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オバケちゃん
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クラスメイトが自殺した。
それが分かったのは、夏休みが終わってすぐ、九月最初の朝のことだった。
教卓の目の前の席に、水色の花瓶と白い花が置かれていた。
誰もその花を見ているようで見ないふりをしながら、それぞれいつものグループに分かれて声を潜める。
オバケちゃん、死んじゃったんだって。え? ほんとに? 自殺らしいよ。やばーい、ほんとにオバケちゃんになっちゃったじゃん。
自殺したクラスメイトの名前は、オバケちゃん。もちろん本名ではなく、ただのあだ名だ。苗字に「化」が入っているから。だけど、それだけじゃない。透けるように真っ白な肌と、腰まである長い黒髪、どこか淡々とした顔立ちは、男子の目には幽霊のように見えたらしい。
その日までは普通に下の名前で呼ばれていたが、小学校三年生になって「化」という漢字を習ったとき、一人のお調子者の男子が授業中にもかかわらず大声で言った。
「じゃあ、あいつ、お化けなんだー!」
視線が一斉にオバケちゃんに集まる。オバケちゃんは大きな目をもっと大きく見開いて、後ろの席をキョロキョロと見た。男子はそれを気にせず、大声で続ける。
「お化けだから、化って漢字が入ってんだろ!」
「ちがうもん!」
「ちがくないもんね!」
教室内の前と後ろで、そんなやり取りが繰り広げられる。
「はいはい、そんなこと言うんじゃありません。この世にお化けなんていませんし、ここにいる全員がお友達です」
先生が手をパンパンと叩き、教卓へと注目させるように言った。
「でもさー先生、この前テレビで心霊番組してたよ、お化けはいるよ!」
男子が立ちあがってそう言う。授業中というのを忘れるかのように、教室のざわざわはさっきより増していった。
「そうですねー、もしかしたら皆さんの授業を見てるお化けが後ろにいるかもしれません……」
先生の一言でざわざわはピタッと止み、みんなの視線は後ろにいく。もちろん後ろにはなにもなく、色とりどりのランドセルが棚に押し込まれているだけだった。
「じゃ、授業続けますよー」
先生は話を無理やり終わらせ、授業はそのまま再開した。十分の短い休み時間になり、再びお調子者の男子がオバケちゃんに向かって言った。
「おまえ、お化けなんだろ?」
「ちがうもん」
「だって、化って漢字入ってるじゃん」
「入ってるだけだし!」
気の強いオバケちゃんは男子にも歯向かうように、強くそう言った。
「「おーばけ! はい、おーばけ!」」
その場にいた男子数人がオバケちゃんを囲って、手を叩きながら言った。
「それじゃ、呼び捨てじゃん! かわいくない!」
「はぁ? なんだそれ」
「せめてオバケちゃんって言ってよ!」
的外れな反抗に、何人かがくすくすと笑っていた。笑い声の聞こえる方にオバケちゃんは振り向くが、みんなバツが悪そうに目を逸らす。
「いいよ、じゃあ、今日からおまえオバケちゃんな!」
「オバケちゃんでいいよ! かわいいし!」
「最初からかわいくねぇよ!」
キーンコーンカーンコーン。
休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴る。
「みんなー席につけー! 次は算数だぞー」
「うえっ、算数とか最悪」
男子がそう言いながら、嫌々席についた。オバケちゃんも急ぐように席について、算数の教科書とノートを開いた。その日の算数の授業は、班で話し合いをする時間があった。オバケちゃんとお調子者男子は同じ班で、睨み合いながら話をしていた。
「で、オバケちゃんはどう思う?」
「私は、こうだと思いまーす。どうですかー」
ニヤニヤしながら言う男子に対して、オバケちゃんは全く動じない。
「俺と答え、全然違うじゃん」
「あんたが間違えてんだよ」
「なんだと」
男子は再び勢いよく立ち上がる。椅子がガタッと音を立てた。
けれど、オバケちゃんは全く怯まずに言った。
「そんなこと言うなら、あんたが間違えてる証拠見せてよ。どうせまた勘で書いたんでしょ?」
「うるせー!」
「それじゃ証拠になってないじゃーん!」
その瞬間、オバケちゃんが変な顔をして、口をぐにゃっと曲げる。クラス中がそれを見てどっと笑いが起きた。
またそれー! ほんと変な顔! ウケる!
