音がした。誰も居なくても空間が立てる軋みみたいな、わずかな物音が。まるで死んだゆきの魂が塵になって舞い落ちてき、いつの間にか部屋いっぱいに満ちているかのようだった。
「この話はやめよう。本当に」あの午後の凄惨な情景、生々しい血の匂いが鼻腔に蘇って来る気配がした。
「うん。」
ドアに鍵をかけ、ユキの手を引いて廊下を進もうとした。しかしユキに引っ張られ、その場で向き直ってまた彼女を抱き締めた。吹き抜け一新された風が閉じ込められ、ユキが今使っている香水の香りが溶け出して、馴染み広がっていく気がした。
「男の一人暮らしの匂いがする?この部屋、臭い?」
「あなたの髪の香りがする。懐かしくて良い匂い。シャンプーを変えてないのね」
「本当に?気を遣って言ってくれてるんじゃない?」
「大好きな匂いよ。私にはずっと。」
ユキは鹿嶋君のシャツの襟元に冷たい鼻先をグイグイ押し付けてスンスン嗅いだ。小犬みたいに。
「ずっと嗅いでいたい匂い」
「そうかなぁ」
「私にはね。他の人にはどうか知らないけど。」
「・・・ふうん、なるほど・・・」
「・・・」クンクン。スーハ―。
「そんなに嗅いだら僕から匂いが抜けちゃうよ」
「そんなことはないんじゃない?」
鹿嶋君は自分もユキの髪に鼻をくっつけた。「・・・きみも良い匂いだよ」
「えっ!?ダメ!あなたは息を止めてて!」ユキはパッと離れ、鹿嶋君は思い出した。前にもこんなことをしていた。よくこう言う事をしていた。彼女とは。懐かしさが洪水のように押し寄せる。全然、さっきの女の子とは大違いだ。あの子は他人。若くても綺麗でも、知らない人。それに比べればユキは・・・家族ほどにも親密な近しい女性だ。どんなに長く遠く離れていようと。
「きみはいつも狡いんだよなぁ、俺の匂いは嗅ぐくせに自分の匂いは嗅がせない・・・」
「私は、・・・仕事をして来たから・・・」ユキが言葉を選んで言った。
「え、・・・あ・・・そうか・・・今日も・・・?」
「いいえ。でも、朝から動き回ってたから・・・」ユキはキョロキョロして、浴室を見付けた。
鹿嶋君は寝室の方へユキを誘おうと手を引っ張ったが、ユキは浴室の方へ黙って引っ張り返した。
「もうそのままで良いよ・・・」
「ううん・・・」
やっとやっと会えたのだしこれからすることは彼女も承知のうえで、もう待ち切れないと言いたいところだったが、引っ張り合いがじゃれあいの域を越え彼女の踵が否応なく宙に浮き引き摺られだすと、腕の中でユキが「いや!」と大声をあげた。ハッとして鹿嶋君がちょっと力を緩めた隙に、ユキは飛び込むように浴室へ逃げた。
「分かった分かった!」鹿嶋君は浴室の中に着衣のまま立つユキを手招いた。「居間のラグソファ(指をさしても示した)あそこで、タバコでも吸って待ってて。浴槽を洗うよ。お風呂を溜めて浸かろう。きみの体、凄く冷えてる・・・」
ユキもちょっとチラリと壁のタイルを見やった。まださっきキミちゃんと鹿島くんが使ったシャワーの水しぶきで床も壁も濡れている。泡も残ってる。
「掃除道具はどこ?私やるけど・・・」
「いいって。きみは座っててよ」
鹿嶋君がいそいそ腕捲りし屈んでズボンの裾も捲り上げ何だか意気込みが感じられるので、ユキは彼の言葉に甘えることにした。浴槽をゴシゴシ擦る後ろ姿をしばらく眺めていてから、居間へそっと入って行った。彼の吸った煙草の香りが漂う。深呼吸・・・コートを脱ぎ、あそこに座っててと指定された場所へそろりと腰を下ろした。正面には何も映ってない大きなテレビ画面、ローテーブル、壁沿いに本棚、その上の壁にかかったカレンダーは12月のままだ・・・
鹿嶋君は不思議な感覚だった。新鮮でもあり懐かしくもあり。布を被せ隅の方に押しやって裏を向けて壁に立てかけていた描きかけの夢、忘れ去っていた古いデッサンが勝手に色付き、次々に鮮やかに、埃を払われ、瞼の裏に蘇ってくるみたいだ。
高校の終わり頃から同棲を始めた家では、ユキと毎日一緒に湯船に浸かっていた。ユキはお風呂に浸かるのが大好きで、湯に浸かっている彼の体をジロジロ見たり体や頭を洗ってくれるのも好きらしかった。長風呂が苦手な彼は今とは逆に、煙草を吸いながら暫くソファで待っていて、ユキの呼ぶ声が浴室から響いてきたら、服を脱いで一緒に湯に浸かりに行った。寒がりな彼女は一旦浸かっていた浴槽から出て来て、服を脱ぐ彼を満面の笑みで見詰めながらシャワーの中で待ち構え、両手のひらにボディソープやシャンプーを付けひんやりする彼の肌に自分の温もった肌を押し付けてき、「冷たい!」とかキャアキャア騒ぎながら抱きついた全身でもう一度また自分も泡だらけになって洗ってくれた。つるつる滑ってすべすべ触り合って良い匂いがして気持ち良くて綺麗になれて・・・
あの楽しいお風呂の時間をこれからもう一度体感できるのかと思うと、鹿嶋君は知らず知らず口元が綻んでいた。
「ねえ」
すぐ後ろから急に声をかけられ、ヒャッとビックリして、振り返ると、ユキが片足立ちしてストッキングを脱いでるところだった。
「居間は寒くて。私もお風呂洗い手伝うよ。私、タバコは吸わないし」
煙草を吸うのは由貴だ。なんで間違えたんだろう、この薬中歴を持つユキは普段は健康オタクなんだった。
「きみはあっちで座って・・・」
「もう待ちきれないの!一緒に入ろ?だけど、あなたから先に脱いで」
鹿嶋君は濡れないよう折り返していたズボンの裾を屈んで元通りに戻してから、服を脱ぎ始めた。ユキも彼が脱ぐのを見ながら自分のワンピースをゆっくり脱いだ。
「何か…恥ずかしいもんだなぁ、裸を見られるのは」
「当たり前でしょ」
「きみも?」
「・・・長い時間が経ち過ぎたから・・・」
アルバイトを掛け持ちして日夜力仕事に明け暮れていた頃は筋肉も隆々、我ながら男らしかったと思うが…鹿嶋君は臍に力を入れてお腹を引っ込めながらTシャツを脱いだ。腹筋に力を入れ続け。さてこれがいつまでもつか…
ユキも胸やお腹やお尻や二の腕やら気になるところは随所にあった。しかし自分の方が人前で裸になり慣れている。この体が一番綺麗だった時期だけを記憶している鹿嶋君の前で今更また裸になるのは恥ずかしいけれど、彼女はやりようを少しは彼よりも心得ていた。
「明かりを消すね」
「何も見えなくなっちゃうよ!」
「脱衣室の明かりだけ点けて間接照明にしよ?」
職場ではキャンドルを使う事もある。30を過ぎてから昔先輩が話してくれていたアドバイスを思い出したのだ。(揺らめく炎と壁に拡大された影が全ていい風に誤魔化してくれるの)(大切なのはムード)(私達はもともと誰かの代わりでしかないの、まやかしそのもので良いのよ・・・)(相手が見たいものを見せてあげるのよ、ありのままのくたびれたあたしじゃなく)・・・
「鹿嶋君」スイッチに手を伸ばしかけた彼に彼女がピシャリと言った。「目を潰すよ?」
「ごめん・・・」
鹿嶋君は一旦は引き下がった。しかしすぐに、泣きそうな情けない声を出してみせた。
「でも眼鏡を外すと本当になんにも見えなくなるんだよ!」
「じゃあ、仕方ないな、眼鏡だけかけてていいわよ」
眼鏡は瞬時にして曇った。まるで顔の前に分厚い雲をぶら下げてキョロキョロ目を凝らしてるようなものだ。それでも不安症みたいに鹿嶋君は眼鏡をかけて風呂に入った。こんな事ならコンタクトを仕入れとくんだったのに!
ユキの手が彼を優しく誘導し、シャワーの温かい雨の中に引き込んだ。ボウッと突っ立っているだけで、身体ごとすべらかな石鹸そのもののようなユキの肌がピッタリと密着し、モチモチと彼の硬い体で押し潰され、そのまま横へスルスル滑り、彼の体中に腕が伸び指が絡みつき解け、窪みと言う窪み、突起と言う突起を泡で包み、くすぐり、陰毛を指で梳いた。
「腕を上げて。…はい、じゃあ今度はこっちの脇の下も・・・
もっと足を広げて立って。・・・そう。・・・リラックス・・・くすぐったい?ごめん・・・
じゃあ、今度は座って。私の膝に足を置いて。・・・逆の足も。うん・・・」
言われるままにしてるだけで、身体の力が抜け、凝りがほぐれ、体表の汚れと共に体内に溜まっていたどす黒い疲れまでもがどんどん湯に溶け出し洗い流されていくようだった。
「きみは素晴らしいね」しかしそう言った自分の声が如何にもオジサン臭く反響した。ユキを褒め称える数多いるオジサンの一人に過ぎなく感じさせた。
「あなたの体が素晴らしいわ」ユキは鹿嶋君の煩悶を吹き消す甘い声で耳のそばで囁いた。
フフ、と笑い、「言おうかな、どうしよう・・・」目も見えず鹿嶋君は苛々とユキの体を手探りし両手で脚の付け根とお尻を捕まえた。
「何?言えよ」
「私はレーシックしたの。だから全部よく見える・・・」鹿嶋君の胸が撫でまわされ、その手が下に滑り落ちるかに見えて、腿に逸れた。それから急に口に含まれた感じがした。
「あっ!おい」
フフ…、「やりたい放題♡」ユキが自分の行為に命題を付した。
湯船に浸かると、曇り眼鏡も湯につけてはまた鼻にかけることによって、鹿嶋君もいくらか断続的に視力を取り戻すことができた。二人は向かい合って湯に浸かった。脚を相手の腰の向こうで組んで下腹をくっつけ合わせ、腕で胴と首に巻き付き、肩口にひんやりする鼻先を埋め合った。少し身じろぎしただけで波が二人の体をふわふわと引き離したりまた寄せ戻したりした。微かな肌と肌の擦れ合わさり方が快かった。
「・・・ふうぅ・・・ちょうどいい温度!」
「僕にはちょっと熱いよ」
「本当?」
ユキが腕を伸ばし、シャワーの湯に水を多めに混ぜて鹿嶋君の頭の後ろに降りかかるようにしてくれた。
「嗚呼、良いなぁ、凄く気持ち良いよ。これで・・・」
「いつまででも浸かって居られそう?」
「まぁね・・・限度はあるけど・・・」
ユキの背中を支えるように添えられていた彼の手が下へ下へと移動し、お尻を掬い上げ、更に奥まで進もうとする。ユキが手首を掴んで止めた。するともう一方の手がスルスルと移動を開始し、乳房の一番天辺のとんがり部分へ指を伸ばし始める。「もお」ユキは鹿嶋君の腿の上で身を捩じって逃げ回った。
「ここじゃ危ないから!だめ!」
「なんで?俺にも触らせろよ?」
「私だけ良いの!」
「ズッル!」
「だってあなたの触り方、ガサツで痛いんだもん」
鹿嶋君がショックを受けて茫然となっている間に首の後ろで手を組まされ、ユキだけペタペタと彼の体をあちこち確かめるみたいに触った。湯の中で小さな両手が可愛い二匹のすばしこいヒトデみたいにひらひら動き回り、色んな場所で押したり引っ張ったり抓ったりしてみている。ユキは湯の中にゆらゆら揺蕩う真っ黒い海藻みたいな鹿嶋君の腋毛が特に気に入ったらしく満面嬉しそうにニヤニヤして「腋毛~」と言いながら指に絡めて遊んだ。
これじゃ俺には面白くないなぁと鹿嶋君はしばらくムッツリ拗ねていたけれど、ユキがやたら嬉々としていつまでも楽しそうなので(まぁいいかなぁ)と思い直した。膝を揺すってユキの体を底からグラグラ揺らし大波を立ててキャアキャア叫ばせ、(まぁ好きに触りな)と諦め、目を閉じた。鹿嶋君が諦めてしまうとユキもやっと飽きてきて、頬に頬をぎゅ~っと押し当て、凭れかかってきた。
自分の胸板と彼女の体の間で押し潰される二個の柔らかい桃みたいな胸を感じた。押し付けられる硬い粒の二個の種みたいな先端の感触もある。両腕で締め上げるように抱き付かれ、鹿嶋君も腕をおろして彼女の体に巻いた。二人はゆっくり揺れ、それから動きを止めて、反復する波の揺れに身を預けた。
湯気もうもう、なんにも見えず、左の肩でユキの息遣いを感じとる。下手に手を動かしたらまた怒られるので、ずっとすべらかな背筋を撫でていた。これが案外ユキには気持ちが良いらしかった。
「もう点検はしないのね?」
ユキの言葉で鮮やかに思い出した。
付き合いたての頃、どうしてもまた”城”での仕事を再開しなければならないと言われ、(『なんでだよ?きみに働いてもらいたくなくてこっちが必死になって頑張ってるのに』『お金のためじゃないの』『じゃ何のため?』『忠誠を誓ってる人がいるの。女の人よ。母親よりも濃い繋がりの私の育ての親なの。これを最後の仕事にするから』・・・)厭々彼女をまた働かせていた時期もあった。その時は風呂の中で帰宅した彼女の体を隈なく点検していた。ユキの繊細な肌はスフレのように柔で、赤い痕を残しやすく、腰や胸に荒っぽく扱われた爪の傷を付けられて帰って来られた日にはユキ本人よりもこちらの方が心の底から落ち込み、辛く、傷付けられた。涙を流してわぁわぁ泣き出したいほどだった。
苦い気持ちが蘇った。
ユキに鹿嶋君の体内に溢れ出した悲しみが伝わったように、彼女の抱き締める力が強くなり、もどかしげに揺さぶった。
「仕事中、誰かに付けられた傷なんて私には大したものじゃなかったの。それは数いる誰だか分からない客の中の一人に付けられた体の表面の擦り傷に過ぎない。仕事してたら多少の怪我くらいはいつの間にかしてるものでしょ、あなただってよく割れたガラスやらカッターやらで手やら脚やら切ったり打ったりして帰って来てたじゃない。『何しててこんな痣になったの?』って聞いても、『さぁ、分からない、』・・・『いつ怪我したのかも分からないの、痛っ!今切ったなってちょっとくらいも思わなかったの、』って聞いても、『う~ん、放っとけば治ってるさ。いつの間にか』…って。そんなのと同じ。
私だって、こなさなければいけない業務を必死になってやり過ごし、後から鏡を見て気付くことも多々あった。凄く嫌な暗い気持ちになった。
だって、私なんかよりもあなたの方が悲しがるんだもん。
でも私から言わせてもらえば、私を一番深く傷つけられたのは、いつもあなただった。あなたの何気ない一言で私の存在全部が脅かされ、揺さぶりをかけられ、あなたに嫌われる不安、捨てられる恐怖に、常に支配されていた。どうでもいい客から何を言われようが、どんな目に遭わされようが、あなたさえいてくれれば私にはどうと言う事もなかった。屁みたいなやつらが屁みたいなこと言ってるわ、ってなもんよ。でもあなたから『あれ?』って、背後から言われただけで、もう私はビクッと縮み上がってた。何か決定的な穢れを見付けられたんじゃないか、これで嫌われ捨てられるのか、って・・・
あなたの存在は私の心の支えだった。その人を傷付ける仕事をしていて私だって平気でいられるわけがなかった・・・あなたが悲しめば、私だって悲しかった。あなたのためだけの体じゃない自分の体が気持ち悪くて、嫌でたまらなくもなったし・・・
・・・心の傷の方が深く残り、治りにくいの。記憶と共に、いつまでもここにあって(ユキは自分の心臓を指差した、)目には見えなくても、何度でも傷口が開いて血を流す。思い出すたびに・・・
仕事中にまた会う事もないお客さんから手荒にやられて目立つ箇所に傷を付けられちゃった日には、傷跡が消えるまであなたのもとに帰れなくて、泣いて過ごした数日もあった。そのまま職場に泊っていたの。何故帰って来られなかったのか、あの当時は打ち明けられなかった。ふらっと戻って、へらへら笑って誤魔化すことしかできなかった。正直に言えなくて・・・
ごめんなさい…」
「きみは何をやってたんだ?一体・・・あの当時・・・」
「密偵よ。どうしても私が行かなくちゃいけなかったの。母のような人からの頼みだったから・・・他の子じゃできない仕事があった。あなたを巻き込めなかった・・・」
「密偵って・・・」
「貴賓室に出入りできるのが限られたキャストだけだったの。そこまで潜り込めたのが私一人だけだった。ママの・・・私を拾って育ててくれた人からの最後の頼み・・・県警トップとの繋がりを保つ事・・・それから別の案件でも・・・」
「県警・・・?」
「当時のね。今も生きてたらこのことは喋れなかったけれど、彼はお亡くなりになったから・・・でも口を滑らさないでね。絶対よ」
鹿嶋君はユキの真剣な目に射られた。親指と人差し指で、唇の上下を摘ままれた。
「うん・・・」
くらくらしてきた。のぼせてきた。
「・・・もう上がっても良い?このままじゃ体が全部汗になって無くなりそうだ」
「私も汗になれそう。溶け合えるね」
「上がって良い?死んじゃうよ」
「うん。良いよ」ユキは残念そうながら組んでいた脚を解き、彼の膝の上から滑り降りて狭い浴槽の中に立ち上がるスペースを空けてくれた。一人で湯に浸かったまま、鹿嶋君が外に出てシャワーで流し、タオルをとって全身を拭くのを、とくと眺めていた。
居間に戻ると、なぜ彼女がここで待ち切れなかったのか、灰皿を見て理解した。桜色の口紅の付いた吸い殻でいっぱいになっていた。今更ながら、慌てて片付けるも、後からすぐ風呂を上がってきたユキにからかわれた。
「良いじゃない。あなたを好きな人がいっぱいいて。私はそんなこと平気よ。魅力に溢れてるんだから当然のこと。全く1mmも、なんにも思わないわけじゃないけど・・・」
「いや、これはさっきの子のかも知れない…」
鹿嶋君は一回限り呼んだだけのユキの店のキャストさんに罪を擦り付けようとしたが
「あの子のじゃないわね。彼女は喘息持ちなのよ」
嘘は瞬時に見破られた。
(ねぇ、鹿嶋君。あなたのことで私の知らないことがあると思ってる?私はあなたのことを誰よりもよく知ってる。あなた以上に知ってるかもしれないくらい、よく知ってるの・・・)
ユキの笑みに含みがあるのを彼は感じとった。
「私が筆おろししてあげたあの坊やも20年でプレイボーイになっちゃったのかぁって、ちょっと思っただけ」
鹿嶋君は急に思い出した。
「きみは僕と同窓生だったんだ!何故あの頃すぐに教えてくれなかった?後からクラス名簿を見せられたんだぜ、嫌な奴から・・・何て名だったかちょっとすぐには今、出てきそうにないけど、ねちねちした奴だよ。俺よりきみのことをよく知ってるとかぬかしてきやがったぜ!あいつ!」
「ああ」ユキは鹿嶋君が名を失念した同級生が誰だかに思い至ったしその男子生徒の名前を記憶してもいたが、口に出しはしなかった。
「きみは同じクラスにいたんだ・・・1年の時と3年の時に・・・写りが別人みたいに見えるきみのクラス集合写真を見たよ!きみは年上のどっかの大学のお姉さんなんかじゃなかったんだ。同じ高校の同じクラスで、巧妙に映らずに済ませられる学生生活風景とか卒業旅行の写真には1枚も写っていなくて、名前も借り物だった!それに卒業前に辞めちゃってた!ちょうど僕と出会った頃ぐらいじゃなかったの?1日も登校しなくなったのって・・・?三年生の卒業アルバムでは五人、生徒が減っていた・・・そのうちの一人だったんだ、きみは・・・」
「あなただって私との生活のために進学を諦めたじゃない?そのせいで生家とも縁を切られたでしょ。隠し通したつもりかも知れないけど、私は当時から知ってた。今更謝っても、もう遅いし、ごめんで済む話じゃないのも分かってる。でもあの時は私もあなたに必死にすがって生き方を変えようと・・・」
「聞いてるのはきみの高校の時の話だよ!一体何しにあの高校へ潜り込んだんだ?あの地味で何の変哲もないただの県立の高校に一体どんな大物の子息とかが紛れ込んでたの?きみの闇の巨大組織が組織ぐるみで陥落しなくちゃいけなかったような・・・」
「ただの登校日数不足。辛うじて三年生にはなれたけど、もうほとんど最後の1年は勉強どころじゃなかったの。誰のことも陥落しようとなんてしてない。ただ・・・普通の女の子のやってることを私も真似してやってみたかっただけ。でも諦めたの。それだけのこと」
「でも・・・そうなの・・・?」
「そう。あの学校へ行きたかったのは何の変哲もない普通の普通の高校だったからよ。私は普通ってものがどんなものなのかを試しにやってみたかったの。生まれも育ちも一般的な自分と同じ年頃の女の子達がどんな生活をしてどんな話題に笑いどんな夢を持ってどういう遊びに夢中になったりするのか、紛れ込んで一緒になって学生生活と言うものを満喫してみたかったの。でも・・・
・・・今更もうそんなことどうでも良いじゃない・・・ベッドへ行きましょうよ」
「でも何故・・・何故あともうちょっとで卒業だったのに・・・」
「何故卒業しなかったのかって?そのもうちょっとが凄く・・・どうしてもきつくて、無理だったの。結局・・・未来が決まってたからかな・・・普通の子みたいに毎朝学校へ登校して普通の将来を思い描いてみたいって思って中学から通い始めたけど、何か・・・飽きちゃったのかな・・・それに高校からもっと仕事が忙しくなり出し、クラスの他の女の子達との世界観の違いにも絶望した・・・学校では誰とも話が合わなくて、やっぱり職場の同僚と喋ってる方が居心地が良い事を再認識したの・・・」
ユキも思い出してきてしまった。同じクラスの女生徒のお父さんを相手に仕事を受けてしまっていたことに後から気付いた一年生の終わり。翌年には、”お城”で働く同僚の困った顧客が前年同じクラスだった男子生徒の兄だと判明した。そのうち”城”の中で誰かの母親に出くわすかもしれない、教授が紹介等で自分を指名して来店するかもしれない、同じクラスの男子生徒と直接職場で顔を合わせるかもしれない、・・・そんな不安が日々増す中で、この先一般的な就職もすることはない自分が、ここに居る意味は?と授業中常に思われ出し・・・
(周りの子達への羨ましさで、潰れてきてもいたんだった・・・)苦い思い出を掘り返してしまった。
(勉強は楽しかったけど、宿命的に定められている仕事はもう変えようがない・・・この先、大学に進学したとて、どこか別の社会へ就職したり転職して今までの仕事から逃げられるわけでもない。自分はどこへ向かおうとしてるのか・・・何やってるんだろう?こんなところで・・・?)
現役高校生の証明手帳はブランド力もあった。授業中、職場からLINEで放課後の仕事のスケジュールがどんどん過密に埋まっていく報告を受けた。机の下で携帯を確認するたび溜息が出た。
『18時30~20時50分、Nさん。』
『21時~23時のAさんの予定、丸ごと時間とコース内容そのままでB氏に変更。3倍の額を余分に積まれちゃあ断れないよね!Aさんにはあなたは体調不良って言ってあります!その旨よろしく!』
『ビックリ!B氏のまたまた3倍積んでくるのが居たので再変更!C君。時間・コース内容そのまま。B氏にもあなたは体調不良って事で!稼げるときに稼ぎましょう!』
『お願い!!25時までのシフトとは分かってます、が、重要人物からのご指名!!10分休憩を5分休憩に切り替え、何とか枠を設けましたので!ここは気合で受けましょう!!最悪明日は学校休めばいいから!!お願いします!!M先生。』
お金お金お金・・・店にとっては私はお金を生む独楽かぁ・・・、回せ回せ、回れなくなったらゴミ箱へ捨てろ、ポイ。・・・お客さんを選ぶ基準も、全部お金お金お金・・・他に無いのか・・・、嗚呼、・・・しかし学費もお金、奨学金も今年度で打ち切られた・・・自分で稼がねば・・・お金を必要としてるのはお店だけじゃない、自分もだ・・・ママ・・・嗚呼、・・・ママの店にもしばらく顔を出せてない・・・あの人の良い笑顔と細くてしっかりした腕に抱き締めてもらいたい、頭を撫でてもらいたい、小さい頃みたいに・・・だけど・・・いつ会える?・・・どこかで休みを取らなければ会えない・・・毎日報告は入れてるけど、直に会いたい、でも・・・休めない・・・休んだらその分お金が稼げない・・・お金お金お金・・・あんまりママに甘えて出して貰ってばかりも悪い・・・嗚呼、・・・学校を休もうかなぁ・・・ダメだ、何のために頑張ってきたの?今まで・・・何のため?・・・何のためだったっけ、・・・虚しいな・・・でも頑張らなくちゃ・・・いつまで・・・?でも頑張らないと・・・嗚呼、・・・嗚呼・・・1回で良いからゆっくり眠りたい・・・ちゃんと考えなくちゃ、でもちゃんと考えるほど・・・虚しいなぁ・・・
・・・良いなぁ、クラスの他の女の子達は・・・
・・・
「ねぇねぇ、鹿嶋君・・・!」
ユキはこの上なく甘い声音を使った。
「お喋りは後にしましょう?」
ラグソファの背凭れの後ろ、細く隙間の空いた襖の向こうに、ベッドが見えた。ユキは鹿嶋君がもっと何か言い出す前にスルンと先に彼の寝室に入った。
ここにも彼の香り。濃密な。彼の髪と煙草と・・・ユキには瞬発的に分かった。本能で。
成熟した大人の男性のフェロモン(それもずっと好きだった人の)がこの部屋の空気には特に濃く含まれており、それが呼吸によって取り込まれ、肌にも付着し、自分の体内で性衝動をカチッと作動させる。自分は発情する。
さっきからのがほんの下火に思えるくらい。火薬庫でマッチを擦るようなもの。誘引物質まみれで、引火、爆発が起こる。否、マグマの噴火と言った方が近いか・・・
「鹿嶋君・・・」息が掠れて声もろくに出ない。脚を広げてベッドに腰を下ろし、タオルをわずかにずらして、腿に伝う切なく熱い蜜をそっと見てもらった。
彼の熱い息が顔にかかったと思ったら、・・・
ユキと繋がり一つになれた途端、(嗚呼、ダメだ、もうもたない!)とハッと気付いた。この頃はそんなことなかったのに!まるで16歳の頃に戻ったような心に連動し、体まで若い頃に戻ってしまったみたいだった。(きみのことが好きすぎて・・・)
「どうしよう、もう駄目だ」ユキの目を見てそう言った途端、ズンと深部に脈動が突き上げ、勝手に始まり、止めようがなく、終わってしまった。射精してしまった。恥ずかしく、悔しく、何故なんだと不思議で自分に腹が立つ、情けない気分。
「まだ。このままでいて・・・」背中に回された細いユキの両腕がぎゅうっと締め付け、さらに両脚でも鹿嶋君の体が離れるのをギュッと防ぎ閉じ込めた。自分の体重で彼女を押し潰さないようにと遠慮していたのが、ユキが下腹をさらに強く押し付けてしがみ付いてくるので、むしろ彼女の体の重みを感じた。彼女の尖った胸の先端が擦れ、喉が仰け反り、ひゅぅっと息が吸い込まれ、鹿嶋君は彼女の痙攣をハッキリと感じとった。吸い絞られるような感覚。
「離れないで!まだ・・・」
抱きつくユキの力がふーっと抜けかけるのを感じ、身体を放そうとしたのだが、それを感じとりすぐまたユキが力を籠め直した。ひしと抱き付いてくる。
「抱き締めたままでいて!」
「重たくない?」
「全然。もっと力を抜いて!」むしろ怒ってる口調だ。じれったそうに身悶えして。
「きみが潰れちゃうよ?」
「潰して!」
「・・・」ユキに乞われるまま、鹿嶋君はそろそろと体の力を抜いていき、自分よりもはるかに華奢な彼女の上に慎重に身を委ねてみた。すぐに折れてしまいそうな鳥のような骨組みを体の下敷きにして、危なげ。ぽきんと言わせてしまったら一大事である。しかしユキはしなやかに微かにもがいて受け流し、互いがゆったりと凭れ合って力を抜ける位置を定めた。相手の骨に自分の骨が食い込み、それでも痛くない場所。うるさい位の互いの鼓動、息遣いを全身に感じとれる。はあはあドキドキ。コクッと唾を飲み込む喉の音、相手のお腹の中で胃がコポコポ動く音。
「お腹空いてる?」
「…え?私?」
「今鳴ったのはきみのお腹じゃないの?」
「私お腹…空いてるのかな?私かなぁ?あなたのお腹じゃない?」
「多分きみのお腹が鳴ったんだよ。・・・今何にも冷蔵庫に無いなぁ・・・何か食べに行こうか?」
「ううん。このまま眠ってしまいたい」
「寝たら抜けると思うよ」
「抜ける?」
「これが」鹿嶋君は目で下を示した。「僕のが」
「そう?なんで?」
「寝たら小さくなると思うから」
ユキはクスクス笑い出し、鹿嶋君もつられてちょっと可笑しくなった。笑うと振動がまだ繋がり合っているところにも伝わった。
「抜けても構わないからこのまま眠りたい。起きた時もこの状態で目覚めたいの」
「しばらくこのままでいてあげるから寝たら良いよ、僕は眠れないよ、完全に気を抜いたら寝返りとかしてしまうだろ。目が覚めたら俺の下敷きできみが圧死してたら寝覚めが悪すぎる・・・」
(このまま眠ってしまって目覚めなかったら私には最高だけどな・・・)
ユキが何がそんなに面白いのか鹿嶋君にはちょっと不思議なくらいだったが、彼女がクスクス笑い続けでプクプク微動が続き、何よりもずっと最上級に幸せそうなのが分かるので、彼も楽しかった。
ユキは体内に留まっている鹿嶋君の一部分がまだしっかりと大きなままで、時折ピクッ、ビクンと動くのを感じてそのたびに更に可笑しかった。応えるように自分の膣も時々キュン、ギュッと締まる。
「ね、この子達もこの子達で、お喋りしてるみたいじゃない?」
アハハッ!と鹿嶋君は思わず大声で笑った。「久しぶりだね、って?」
「うん」フフフとユキが笑い、「元気だった?」「そっちはどう?」と突き合い、二人で面白がっているうちに、なんとなくもう一度揺れ動き始めていた。どちらからともなく。
目と目が見かわされ、もう互いに相手が笑っていないのが分かった。
「このまま?もう一度?」
「良い?」
ユキの目が閉じ、柔らかい唇が合わさってきた。それが了承のサイン。自分も同じ気持ちだと示す彼女なりの仕草だ。
鹿嶋君は二度目は自分の剣の暴走を抑えられ、色んな姿態のユキの姿を目の当たりにすることができた。後ろ向きにさせたり、脚を抱え上げたり、ベッドの上に立ち上がってトランポリンみたいにポンポン跳ねたりして。
昔の彼女は、もっと硬い印象だった。肌が張り詰め、胸もお尻も今ほどには柔らかくなかった。それに気持ちの面でも。昔の彼女は、何か、胸の奥底に秘めた大切な硬い脆い物があり、それを壊されないように必死に守ろうとしながら、合わせられるところで出来るだけ合わせてくれてるみたいな感じがしていた。自分もそれで、彼女の自分に向けて開かれる域を広げるようなつもりで、壊さんばかりの勢いで彼女を犯した。自分に対して守られている防壁を少しずつ打ち砕き、いつかは完全に無くしてしまいたいと、攻め込むような感覚。毎日少しずつ傷付け、修復されていくユキが自分により近くなりより似れば良いと思っていた。
でも今は、彼女は、柔らかく、ただ二人の行為の行きつく先を極限まで高めようとしている。恥ずかしがりながらも大きく開脚し、すべて受け入れ、何も隠し事などないかのように。
16歳の腕にユキを抱いていたあの頃、彼女の背後に何があるのかを全く知らず、それがどんな大きな逃れようのない深い闇かも気にすることすらできずに、ただ一対一の恋人としての行動をとっていた。
しかし今は違うのかも知れない。自分はユキの秘密の核心についに手が届き、それでユキはこんなに柔らかく温かく包み込み飲み込んでくれるのかも知れない。ひたすらに優しく。彼女の秘密は暴かれ、それを知った今も変わらずに受け入れて愛する姿勢を見せる鹿嶋君へ、ユキの心は底まで貫かれ一色に染め上げられたのかも・・・・
上に跨った時、ユキは自分が声を上げすぎないように、自分を律し始めた。彼がドンドン突き上げ、ジョッキーが振り落とされぬよう身を低く伏せしがみ付いたような姿勢をとった折、耳がちょうど鹿嶋君の喉元に擦れ、「んっ」と言う切ない甘い声が聞こえたから。
(まだいきたくなくて我慢してるのかな?もう少しこうしていたくて?・・・)ユキにはそう聞こえた。(セクシー!もっと聞きたい・・・もっと喘がせたい!)
胸と頬に触れてくる相手の両手を捕まえ、頭の上へ上げさせて、その両手の指に自分の左手の指を絡めて押さえ付けた。唇に口をくっつけ、舌を合わせ、激しく腰をくねらせた。彼の息が上がっていく、手足に力が籠る、彼の香りが香り立つ。
「ん・・・」また聞こえた!嬉しくて、ユキは自分の情熱も体温もまた一段と上がるのを感じた。痛くても構わない!彼の声がもっともっと聞きたい!どういう意味がある音なんだろう・・・?苦しげな表情の意味は・・・?
しかし聞いてみるのは後回し。息の続く限り加速し、息するのも忘れて加速し、熱烈に、びしょびしょに汗をかきながら彼の気持ち良いところを捜し回って貪り舌を指を這わせた。
嗚呼、溺れそう!なんでこんなにも良い香りなの?クリーム色の鍛えすぎてない筋肉質、日が当たらないところは私よりも色白。懐かしい、変なところに一本だけ生えた毛!思わず笑いそうになる。
(久しぶり!あなたも元気そうね!)