笑い声に包まれながら、オバケちゃんはちょっとだけ誇らしげにニヤッとした。
「はーい、ストップ、ストーップ。ケンカするなら廊下でやってください。今は話し合いの時間ですよ」
先生の呆れた声が飛んでくる。男子はむすっとしながら席におずおずと座り、オバケちゃんは小さくガッツポーズをした。
私は、そんな光景を後ろからずっと見ていた。
「はーい、皆さん席について」
担任のM先生は、オバケちゃんが死んでも、いつもと変わらなかった。オバケちゃんをからかっていた男子は、どこか気まずそうに白い花を見ていた。
「皆さんの中にも、すでに聞いた人がいると思いますが……」
出席簿を教卓に置いて、改まったように先生は話をする。
「夏休み中に、クラスメイトの一人が亡くなりました……彼女のことは、先生も、皆さんも、いろいろな思いがあると思いますが――」
「先生! オバケちゃんは自殺したんでしょ?」
お調子者男子は、先生の話を遮るように立ち上がってそう聞く。でも、いつもとは違い、声はどこか震えていて、目は涙で潤んでいた。今更責任でも感じているのだろうか。くだらない。
「自殺って意味をわかって使っていますか?」
M先生は睨むように男子にそう言った。男子はビクッと身体を動かして、先生から目を逸らし、そのまま席に座る。
「教師として、教え子が自分より先にいなくなるのはとても悲しいことです。見送りたくないです。でも、いざ見送るとなったら、教師としての責任を果たしたい」
先生はオバケちゃんを思い出すように目を閉じながら、話を続ける。
「彼女を皆さんと同じように進級させるため、机には毎日お花をあげます。皆さんもそれに協力してもらいたいです、いいですね」
「「「はーい」」」
みんなの視線は花へと集まる。
その日の帰りの会で、M先生が言った。
「じゃあ、お花を替える係を決めましょうか。毎朝、水を替えて花を新しくできる人?」
三十人もいるクラスが、しん、と張り詰めた空気になった。誰も手を挙げない。下を向いて、鉛筆で机に落書きのような線を描く男子。目が合わないよう、わざと視線を教科書に落とす女子。
「……決めるまで帰れませんよ」
M先生はちょっと怖い顔をしてクラス全体を見渡す。
「……じゃあ、日直がやることにしましょう。その日の日直が、お水を替える。それでいいですね」
先生の声が、少しだけかすれた。
「えー、やだー、なんで俺らが」
今日の日直だった、後ろの席の男子が、小さな声でぼやいた。
「自分で勝手に死んだのにさ」
その声に、近くの男子が肘で突き、苦笑いを浮かべる。
先生はそれを聞こえないふりをして、続けた。
「花は、先生が持ってきます。皆さんも、もし家にお花があれば、持ってきてあげてくださいね」
「え、何の花がいいかなー」
女子の一人が呟くと、隣の子が小声で答えた。
「バラとか? でもなんか、オバケちゃんには似合わないかもね」
「じゃあ、白い花がいいんじゃない」
誰かが言う。その瞬間、さっきまで張り詰めていた、クラスの空気が少し柔らいだように見えた。
次の日から、オバケちゃんの席には日直がぎこちない花瓶を洗っていた。通りかかったM先生が、声をかける。
「その花瓶洗ったら、この花を○○さんの机に置いてあげて」
先生がそう言ったとき、私は一瞬、誰のことを指しているのか分からなかった。
○○さん――オバケちゃんの本名。
その響きは、どこかよそよそしくて、別の誰かの名前みたいだった。コスモス、マリーゴールド、どの花もオバケちゃんにとても似合っていた。
「オバケちゃんぽいね」
「うん、似合ってる」
クラスの女子たちがそう言って穏やかに笑っていた。でも、彼女が生きていた頃、そんなことを言った子は一人もいなかった。
私が日直の日、水を変えながら考えてしまう。オバケちゃんはなんで死んでしまったのだろうか、と。噂の通り、自殺なのだろうか、それともなにか事故にあってしまったのだろうか、元々病気だったのだろうか。色んな考えがぐるぐると頭を回る。
私が生きてるオバケちゃんとまともに会話したのは、数回程度だけだった。そのうちの一回を私は鮮明に覚えている。
進級して梅雨に入った頃、クラスで仲が良かった子とは席が離れてしまい、私は未だ席のご近所さんとは馴染めずにいた。一緒に帰る友達もいなくなり、気づけばクラスの子ほとんどが帰っていた。その日、教室に残っていたのは私とオバケちゃんの二人だけだった。
「Kさん、まだ帰らないの?」
少し薄いピンク色のランドセルを背負ったオバケちゃんが、私を見て首をかしげる。
色白の肌にそのピンクがよく映えて、思わず可愛いと思った。
「うん。今日、お母さん帰るの遅いから、宿題ちょっとやってから帰ろうかと思って。オバケちゃんは?」
そう口にしてから、私はハッとして口を押さえた。
今やみんなオバケちゃんと呼んでいるけど、まともに話したこともない私がそう呼ぶのは、悪口みたいに聞こえるんじゃないか、そう思ってしまったのだ。
私の心配をよそに、オバケちゃんはお腹を抱えて笑った。
「いいよいいよ、オバケちゃんで。私、気に入ってるんだ、このあだ名」
「そうなの? 私も呼んでいいの?」
「誰でも呼んでいいんだよ、あだ名なんて。最近みんなオバケちゃんって呼ぶし。たまに本当の名前、忘れそうになっちゃうくらい」
オバケちゃんはそう言って、少しだけ目を伏せた。その一瞬、彼女の笑顔がふっと陰ったように見えた。
「それよりさ、私も一緒に宿題していい?」
私が返事をするよりも先に、オバケちゃんは私の隣の席に座って、ランドセルから算数ノートを取り出した。
「Kさんって算数得意だったよね? 教えて欲しい!」
「なんで知ってるの?」
「噂はかねがね~」
「なぁにそれ」
へへへ、と言って笑うオバケちゃんの眩しい笑顔は、とても自分と同じ人間とは思えなかった。