力を抜いていればグデ~っと柔らかく、力むと瞬間、ガチッと筋肉が盛り上がる。彼の上になると海の上、波の上に乗ったよう。
控えめにもがき始めていた鹿嶋君がちょっと本気を出して、指の縺れを解き、熱い手を腰に回してきた。ガッチリ抱き締めて彼女の動きを封じようとした。
「なんで?」執拗にさらに激しく攻め続けようとしながら聞いてみた。「苦しい?痛いの?」
黙ったままで鹿嶋君が起き上がり、まるで大波が小船を転覆させるのを止める術がないように、つかの間ユキはバランスをとるのに精一杯になり、気が付けばガッチリと体に腕が回されていて、自分がリードできる時間が終わってしまっていた。
「ゆっくりしようよ。今度は長く繋がっていたい」
やってやりたかったのに、私だって・・・ユキは動こうとしてみたが強い力に優しく抑え付けられた。体の大きな男の人に力を出されたらどうしようも太刀打ちできない。もう分かり切った話なので、悔しさもサッと切り替え、すぐに諦めも付いた。汗をかいた背中を撫ぜ擦ってくれる鹿嶋君の大きな熱い手も心地良かった。
もう一度ゆっくり仰向きに寝かされる。脚を上げさせられる。体位を変えようとしてるのかなと思ったけれど、すぐにそうするのではなく、鹿嶋君はユキの足の小指の爪のペディキュアに目を凝らしていた。そんなところ、よく見られて大丈夫だったかなと、慌てて引っ込めようとすると、余計力を入れて引っ張り、チュッと足指に口付けられた。
「やめて」でもまんざらでもない。
二度目は互いの体を隅々まで確かめ合い、懐かしさに喜び変化に感じ入った。繋がったままで色々に体位を変え、疲れ果てるまで思う存分ゆっくり楽しめた。
「明日は・・・?」眠りに落ちる間際、鹿嶋君が聞いてきた。眠たそうな声で。
「土曜日?」あなたは休みなんでしょう、鹿嶋君?会社員の人は明日はお休みでしょう、だからそもそもお店へ電話して来たのよね…?長い孤独の縁から落ちたくなくて・・・でも何故そんなこと私に聞くの?・・・
ユキにとって、次に来る質問を予測するのは簡単だった。愛し合って眠りに就く間際の、この会話の流れが初めてという女ではなかった。
「きみは・・・忙しいんだよね?」
「ええ、・・・」土曜は特に、週の中でも一番。一日中忙しい日…でも・・・
「・・・」
「でも、夜はまた会えるわ」鹿嶋君が自ら誘ってくれるまで待っていられずユキはすぐ言ってしまった。
「本当?」彼の口調が明るく弾み、嬉しそうだったので、ユキは心からホッとした。
「ええ。また会いたい」
「じゃあ、会いに来てよ。俺も会いたい」
「うん」
「・・・」
彼が何か頭の中でグルグル考え始めたのが分かった。これも簡単に予測が付いた。
(お金は要らないわよ、頼むから鹿嶋君、お金のことなんか言わないで・・・)
「あなたの作ってくれたお鍋。美味しかったなぁ」
「え?」鹿嶋君は急に話題を変えられて上の空の生返事だった。まだ頭の中に燻る問いに悩まされているのだ。
「報酬はあなたの手作りのお夜食で受け取るわ。」
「・・・え・・・ああ・・・」
「お金は要らないと言ってるの!」ユキはもう面倒になり自分からバラしてしまった。「楽しみだなぁ。明日の夜は何十年ぶりかしら?あなたの手作りご飯でお腹いっぱいになれる?」
「うん。じゃあ作っておくよ。・・・」
鹿嶋君がこちらへ寝返りを打ち、ギュッと力を入れて抱き締めてくれたので、ユキはこの上ない幸せのうちに眠りに落ちた。
どちらかの眠りがもう片側の眠りを妨げ、寝返りを打って相手に肘や膝をぶつけ、どちらからともなく眠りが弱められ、破られた。
(夢じゃないよね、これ・・・)
(自分も同じこと考えてた・・・)
だんだん本格的に覚醒しつつ、両腕を広げ伸ばし合って相手の体を捕まえ合い、くっつけあった。目を擦ろうと上げかけた手を取られ、無言で鹿嶋君に手を導かれ、カチカチのものに触れさせられる前から、腿に押し当たる感触でユキにも早々と分かっていた。彼が大きく伸びあがってガサゴソ眼鏡を手探りし、ユキは何がしたいのかにすぐ、ピンと来た。
「5時。」眼鏡が見当たらない彼のかわりに、ユキが壁の時計を読んであげた。
「1月6日。土曜日。曇りのち晴れ。外は今3度。最高・・・」
「まだ行かなくて良いよね?」
鹿嶋君は既にパンツを降ろし始めていた。
「抱かせて」
ユキは嬉しくて2度も頷いた。
朝の鹿嶋君は元気が漲っていて、自分も充電が満タンに補充されており、燃え上がり過ぎて終わるころには再びヘロッヘロになっていた。眠る前よりもクタクタだった。さすがに、ちょっとズキズキもした。
「あなたって変わってない・・・」
「何が?」
「私が仕事に行く前は物凄いの」
「行かせたくないからだよ」
「知ってるけど、それにしたって・・・」首を捩じって時計を見上げる。
「噓でしょ!!え・・・ヤバ・・・」見間違いかと思ったが間違えてない。
「もう8時・・・!!」急いで起き上がろうとするも鹿嶋君の重い腕がお腹にしっかりと巻き付いていて起き上がれない。
「ダメダメ!行かなくちゃ!・・・ねえって!!怒るよ!!!」
「休んじゃえよ。今日くらい」
「・・・無理・・・」しかしユキの頭の中で歯車が高速回転を始めていた。色んなものが手早く天秤にかけられ、全てが軽々高く持ち上がった。重たいのはとにかく鹿嶋君の腕だった。この腕に凭れて過ごす1日に代えがたい物って・・・何かある?
これからもう一度一緒にお風呂にゆったり浸かれるのだ、それから何かを食べに行く・・・鹿嶋君がモグモグガツガツ食べ盛りのゴールデンレトリバーみたいに育ちの良さをギリギリ発揮しながらモリモリ食べるのを見るのがユキは何よりも好きだった、それに彼の運転する車に乗せて貰えて出掛けられるんだろう、初めて!そんなのって、素敵すぎる!
ドキドキ!少女のような胸の高鳴りを抑え切れず、ワクワクし過ぎてブルッと身震いが来た。
「・・・でも、事務所に電話だけは入れなくちゃ・・・私が昨日で死んだと思われるわ・・・」
最期に丸一日の休みを取ったのはいつのことか。みんな仰天して看病に駆けつけるのではなかろうか・・・どうしよう、仮病なんてどうやるんだったっけ・・・?
「僕が電話しようか?」
「そんなわけにいくかいな!」思わず秘書のおばあちゃんの口癖で突っ込んでしまった。
「あなたが私を殺害したと思われるわよ!ハルサメ君が飛んで来ちゃうわ!・・・昨日のあのでっかいドライバーのあだ名よ、ハルサメって」
「ヘルシーだな、名前負けしてる・・・」鹿嶋君がボソボソ言っている。
「ああ、もう、どうしよう!?もう心配され始めてるわ、あたし職場の上が住まいなんだから!・・・いつも当番で起こしに来るのよ、住み込みの小っちゃいガールの子が・・・一旦帰って頭整理して事情を説明してからまた来るわ、ここへ・・・」
「普通に『今日は休暇を取りたい』で良いじゃないか、きみがオーナーなんだろ」
「・・・」ユキは黙り込み、その線で考えてみた。確かに。シンプルで、嘘もない。
「よし。じゃあ、・・・電話して来る」
玄関まで行ってみて鞄を捜したが、鹿嶋君の皮靴に倒れかかってるブーツがあるだけで、そもそもポーチすら持って来てなかったことに思い至った。
(じゃあどこに・・・?)昨日の情熱的夜を早送りで巻き戻して見て、コートがソファの上にあるのを発見した。そのポケットの中に携帯電話があった。既に着信履歴が2回。すぐかけ直す。
「もしもし」
「私よ、ええ、何事も何も、何もないわよ。無事よ。全然平気・・・うん、・・・うん・・・」
鹿嶋君はごく朗らかな気分で仕事をズル休みするユキの方便を聞いていた。襖1枚で隔てられた隣の部屋からユキが部下にちょっと圧をかけてる。
「・・・何?私が休みたいの。文句ある?」
1日休むのがそんなにも一大事と受け取られるとは、いったい今までどんな働き方をして来たんだ?休んだら死ぬのか?止まったら窒息死するマグロか?鮭か?・・・
「ふぅぅ・・・」電話を切ったユキが戻ってきた。
「あなたと行ってみたかったところがいっぱいあるの。電話しながら思い出してて・・・ドライブに連れ出してくれない?」
「まずシャワーを浴びよう」鹿嶋君も運転したい気分だった。窓を開け、隣にユキを座らせて。
お天気は快晴。
鹿嶋君の男物の洗顔料で顔を洗ってお肌やら何やらが心配なユキは、最初のコンビニまでは彼のキャップを目深に被り彼のマスクで目から下を覆いまるでイスラム圏の女性か強盗犯かみたいないでたちだったが、コンビニでクリームとアイブロウ、口紅を選び、必要なさそうで実は欠かせないラメまで鹿嶋君に買って貰って、それらを顔に付けると、ホッと人心地ついた。
「何が食べたい?」
「あなたが食べたいもの」(お財布を持って来てないユキは金を使う話になるたびにいちいち居心地悪く、久しぶりに迷い猫の心境、あの人が捨てたゴミ場を漁って暮らした幼い頃が思い出された。
『一度事務所に寄ってくれれば・・・』鞄を取って来られるのに、と何度も言うのだが、
『絶対嫌だ』鹿嶋君は断固拒否。どこへ向かうかまだ決めてない段階から、とりあえずとにかくユキの事務所がある街から遠ざかる方向へ車を出した。『必要な物があれば僕が買うよ』)
「俺は何かガッツリしたものが食べたいなぁ」
そらそうでしょう、プッと噴き出した。あんなにガッツリ消費したんだから・・・
「私も同じ気分」
二人は隣の県までのんびりドライブし、このあたりで名物らしいステーキハウスでちょっと並んでからステーキを食べ、サラダをお代わりし、ロブスターまで追加注文した。
「嗚呼、もう食べきれない!欲張っちゃった・・・」
「どれ?残りは僕が食べてあげよう」
ユキはレモネードをチビチビ啜りながら、モリモリ食べ続ける向かいの男を惚れ惚れと眺めた。やっぱり食べっぷりも知ってる頃そのまま。自分の食べ残しを綺麗に平らげてくれるところも好きだった。変わってない・・・
昨日の夜は彼の頬が少しこけてるように見え、そのかわり服を脱いだ彼の胴周りがちょっぴりぷよぷよしてる気がして、(心労、運動不足かな)と内心思った。でも今朝の彼の体は既に肉体改造が内部から始まったかのよう、たった一晩で腰の肉感が昨夜とは違って来ていた。
「何?」
鹿嶋君はふと不安になったように紙ナフキンを取って口元をゴシゴシ拭った。
「ケチャップ付いてた?」
「舐めて取ってあげたかったのに」ユキが冗談を言うと
「ここでじゃダメだよ」大真面目に囁いて返して来た。「どこか場所を移そう」
このドライブがいつまでも終わらなければいいのに・・・ユキは思った。運転する彼の横顔を眺め、手や膝に自分の手を置いたりしながら。
二人は植物園をゆったり散歩し、アウトレットで買い物し、お茶を買いに立ち寄った道の駅では、リードをズルズル引き摺って心細げな顔をした迷子のトイプードルを飼い主まで届けた。
「良かったね、あの子」
「可愛かったなぁ」
「大人しかったね」
「誘拐されなくて良かったよ」
「誘拐しちゃえばよかったかなぁ」
「あなたでもそんな悪い事考えるのね」
「いつも悪い事考えてるよ」鹿嶋君が片手を伸ばしてユキの近い側の胸をチョンと突いた。
「それは良い事でしょ」ユキがシートの中で脚を組み替え、姿勢をずらして彼の手をスカートの中へ引っ張り込んだ。
「分かる?ここ、ストッキングに穴が開いちゃったみたい・・・」
「こらこら!事故を起こしちゃう!平常心!!」
鹿嶋君が手を抜き出し、ユキの頭をポンポン撫でた。しばらく無言。それからユキが言った。
「でもワンコは死んじゃうから・・・覚悟してるつもりでいてもいざとなったらやっぱり結構悲しいもんよ」
「飼ったことあるの?」
「・・・昔・・・子供の時に。飼ってる友達がいたの」
「ふうん」
「・・・」
「・・・」鹿嶋君は自分の相槌の打ち方が気のない返事過ぎたかなと後悔した。ユキがその犬を飼ってた友達の話をもっと詳しく聞かせてくれるだろうと期待したのに、彼女がむっつり押し黙ってしまったから。
(まあいいさ)彼は思った。(無理に話さなくても。彼女の過去には辛い経験が多そうだし・・・)
でも昔付き合いたての時にも、これまでの彼女の全てを聞き出そうとして嘘ばっかり吐かれたことなどが思い出され、寂しい気持ちが忍び寄ってきた。
(ユキ、きみはどこから来てどこへ向かおうとしてるんだ?きみが何者なのかを決めるのはきみなんだよ?・・・)
「・・・この間も、チワワを置き去りにして居なくなっちゃった若い女の子がいて、困ったわ・・・」
「ふうん」最近の話なら出来るんだなと鹿島くんは思った。よし。それでもいいぞ。それも聞いてみたい。
「スタッフや女の子たちみんなで当番制にして餌やりしたり散歩させたりしてたけど、最終的には、居なくなっちゃった飼い主の常連客だった人が引き取ってくれて。一月くらいは、環境が変わって寂しがり夜鳴きしたり餌を食べなかったりしてるって、どうしようかと相談されて、またお店に戻そうかって話にもなりかかってたんだけど、2か月目にはもうすっかり懐いたって言って甘えんぼな可愛い動画を送ってくれて。それでようやく1件落着。」
「時々あるの?そう言う事って」
「あるわ。置いて行かれるのが犬じゃない時もある」
「猫とか?」
「そうね。猫は自立が早くて良いわね。子猫は私も好きよ。死ぬところを人に見せないし。でも、最初は4足歩行、次に2足歩行で最後に3足歩行する生き物だと、もう、大変」
「人かよ!赤ちゃんを置いて行くのか」
「ええ。もしかしたら一番多いかも知れないくらい。」ユキは鼻からフーッと溜息を吐いた。
「人間の赤ちゃんが一番置き去りにされるわ」
「どこへ?!」
「私の店によ。内と外に託児所があるの。仕事が引けてもそのままどっかへ飛んじゃって、引き取りに来ないのよ。住み込みで働いてて部屋を貸してる子もいるわ。稼げる子達にしか部屋を与えてないんだけど、そんな子でもたまにある。ベビーシッターが『あたしもう帰る時間なんですがお母さんのお戻りがまだなんです』と私に電話で知らせて来るの」
「どうするんだ?そんなの」
「場合によるわね。チワワと一緒。オシメ変えたりベビーフードあげたりしてうちで何日か預かってるうちに、母親が泣きながらごめんなさいと言って戻ってくるパターン。これが最も多い。私はひと月は様子を見ることにしてる。それから父親を捜し始める。赤ちゃんを託せそうな環境かを先にちょっと調べさせてもらってから、連絡を取るの。」
「父親が誰だか分からないこともあるだろ?」
「父親も祖父母も探し当てられなかったら、そこからが問題よ。赤ちゃんと相談するの」
鹿嶋君はミラーでユキの顔を見、目が離せる交通状況になってからもう一度、ユキの顔を見た。
「正気?」
「ねぇ、鹿嶋君、運転そろそろ疲れて来たでしょ?代わってあげましょうか?」
「・・・え?・・・きみ、免許は?」
「無いわ。でも上手よ。特にパトカーの追跡を巻くのが」
「ユキ・・・きみいつか摑まるよ」
「捕まらないのよ。こっちが先に相手の肝を握ってるから。この手中に」ユキは右手をパーにしてからグッと握り締めた。
「・・・運転はこのまま僕がするから。置いて行かれた赤ちゃんの話、続きをしてよ。きみが育ててる子もいるの?」
「5人いる。一番上の子は今年18歳。今月初めからうちの店で働いてくれてるわ。賢くて、別の道も開けてるけど、何度言ってもここで働かせてと本人が望むの。妹達とも離れたくないからと。私が一から育て上げたと言えるのは一番上のその子だけ。後の下の子達は、上の子達が順繰りに面倒見てくれて。子供達同士が自分達同士支え合ってうちで暮らしてるだけなのよ。名義は私の養子となってるけどね。ライセンス。あなた方が言うように、『きみ、免許は持ってるのか?』」
ユキは鹿嶋君の口真似をしたが、その口調にはどこか棘が潜んでいた。
「あなた方って?・・・ここには僕しかいないよ・・・?」
鹿嶋君が優しく思い出させてあげると、ユキはハッと我に返ったようで、フロントガラスを突き破りそうに尖っていた視線が元通りの柔らかな目に戻り、謝った。
「そうね、ごめんなさい。・・・母親としての資質とか資格だのの事では、ちょっと色々と役所からトヤカク言われがちなの。」
「・・・きみが面倒を見ないと決めた子もいたの?赤ちゃんと相談ってさっき・・・」
「嗚呼。居たわ。」ユキの目がまた暗くなった。さっきよりも一段と暗く。
「すぐ病院に知らせないといけない状態で見付かる赤ちゃんもいたし、私が抱いてもあやしてもイヤイヤしてずうっと泣き止まない子もいた。表面から見ただけじゃ分からないけど体内に何か異変が起きてるのかも知れない。やっぱり病院に連れて行かないといけないじゃない?赤ちゃんは泣くもの、オムツ変えてもミルクあげても泣き止まないなら泣かせておけばいいとも言われたけど、そんなの・・・産みの母親にしか聞き分けられない泣き声の異常さってものがあったとしても、私には分からない。放っておいて死んじゃったら、それこそ、駄目でしょ?