私なんかに教えられることあるかな、と思いながら、オバケちゃんの算数ノートを覗くと、思っている以上に落書きが多くて、私はつい笑ってしまった。
「なんで笑うのー!」
「ごめん、なにこのらくがき。いぬ?」
「ねこだよー!」
猫とは思えないぐらい丸い耳をした四本足の謎生物の落書きに、私は笑いを堪えられなかった。それと同時に、どうしようもなくオバケちゃんのことが愛おしく感じた。
窓から夕方の光が差し込み、二人の影が机に長く伸びていた。
オバケちゃんは鉛筆をくるくる回しながら、「これどうやるの?」と数字の並ぶページを差し出した。
「ここ、筆算がずれてるよ。2が逆立ちしてる」
「あ、本当だ! 逆立ちしてる~」
オバケちゃんはわざと2をひっくり返して描き直し、「ほら、逆立ち選手権」と言って、私に見せてくる。
「もう、ふざけないのー宿題やるんでしょー」
また笑いがこみあげて、私の頬が少し熱くなった。手でパタパタと顔の熱さを仰ぐ
「Kさんはさ、友達と帰らないの?」
オバケちゃんが急に真面目な顔で聞いてきた。
「うーん、Nちゃんと仲良かったけど、席遠くなっちゃって……」
「ふーん、席遠くても一緒に帰ったらいいのに、クラスは一緒なんだから」
「Nちゃん、隣の席の子と仲良くなっちゃってさー、私のこと忘れちゃったのかも」
冗談ぽく私は笑いながら言ったが、内心寂しさで胸の奥がきゅっとなった。すると、オバケちゃんはガタッと立ち上がって、
「そんなことないよ! Kさん優しいもん!」
そう強く言った。オバケちゃんは鉛筆の芯を折ってしまい、「あー!」と叫んで笑った。
私もつられて笑った。心のどこかでこの時間、ずっと続けばいいのにと思っていた。
「ほーらー、いつまで残ってるんだ。もうとっくに下校時間は過ぎてるぞ」
M先生が教室のドアを開けて入ってくる。
「あ! 先生! Kさんと宿題やってたんだよ、えらいでしょー」
そんなM先生に向かって、オバケちゃんは弾けるような笑顔で言って落書きだらけのノートを見せる。
「ほーう、Kが教えてるのか、算数得意だもんな。にしても、珍しい組み合わせだな」
先生は私とオバケちゃんを交互に見る。
「ねー先生、私もっと算数得意になりたいから、Kさんと同じ班がいい!」
「お前は班が変わっても、しゃべりすぎて叱られるだけだろう」
M先生は肩をすくめて笑った。あまり遅くなるなよーと言い残し、先生はどこかに消えていった。
宿題が一段落ついた頃には、外はオレンジ色の夕焼けになっていた。
「ねぇ、Kさん、一緒に帰ろうよ」
オバケちゃんは当然のようにそう言った。
「私と? いいの?」
「ダメなの?」
オバケちゃんはクラスの中でも人気者、私は目立たないクラスの端にいるような存在だった。きっとクラスの子達から見たら、異様な組み合わせだろう。
「一緒に帰ろう? ダメ?」
「……ダメじゃないよ。オバケちゃんがいいなら、私も嬉しい」
私たちはランドセルを背負い、並んで廊下を歩いた。ピンクと水色のランドセルが隣り合うのは、それだけで少し特別な感じがした。
校舎の階段を下るとき、もう人の声はどこからもしなかった。世界で、オバケちゃんと私だけになったみたいだった。こうして並んでオバケちゃんと歩くのは、初めてのことだった。
階段を一緒に下がる。もう学校に残ってる人は誰もいないのか、人の気配がまるでなかった。世界でオバケちゃんと私だけのような空気感の今の時間が、私はなんとなく居心地が良かった。
外は梅雨の湿った匂いが風に混じっていた。
「Kさん家どの辺?」
「皆川公園の近く」
「あ! 同じだ! じゃあ、途中まで一緒だね」
オバケちゃんは靴を履きながら、そう笑って言った。雨上がりだからだろうか、曇り空が暗くて少し怖かった。私たちを顔を見合せて手を繋いだ。オバケちゃんの手は思っている以上に小さくて柔らかかった。
手を繋いでる分、怖さが和らいだのか、オバケちゃんは道すがら、石ころを蹴ったり、夕立の後の水たまりを覗き込んだりして、ずっと笑っていた。
「Kさんさ、好きな人いる?」
オバケちゃんは少し照れたような顔をしながら、唐突に聞いてくる。
「えー?」
私もなんだか恥ずかしくてモジモジしてしまう。
「まだいないよ、気になる人は何人かいるけど」
「え! だれだれ?」
「ないしょー!」
「えー気になるのにー」
私は、気になる人何人かを頭に思い浮かべながら、少しニヤニヤしてしまう。
「オバケちゃんは? 好きな人いるの?」
「私? うーん……ないこともないけど、ひみつ」
そう言って、オバケちゃんは水たまりをつま先で蹴った。飛び散った水に夕焼けが反射して、きらきらと光った。
水たまりを蹴りながら歩いていると、オバケちゃんが急に立ち止まった。
「ねぇ、あれ……見える?」
指差す先の夕焼け空に、薄く透ける白い風船みたいなものがふわふわ浮かんでいた。
「あれ、なんだろ……人みたい」
そう言って、オバケちゃんは目を細め、少し寂しそうに笑った。
「私さ、なんでも願い事が叶うなら空飛んでみたいんだ」
「空?」
「うん、飛行機とかじゃなくて、自分で空を飛ぶの」
私は「人間だし出来るわけないよ」と笑いそうになったけれど、オバケちゃんの横顔を見たら、なぜかその言葉が喉に引っかかった。
「空を飛べたら、どこまで行けるかな……」
オバケちゃんは空を見上げたまま、ぽつりと言った。
「遠くまで行ったら、私、戻ってこないかも」
冗談みたいに笑うオバケちゃんのその顔を、私は今でも覚えている。
「あ、私こっちの道」
公園近くの四つ角の右を私は指す。
「私真っ直ぐだから、ここでバイバイだね」
そう言いながら、どこか名残惜しくて、私たちは手を繋いだまま顔を見合わせた。
「Kさん、また一緒に帰ろうね」
オバケちゃんはそう笑って言って、ゆっくり手を離した。どこか、少し冷たくて切ない感じがした。
「うん、また帰ろう」
「バイバイ」
「また明日」
私は歩き出しながら、もう一度だけ振り返った。オバケちゃんはまだ、空を見上げていた。
「ただいまー」
玄関の鍵を開けて、扉を閉める。お母さんはまだ帰っていなかった。ランドセルをソファに放り投げて、テレビをつける。いつも見てるアニメを流しながら、冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに入れ、一気に飲み干した。いつも楽しみなはずのアニメの声は頭に入らず、オバケちゃんの声が耳の奥に残っていた。
「遠くまで行ったら、戻ってこないかも」
さっき笑いながら言ったその言葉が、なぜか胸の奥をチクリと刺した。窓の外の夕焼けが、だんだんと夜の色に変わっていった。ソファに座りテレビを見ていると、お母さんが帰ってくる。
「ただいまー遅くなってごめんねー今からごはん作るね」
お母さんは、スーパーの大きなビニール袋を台所に置く。
「おかえり、大丈夫だよ」
「焼きそばでいい?」
「なんでも」
私はボーッとテレビを見ながら、そう答える。ごはんを食べ、お風呂に入って、オバケちゃんの顔が頭から離れなかった。
そしてその夜、変な夢を見た。オバケちゃんが空を飛んでいる夢だった。
ピンク色のランドセルを背負ったまま、夕焼けの空を、風に揺れる白い風船みたいにふわりふわりと漂いながら。
「Kさん、来てよ」
手を伸ばしたけれど、届かない。
「オバケちゃん、待って」
「来て、おねがい」
「待って!」
夢の中での私の声は、空に吸い込まれていった。その声を追いかけた瞬間、目が覚めた。
息が少しだけ早くなっていて、心臓がどくんどくんと鳴っていた。
オバケちゃんの笑顔は、なぜかいつもよりも怖かった。
「変な夢見たな……」
そうつぶやきかけたけれど、なんとなく口に出したくなかった。言葉にしてしまうと、あの夢が現実のものになる気がしたから。
朝の光の中でも、あの夢の色だけは頭の中に残っていた。
いつも通り朝ごはんを食べて、準備をして、学校に着くと、オバケちゃんはいつものように席に座っていた。その姿を見て私は少し安心した。まるで夢の中の彼女とは別人みたいに、クラスの子と笑い合うオバケちゃんを、私はただ見つめていた。
でも、その日のオバケちゃんは、少しだけ違って見えた。笑っているのに、どこか遠くを見ているみたいだった。
休み時間、私が窓の外を見てボーッとしていると、突然視界が塞がれる。
「だーれだ」
低めの声で言うが、私はすぐにオバケちゃんだと分かった。
「オバケちゃん?」
「えー、なんで分かっちゃうのー」
視界がパッと開き、私が振り向くとオバケちゃんはちょっと拗ねた顔で立っていた。
「当たり前じゃん、すぐわかるよ」
「バレバレかー」
オバケちゃんは両手で口を覆って、可愛らしく笑う。
「あのね、Kさんに聞きたいことあるの」
「なに?」
周りをキョロキョロと確認して、オバケちゃんは私の耳元に近づいてくる。
「廊下で話そ」
私が返事をする間もなく、私の手を優しく取って、廊下へと連れていかれる。休み時間なのに、廊下に人は少ない。
「もしね、私がいなくなったら、悲しい?」
オバケちゃんは小声で、私に聞く。
なんでそんなことを聞くのか分からなかった私は、オバケちゃんがいなくなることを想像しただけで胸がぎゅっと苦しくなった。
「……悲しいよ、寂しい」
「ほんとに?」
そう言って笑うオバケちゃんの顔は、どういうわけか、少しだけ遠くを見ているように見えた。
「私オバケちゃん大好きだもん」
「えー、恥ずかしいなぁ、私もKさん大好きだよ」
オバケちゃんはクネクネしながら、そう言って笑った。だけど、その笑顔は、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
「ありがとう、Kさん。教室戻ろうか」
「え、うん」
私とオバケちゃんはまた手を繋いで、教室に戻った。そんな私たちを誰も気に止めることもなく、日常へと溶けていった。
放課後、帰り支度をしていると、オバケちゃんが声をかけてきた。
「ねえKさん、今日も一緒に帰ろう?」
今日も誘ってもらえると思わなかった私は、つい心が踊る。
「うん、帰ろう」
ランドセルを背負い、二人で並んで校門を出る。
夕焼けの空は、雨上がりで赤く滲んでいて、さっきのオバケちゃんの言葉がふと胸に蘇った。
「Kさん、さ」
「なに?」
「私がいなくなっても、友達でいてくれる?」
「なにそれ、変なこと言わないで」
「冗談だよ」
オバケちゃんは笑うけれど、その横顔がどこか遠くを見ているみたいで、私は少しだけ不安になった。その不安をなくすように、オバケちゃんは私の手を取る。昨日と同じように、私たちは手を繋いで帰る。
公園近くの四つ角に着くと、オバケちゃんは手を振った。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
でも、その「また明日」が、どこか頼りなくて、胸がざわついた。
家に向かう途中、大きなマンションの前を通ったときだった。
ふと見上げると、屋上に小さな人影があった。目を細めながら見ると、ピンク色のランドセルを背負っている女の子が立っていた。
「……オバケちゃん?」
私の声は震えていた。
オバケちゃんがこちらを見下ろす。どんな表情をしているのかよく見えない。冷や汗がどんどんと出てくる中で、その子は私に手を振る。
「バイバイ」
私はそう呟きながら、手を振り返した。その声が届いたのかどうかも分からない。
次の瞬間、オバケちゃんの身体が落ちていくのを、私はただ呆然と見ていた。まるで、世界が止まったみたいだった。私はその光景が忘れられないまま、家へと帰りついた。