で、病院に連れて行ったら、あなたがお母さんですか?と、聞かれるわけ。ハイと答えるわけにはいかない。だって、本物の母親が次の日に現れた場合、事態がややこしくなるから。中には土壇場で裏切る女の子もいるのよ。良くしてあげてきたつもりなのに、自分の体裁を護りたいばっかりに、赤ちゃんを私が誘拐したと騒ぎ立てたりしてね。そんな子に限って育児放棄を繰り返したりする。自分の非を認めないで人に擦り付ける事ばかり上手になって行くの。ライセンスって?ナンセンスと響きがよく似てるじゃない?子育てに許可が必要なら私の方が・・・」
鹿嶋君がユキの膝に手を置くと、ハッとユキも彼を見返した。
「何か具体的な揉め事を思い出させちゃったね」
「・・・うん。赤ちゃんのこととなると・・・私も・・・でも、とにかく、病気がちな子は面倒みてあげられないの・・・内雇いのお医者もいるけど、専門家じゃないし、一般の小児科で見て貰ったら、そこからは行政に託すしかなくなる。小さな子ってすぐ病気にかかるし体が小さいからあっという間に死んじゃいそうな気がするのよね。数年手元に置いてても、お別れしなきゃいけない子だっていたわ。もう喋れるようになっていたから、私の事ママ、ママ、って呼んで泣くの。あれは辛い別れだった。あの子にもひどいことをしてしまったわ。そこから、今のスタイルを構築したの。1か月は待つ。でもそこからは、私の子になるか、ならないか、赤ちゃんと目を見て相談するの。色々壁にぶち当たって、試行錯誤繰り返して、何とか一番いいやり方を私も身につけて行ったの。先代の手引きもあって。・・・でも・・・とにかく・・・泣き止まない赤ちゃんは私の手を離れて行くわ・・・」
ユキの目が銀色に光って、涙をこぼしそうになっているのが分かった。
ふと鹿島くんは疑問に思ったことをそのまま口に出して聞いていた。
「きみ自身は自分の子を産んでるの・・・?」
その後に訪れた沈黙の凍り付く冷やかさ。鹿嶋君は(シマッタ・・・)と今更ながら手で口元を撫でまわした。
「・・・うん」だいぶ経ってからユキが返事をした。
鹿嶋君が耐えられそうになくなってラジオを付けようと操作パネルに指を伸ばしかけた頃になって。
「ふ、ふうん?・・・」
何か他に言葉が続くはずと思って待ったが、ユキは何も言わない。鹿嶋君もなんだか怖くなって聞けそうになかった。その子はどこにいる・・・?誰が育ててる・・・?今いくつ・・・?・・・誰との子なの・・・?
ユキは膝に目を落としてゆっくりと深呼吸を繰り返していたが、そのうち窓の外へ顔を向けてしまった。
「私達、次はどこへ向かってるの?」
「着くまで内緒」
ユキの手が伸びて来て、鹿嶋君の手を探り当てた。それから彼女の顔がこちらへ向いた。もう切り替えた笑顔。
「楽し」
プラネタリウムで星座を学び、車に戻る頃には、頭上、本物の天に本物の星が瞬いていた。
「この次はどこへ行きたい?」
「うーん・・・もうそろそろ帰る?」
「・・・そうだな・・・でもその前に晩飯を食おう。」
「え、お腹減ったの?」
「減ったな。きみはまだ?」
そうか、鹿嶋君はずっと運転してくれてたんだもんな、とユキは思った。彼といるのは凄く楽しかったが、自分無しで1日業務を回した会社が、日常が、少し心配になってきていた。今日出勤してくれた子達、みんな無事だっただろうか、客と揉めたり嫌な目に遭ったり客に粗相をしでかしたりしてないか?・・・大部分の昼勤の子達はもう引き上げ、夜勤の子達と入れ替わっている頃だ・・・
いつの間にかユキはウトウトしていた。気が付くと車はどこかの砂利敷きの駐車場に乗り入れて、鹿嶋君が窓を開け和装姿の案内のおじさんと話していた。それから、バックで指定の場所へ車を停める。
(え・・・?)と内心思ったが、声には出なかった。
「着いたよ」
「着いたって・・・鹿嶋君・・・」ユキはサッサと降りてしまった鹿嶋君の後ろ姿を目で追いかけた。彼は後部座席からアウトレットで買ったばかりの紙袋をヒョイと取り上げ、バタンと扉を閉め、ぐるっと回り込んできてユキの側のドアを外から開けてくれた。
「ここって・・・」
「まぁまぁ、良いから。晩御飯食べよう」
靴を脱ぎ、着物を着た仲居さんに先導され、廊下の奥のお座敷に到着。部屋から露店風呂への行き方の説明を受け、浴衣のサイズを聞かれ、(若くて可愛い仲居さんにジッと見詰められるもボウッとなって何も答えられないでいると『Mで』と鹿嶋君が言った。)明日の朝ごはんの時間を何時にするかなども、全部勝手に鹿嶋君と仲居さんが取り決めをしてしまった。
「7時で良かったよね?」
ユキはううん、と首を横に振ったが、鹿嶋君はもう既に後ろを向いて、楽しそうに障子を開けたり箪笥を開けたりして、はしゃぎ始めていた。
「お風呂入ったらきみもお腹が空いてくるよ!・・・浴衣って風呂上りに着るものだよね?あ、見てごらん!ほら!雪がチラついてるよ!わあ~・・・綺麗だなぁぁ・・・!」
ユキは呆然と白紙の脳を絞り、明日の朝の予定を思い出そうとしてみた。最近やっと紙の手帳から携帯電話でスケジュールを管理するようになったものの、自分よりも秘書や周りの子達の方が自分の予定を頭で覚えてくれていた。
「・・・じゃ、お風呂・・・お風呂に・・・」玄関の下駄をちらと見る。
「いや」さっきまで窓辺にいたはずの鹿嶋君がすっ飛んで来て、やけに強い力で腕を掴んだ。「内風呂に入ろう。一緒に」
彼は彼女が女湯から事務所に電話をかけて迎えを呼ぶつもりかと考えたらしい。
「でも・・・」
「いいや。別々の風呂になんて行かせないよ。せっかくきみと出会えたのに。そんなの時間が勿体ない!家族風呂も予約してあるから後で露天でも浸かれるよ。風呂に今入りたいならここのに入ればいい。飯の時間まで、外に出る必要はない。」
これでは軟禁である。ユキは鹿嶋君と見つめ合いながら(どうしようか・・・)と頭の中で考えた。顔はニヤケそうである。ちょっとでも気を抜くと。
しかし嫌か嫌じゃないかの感情論は一旦置いといて、自分にしか果たせない仕事が明日の早朝に入ってるかどうかに全てはかかっている。
はあああああ、鹿嶋君の胸に顔を埋めながら大きな溜息を吐いた。「明日の予定確認する。事務所に電話を一本入れさせて・・・」
「ああ。良いよ。どうぞどうぞ」
鹿嶋君がしてやったりとニヤニヤ笑いながらユキのスーツパンツの尻ポケットから彼女の携帯を取り出してくれた。
ご馳走を前にして、ユキはやっと鹿嶋君のニヤニヤ顔に慣れてきた。
「それで要らないって言ってるのに下着やら着替えを買ってくれたわけね。」
「うん、そう」鹿嶋君はニコニコ機嫌良さそうに蟹の足をポキンと折った。
「道理で・・・嗚呼、じゃあ、あの時にここを予約したの、あの道の駅のトイレ休憩・・・」
「そうだよ」
「なかなか煙草を吸うのに時間かけるんだなぁと思ったの!変だなぁ、一箱吸ってんのかしら、本当はお腹壊したのかしら、って・・・」
「ん~ん、」ニンマリ。ホッペいっぱいに頬張っている。
今夜も泊まるなど一言も、泊りのトの字も、聞いてない。断りも相談も無しだったけどなぁぁ・・・なぜこんなに平気で罪のない顔していられるんだろう・・・
はあっ。首をフリフリ。「まぁいいや。そんなにも嬉しそうな顔されてちゃ怒る気にもなれない。・・・むしろありがとう。お陰様でこんなゆったり仕事から離れられたのは初めて」
「あれを着て見せてね」
鹿嶋君が何の事を言ってるのかユキは咄嗟にピーンと理解した。
「あのランジェリー!だからかぁぁ!!」
もうこの頃ではイケイケの商売風衣装を身に纏う機会はほぼなかった。自分自身は裏方に回り、これから売り出したい新しく入った子、若い子達をドンドン前面に押し出して、彼女らの育成やサポートに力を注いでいた。古馴染みで一本気で、ユキが「私の分身と思って可愛がってあげて下さいよ」といくら後輩を紹介しても絶対首を縦に振らない頑固な客達の相手だけはまだしていたが、彼らはもはや会うたびにユキの体を求めるわけでもなかった。
『きみが元気にしてるかどうかを見に来てるだけなんだよ』このところ指一本体に触れてもくれないので寂しくて、こちらからお誘いした方が良いのかしらとそっと身を寄せに行ったら、A氏は言った。
『きみの顔を見たいだけで来たんだ』常にバタバタと忙しいB氏はユキの顔を見るとまだ時間もたっぷり残っているのにとんぼ返り。
酷い人など、会いに行く時間が作れ無くて悪いからと、花や菓子やプレゼントを送り付けて来たり送金だけしてきたり・・・
(あなたの方がよっぽど下衆なんだけどなぁ、鹿嶋君・・・)
彼が選んだほぼ紐だけで出来てるような濃紫の卑猥なランジェリー姿で彼の前で踊りを披露しながら、ユキは思った。
(鹿嶋君だって、狡くて、身勝手で、変態で、私を軽んじることがある。力加減はいまだに出来ず痛い思いをさせられるし、欲張りで強引で・・・彼よりもよほど紳士で礼節をわきまえ私をほとんど崇拝してくれてる優しいお客様だっていっぱい、それこそいっぱい、居てくれてる・・・なのに何故・・・)
ユキは内心真面目に首を傾げた。(なぜ私はこの人のことが誰よりも好きなんだろう・・・なぜ私はこの人だけ特別に想ってしまうんだろう?・・・)
「おいで」鹿嶋君が腕を伸ばして呼んだ。「ユキ」
するとすっかりユキは何を考えていたか忘れてしまい、鹿嶋君の胸に倒れ込んだ。
もう何度目かの、尽きせぬ情熱。髪が縺れ合い、息がピタリと一つに重なる。二人は愛のアスリートに極まりつつある。そのためにある体力、それにしか使う気のない体。相手の肌の表面に触れているだけでは収まらず液体のように混ぜ合わさりたい。2つの魂は肉体を溶け出して高まり屋根を突き破って昇り詰める。一つの花火となって夜を染める。
泥のようにぐったりと疲れ、充足感に満たされて、ベッタリと腹這いになりながらユキが聞いた。
「ねぇ、明日は日曜日ね?」
「そうだな」鹿嶋君の返事は既に欠伸交じりだった。
「明日は何をするの?」
「・・・さぁ。きみ次第だ。・・・きみ、ここに泊って行くんだよね?今夜は」頬杖をついて横に寝転びながら鹿嶋君が聞いた。
「うん」
「明日のきみの予定は?仕事は明日も休めそう?」
「・・・まあね。聞いてたでしょ?」
鹿嶋君は笑って頷いた。ユキが事務所に電話してる時同じ部屋にいて声が丸聞こえだったのだ。(『私。明日の予定って代理でいけるかしら?そう、明日も休みたいの。・・・うん。・・・うん、大丈夫よ、私は。あなたも大丈夫・・・?・・・うん、・・・うん、・・・あら!そう?・・・ええ、・・・ええ、・・・それは帰ったら詳しく聞くわ。どう?あなたなら出来るでしょ。今日も回せたでしょ?明日はちーちゃんもいるし・・・・ええ、明日は帰るわ。・・・うん・・・何時かは分からないけど・・・』
「じゃ僕と一緒に寝てくれるんだね、今夜も!朝まで」
「うん、もちろん、喜んで」
「幸せだなぁ」
「うん・・・」
ユキは感極まって泣きそうになり、鹿嶋君の脇に目鼻を突っ込んだ。
「うわっ!くすぐったい!やめて」
濡れた腋毛に頬を撫でられユキもクスクス笑った。こんなにも楽しい事ってこの世にあったんだ!
鹿嶋君が笑い止み、しばらく静かになった。眠ってしまったかなとそっと顔を見上げて見てみると、目が合った。
「何?」昔と同じ不安が呼び覚まされかけた。真面目な顔でまじまじと見てくる。しかし次の鹿嶋君の声が不安を消し去ってくれた。
「綺麗だなと思って見惚れてただけだよ」
「フフ・・・あなたも綺麗。浴衣似合ってる。セクシーよ」
「不思議だなぁ。僕も全くおんなじこと考えてた。」
「フフ・・・あなたって、声もエッチで素敵よ」
「えっ!?俺声なんか出てる!?」鹿嶋君の動揺で地震が起きたようにユキの体もグラリと揺れた。
(可愛い人だなぁ)ユキはまたクスクス笑いの発作に襲われたが、流石にもうへとへとに疲れていて、長く笑い続ける元気も残ってなかった。トロンと甘美な眠気が瞼の上に降りてきた。
二人は、2つ敷いてもらった片方の布団しか使わなかった。
日曜日、恋人たちは手を繋ぎ観光地を巡った。
(朝ご飯を食べながらユキが提案した『イチゴ狩りは?』『え、これ全部食べたら腹いっぱいだよ、その上まだ食べたい?きみの方が食べられない癖に』鹿嶋君に却下された。
『なってるのを見るだけでも可愛いのに・・・それに私、あのビニールハウスが好きなの。外は極寒、雪がチラついてるのに、あの中に入った途端、わぁぁ!上着脱ご~!ってなって。蜜蜂が飛び、甘酸っぱい苺の白い花と果汁の香りが満ちてて、まるで天国へ来たみたい。あの白い薄いビニール1枚を隔てて・・・』
『分かった。じゃあ、苺狩りができる農園は、腹が減ったら探そう。昼頃』
『お昼にはもう赤い実が食べ尽くされちゃって残ってないわよ』ユキは抗議したが、小さな甘えた声だった。
荷物を積み込み、鹿嶋君はハンドルに携帯を凭せ掛け、片手でユキの手を握ったまま操作して今日のデートコースを考えた。ユキは自分の携帯電話を出してそもそもここがどこなのかをやっと知った。
『割と近くに有名な動物園があるよ』
『動物園は・・・ちょっと苦手かも・・・特に大きな生き物が・・・虎とか白熊とかが狭い檻に閉じ込められておんなじ所をグルグルグルグル回るしかなくて、ずうっとグルグルグルグル回ってるの、あれ、気が狂っちゃってるんじゃないかと思うのよね。見ててこっちの気も変になりそうなの・・・大自然の中で自由に走り回ってるのが普通じゃない?ああいう大きい生き物達は・・・きっと納得してないのよ、それでたまにウンチ投げつけて来たりするんだと思う。怒ってるんだって、ジロジロ見てるヒト達に分からせるために』
『どこの動物園の事?最近はそんなことないけどなぁ・・・檻が檻らしく見えない広さだよ』
『さぁ。大昔に連れて行ってもらって以来、行ったことないの』
『じゃ水族館か植物園なら大丈夫?』
『魚は優雅ね。おんなじとこグルグル泳いでても、見え方が綺麗。』
『よし。決めた』
鹿嶋君が車をスタートさせた。
『どこへ行くの?』
『着いてからのお楽しみだよ』
『そう言うと思った』ユキはワクワクしてきて彼の腕に頬擦りした。)
しかし楽しかったのはお昼間までで、午後からぼんやりと鹿嶋君の頭が痛みだし、ユキも彼が不機嫌になりだしたのをすぐに感じ取り、それが明日からの離別を思ってのことだと察せたので、二人してどんよりと暗い気分に落ち込んでしまった。
いきなり彼が高速を降りて安ホテルに車で突っ込んだ時、その荒いハンドルの切り方にも、ユキは若干怖くなった。
「今夜はここに泊ろう」
「え・・・」ユキは時間を見るために携帯を出した。「今から?・・・まだ6時・・・」
しかし携帯電話は鹿嶋君に取り上げられた。ガッと鷲掴みにして毟り取られたので、指が痛んだ。
「携帯頂戴、って言えば渡したのに・・・」
しかし彼は聞いてもない。既に車を降り、回り込んできて助手席のドアを開けた。ユキはまだシートベルトも外してなかった。
「早く。行くよ」
「でもさすがにもう・・・痛い・・・」男の方はそんなことないのか、それとも怒りで痛みには鈍くなってるのか。とにかくユキは車から降りたくなかった。鹿嶋君が漂わす暴力の匂いを嗅ぎとっていた。
「こんな安ホテルじゃきみみたいな高級娼婦は御不満か」
ユキは上目で彼の目をちらと見た。やはり。怒りに顔が歪んでいる。ゆっくりと首を横に振った。
鹿嶋君がユキの腕を掴んで無理矢理に立たせようと引っ張りかけた時、”関係者以外立ち入り禁止”の張り紙をしたドアが開き、おじさんが一人出てきた。こちらをジロジロ見ながら車の前を横切って左から右に歩いて行った。二人はハッと動きを止めて内輪揉めを一時停止しおじさんを見送った。
「あの人、きっとモニターで駐車場を見張ってたのよ。」ユキが言った。「あなたが私を強姦しようとしてるんじゃないかと疑って、牽制しに出て来たのよ」
「多分そうだな。でももう行っちゃったぜ」
鹿嶋君がまた引っ張ろうと腕を持ち上げた。
「また来たわよ!」ユキが囁いて知らせた。右から左に、今度は何か手に工具のようなものを持ち、同じおじさんがゆっくり歩いて通り過ぎた。ジロジロとこっちを執拗に睨みつけながら。
「ほらね。うちで揉め事を起こすなよって目で語ってた」
「関係あるか」
鹿嶋君にグイグイ乱暴に引っ張られ、引きずられて、ユキもだんだん腹が立ってきた。
「明日も一緒に居たいんだったら、あなただって休めばいいじゃない!鹿嶋君!私の仕事は休ませたくせに、自分は社畜で仕事休めないからって、私に矛先ぶつけるのはやめてッ!」
鹿嶋君は怒りの根本をズバッと言い当てられ、気まずくなったのかユキの手をそろッと放すと、叱られるべくして叱られてる犬のような気が抜ける表情を浮かべ、頭の後ろをポリポリ掻いた。
ホッとしたのと、鹿嶋君のこの仕草や顔がいかにも昭和で可愛くて面白かったのとで、怒りも続かず、ユキは噴き出し、溜息が出た。
「帰りましょう。あなたの家に。何かスーパーで食べ物でも買って」
鹿嶋君は頷き、すごすごと運転席に戻ってきた。
「日曜ロードショー観ましょう。今日は何やってるかなぁ」
しょんぼりしてる鹿嶋君を励まそうと、ユキは取り返した携帯で調べてみた。
「月曜日は一番休めない日なんだ、仕事がドッサリ溜まってて・・・」
「会社員の人ってそうみたいね」ユキは期待してもいなかった。
「月曜日に休むのは一番良くないって、休むと周り中からも言われちゃうよ」
「まぁ、そうなんでしょ、知らないけど・・・」
「嗚呼、事故った事にでもしようか?また・・・」
ユキは肩をすくめた。ドキッとして彼の顔色を横目に窺ってみたが、鹿嶋君は前に事故った時にユキに介抱されたことに気が付いてるわけではないらしい。明日の欠勤理由をどうしようかと悪知恵を絞ってるだけのようだ。
「別に体調不良で良いんじゃない?あなたあんまりにも仕事に行きたくなさ過ぎて体調悪そうだもん。嘘じゃないじゃん」
「う~ん・・・でも駐車場に車が無くて体調不良は・・・」
「じゃあ一旦車停めにお家に帰りましょ。また電車で出かけるか、明日は1日映画でも見てお家でゆっくり寛げば良いんじゃない?」
「きみと?」そこが肝心だよと鹿嶋君は思った。ユキはまたまた職場に電話を入れた。
「私と。」
「よし。じゃ休もう」大人になってから記憶の限りこれが初めてのズル休みだ、と鹿嶋君は思った。「一度車で事故を起こして2週間近く無断欠勤してしまった事があったんだ」
「へぇ」
「何かあれは今でも辻褄の合わないことが多い妙な事故だったなぁ」
「ふぅん・・・」
「山道を走ってたんだ。一人で。ちょっと飛ばしてた。考え事をしたくなくて。考えてもどうしようもない事だったから。そしたら、急に・・・あれは人間の子供のように見えたけど、錯覚だったのかなぁ、あんな時間にあんな場所に小さな男の子なんかが歩いてるはずはないんだ・・・」
「避けようとしたの?」
「そう。ガードレールをぶち破り、崖を落ちた。それで頭を打って、2週間記憶が無いまま・・・夢遊病者のように山の中で彷徨っていたのかも知れない、・・・」
「・・・」なるほど、鹿嶋君の独自の解釈を聞いてみよう、とユキは思った。
「多分、朦朧としながらも、どこかの時点で僕は意識を取り戻し、さかさまになった車から脱出し、何とか山を下りなくちゃとヒッチハイクしたんだな、きっと」
「ふむ」
「そしてまず男女が乗った車に拾われた。」
「ほぅ?」
「男の方は僕を早く降ろしたがっていた。デートの最中だったんだな、きっと。彼女が怪我をしてる僕にばかり構うんで、苛々していた。男はとにかく僕を早く排除しようとしてたけど、女性の方は本当に優しかった。彼女が近くにいると良い匂いがして、ヒンヤリした優しい手が触れて、僕の寝心地を良くしようとあれこれ枕の位置を変えたり甲斐甲斐しくやってくれたんだ。でも、男が、ヤブ医者へ僕を売り飛ばした!」
「ヤブ医者?!」ユキはガーンとショックを受けた。それってウラ君のことだろうか?
「そう、あれはヤブと言うより、腕は確かなのかもしれないが頭はイカレてる変態闇医者だな。変な手術を僕にしようとして来たんだ!あいつから借りた革ジャンやズボンが無かったら、あの悪夢みたいな手術室が実際この世に実在するとは信じられなかったはずだけど、あれだけは嘘みたいな本当の現実だったよ。」
「逃げ出したの?」ウラ君と繋がっているタツからは、その後、鹿嶋君はちゃんとしっかり自分の足で歩いて帰ったと聞いていたが、ちょっと思い描いていた顛末とは違っていた。でも確かに、自分の足で歩けて帰れたのならまぁまぁ同じことではある。
「後で、ちゃんとした病院には行ったの?」
「いや、行ってない。それよりも車のことやら会社のことで色々と大変でね。ちょっと左の足首やら腰の関節がおかしい気がしてたけど、1年もすると勝手に治っちゃった。毎年の健康診断もいつも通りだし」
「頑丈ね」
「うん。頑丈なだけが昔っから取り柄だから・・・」
お店に帰ったらウラ君に会って一言言ってやらなくちゃ、とユキは内心で思った。ウラ君はタツと仲良くなってからまた弟とも手を組んで仕事をし始め、今や半分うちで雇ってる医者の一人となっている。
「考えてもどうしようもない悩み事って、何だったの?それは解決した?」
「いや・・・」
ユキはへの字に口を噤んだ鹿嶋君の口角をじっと見つめた。味のなくなったガムをどこに出そうかと悩みながら噛んでるように、ムズムズと口元が動いている。待てば何か話してくれそうだったが、しかし
「きみがそばに居てくれれば解決する悩みだよ」はぐらかされた。
「明日までは一緒に居よう?でも火曜日は一緒に居られない」
「何故?」
「火曜日は外せないの。私が行かなくちゃいけない得意先があるのよ。かわりが利かないの」
「ふうん」途端に鹿嶋君の目が細くなり、こちら側の肩が強張り、視線が尖り、声もオーラも硬くなった。
「あなただって何日もは休めないでしょ?」
「・・・そうだね」
「私だって仕事があるの」
「・・・ふうん」
路肩に車が止まった。
「きみ、ここで降りてあとは好きに帰りなよ」
え、と思ったが、鹿嶋君の方を向いてみて、ユキはすぐ言われた通りにした方がよさそうだと見て取った。彼はひどく自制してる顔をしていた。手近にある何でもいいから何かを殴りたがってるみたいだった。すぐにシートベルトを外してドアを開け、外に降り立った。ドアを出来るだけそっと閉めると、閉まり切らず、もう一度ちょっと開けてパタンと閉めた。バイバイとこちらを向いてない彼の横顔に手を振った。
寒くて、コートの前をギュッとかき合わせる。
ここがどこなのか分からない。でもどこへでも迎えはすぐに呼べる。早くもかじかみ始めそうな指で液晶を操作する。マップを開き、ドライバーの田中君に現在地を転送し、『ここまで迎えに来れる?』と文章を打ちかけていたら、送信する前に、なかなか動き出さない車の運転席から鹿嶋君が身を乗り出してこちら側のドアを押し開けた。
「乗って」
「えぇ・・・?」ユキは車に乗り込んだ。「どっちなの?あなたが降りろって言うから私・・・」
「仕事を辞めてくれ。結婚して・・・僕と結婚して?」
ユキはビックリ仰天してちょっと言葉に詰まり、笑い出しそうになり、次いで彼の深刻な表情を見て笑ってはいけないと思い直し、キチンと姿勢を正した。
「鹿嶋君・・・」
「潮時だよ。きみももう良い大人だ。家出少女が勢いでやるようなその場しのぎの仕事にいつまでも身を染めていられるわけでもないだろ?もうやめろよ。ここらで・・・
僕だってもう大人だからきみを養えるよ。あの頃みたいに我武者羅にバイトを掛け持ちしなくても・・・毎週デートに連れて行ってあげるよ」
「・・・」ユキは何から話して良いか分からず、彼の綺麗な瞳や男らしい鼻梁をただぼんやり眺めていた。
「毎月海外旅行に連れて行ってとか言われたらそりゃ無理だよ?毎月ハイブランドの服も買ってあげられないけど、それでも普通の平和な暮らしは出来るよ。昔きみは言ってたじゃないか、ベランダに花の鉢をいっぱい置いて水やりがしたいって。図書館で本を借りて1日中本の虫になっていたいって。やる気と時間と食べてくれる相手さえあれば料理の腕前も上手になれるって言ってたよね?実際昔きみは上手になりかけてたよ!あれを今からもう一度やり直そうよ。初めのうちは鍋を焦がしちゃったり量を間違えたりもするかもしれないけどさ。付き合うよ。それにも。・・・でももし家に居るのが退屈ならパートをしたって良い。何でもできるよ。きみは根は真面目で仕事人間なんだから社員登用もすぐされるさ。ボチボチでやりたければ、辞退すれば良いし・・・」
「鹿嶋君、」ユキは言い辛くて言いかけた言葉を変えた。
「今更私に他の仕事は何もできないし、それに、捨てられたら怖いじゃない?あなた今は情熱的でそう言ってくれてるけど、後10年も経てば嗚呼やっぱりこんな女やめとけば良かった、って気付くかもしれない。やっぱり独身の方が良かったなぁって思って、サヨナラ~ってさっきみたいに私を道端にポイと捨て去るかも。そしたら私はどうなる?その時からまたこの今の仕事に戻る方がよっぽど大変じゃない・・・」
「どうしたら分かって貰える?」鹿嶋君が真剣にこちらへ身を乗り出してきたので、ユキはいよいよどうしようと焦った。「どうすれば信じて貰える?僕は死ぬまできみを大切にするよ!」
「ごめんなさい、結婚してるのよ。私・・・」
ユキはしばらく目を上げられなかった。今なら殴られても仕方が無いと思った。しかし彼は拳を固めもせず、何も殴らず、ただ前を向いただけだった。やがて静かに車を始動させた。
「そうかよ。きみも結婚してるのか」
も?ユキは鹿嶋君の横顔を見た。も、って?他に誰の事を言ってるのか。彼に関する寄せ集めの情報を今一度一つ一つじっくり取り上げて検討するまでもなく、すぐピンと来た。あの灰皿の煙草・・・品の良い桜色の口紅を好んで付けてそうな、彼の周りにいる既婚女性・・・一人思い当ればもう充分。
「由貴さん、離婚したがってるでしょ?あなたと結婚し直したいんじゃないの?何故あの子としてあげないの?」
鹿嶋君は一瞬、急ブレーキをかけそうに見えた。しかし後続車がいたため、走り続けた。
「きみ、僕を監視してるのか?どこかに盗聴器つけてないよな?」
「やっぱり由貴さんか。・・・カンよ。」
「・・・そう言えばストーカーが居たみたいな目に遭ったんだ。この頃も。きみを捜し回ってた昔にも、一度、いや何度もかも知れない、家の中に他人が出入りしたことがあった!キミに渡してた合鍵で・・・あれはきみの仲間か?!やっぱり妻を殺したのも・・・」
「いいえ。いいえ。ねぇ、鹿嶋君。同窓会のお誘いが来るのはあなたの家だけじゃないのよ。私もあなた達とは同窓生なの、忘れた?」
「同窓会・・・」
「そう。私は行けなかったけど、かわりにウチの従業員にテキトーな元生徒に化けてもらって行って来てもらったの。それに行ってきた他の女友達とも後でランチを食べた。不倫は気を付けてしなくちゃ、鹿嶋君。ちょっとあなた達、地元じゃ有名人になりつつあるわよ」
「・・・」
「・・・」
「・・・きみの結婚相手の話をしてくれよ」
「山道を事故るほど猛スピードで走ったりしなくちゃならないような悩みって、由貴さんとのことよね?」
「・・・きみの結婚相手の話を聞こう。」
「言っても分からないわよ。あなたの知らない人。同級生じゃないもん。」
「本当にきみ結婚してるのか?」
「そうよ」
「じゃそいつは奇特な奴だな」
「なんで?」
「きみの仕事を許してる」
「・・・」
「客の一人か?」
「・・・」鹿嶋君に話しても分かって貰えない。否、話したくない。彼にも妹が一人いる。しかし、いや、だからこそ、彼に理解して貰えるわけがない・・・
ユキは経営上の都合により弟と籍を入れていた。二人とも偽装の身分証で戸籍上は他人同士だったから何の咎もなかった。寝室も同じにしていた。時にはごく普通の夫婦がやる行為を行うこともあった。子供を作らなければ血が濃すぎる子が生まれることもない。二人とも避妊手術は済ませていた。
(彼、二年前からは亡くなったことになってるの。経営敵のビルに単身話を付けに行った晩から帰って来ない。その夜そのビルが大火事になり、何故だか、相手方の焼死体は全てボロボロに崩れて跡形も残らなかったのに、あの子によく似た体格の黒焦げの焼死体が一体だけはっきりとした人の形をして見付かった。ビルの一階部分、比較的燃え方がマシだった出入り口付近で弟はコートを預けたらしく、それも奇跡的に燃え残っていた。警察が私に連絡してきて、私が頷き、それで身元特定、一件落着となった。表向きはね。でも、毎月彼から連絡がある。無言電話だけど、息遣いで分かる。私にだけは、あの子だって。・・・喉が焼けただれて声が出せないのかも知れない。それとも、全くの別人がかけて来てるのか。・・・分からないけど、私の声が聞きたくなってかけて来てくれたんならと、一人で喋ってあげるの。当たり障りのない世間話をね。眠れないのかしらと、子守唄を歌ってやる日もある。でもそんなにちょくちょくは電話を寄こさないの。それに、こっちからはかけられない。私はいつもかかってくるのを待ってるだけ。)
ユキは弟との秘密を鹿嶋君にぶちまけてしまいたかった。
(あの子が半分運営を回してた事務所には毎月月初めに指示書が送信されてくる。誰かがあの子の携帯をまだ使ってるの。簡単にくたばるような子じゃないとはみんな知ってたけど、ついに本物の死神になっちゃったのよ。生前最後の方は、敵が多すぎ、みんながあの子の首を狙ってるとしか見えなくなってた。楽観主義の私にさえも。・・・でも今や、姉の私にさえ、あの子に手が届かない。昔から本人の望んでた通りになったの。俺は陰に潜んでいたい、本物の黒幕になりたい、誰にも顔を知られずに暗躍したい、って・・・)
「・・・嘘なんだろ?結婚なんて。ほんとはしてないんでしょ?きみの相手ができる男なんていないよ。僕の他に」
ユキは微笑んで首を横に振り続けた。鹿嶋君にはどっちか分からなかった。そのうちにどっちでも良くなってきた。
「まあその程度の夫なんだ。いるにしても。」
(『姉さん、俺とは違ってあんたには冷酷さってものが無い。敵みんながあんたなんか消そうと思えばいつでも消せると確信してる。だからまだ殺されず、狙われてもいないんだよ。それに俺さえ片付ければ、ひ弱な姉はいつでもどうにでも好きなように動かせるとも思われてる。舐められてるんだ。でももしかしたら、それがあんたの強みかも知れない。ほとんど無に等しいほど、弱っちぃ存在。ひとひねり。プチュ。』・・・
弟が腕枕をしてくれながら語っていた言葉が耳に蘇る。
飛んできた小さな羽虫を中指と親指で捻り潰した仕草をした。あの自分とよく似た指、爪の形。
『でも俺がいる限り姉さんに手が出せるやつはこの世にいない。もし俺が死んだら、絶対に一人で密葬して、誰にも言うな。俺が生きてるふりをし続けろ。あんたが老衰で死ぬまで、俺が生きてるふりをし続けろ』・・・)
死んだのだろうか、生きてるのだろうか、私の夫、私の唯一の血縁、私の・・・弟は?