次の日の朝、私は足が重かった。昨日見た光景が夢だったのか、それとも現実だったのか、分からなくなっていた。 もしかしたら、今日もオバケちゃんは、教室でいつも通り笑っているかもしれない。そう思って、私はいつもよりゆっくり教室のドアを開けた。
でも、オバケちゃんの席には、白い花が置かれていた。
「え……なに、これ」
誰かが小さく呟く。
担任のM先生が沈んだ表情で立っていた。
「……化野真白さんが、昨日の夜、亡くなりました」
その言葉が、耳に届くのに少し時間がかかった。
化野真白、オバケちゃんの本名。先生の口からそれが出た瞬間、頭が真っ白になった。
「そんなの、嘘だよ……だって、昨日、一緒に帰ったのに」
声に出したのか、心の中で言ったのかも分からなかった。 教室はざわざわと波立ち、誰も白い花を直視しようとしなかった。 私はただ、オバケちゃんのあの「バイバイ」の笑顔を思い出していた。いつもと変わらない、可愛い「バイバイ」だった。
次の日から、オバケちゃんの席には日直が花を置くことになった。毎日変わる綺麗な花は、オバケちゃんにとても似合っていて可愛かった。変わるたびに私は、あの「バイバイ」の笑顔を思い出した。
ある日、私が日直だった日。花瓶をそっと持ち上げ、洗面所で水を替える。
冷たい水を注ぐと、花がわずかにしゃんとしたように見えた。
「……また明日ね」
オバケちゃんの席に花を戻しながら、私は小さくそう呟いた。
その言葉が、もう誰にも返されないと分かっていても、私は言わずにいられなかった。
それが分かったのは、夏休みが終わってすぐ、九月最初の朝のことだった。
教卓の目の前の席に、水色の花瓶と白い花が置かれていた。
誰もその花を見ているようで見ないふりをしながら、それぞれいつものグループに分かれて声を潜める。
オバケちゃん、死んじゃったんだって。え? ほんとに? 自殺らしいよ。やばーい、ほんとにオバケちゃんになっちゃったじゃん。
自殺したクラスメイトの名前は、オバケちゃん。もちろん本名ではなく、ただのあだ名だ。苗字に「化」が入っているから。だけど、それだけじゃない。透けるように真っ白な肌と、腰まである長い黒髪、どこか淡々とした顔立ちは、男子の目には幽霊のように見えたらしい。
その日までは普通に下の名前で呼ばれていたが、小学校三年生になって「化」という漢字を習ったとき、一人のお調子者の男子が授業中にもかかわらず大声で言った。
「じゃあ、あいつ、お化けなんだー!」
視線が一斉にオバケちゃんに集まる。オバケちゃんは大きな目をもっと大きく見開いて、後ろの席をキョロキョロと見た。男子はそれを気にせず、大声で続ける。
「お化けだから、化って漢字が入ってんだろ!」
「ちがうもん!」
「ちがくないもんね!」
教室内の前と後ろで、そんなやり取りが繰り広げられる。
「はいはい、そんなこと言うんじゃありません。この世にお化けなんていませんし、ここにいる全員がお友達です」
先生が手をパンパンと叩き、教卓へと注目させるように言った。
「でもさー先生、この前テレビで心霊番組してたよ、お化けはいるよ!」
男子が立ちあがってそう言う。授業中というのを忘れるかのように、教室のざわざわはさっきより増していった。
「そうですねー、もしかしたら皆さんの授業を見てるお化けが後ろにいるかもしれません……」
先生の一言でざわざわはピタッと止み、みんなの視線は後ろにいく。もちろん後ろにはなにもなく、色とりどりのランドセルが棚に押し込まれているだけだった。
「じゃ、授業続けますよー」
先生は話を無理やり終わらせ、授業はそのまま再開した。十分の短い休み時間になり、再びお調子者の男子がオバケちゃんに向かって言った。
「おまえ、お化けなんだろ?」
「ちがうもん」
「だって、化って漢字入ってるじゃん」
「入ってるだけだし!」
気の強いオバケちゃんは男子にも歯向かうように、強くそう言った。
「「おーばけ! はい、おーばけ!」」
その場にいた男子数人がオバケちゃんを囲って、手を叩きながら言った。
「それじゃ、呼び捨てじゃん! かわいくない!」
「はぁ? なんだそれ」
「せめてオバケちゃんって言ってよ!」
的外れな反抗に、何人かがくすくすと笑っていた。笑い声の聞こえる方にオバケちゃんは振り向くが、みんなバツが悪そうに目を逸らす。
「いいよ、じゃあ、今日からおまえオバケちゃんな!」
「オバケちゃんでいいよ! かわいいし!」
「最初からかわいくねぇよ!」
キーンコーンカーンコーン。
休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴る。
「みんなー席につけー! 次は算数だぞー」
「うえっ、算数とか最悪」
男子がそう言いながら、嫌々席についた。オバケちゃんも急ぐように席について、算数の教科書とノートを開いた。その日の算数の授業は、班で話し合いをする時間があった。オバケちゃんとお調子者男子は同じ班で、睨み合いながら話をしていた。
「で、オバケちゃんはどう思う?」
「私は、こうだと思いまーす。どうですかー」
ニヤニヤしながら言う男子に対して、オバケちゃんは全く動じない。
「俺と答え、全然違うじゃん」
「あんたが間違えてんだよ」
「なんだと」
男子は再び勢いよく立ち上がる。椅子がガタッと音を立てた。
けれど、オバケちゃんは全く怯まずに言った。
「そんなこと言うなら、あんたが間違えてる証拠見せてよ。どうせまた勘で書いたんでしょ?」
「うるせー!」
「それじゃ証拠になってないじゃーん!」
その瞬間、オバケちゃんが変な顔をして、口をぐにゃっと曲げる。クラス中がそれを見てどっと笑いが起きた。
またそれー! ほんと変な顔! ウケる!