「顔を見たこともないの」ユキは口から出鱈目を言ったつもりだったが、図らずもそれは、無意識に弟が帰って来なくなったあの夜からずっと考え続けて来た事だった。(弟は顔が焼けただれて自分が見てももう分からないほど風貌が変わってるかもしれない。)また弟のことだから、別人として新たに身分証を手にし、整形を経て、それと知らぬ間に自分のそばに舞い戻ってきているかもしれない。例えば最近雇い入れたあの有能だが無口なドライバー。弟が好きだったのと同じ車種に乗り、ハンドルさばきもなんとなく弟の運転を彷彿とさせる。ちょっと気味が悪くて自分の専属にはせずに出張キャストの送迎に当たらせてるけれど・・・
「そうか、顔も見たことがない・・・」鹿嶋君はなんとなく満足げに繰り返した。ユキにとっての彼の美徳、自分に心地の良い嘘は即信じてくれる。
三日連続で一緒に過ごせた。これは夢を見てるように楽しかった。現実であろうはずがないほど、幸せだった。しかし会えない一日があると告げられるだけで、地獄の苦しみを味わされる。愛が深いほど負う傷も深い。
「明日の夜だけは・・・・」と言われただけで、鹿嶋君は死にそうになった。一体誰と過ごすんだ・・・?「怪我をさせてでも閉じ込めようか、きみを。あいつらだってやったんだろ?」
「あいつらって誰の事よ?」
「17の時のきみに薬を盛った奴らのことだ・・・」
「その人たちならもう死んだわよ。昨日も言ったはずよ、火曜日の夜だけは・・・」
「じゃあ、こうしよう。きみを縛り上げて・・・」
「やめてよ。私が時間までに戻らないとすぐ弟分達があなたをとっちめに来るわよ。私があなたと一緒なのはうちの会社に秘密でも何でもないんだから」
「一緒に崖から飛び降りようか?!」
「それなら良いわよ。一緒に飛び降りてあげる」
鹿嶋君はユキを睨みつけていたものの、しばらくすると溜息を吐いて、諦めた。この肝の座った守るもののない女、こいつにだけは敵わない。
「俺も浮気する。明日の夜は」
「どうぞ。由貴さんも喜ぶわ」
ユキはフロントガラスの向こう、雨を見ていた。鹿嶋君が疲れ果てて車を家に向かわせるまで、この迷走ドライブにただひたすら付き合い続けるだけだった。二人はもう目も合わせず、雨を裂いて走り続けた。
火曜日の夜、ちょうど鹿嶋君が退勤した頃の時間帯から、執拗に携帯が鳴り始めた。その時ユキは彼女の毎週の火曜日を貸し切ってくれている固定客と向き合って眺望の良いレストランでワインを選んでいるところだった。
(横並びのソファ席でなくて良かった、)とユキは思った。椅子の背凭れと自分のお尻の間に置いてあるポーチの中で携帯は振動してるのだが、これが横並びの同じシートに腰を下ろしていたのだったら相手にも分かってしまったはずである。
流石に10回も鳴らせば今夜は本当に私が電話に出られる状態じゃないのが鹿嶋君にも分かって貰えるだろうと思ったのだが、20回も30回も携帯は鳴り続けている。終いにこっちが根負けしてきて、火曜日の紳士の話も何一つ頭に入って来なくなってしまい、気もそぞろ、(もしや彼の身に何かあったんだろうか、また車を飛ばして事故を起こして他の番号にかけることを思い付けず私だけを頼りにかけて来てるとか?そんなことある?ないない、でももしかして・・・)
「美月さん、どうしたの?」ハッと向き合ってる相手の表情を見る。
「ごめんなさい、何?」
「・・・今日は顔色が優れないね。何かあった?話せる事なら聞こうか?」
ユキは微笑んで首を横に振る以外思い付けなかった。まさか『さっきから間夫が電話を慣らしっぱなしでお尻がブルブル震えて一個も話が耳に入って来ないんですよ』なんて言えるわけがない。
体調が優れないと見てくれた優しさに便乗し、
「ちょっとだけお腹の調子が・・・」と言いおいて、唸り続けるポーチを掴みお手洗いへ。
「もしもし、鹿嶋君?」迷惑なんだけどと言う前に相手の喚き声に鼓膜を破られかけた。
「もしもし!?何言ってるのか聞き取れない!」これはもしや頭を打ち付けて脳震盪で助けを求めて叫んでるのかも知れないと勘違いしかけた。しかし、相手も少しずつ息が切れ、落ち着いてきたのか、声を限りの絶叫がだんだんと人間らしく一語一語区切られ、罵る単語が聞き分けられるようになった。
「売女が!!、??、汚い、俺の??を返せ!!、??、売春婦が!、??今どこにいる?!」ところどころはまだ何を喋ってるのか聞き分けられない。しかしとにかく憎悪の激しさと怒りの半端ではない熱量だけは恐ろしいくらいにヒシヒシ伝わってくる。音量を一番下まで下げてもまだ携帯電話を持つ指が痺れる気がする。
「あなたはどこに居るのよ?鹿嶋君?どこでそんな声で叫んでるのッ!?」
知らぬ間にこっちも語調が荒くなる。
「お前の、??、ホテル街だよ!!汚い!!、??、どこだよ?!おおい!出て来やがれ!!」
「お酒でも飲んでるの?!」
「しらふだよ!!クソ女!!早くッ!!迎えに来てやったから!!出てこぉぉぉい!!」
ホテル街の路地に立ち窓々に向かって叫んでるのだろうか、信じられない。こんなことになるなんて!狂ってしまったのか、このままでは鹿嶋君が職質されてしまう。下手をすると注意喚起だけでは済まされず、検挙されてしまうかもしれない。お巡りさんを突飛ばしたりしたら一大事だ。
(あの人が勤めてる会社も色々と今まで目を瞑って来てくれてるが今度ばかりはもう駄目かもしれない。可哀想に、とうとう解雇かも知れない。彼、仕事だけが生きがいの社畜なのに・・・)
ユキは息の根を止めるように通話を切った。またぞろ手の中で震えだした携帯電話の電源をしっかりと落とした。ゾンビの首を胴体から切り離すみたいに。
(鹿嶋君が路頭に迷っても私がヒモにしてあげるだけだわ。思い知ればいい。私の仕事だって馬鹿にするもんじゃないって事。)
それからせっかくトイレに来たのでトイレでしか済ませない用を済ませ、その間に思い直し、電源を入れ直し、便座に腰かけて鹿嶋君からのLINE電話や電話をプツンプツン切っては着信拒否にして、事務所にかけ、周辺ホテルで喚いてる40歳くらいのそんなに見栄えは悪くない男が居たらお巡りさんが来る前に何とかできないかと相談してみた。今度はヒソヒソ声で。
「何とかって?」事務所の人間の間で電話が回され、鹿嶋君の顔を知ってるハルサメで止まり、彼が困った声を出した。
「つまりね、お巡りさんが駆けつけて来て大事になる前に、何とかできないかって話よ」
「そのナントカってなんですか?どうして欲しいんですか?」
「眠らせて誘拐するとか何とかよ!」
「えぇッ?!正気ですか?!それこそ犯罪ですよ!」
「一晩の事よ」たった一晩。
「そんなことやったことありませんて!映画じゃあるまいし!」
(嗚呼そうか、ハルサメは元からいるメンバーじゃない。図体はでかいがそれを活かして実際に何かをやったと言うことはない。)
「もう良い。アイ君にかわって。」
彼ならばとユキが指名替えして選んだのは弟と共に死線を潜り抜けてきた旧”園”からの幼馴染みだ。同じことを彼に頼むと、
「しかしその現場をサツに見られるとこちらが現行犯で捕まりますね。」
冷静に指摘された。「それでもやれと姐さんが仰るなら・・・」
ユキは大きく溜息を吐いた。
「もう良いわ。ごめんなさい。私情で会社に迷惑かけるところだった。もう頭を冷やしたわ。」
「そうですか?一応ホテル街を回ってみますが、姐さんもお仕事中では?」
「そうだった!行かなくちゃ。私も。ごめんね」
「いいえ。では」
「うん。」
テーブルに戻ると、火曜日の紳士は辛抱強く待ってくれていた。彼の皿は空になり、コース料理の序盤でワインのボトルが早くも空きかかっていた。ユキは急いで席に着き、自分の冷めた料理をさも美味しそうに平らげた。(もうここからの失敗は許されない。挽回しかない)ユキは普段なら遠慮するパンのお代わりもした。電話はあれ以来鳴らなかったが、次にお手洗いに行けるチャンスでアイ君からの報告が来てるかLINEを確認すると早くも決めていた。完全に鹿嶋君の気が違ってしまわないか、お巡りさんとウチの部下のどっちが先に彼を見付けてどんな対処をしてくれるか、気が気でなかった。
「今夜は僕の美月さんの様子がなんだかおかしいな。早くあなたの可愛いその頭から他の考え事を叩きだしてやりたい。頭の中まで独占したい。もう行きましょうか」
いつもならもっとゆったりとお酒を楽しんだり一週間のうちに見たお芝居や映画や読んだ本の話などで語り合えるのに、火曜の紳士がユキの手を握り締め先を急いだ。
「今夜も最上階の一つ下だよ」
スーツの胸の内ポケットからカードキーを出して部屋番号を見せてくれた。
「もうこの部屋には飽きてしまいましたか?」
「いいえ、絶対にそんなことは・・・」
ゆらゆらと瞬く夜景の綺麗な窓辺には花束が、ローテーブルにはリボンのかかったチョコレートの小箱が置いてあった。その薔薇の品種も、そのチョコレートの銘柄も、彼と知り合った頃に自分が何気なく『これが好きで・・・』と話した品である。いつもと同じ。変わらない愛情がありがたく、今目の前に居てくれている彼に熱中できない自分が情けなかった。
「嗚呼、いつもありがとうございます。いつ見ても綺麗・・・」
ユキは夜景の事を言ったのだが、
「うん。いつ見ても綺麗ですね」火曜日の紳士は窓の外を見ていなかった。彼がじっと見つめる側の自分の頬が火照ってくるのを感じた。
男性にも勘の鋭い人はいる。火曜日の彼は普段ならもっと大人しくて、何ならシャンパンを共に啜り添い寝するだけでも十分に満足だと言うタイプの人だった、普段なら。しかしこの日に限ってはユキの手からポーチを取り上げ、それを手近な台の上に置くと、すぐ腰を抱いて唇を求めた。性急な手がセーターの下、ブラウスの下にぐいぐい入り込み、シルクのキャミソールをズボンから引っ張り出し、レースの繊細なブラを壊しそうな勢いで留金を無視しグイグイ引っ張った。ユキは相手の勢いに飲まれ、ぐらぐら揺さぶられ、でもストップをかけて水を差しては悪いと遠慮して、出来るだけしたいようにさせてあげようと息を合わせる努力をした。パンプスで彼の足を踏んだり蹴ったりしてしまわないよう、爪やアクセサリーの尖った角で彼の手や肌を傷付けてしまわないよう。
まるで踊り慣れてない人同士がいきなり組んで必死に踊ってるみたいだった。部屋の明かりも落とさないうちにユキは半裸にされ、まだベッドへも辿り着かず、半分ずり落ちたズボンの中で脚が泳ぎ、目玉まで吸い出されそうな勢いの猛烈なキスに足がガクガクなった。
「行きましょう、ベッドへ・・・」息も絶え絶えにユキは相手のベルトを指先で捕まえ、誘導した。
火曜日の彼が頷き、二人してズボンと靴をその場に脱ぎ捨て、縺れ合ってベッドに倒れ込んだ。
彼の感触が体内に侵入して来た時、ユキはまだ左の肩からブラストラップを外そうと藻掻いていた。しかし絡まったキャミごと相手が手でシーツに押さえ付けているので、難しい。相手の肩に担がれている自分の両足首からはストッキングもまだ抜けていない。しかし火曜日の人がそのまま激しく突き出したので、すべてを諦め、その情熱に身を委ねた。窓の外では赤い観覧車がカラフルなライトを灯しまだ回っていた。(だからまだそんなに夜更けじゃない・・・)とユキは感覚的に感じた。嬌声を聞くにつれより興奮する人と知ってるので、声を我慢せずに上げた。
自分は薪、相手は炎、熱は増し、火柱は高く、ますます高く、薪もますます音高くはぜる。お正月なら自分は臼であり餅であり、彼は杵、そしてそれを振りかざすヒトだった。
「・・・ストッキング、ごめんね・・・」いった後、火曜日の彼が落ち込んでいるように見えたので、ユキまで泣きたくなって彼の髪をサラサラと撫でてあげた。
「ストッキングなんてそこらじゅうで売ってるから・・・」
「いや、そんなことを言ってるんじゃない・・・」
彼もまた繊細な人だ、とユキは思った。襲うようなやり方で体の欲求だけが尽き果てたことに不本意な寂しみを感じてしまう人なのだ。分かり合い求め合って一緒に同時に気持ち良くなりたいのである。とても要求が贅沢なのだ。性に対してある意味貪欲、グルメなのだ。理想が高すぎほとんど奇跡に近いものを求めてしまってる事に自分でも気付いているから、それなら、手に入らないなら無理に手に入れようとしないだけなのである、普段なら。
「・・・お風呂入ろうか・・・」
二人とも潔癖の気がある。いつもなら部屋に入ると真っ先にシャワーを浴びる。浴室の大きな窓からも夜景が見えるので、湯を溜め泡風呂に苺やシャンパンなど持ち込んでそこでのぼせるまで過ごすことが多かった。そして清潔なベッドで隣り合って眠るだけ。朝までただ一緒に過ごすだけ・・・
今日は何かが最初からいつもと違っていた。
「今日は、何かあったんじゃないのかな」
ためらいながらもやっぱり聞かずにおれなかったらしく、火曜日の紳士は聞いてきた。
「私生活でのトラブルが・・・ちょっと、会社にも影響を与えそうな・・・結構深刻かもしれなくて・・・」ユキは言葉を濁した。
嘘を吐くのが下手ならば本当のことをちょっとだけ言い、後は濁す。そうすれば相手が好きなように解釈してくれる。相部屋で先輩に教わった術。今も活かされている。
「差し迫った状況なのかな?」火曜日の紳士はまだユキが何も言いだす前に頷いた。
「そのようですな。顔を見れば分かる。朝までは一緒に居る約束だけれど、今夜は帰りましょうか」
慎重にユキは首を横に振った。演じだすと入り込む彼女は、今や本気で帰りたくなくなってきていた。
「いや。僕が帰りたい。あなたも今日は帰った方が良い。トラブルは出来るだけ芽が若いうちに解決した方が良い。僕にも多分同じような経験はあります。また来週落ち着いてあなたにお会いしたい。」
氏のきっぱりとした態度に、これは問いじゃない、とユキには分かった。決断権を持つのは自分ではない。彼が帰ると言ったら、帰るのだ。
「分かりました・・・」本気で寂しくてユキは火曜日の人の肩に唇を寄せた。週に一度しかない彼との時間を自分が蔑ろにしたことで台無しにしてしまって本気で悔しかった。
同じ湯上りの香りを漂わせ、タクシーに乗り窓越しにバイバイと手を振り合って彼の姿が見えなくなると、しかし、すぐ頭が切り替わった。
ポーチから携帯を出し着信拒否設定を全て解除する。19時から鳴り通しだった鹿嶋君の番号からはもうかかって来ていない。途中からは非通知設定でかけまくって来ていたようだが。今はアイ君か警察に保護されてるのか。直接今から電話をかけて大丈夫か?とりあえずアイ君に電話を掛けてみる。
「日本橋へ行ってみてください。」アイ君は言った。「自分も様子を見て来て今事務所に戻ったところです。ユキ、ユキって叫びまくってた男が居ましたけど・・・」
「嗚呼、その人どうなってる?今」
「大丈夫ですよ。うちの息のかかった者に保護させてます」(相変わらず色んな名前でお呼ばれで・・・)
「ありがとう」「運転手さん、」ユキは運転席のシートの首に取り付いた。「行き先変更で。日本橋へ向かってもらえません?あの、橋を越えたところ、グリコやらの看板の裏側へ」
「はいはい。一粒300メートルね」運転手さんは要領良くUターンした。「生産停止になっちゃったね」
「えっ?そうなんですか?あのハート形の・・・」
「寂しいねぇ。年々小っちゃくなっていって、ついには消滅・・・」
ユキは前のめりに車窓の風景を眺めながら頷いた。
鹿嶋君はパトカーの後部座席に座らせられていたが、ちゃんとアイ君が手を回した警部がピタリとそばに付いてくれていた。年頃が近い二人は自販機で買ったホットココアを一緒に飲みながら雑談し、警部が彼をなだめてくれていた。工事中の建物の壁沿いに停めたパトカーはサイレンは鳴らさずに赤い警報灯だけ回しており、車の窓の中まで珍しそうに覗き込んで行く外国人観光客や酔った通行人の目からも、奥にいる鹿嶋君の顔は見えにくく隠されていた。本人はそんな事に構っていないみたいだっだが。
タクシーを降りて走って近付いて行くと向こうから立ち塞ぎ出迎えるように若そうな警官の相方が近付いてきた。マスクと制帽で顔立ちは全然分からない。
「あの、彼がここに居ると聞いて・・・」
「奥さんです?」
「はい?ええ、・・・御迷惑をおかけして・・・」
「ゆきさんですか?」
「はい。そうです」
「誰から連絡が行きました?」
「えっ・・・と・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・何か身分証お持ちですか?」
「いいえ、」持っているがそんなもの出すつもりはない。それにそこに記載された名前はユキではない。「主人を連れて帰ってもよろしいです?」
警部が若い警官の背後に現れた。「奥さん。旦那さんがお待ちかねでしたよ」
ユキは急いで若いひょろりと背の高い新米警官の脇を通り抜けた。若い警官は不信感を滲ませ不服そうながらもユキの後ろを黙ってついてきた。
「あなた、行きましょう」名前で呼ぶのは避け、開いた窓から手を差し入れて肩を叩き、呼びかける。鹿嶋君は車中からユキを見上げ、その唇がひん曲がったが、黙って渋々パトカーから降りてきた。のっそりと。
今朝剃ったばかりの髭がもう伸びてまだ明けてもいない一夜でげっそりやつれたように見えた。パトカーのすぐ前に停まってるのが鹿嶋君の愛車だった。
「運転できますか?」厳しい目をした新米警官が容赦ない口調で鹿嶋君に聞き、ユキが答えた。
「私が代わりに・・・」
「いや、きみは免許を持ってない。僕が運転する」鹿嶋君がTPOをわきまえぬ物言いをし、若い警官はますます眼を鋭くしてユキを見据え、何か言いたげだったが、柔らかい物腰で警部が見送ってくれた。
「ではお気をつけて。仲良くね」
テーマパークの人気キャラみたいに警部がのほほんと微笑んで手を振る隣で、正義感にまだ満ち溢れていそうな新米警官が憮然と立ち尽くしマスクと制帽の間の目をギラつかせて、走り去り際の鹿嶋君の車のナンバープレートを睨んだ。
「これで満足ですか?旦那様?」パトカーが見えなくなってからもしばらく黙り続けていたが、ユキから口火を切った。鹿嶋君はもうしばらく黙っていた。今日の分だけでなく声を使い果たし喉がガラガラなのかもしれない。
「私の仕事を潰してちょっとは清々したんでしょ?まだ火曜日よ、何か言ってよ?のど飴食べる?」ユキは答えを待たずポーチから取り出した飴の個包装を剝き鹿嶋君のへの字の唇にぐいぐい押し当てて歯の間に無理矢理捩じ込もうとした。彼は歯を食いしばり犬のように唸り首を振り腕で払いのけ、飴は後部座席の方へ飛んで行った。
「あ、そ」ユキは自分のために飴をもう一つポーチから取り出して今度は自分の口に入れた。
「あなたは頭の切り替えに時間が必要なのね。私はもうあなたの隣に居るのに。この上、何がご不満なの?