笑い声に包まれながら、オバケちゃんはちょっとだけ誇らしげにニヤッとした。
「はーい、ストップ、ストーップ。ケンカするなら廊下でやってください。今は話し合いの時間ですよ」
先生の呆れた声が飛んでくる。男子はむすっとしながら席におずおずと座り、オバケちゃんは小さくガッツポーズをした。
私は、そんな光景を後ろからずっと見ていた。
「はーい、皆さん席について」
担任のM先生は、オバケちゃんが死んでも、いつもと変わらなかった。オバケちゃんをからかっていた男子は、どこか気まずそうに白い花を見ていた。
「皆さんの中にも、すでに聞いた人がいると思いますが……」
出席簿を教卓に置いて、改まったように先生は話をする。
「夏休み中に、クラスメイトの一人が亡くなりました……彼女のことは、先生も、皆さんも、いろいろな思いがあると思いますが――」
「先生! オバケちゃんは自殺したんでしょ?」
お調子者男子は、先生の話を遮るように立ち上がってそう聞く。でも、いつもとは違い、声はどこか震えていて、目は涙で潤んでいた。今更責任でも感じているのだろうか。くだらない。
「自殺って意味をわかって使っていますか?」
M先生は睨むように男子にそう言った。男子はビクッと身体を動かして、先生から目を逸らし、そのまま席に座る。
「教師として、教え子が自分より先にいなくなるのはとても悲しいことです。見送りたくないです。でも、いざ見送るとなったら、教師としての責任を果たしたい」
先生はオバケちゃんを思い出すように目を閉じながら、話を続ける。
「彼女を皆さんと同じように進級させるため、机には毎日お花をあげます。皆さんもそれに協力してもらいたいです、いいですね」
「「「はーい」」」
みんなの視線は花へと集まる。
その日の帰りの会で、M先生が言った。
「じゃあ、お花を替える係を決めましょうか。毎朝、水を替えて花を新しくできる人?」
三十人もいるクラスが、しん、と張り詰めた空気になった。誰も手を挙げない。下を向いて、鉛筆で机に落書きのような線を描く男子。目が合わないよう、わざと視線を教科書に落とす女子。
「……決めるまで帰れませんよ」
M先生はちょっと怖い顔をしてクラス全体を見渡す。
「……じゃあ、日直がやることにしましょう。その日の日直が、お水を替える。それでいいですね」
先生の声が、少しだけかすれた。
「えー、やだー、なんで俺らが」
今日の日直だった、後ろの席の男子が、小さな声でぼやいた。
「自分で勝手に死んだのにさ」
その声に、近くの男子が肘で突き、苦笑いを浮かべる。
先生はそれを聞こえないふりをして、続けた。
「花は、先生が持ってきます。皆さんも、もし家にお花があれば、持ってきてあげてくださいね」
「え、何の花がいいかなー」
女子の一人が呟くと、隣の子が小声で答えた。
「バラとか? でもなんか、オバケちゃんには似合わないかもね」
「じゃあ、白い花がいいんじゃない」
誰かが言う。その瞬間、さっきまで張り詰めていた、クラスの空気が少し柔らいだように見えた。
次の日から、オバケちゃんの席には日直がぎこちない花瓶を洗っていた。通りかかったM先生が、声をかける。
「その花瓶洗ったら、この花を○○さんの机に置いてあげて」
先生がそう言ったとき、私は一瞬、誰のことを指しているのか分からなかった。
○○さん――オバケちゃんの本名。
その響きは、どこかよそよそしくて、別の誰かの名前みたいだった。コスモス、マリーゴールド、どの花もオバケちゃんにとても似合っていた。
「オバケちゃんぽいね」
「うん、似合ってる」
クラスの女子たちがそう言って穏やかに笑っていた。でも、彼女が生きていた頃、そんなことを言った子は一人もいなかった。
私が日直の日、水を変えながら考えてしまう。オバケちゃんはなんで死んでしまったのだろうか、と。噂の通り、自殺なのだろうか、それともなにか事故にあってしまったのだろうか、元々病気だったのだろうか。色んな考えがぐるぐると頭を回る。
私が生きてるオバケちゃんとまともに会話したのは、数回程度だけだった。そのうちの一回を私は鮮明に覚えている。
進級して梅雨に入った頃、クラスで仲が良かった子とは席が離れてしまい、私は未だ席のご近所さんとは馴染めずにいた。一緒に帰る友達もいなくなり、気づけばクラスの子ほとんどが帰っていた。その日、教室に残っていたのは私とオバケちゃんの二人だけだった。
「Kさん、まだ帰らないの?」
少し薄いピンク色のランドセルを背負ったオバケちゃんが、私を見て首をかしげる。
色白の肌にそのピンクがよく映えて、思わず可愛いと思った。
「うん。今日、お母さん帰るの遅いから、宿題ちょっとやってから帰ろうかと思って。オバケちゃんは?」
そう口にしてから、私はハッとして口を押さえた。
今やみんなオバケちゃんと呼んでいるけど、まともに話したこともない私がそう呼ぶのは、悪口みたいに聞こえるんじゃないか、そう思ってしまったのだ。
私の心配をよそに、オバケちゃんはお腹を抱えて笑った。
「いいよいいよ、オバケちゃんで。私、気に入ってるんだ、このあだ名」
「そうなの? 私も呼んでいいの?」
「誰でも呼んでいいんだよ、あだ名なんて。最近みんなオバケちゃんって呼ぶし。たまに本当の名前、忘れそうになっちゃうくらい」
オバケちゃんはそう言って、少しだけ目を伏せた。その一瞬、彼女の笑顔がふっと陰ったように見えた。
「それよりさ、私も一緒に宿題していい?」
私が返事をするよりも先に、オバケちゃんは私の隣の席に座って、ランドセルから算数ノートを取り出した。
「Kさんって算数得意だったよね? 教えて欲しい!」
「なんで知ってるの?」
「噂はかねがね~」
「なぁにそれ」
へへへ、と言って笑うオバケちゃんの眩しい笑顔は、とても自分と同じ人間とは思えなかった。
私なんかに教えられることあるかな、と思いながら、オバケちゃんの算数ノートを覗くと、思っている以上に落書きが多くて、私はつい笑ってしまった。
「なんで笑うのー!」
「ごめん、なにこのらくがき。いぬ?」
「ねこだよー!」
猫とは思えないぐらい丸い耳をした四本足の謎生物の落書きに、私は笑いを堪えられなかった。それと同時に、どうしようもなくオバケちゃんのことが愛おしく感じた。
窓から夕方の光が差し込み、二人の影が机に長く伸びていた。
オバケちゃんは鉛筆をくるくる回しながら、「これどうやるの?」と数字の並ぶページを差し出した。
「ここ、筆算がずれてるよ。2が逆立ちしてる」
「あ、本当だ! 逆立ちしてる~」
オバケちゃんはわざと2をひっくり返して描き直し、「ほら、逆立ち選手権」と言って、私に見せてくる。
「もう、ふざけないのー宿題やるんでしょー」
また笑いがこみあげて、私の頬が少し熱くなった。手でパタパタと顔の熱さを仰ぐ
「Kさんはさ、友達と帰らないの?」
オバケちゃんが急に真面目な顔で聞いてきた。
「うーん、Nちゃんと仲良かったけど、席遠くなっちゃって……」
「ふーん、席遠くても一緒に帰ったらいいのに、クラスは一緒なんだから」
「Nちゃん、隣の席の子と仲良くなっちゃってさー、私のこと忘れちゃったのかも」
冗談ぽく私は笑いながら言ったが、内心寂しさで胸の奥がきゅっとなった。すると、オバケちゃんはガタッと立ち上がって、
「そんなことないよ! Kさん優しいもん!」
そう強く言った。オバケちゃんは鉛筆の芯を折ってしまい、「あー!」と叫んで笑った。
私もつられて笑った。心のどこかでこの時間、ずっと続けばいいのにと思っていた。
「ほーらー、いつまで残ってるんだ。もうとっくに下校時間は過ぎてるぞ」
M先生が教室のドアを開けて入ってくる。
「あ! 先生! Kさんと宿題やってたんだよ、えらいでしょー」
そんなM先生に向かって、オバケちゃんは弾けるような笑顔で言って落書きだらけのノートを見せる。
「ほーう、Kが教えてるのか、算数得意だもんな。にしても、珍しい組み合わせだな」
先生は私とオバケちゃんを交互に見る。
「ねー先生、私もっと算数得意になりたいから、Kさんと同じ班がいい!」
「お前は班が変わっても、しゃべりすぎて叱られるだけだろう」
M先生は肩をすくめて笑った。あまり遅くなるなよーと言い残し、先生はどこかに消えていった。
宿題が一段落ついた頃には、外はオレンジ色の夕焼けになっていた。
「ねぇ、Kさん、一緒に帰ろうよ」
オバケちゃんは当然のようにそう言った。
「私と? いいの?」
「ダメなの?」
オバケちゃんはクラスの中でも人気者、私は目立たないクラスの端にいるような存在だった。きっとクラスの子達から見たら、異様な組み合わせだろう。
「一緒に帰ろう? ダメ?」
「……ダメじゃないよ。オバケちゃんがいいなら、私も嬉しい」
私たちはランドセルを背負い、並んで廊下を歩いた。ピンクと水色のランドセルが隣り合うのは、それだけで少し特別な感じがした。
校舎の階段を下るとき、もう人の声はどこからもしなかった。世界で、オバケちゃんと私だけになったみたいだった。こうして並んでオバケちゃんと歩くのは、初めてのことだった。
階段を一緒に下がる。もう学校に残ってる人は誰もいないのか、人の気配がまるでなかった。世界でオバケちゃんと私だけのような空気感の今の時間が、私はなんとなく居心地が良かった。
外は梅雨の湿った匂いが風に混じっていた。
「Kさん家どの辺?」
「皆川公園の近く」
「あ! 同じだ! じゃあ、途中まで一緒だね」
オバケちゃんは靴を履きながら、そう笑って言った。雨上がりだからだろうか、曇り空が暗くて少し怖かった。私たちを顔を見合せて手を繋いだ。オバケちゃんの手は思っている以上に小さくて柔らかかった。
手を繋いでる分、怖さが和らいだのか、オバケちゃんは道すがら、石ころを蹴ったり、夕立の後の水たまりを覗き込んだりして、ずっと笑っていた。
「Kさんさ、好きな人いる?」
オバケちゃんは少し照れたような顔をしながら、唐突に聞いてくる。
「えー?」
私もなんだか恥ずかしくてモジモジしてしまう。
「まだいないよ、気になる人は何人かいるけど」
「え! だれだれ?」
「ないしょー!」
「えー気になるのにー」
私は、気になる人何人かを頭に思い浮かべながら、少しニヤニヤしてしまう。
「オバケちゃんは? 好きな人いるの?」
「私? うーん……ないこともないけど、ひみつ」
そう言って、オバケちゃんは水たまりをつま先で蹴った。飛び散った水に夕焼けが反射して、きらきらと光った。
水たまりを蹴りながら歩いていると、オバケちゃんが急に立ち止まった。
「ねぇ、あれ……見える?」
指差す先の夕焼け空に、薄く透ける白い風船みたいなものがふわふわ浮かんでいた。
「あれ、なんだろ……人みたい」
そう言って、オバケちゃんは目を細め、少し寂しそうに笑った。
「私さ、なんでも願い事が叶うなら空飛んでみたいんだ」
「空?」
「うん、飛行機とかじゃなくて、自分で空を飛ぶの」
私は「人間だし出来るわけないよ」と笑いそうになったけれど、オバケちゃんの横顔を見たら、なぜかその言葉が喉に引っかかった。
「空を飛べたら、どこまで行けるかな……」
オバケちゃんは空を見上げたまま、ぽつりと言った。
「遠くまで行ったら、私、戻ってこないかも」
冗談みたいに笑うオバケちゃんのその顔を、私は今でも覚えている。
「あ、私こっちの道」
公園近くの四つ角の右を私は指す。
「私真っ直ぐだから、ここでバイバイだね」
そう言いながら、どこか名残惜しくて、私たちは手を繋いだまま顔を見合わせた。
「Kさん、また一緒に帰ろうね」
オバケちゃんはそう笑って言って、ゆっくり手を離した。どこか、少し冷たくて切ない感じがした。
「うん、また帰ろう」
「バイバイ」
「また明日」
私は歩き出しながら、もう一度だけ振り返った。オバケちゃんはまだ、空を見上げていた。
「ただいまー」
玄関の鍵を開けて、扉を閉める。お母さんはまだ帰っていなかった。ランドセルをソファに放り投げて、テレビをつける。いつも見てるアニメを流しながら、冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに入れ、一気に飲み干した。いつも楽しみなはずのアニメの声は頭に入らず、オバケちゃんの声が耳の奥に残っていた。
「遠くまで行ったら、戻ってこないかも」
さっき笑いながら言ったその言葉が、なぜか胸の奥をチクリと刺した。窓の外の夕焼けが、だんだんと夜の色に変わっていった。ソファに座りテレビを見ていると、お母さんが帰ってくる。
「ただいまー遅くなってごめんねー今からごはん作るね」
お母さんは、スーパーの大きなビニール袋を台所に置く。
「おかえり、大丈夫だよ」
「焼きそばでいい?」
「なんでも」