・・・ちょっと、今日のことで仕事上連絡を入れなくちゃ。店に」
ユキはLINEを開いて事務所の者とやり取りした。
『火曜の紳士に返金しておいて。今日の分の私の代金と、ホテルの宿泊費、ディナー代も。それに彼の会社にお花を贈るわ。これは私がやっておく。(今夜は彼から贈られた薔薇の香りの香水をつけて来るのもポーチに入れて持ってくる事さえも失念していた。すごい失礼なことをしてしまった。せめて薔薇の花束を贈りたい・・・来週の火曜まで花弁が落ちきらない蕾の薔薇を・・・)」
『あの方って独身でした?』
『ええ、そうよ。前にもオフィスに私を招いてくれたことがあった。彼自身が。そこはぬからないわ。絶対に花を贈っても困らせない。喜んでくれると分かってる。』
『なら良いんです。了解』
事務所とのやり取りを終え、相手は誰だったんだろうと考えながら携帯電話を鞄に戻す。弟亡き後、代表としては一応自分を立ててくれているが実質会社を支えているのはアイ君だ。きっと彼がさっきのLINEも返信してくれたのだろう。いつも事務所に寝泊まりして仕事に明け暮れている。一体何をそんなにすることがあると言うのか。自分の人生さえも投げ打ってまで。
一時期の弟同様、中途半端に偉くなりすぎ責任感を持ってしまうと、男の子って何か研ぎ澄まされた切っ先の鋭い先端みたいに孤立して脆そうで、かといって手伝えることはないかなどと迂闊に手を差し出そうものなら噛み付かんばかりに拒絶してきて、(まるで食べている最中の飼い馴らせてない犬に手を出すようなもの、)大事な大事な仕事を横取りさせるものかといきり立つ。可哀想で、寂しそうで、痛々しくて、見ていられない。
「風呂から上がりたての匂いをぷんぷんさせてきやがって・・・!」
鹿嶋君がついに話す気になったようだ。
おぅ、受けて立とう、夜は長いぞ、と、ユキは腹を括り返答のために大きく息を吸い込み、肩を怒らせた。
「分かってるのか、きみは?自分の人生を狂わせた職業で今はきみ自身が・・・若い他の女の子達を周旋してるんだ!・・・ポン引き・・・斡旋・・・斡旋婦だ、そんな言葉があるのか知らんが・・・売春婦よりも酷いよ、とにかく。きみって、凄く酷い奴なんだよ!そんな仕事、胸を張って人に言える職業なのか?信仰する神が居ないなら、自分の胸に手を当てて聞いてみろよ!自分自身に対して恥ずかしくないのか!?」
ユキはボウッと幕を張ったような瞳で鹿嶋君を真っ直ぐ見詰めていた。無表情。何層もの無表情、その奥に、聞き飽きた、言われ慣れている罵詈雑言を右から左へ聞き流す完備されたルートがあるのが見え透いた。それでも、鹿嶋君ほどユキの琴線に触れる恋しい相手から、意図して貶してやろうと投げかけられられた尖った言葉をただ黙殺するには忍びなかったらしく、一応返事を返してくれた。
「私を見て。鹿嶋君。今の私、胸を張ってるでしょ?
・・・人に言える仕事かどうかですって?・・・職業を何故他人に触れ回らなければならないの?他人には関係ないことでしょう?・・・例え今は世間に顔向けができない心境でウチで働いてる女の子達でもね、彼女達それぞれの人生の、ここを今、歯を食いしばって踏ん張って乗り越えねばならないと言うところで戦ってるのよ!誰にも頼らず、自分の身一つで・・・! 私は出来るだけ彼女たちが働きやすいように環境を整え周辺を整備してる。客、女の子、両者の秘密を守り必要なら心身のケアをして。立派な仕事よ。私を貶めた胸糞悪いやり方をする奴らとは違う。同業ではあっても正反対のつもりよ。今でも、ライバル店には忌々しい経営方針を執ってるのがいるわ。女の子をまるで物のように扱ったり・・・ウチのやり方とは絶対に真逆・・・あんなのは、敵よ・・・!」
何か思い出しでもしたのか、ユキは目に炎を灯らせ、下唇を噛み締めた。
「・・・あなたにそれが分からなくても構わないわ。自分にさえ分かっていれば…業界にいる仲間達には分かって貰えてるし、だからそれで充分なの。・・・
・・・胸を張れることが職業を選択する上での第一の決め手というのは、あなたにとっての話でしょう?あなたが勝手にご自分の職業に胸を張ってれば良いんじゃないかしら?・・・そうじゃない人もいる、職種を選べない子達、そういう状況に追い込まれてしまった子達もいる、それに好きで天職と考えて楽しく働ける子だっているって事も分からないねんね君なの?あなたって?・・・」
(だとしたらごめんなさい、見損ないそうだわ、鹿嶋君…)ユキは目を閉じ、ギュッと何かを堪えるように目を瞑り、それから溜息と共に再び目を開けた。
「煙草頂戴。吸ってみたい気分だわ、今なら」
「どうぞ」
鹿嶋君は煙草とライターを貸してあげた。カーブの多い山道の運転中で美貌の鼻先に火を差し出して点けてあげることができなかったのだが、ユキは一口目でゲホゲホ咳き込んだ。
「あげる」ユキは火を点けた煙草を鹿嶋君に咥えさせながらピンと来た。
(あの灰皿の吸殻…全てに口紅が付いてたのはこういう事情だったのね…由貴さんが毎回この人に火を点けてあげてたんだわ…自分が吸いたくなると相手にも吸って欲しくなるのか、・・・彼女の方がきっとこの人よりもヘビースモーカーなのかもしれない…そんな気がするなぁ・・・)
鹿嶋君のこちら側の横顔を横目に見ながら、この場には居ない由貴さんを想った。
(常識的な二人。高校時代から優等生同士だった恋人達。二人は最初から今もお似合いだなぁ・・・高校時代から、きっと今も、手を染めた最大の悪事は喫煙くらいのもの・・・本当に、よくお似合いの二人…)溜息が出そう…
実際ユキは溜息を吐いていた。鹿嶋君は急にシンと静かに内に沈んでしまって無口になったユキの物思いする頭の中を見て見たかった。
(ライバル店、忌々しい経営敵と言ったな・・・彼女、今でも危険な水にどっぷり身を浸してるんだ…気が休まるときはあるんだろうか…誰か本当に心の底から信用できる人間がいるのか・・・?誰か、仕事を代わってやってくれる後継者は育ててあるのか?いつまで続けるつもりなんだ、こんな危なげな商売を・・・?彼女の経営してるハイクラスの店では政治家や一角の名士も顧客にいるという。そんなの情報漏洩を恐れていつ口封じにまとめて消されないとも限らない・・・それに経営者間の抗争なんて勃発した日には・・・このペラペラに吹けば飛びそうな薄い肩幅の平和主義な優しい女に太刀打ちができると言うのか・・・?これまでも戦って来たって・・・これからも今も戦い続けているのか・・・僕には想像もつかない世界で・・・・?
・・・口を閉ざしてしまったのは…頑なな僕に何を話しても無駄と、理解を求める気も失せたから・・・?)
目を合わせてくれるかとチラチラ様子を窺ってみたが、彼女はこちらにも、窓の外の夜景にも気付かない。
「もうすぐだよ。一瞬だから」
外を見るよう促した。
「何・・・嗚呼、夜景スポット・・・?」
鹿嶋君はそのカーブを出来るだけゆっくり走行してくれた。星掬いの丘。街の、天の、両手でも受けきれず溢れそうな瞬き。遠く近く、手の届かぬ光・・・
「綺麗だったね・・・」
「Uターンして。もう一度見よ?」
「ハハ」欲張りだな、きみらしい・・・鹿嶋君はユキの気が引けてそれでも少しホッとした。
「きみに見せるためにここまで来たんだ、ご所望の限り何度でも」きみが嫌なことを少しの間でも忘れていられるなら・・・
行ったり来たり、峠を越えてしまわず、町へも降りてしまいきらず、二人は無言でドライブを続けた。
街灯の乏しい山道、次の光の溜りからその次の光の溜りへ繋がるヘッドライト、遠い別の車のテールランプが見え隠れする・・・そして一瞬の、息を飲む美・・・それはすぐにリアガラスの更に彼方へ消え去り…もう一度、もう一度と幼子みたいにねだるユキ・・・
(子供の頃のこの子に誰か夜景を見せてやった大人は居なかったんだろうか、信頼のおける近親者は・・・?両親は居なかったと聞いてるが・・・他にも誰も居なかったんだろうか…?・・・この人の住む世界は僕の世界と隣り合わせにあって、一般人には知られることが無い闇夜なんだ…日の出の来ない・・・日没から夜明けまでの世界・・・僕みたいな部外者が生半可に首を突っ込めば、手痛く排除される・・・)
ユキは鹿嶋君の横顔越しに由貴さんに想いを馳せ続けていた。
(今もこの夜景の中どこかでお腹に命を宿してる由貴さん…母子ともに眠ってるかしら、それとも眠れないで今も窓からこっちを眺めてるかしら・・・彼は違うと言い張ってるけど…お腹の子は鹿嶋君の子なのかな・・・きっと可愛いに決まってる・・・彼の子じゃなかったとしても誰との子でも、だって彼女可愛い顔してたもの・・・パートナー選びのセンスも良いし・・・
・・・高校時代のあの子は、男子達の憧れの的。これぞって感じの清純派。飾らなくても、ノーメイク美人。一言も喋り出す前から、クラス中みんなが彼女の声に聞き耳を立ててる感じ。由貴ちゃんがどう考えるか、どうしたいかでほとんど決まってしまうホームルーム・・・クラス分け初日の委員決めや体育祭の振り分けも文化祭の出し物も…)
(嗚呼、こんなお嬢さんならきっと・・・)とよく妄想の糧にした。
(・・・お家に帰ったらピアノのお稽古とかバレエの習い事とかに行くのかなぁ・・・本気で仕事にするつもりじゃなく子供時代の記念にするための余分な習い事に打ち込める青春・・・お父さんに肩車されて動物園に行った幼稚園の頃の写真なんかが飾ってある部屋で・・・)
一つ下の学年に妹がいることを知ってからは、もっと妬ましく羨ましくなってしまった・・・
(当然のように兄弟姉妹で同じ屋根の下に暮らせる贅沢…それが贅沢だと知り様がないと言う贅沢・・・望まれて生を受け存在自体が必要とされていて常に何の見返りもなく愛してくれる親がいる・・・そしてそれが当たり前だという日常、そういう人生・・・あんな女の子に自分も生まれていたら・・・)あの頃、高校に通い出してすぐから、あの子が羨ましくて憧れで、気になって気になってしかたが無かった・・・予定外に早く授業が終わってしまいバイトまでまだ時間が空いた日など、下校するあの子をお家までつけて行った・・・ほとんど想像通りの小綺麗な一軒家にあの子は住んでいた・・・多分この部屋なんだろうなと思う出窓の日当たり良さそうな寝室まで目星をつけたほど・・・
(鹿嶋君、あなたが由貴さんを見付けるのが先だったか、私の方が先だったのか分からないわよ・・・)
ユキは妬ましいほど憧れの由貴さんの持ち物から、好きなバンド、趣味、お菓子の好みまで、恋する男子生徒以上に彼女について詳しかった。同性の強みで、愛用の下着のメーカーまで知っていた。由貴さんの好みは当時の良家の娘さんがこぞって好きな主流の流行から逸れていなかった。ユキは由貴さんを取り巻く大親友たちからは遠ざかっていながら、むっつりと秘かに観察眼を光らせ続け、可憐な小柄なままの彼女よりもグングン背丈ばかり伸びてしまう自分の背骨を呪い、自分の胸がふっくらと柔らかそうな彼女のよりはるかに膨らみ方がのろく硬いままなのを呪った。
彼女と同じ物を食べれば背骨の成長が止まり生まれついての気品が身に纏えるかと思って、グミを一生懸命モグモグ嚙み、芸能情報に詳しくなった。自分を出来るだけ彼女に似せたかった。なれるものなら彼女になってしまいたかった。
これはほぼ恋心に等しかった。どう願っても自分の手には入らない物の全てを生まれながら持っていた由貴ちゃん。その存在自体が幻、夢の具現系であり、目が離せないアイドル…クラスのヒロイン・・・
同級生であり、私の名付け親にもなってくれた由貴さん・・・本人はそんな事、露とも知らないでしょうけれど…
彼女が捨てた鹿嶋君をユキが拾ったようなもの・・・
今となっては、そういう風にも考えられなくもない…
そして今や、彼女との間で鹿嶋君を貸し借りしてるようなものである・・・
「鹿嶋君」刹那の幻のような本物の夜景を目に焼き付けようとしながらユキは呟いてみた。
「あなただけよ、私が好きになった男の子は・・・」
鹿嶋君の耳にはその言葉がちゃんと届いた。
「結婚しよう」
「・・・」
しばらくタクト君の提案を宙に浮かせ、余韻を見詰めていた。それからユキはそろりと両脚を揃えてベッドから降ろし、二人分のコーヒーを淹れに台所へ向かいかけた。急いでタクトくんはユキの腰に腕を回してドスンと尻もちをつかせ、ベッドへ引き戻した。
「聞こえなかったふり?」
ユキは笑い声を上げた。切ない笑い声。落ち葉の上にさらに枯葉が落ちて来て乾燥した風に吹かれて立てる音のような。
(寂しいなぁ、笑って誤魔化そうと言うんだな)、鹿嶋君は思った。
爪を立てぬよう、鹿嶋君の腕を外そうとして、ちょっと身をくねらせ、頑張ってみたものの、力で勝ち目はないと早々に諦め、ユキは消え入るような声で
「私達は生きてる世界が違う・・・」
「同じ世界に生きてる」
二人は10代で知り合った頃から何度となく繰り返してきた喧嘩の中で、何度も何度も同じこの台詞を互いに投げ合ってきた。
「由貴さんの事はどうするの?彼女と赤ちゃんの事は?あの子には貴方が頼りなのに」
「僕の子供じゃないと思う」
「それは、遺伝的にって事?それとも、心情的にそう思いたいの?」
「両方だよ」
ユキは大きく息を吸い込み、吐き出した。
「私は貴方を頼らなくても生きていける。子供もいるし、結婚もしてて、現状何も不足が無いのよ」
「頼る頼らないじゃない。それなら僕がきみに頼んでるんだ。異常な婚姻関係、不幸にしか見えない環境から一度出て来て、違う幸せの在り方を知って欲しい。僕との。平和で平凡で退屈なくらい、安泰だよ。僕を幸せにしてあげると思って、こっちにおいでよ。時間はかかるかもしれないけど、いつかは必ず分かって貰えるはずだから・・・きみにも」
「もう分かってる。貴方と一緒に居られたら私は幸せ。今こうしてて幸せだもん。(ユキは鹿嶋君の腕に頬を押し付けた。)これがずっと続くってことなら、幸せそのもの・・・」
「じゃあ、良いじゃないか…」
「違うの。幸せのために結婚するのじゃない。私が今してる結婚は無効にはできない契約なの。結婚って、契約なの、私にとって。あなたとはそんなこと、・・・別に契約なんてしなくても今もう幸せよ!このままで・・・!」
「こんな宙ぶらりんな状態じゃ僕が落ち着かないんだよ!」
「・・・私にどうしろと言うの・・・」ユキの声がぐっと低くなった。「・・・何もかも投げ捨てて来いって・・・?あたしのこれまでの全て、あたしと言うものの全てを消し去れと・・・?」
鹿嶋君はユキをベッドに押し倒し両手両足をきつく巻き付けて力づくの祈りを込めた。「うん」
腕の中で強張るユキの体を感じた。その細さ。可愛い小っちゃい筋肉の中の可愛い小っちゃい骨がパキポキ鳴り、それでもさらに力を籠め続けると、肺が絞られ、彼女の喉から(ぐぐ…)とくぐもった息が漏れた。これ以上力を加え続ければ殺せる。簡単に関節を砕き臓器を圧し潰して死なせることが出来る。鹿嶋君にそれが分かると同時に、ユキにも分かった。ユキの体から緊張が解けた。柔らかく、全て受け入れた肢体。(そうだ、この人は死ぬのは怖がらない。ただ生きているうちに僕だけのものにはなってくれない人なんだ…そうなんだった、いつも・・・昔っから・・・)
そう思うと、泣けてきた。この感慨は初めてのものじゃない。10代の終わりにも何度も味わって来た、苦い、既視感ある絶望。ギュッと閉じた目からも、涙があふれ、ユキの髪を濡らした。鼻水も垂れてきて、余計に情けない気持ちになって来た。
「こんなに愛してるのはきみだけなのに・・・」こんなに分かり合えないなんて…
(私もそう。愛してるのはあなただけ・・・)でも分かって貰えないのもよく知ってる…とユキは胸の中で思った。強い力で締め付けられ過ぎて、声を出すことも息を吸う事も叶わない。(本当にもう死ぬ・・・本望だけれど。この人に絞め殺されて死ねるなら・・・)と、気が遠くなりかけたところで、鹿嶋君がフッと力を抜いた。ユキの肺、体はゲホゲホ咳き込んだ。意思は死にたがっても、肉体は無関係に生き延びようともがいた。涎が、涙が、洟が出た。鹿嶋君はまだ何か言っていた。
「結婚してるって言ったって、もともとが紙の上での形だけじゃないか?それも、隣合って並んだのは偽名同士で、顔も見たことが無い。その相手もとっくに死んでて生きてさえいないのに・・・生まれてすぐに取り上げられた子供だって今どこで何してるか分からないんだろ?」
「捜そうと思えば捜せるのよ。でも、その必要を感じないだけ。この世に、私のお腹で10ヶ月すくすく育ち産道を通り抜けて生を受けた赤ちゃんが、生きてる。どこかで。
時々、眠れない夜に想像するの。無限の宇宙、星々の間で、孤独な私が一人死に、この肉体が朽ちた後も、私から生まれ出た子はまだ生き続けるんだと。その子は私の事を知らないはずだけど、でも、少し私に似ていて、それでまだまだ歩き回って、食べたり、希望を持ったり、友達を作ったり、裏切られたり知らず知らず自分が人を傷つけたりしながらも、暮らし続け、そのうちいつか大切にしたい誰かと出会って愛し合ってもっと小さな子をもうけたり、する可能性があるんだなぁぁ・・・って。
成長した姿も見たことないけど、今年18歳なのだけは分かってる。
・・・だから、うちの店に応募して来る子が18歳だとね、ついつい、思い入れを込めて念入りに話を聞き、ジッと見詰めちゃう。それだけじゃなく、街中やどこででも、18歳くらいの子を見かけるとね…別にどの子が私の赤ちゃんかを見極めなくたっていいのよ、みんな可愛く見える、その方が良い。若者のどの子かが自分の子供で、どの子がその子か分からないことによって、みんなその可能性がある子供達なんだから・・・」
(昔そう言う事を言ってたなぁ、そう言えば・・・)と鹿嶋君は感慨に耽った。(あれは彼女自身が子供だった頃のことだ。『赤ちゃんたちは富裕層の子も貧困家庭の子も、みんな一様に生まれたらすぐに親から取り上げて一緒くたにして国や地域で平等に公に育てるべきだ、』と彼女は言っていた。『どの親が自分の親か、どの子が自分の子かも、子供にも親にも誰にも分からないようにトランプみたいにシャッフルして、面倒見の良い親が子供達全体の面倒を見、望まずに親になってしまった人は子育てから逃げられるし、愛情が余り過ぎて手が出てしまう親も、誰を殴れば良いのか分からない、そういう風に大きな施設が子供を育てるべきだ・・・』とかなんとか・・・未だに夢みたいなものを見続け追い続けてるんだなぁ)と鹿嶋君は思った。(しかし、なるほど、確かに彼女は今では小さな一国を形成しある程度まで夢みたいな空想を実現させてもいるのだ・・・)
「・・・つまりね、子供は誰の子であっても可愛いの。」ユキはうっとり自分の声に酔いしれ語りに自分で夢中になりだしていた。
つまり、私は貴方を頼らなくていい。でも由貴さんは、貴方を選んで必要としてくれてるでしょ?子供の父親は貴方だって、彼女は主張してるわけよね?」
鹿嶋君は急な第三者の名前の登場に眩暈を覚えた。
「え?何で今、僕たちの会話に由貴が出てくるわけ?きみが身を引きたいと言ってるのは分かるよ。でもその言い訳に、あいつとそのお腹の子を利用しようとしてるのが気に食わない。綺麗に辞退すると見せかけて由貴の事を持ち出してくるなんて性悪女・・・」
「いいえ!いいえ、私が言ってるのはこう言う事よ、
私はまだ仕事を辞められない。まだまだ辞められない理由があるの。若い子、下の子達の面倒を見ながら育成しなくちゃいけない。まだ引継ぎの終わってないお客さん、多分別の子になんて引き継がれてくれないお客さんの面倒を私がこの体と魂で最後まで責任もって見なくちゃならない。あなたにそれが耐えられる?16の時のあなたには耐えられなかった。今は違うと思う?いいえ、耐えられない。あれから20年が経った今も、これから20年が経とうとも。それがあなたなのよ。私が好きなタクト君。あなたって、そういう人なの。一度に一人しか愛せず、そうじゃなきゃ自分さえ許せない。そしてそれを相手にも求める。きつく求め続ける。命懸けくらいの生真面目さで。
綺麗事を地のままいってるのは貴方の方なのよ、だからあなたは綺麗。細胞の一つ一つに至っても。穢れ知らず。そのままでいて欲しいの」
「きみ、僕に何を望んでるのさ?」鹿嶋君は話が見えなくなって音を上げた。
「私があなたに望んでる事を聞いてみたい?・・・
・・・それを私に言わせるなんてね…
私は…私は、あなたが幸せになれることを望んでる。あなたが望むものを手に入れて…」
「じゃあ・・・」
「違うの。あなたが欲しいのは幸せな家庭なんでしょ?・・・細やかに見えて、そんなものはほとんど幻よ?・・・
・・・男冥利に尽きると思う。あなたが由貴さんと結婚してあげたら、あなたをもっと好きになるかもしれない、私。そして願わくは、私のことは愛人にして欲しい。彼女も表面上は許さないでしょうけど心の底では許してくれると思う。あなた方ご夫婦が何か困ったときには、友人として私も助けられる。」
「きみって…」言ってることがさっきと真逆、矛盾過ぎて話にもならない、それに無邪気を通り越して狂ってる・・・由貴にも俺にも失礼なのではないか?
憤りに震えだしたタクト君の腕にそっと乗せようとした手を激しく振り払われても、ユキは落ち着いた微笑みを保った。
「うん、怒ると思ってた。でも私の本心を聞きたがったのはあなたよ。私はちゃんと包み隠さずぶちまけちゃっただけ。今あなたを必要としてるのは私じゃなくて由貴さんでしょ・・・」
「必要としてるかどうかじゃないんだよ、結婚て・・・」
「いいえ、結婚って、必要とする人にとっては切実に必要な合法的救済なの。保険なの。保護なの。愛とは等しくもありまた全く別物でもある、手続きなの。
私とあなたは今、愛し合ってる。この事に関して私は自信しかない。それ以外の何も必要がないくらいに自信があるの。私とあなたの間に通う愛情に書類や法律や他人の承認やハンコは要らない。漲る自信だけあったらそれだけでいいの。この気持ちをどこかに書き留めておく必要性を感じない。
でも、由貴さんは?あの子には誰かが必要なんでしょう。それをあの子は『あなたが良い、あなたしかいない』って言ってるんでしょ?そしてあなたは、今は面と向かってる私だけを好きなことにしてくれてるけどね、情も責任もあの子に対してあるのよ」
そう言われると鹿嶋君は内心弱り、潔白なはずなのにも関わらず焦り、意識的に突っぱねようとユキを睨みつけたが、そこには結構な意志の力が必要だった。
「由貴さんの事は私には無関係、部外者が口を出すなとあなたは思うかもしれない。でも一般的な立場から見てもね、プロポーズしてくれてる相手の背後に妊娠中の人妻の影が見え隠れしちゃってるのは、気にかかるものよ。口を出したくもなるわ。」ユキはここぞと畳みかけて来た。
「・・・由貴の家庭の事情は僕にも…僕も悪いかなというところはあったけども・・・可哀想だとも思ってるけど…」我ながら口を開けばしどろもどろである。
「あなたが居なかったら子供をおろしていたとまで、由貴さんは言ってるんでしょ?」
「それも嘘かも知れない…」
「嘘だとしてもよ。たとえ全てが嘘だとしても。もう後戻りはできないところまで赤ちゃんが育っちゃってるのよ。子供が生まれてくる事だけはとにかくどうしようもなく真実なんでしょ」
「僕の子じゃな・・・」
「例え遺伝子があなたの子じゃなかったとしたってね、あなたの子だったら良かったのにと母親は思ってるの!見え透いた嘘でもなりふり構わずにあなたの子にしたがってるの、自分がこれから生む赤ちゃんを!彼女は、由貴さんは、あなたと育てたい子を今これから現実に産もうとしてるのよ!」
鹿嶋君はユキの金切り声に耳がキンキンし次いで言葉の内容の重みに途方もなく頭がボーっとなって来た。
唯一確かに分かること、それは、結局、彼の望みのままにはユキは手に入らないらしい、ということだけ。
いつものごとく蝶のようにヒラリと彼の手から逃れ、彼女は裸足の爪先立ちでバレリーナのように歩いて台所に立ち、こちらに白い背を向け、寒そうに自分の肩を抱きながら湯を沸かし始めている。かわりに、深刻な子育て問題を彼の腕の中にズシリと置いて行った。
こうなってみると初めて、何故さっきユキが子供の話なんぞをし始めたのか、点と点が繋がって見え出して来た。ユキの頭の中では物事はシンプルな一つの円でしかなかったのだ。
・・・子供はできるだけ大勢の大人が協力し合って育てなければならない。子育ては大変なことだから。・・・
この世に遺伝子は遺したけれども自分の手では自分の子を育てられなかったユキ・・・そのせいで全ての子供が可愛く見えてしまうという逆立ちした発想、自分を愛するが故、愛人になりたがるという相変わらずブッ飛んだ野望、矛盾に満ちながらどこか確信を突いている真理。彼女の愛は広域過ぎて、ライバル視すべきはずの由貴ですらも覆いつくしている。彼女の愛には独占とか、排除とかそんなみみっちさがない。ドーンと世界中宇宙中全て愛しつくすようだ。その中でも特に中心に鹿嶋君を置いて。ようやく分かって来た。ユキ、彼女は太陽だ。皆の女神。決して一人だけの物にはできない女。
ユキがこちらに戻って来た。湯気の立つカフェオレを縁ギリギリまで波波に注いだマグカップを片手に二つ、もう片方の手には焼きたてライ麦パンの乗った小皿。小さい平皿に危なっかしいバランスで傾いたマヌカハニーの小瓶と蜂蜜スプーンも詰め込まれて乗っている。
「またそんな欲張って・・・」鹿嶋君が仕方なく立ち上がりカップを受け取ろうとするとそれまでギリギリに絶妙なバランスを保っていた両方の手の力が一気に抜けてユキはへらへら笑い、ポタポタ雫を床に溢し、スプーンとパンも順番に一つ一つポトポト落とした。彼女は一見いかにも危なっかしげに見えるけれども、放っておくほうが案外一人で最後まで上手くやりおおせるのだ。助けようと手を出したらそこからなし崩し的に全部ダメにしてしまう。
「手を放して」
「その机に置くよ」
「あっ・・・あっ・・・」
「何だよ。持ってるって」
「放してってば!」
「・・・もうこのまま、置いた方が早いよ・・・」
二人はやっとどうにかカフェオレとパンをベッドサイドの小机に載せた。そこからはホッとしてモグモグ黙って食べ、ズルズル啜って飲んだ。
「・・・三者面談するかなぁ・・・」先に食べ終わった鹿嶋君が歯を舌先で点検しながらユキを見詰め終わった後、呟いた。他にすることもないので声に出して言ってみたかのように。
「うん。それが良いと思う」ユキは素直に頷いた。「由貴さんと旦那さんとあなたと。三人で話すことだと思ってた。口を出してごめんね、あなたの事なのに」
「いや。プロポーズされたから口を出さざるを得なかったんだろ」
「まぁ、うん」
「・・・旦那の前でも僕に言ってる事と主張が同じなら、由貴の気持ちに矛盾は無いと言う事だな」
「そう言う事」
「・・・うん・・・」
言葉とは裏腹に煮え切らない気持ちだった。うん、とは言ってみたものの、鹿嶋君はそれでもユキに熱を込めた視線を送り続けた。僕が生涯添い遂げたいのはきみなのにという想いがありあり伝わる視線だった。ユキは鹿嶋君の寝間着のシャツの裾でパンの油分の付いた指を拭い、
「・・・ねえ、こう考えてみて。」温かいマグカップを持っていたことで温もりを得たユキの細い指が鹿嶋君の手の甲に触れ、指を掴み、手のひらを表に返して、両手で彼の片手を包み込んだ。
「私達に今から赤ちゃんが出来たとする。その子は女の子かも知れないわよね。男の子だとしても、凄く可愛いと思うけど。・・・勉強でも習い事でも、本人が興味を示してやりたがることなら何でもできるだけやらせてあげたいと思う、それは多分、私と鹿島くんも同じかな?賢くてもあんまりお利口さんじゃなくても、共学の飾らない小中学校へ行かせたいのが私の希望。でね、そこからよ。その子が高校生くらいになった時。私は、私の世界観、価値観、自分の見て来た目線でその子に物を教えようとする。」ユキは真剣な目で鹿嶋君の目の奥を覗き込み、二本の指を立てて、自分の二つの目に突き刺す仕草をした。「この目が見てきた世界の本質を。私は、我が子に、自分のして来たのと同じ仕事を経験させようとする。」
(きみがして来た経験?仕事?・・・)鹿嶋君はザッと背筋一面に鳥肌が立ち、ユキの手に包まれていた手をサッと引っこ抜いた。
「まさか、きみは・・・そんな・・・」
「ほらね。」悲しげに悪戯っぽくユキの瞳が失望して、鹿嶋君の視線から逸れた。
「私達の生きる世界。違いが見えた?ズレ幅がもう大き過ぎる。修正がきかないくらい・・・」
鹿嶋君が苦虫を嚙み潰した顔で怖気を振り払おうとしてる間に、ユキが言い尽くした。
「自分達の代でなら私達はぶつかり合え愛し合えても、次の世代へ継承したい生きざまはまた全く違う。まるで一回だけ交差する流れ星のようなもの。私達、子育てについても考え方が全く違うのよ。
その点、あの由貴さんの考える理想の子育てと、あなたが思い描く理想とは、さほどかけ離れたものじゃないと思えるの。生まれ育ちも大体似通ってるでしょう?私の目から見たらあなた方はほとんど同じ。一般的な中流家庭の出で、一人っ子だとか成長期の過程で親が片方死んじゃったとか多少の違いはあっても、とにかく育ち方がほとんど一緒。だから、女の子だったら女子校に通わせたいだとか、英会話よりも体幹を鍛え運動能力を伸ばす習い事を身に付けさせたいだとか、細かい教育理念の差はあれど、ほぼ自分達が育ってきたような道のりを歩ませて愛する我が子の成長を見守りたいだろうと思うの、二人とも。傍から見た私の見立てではね。理想とする家族の在り様がきっと一般的で似てると思うの」
「まあそうだろうな」
この点についてばかりはタクト君も認めないわけにはいかなかった。
「だからよ。私とよりあの子との方が、あなたは・・・」うん、と頷き、ユキはみなまで言わずにおいた。
口に出して認めるほどには彼女も割り切れない悔しさがあるのかも知れない。自分とよりも彼女と一緒になった方があなたは幸せになれる、なんて。急に疲れたような顔をして肩を落とし、鹿嶋君の肩にポソッと頭を凭せ掛けた。
「朝だ。元気出そうよ!」
「うん、そだね!」
「きみは何時から仕事?」
「何時からってことないけど、もう行くわ」
「僕もそろそろ出なきゃだ」
時計は7時を指していた。
「今度いつ会える?」
ユキはパッと振り返り華やかな笑顔を見せた。「聞いてくれてありがとう!いつでもよ。また店に電話して。」
おわり!
※メモ的ですがユキと鹿嶋君の話の終わり方はこんな感じかなぁと考え中。
もともとは失踪した彼女を捜してる間に色々あってから、最終的にまた巡り合える話をもっとシンプルに考えてたので…
弟のトモヤくんの最終話も考えなくちゃ…
この話は考えるの楽しくてどんどん膨らませちゃうけど、他のも書きたいし、そろそろ今年中12月中に終わらすつもりが全然小説書いてなくてとりあえず最終話の頭にあるパターンだけでも具体的に書いとこうと思い、・・・いきなり終わりを書いてしまいました!
思い付いたら、また別パターンの締め方も書くかも!
良い年が迎えたい!!
しかしバイトも頑張らなくっちゃ!!
テヘ(*´▽`*)♡
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