私はボーッとテレビを見ながら、そう答える。ごはんを食べ、お風呂に入って、オバケちゃんの顔が頭から離れなかった。
そしてその夜、変な夢を見た。オバケちゃんが空を飛んでいる夢だった。
ピンク色のランドセルを背負ったまま、夕焼けの空を、風に揺れる白い風船みたいにふわりふわりと漂いながら。
「Kさん、来てよ」
手を伸ばしたけれど、届かない。
「オバケちゃん、待って」
「来て、おねがい」
「待って!」
夢の中での私の声は、空に吸い込まれていった。その声を追いかけた瞬間、目が覚めた。
息が少しだけ早くなっていて、心臓がどくんどくんと鳴っていた。
オバケちゃんの笑顔は、なぜかいつもよりも怖かった。
「変な夢見たな……」
そうつぶやきかけたけれど、なんとなく口に出したくなかった。言葉にしてしまうと、あの夢が現実のものになる気がしたから。
朝の光の中でも、あの夢の色だけは頭の中に残っていた。
いつも通り朝ごはんを食べて、準備をして、学校に着くと、オバケちゃんはいつものように席に座っていた。その姿を見て私は少し安心した。まるで夢の中の彼女とは別人みたいに、クラスの子と笑い合うオバケちゃんを、私はただ見つめていた。
でも、その日のオバケちゃんは、少しだけ違って見えた。笑っているのに、どこか遠くを見ているみたいだった。
休み時間、私が窓の外を見てボーッとしていると、突然視界が塞がれる。
「だーれだ」
低めの声で言うが、私はすぐにオバケちゃんだと分かった。
「オバケちゃん?」
「えー、なんで分かっちゃうのー」
視界がパッと開き、私が振り向くとオバケちゃんはちょっと拗ねた顔で立っていた。
「当たり前じゃん、すぐわかるよ」
「バレバレかー」
オバケちゃんは両手で口を覆って、可愛らしく笑う。
「あのね、Kさんに聞きたいことあるの」
「なに?」
周りをキョロキョロと確認して、オバケちゃんは私の耳元に近づいてくる。
「廊下で話そ」
私が返事をする間もなく、私の手を優しく取って、廊下へと連れていかれる。休み時間なのに、廊下に人は少ない。
「もしね、私がいなくなったら、悲しい?」
オバケちゃんは小声で、私に聞く。
なんでそんなことを聞くのか分からなかった私は、オバケちゃんがいなくなることを想像しただけで胸がぎゅっと苦しくなった。
「……悲しいよ、寂しい」
「ほんとに?」
そう言って笑うオバケちゃんの顔は、どういうわけか、少しだけ遠くを見ているように見えた。
「私オバケちゃん大好きだもん」
「えー、恥ずかしいなぁ、私もKさん大好きだよ」
オバケちゃんはクネクネしながら、そう言って笑った。だけど、その笑顔は、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
「ありがとう、Kさん。教室戻ろうか」
「え、うん」
私とオバケちゃんはまた手を繋いで、教室に戻った。そんな私たちを誰も気に止めることもなく、日常へと溶けていった。
放課後、帰り支度をしていると、オバケちゃんが声をかけてきた。
「ねえKさん、今日も一緒に帰ろう?」
今日も誘ってもらえると思わなかった私は、つい心が踊る。
「うん、帰ろう」
ランドセルを背負い、二人で並んで校門を出る。
夕焼けの空は、雨上がりで赤く滲んでいて、さっきのオバケちゃんの言葉がふと胸に蘇った。
「Kさん、さ」
「なに?」
「私がいなくなっても、友達でいてくれる?」
「なにそれ、変なこと言わないで」
「冗談だよ」
オバケちゃんは笑うけれど、その横顔がどこか遠くを見ているみたいで、私は少しだけ不安になった。その不安をなくすように、オバケちゃんは私の手を取る。昨日と同じように、私たちは手を繋いで帰る。
公園近くの四つ角に着くと、オバケちゃんは手を振った。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
でも、その「また明日」が、どこか頼りなくて、胸がざわついた。
家に向かう途中、大きなマンションの前を通ったときだった。
ふと見上げると、屋上に小さな人影があった。目を細めながら見ると、ピンク色のランドセルを背負っている女の子が立っていた。
「……オバケちゃん?」
私の声は震えていた。
オバケちゃんがこちらを見下ろす。どんな表情をしているのかよく見えない。冷や汗がどんどんと出てくる中で、その子は私に手を振る。
「バイバイ」
私はそう呟きながら、手を振り返した。その声が届いたのかどうかも分からない。
次の瞬間、オバケちゃんの身体が落ちていくのを、私はただ呆然と見ていた。まるで、世界が止まったみたいだった。私はその光景が忘れられないまま、家へと帰りついた。
次の日の朝、私は足が重かった。昨日見た光景が夢だったのか、それとも現実だったのか、分からなくなっていた。 もしかしたら、今日もオバケちゃんは、教室でいつも通り笑っているかもしれない。そう思って、私はいつもよりゆっくり教室のドアを開けた。
でも、オバケちゃんの席には、白い花が置かれていた。
「え……なに、これ」
誰かが小さく呟く。
担任のM先生が沈んだ表情で立っていた。
「……化野真白さんが、昨日の夜、亡くなりました」
その言葉が、耳に届くのに少し時間がかかった。
化野真白、オバケちゃんの本名。先生の口からそれが出た瞬間、頭が真っ白になった。
「そんなの、嘘だよ……だって、昨日、一緒に帰ったのに」
声に出したのか、心の中で言ったのかも分からなかった。 教室はざわざわと波立ち、誰も白い花を直視しようとしなかった。 私はただ、オバケちゃんのあの「バイバイ」の笑顔を思い出していた。いつもと変わらない、可愛い「バイバイ」だった。
次の日から、オバケちゃんの席には日直が花を置くことになった。毎日変わる綺麗な花は、オバケちゃんにとても似合っていて可愛かった。変わるたびに私は、あの「バイバイ」の笑顔を思い出した。
ある日、私が日直だった日。花瓶をそっと持ち上げ、洗面所で水を替える。
冷たい水を注ぐと、花がわずかにしゃんとしたように見えた。
「……また明日ね」
オバケちゃんの席に花を戻しながら、私は小さくそう呟いた。
その言葉が、もう誰にも返されないと分かっていても、私は言わずにいられなかった。
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