ラビリンス~悪意の迷宮~

緑ノ革

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家4

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 化け物が中に入って来るかもしれないと思った空良は、化け物から目を離さないようにしながら、すぐに逃げられるように身構えた。
 化け物はそんな空良を見つめながら、長い手を室内に伸ばしてくる。

 化け物の体はギリギリで窓をくぐることが出来ず、手を中に入れるだけで精一杯のようだった。

(良かった……アイツは入ってこれないんだ……いくら手が長くても、俺の位置までは届かないだろう)

 そう思って空良は安堵の息を漏らす。
 化け物は長い手と鋭い爪を、空良に向けて伸ばしていたが、ふと何かに気付いたように動きを止める。
 そしてぐるんと目を動かして、ベッドに横たわる男性のマネキンの方へと視線を向けた。

 それに気付いた空良の心臓が大きく跳ねる。

 化け物の視線の先にあるのはただのマネキンだ。
 しかし、そのマネキンに一瞬でも父を重ねていた空良は、マネキンが傷つけられることに言い知れぬ恐怖を抱いてしまう。

(マネキンが、父さんが危ない!)

 そう思ってしまった瞬間、空良は駆け出してベッドに向かう。

 化け物の爪が光を反射させながらマネキンに迫る中、空良はマネキンを抱えた。
 そのまま空良は勢いよく後ろに倒れ込む。
 化け物の爪が少し触れて、空良の服に傷を作ったものの、何とかマネキンを助ける事には成功した。
 化け物は爪でベッドを切り裂きながら、マネキンを追って乱暴に手を上下に動かす。

 空良は化け物の爪が届かない壁際にマネキンを寝かせ、化け物が目を忙しなく動かしている内に走り出す。

 そして今度は、クローゼットの前にいた女性のマネキンに駆け寄る。
 化け物は男性のマネキンに気をとられているのだろう。
 難なくマネキンの所に近づく事ができた。
 空良は急いでマネキンを抱えて、化け物の手が届かない所へと向かう。

 マネキンが二体とも、手の届かない所へと移動された化け物は、六つの目を不規則に動かしながら、首を傾げる。

 空良は化け物の爪を警戒しながら移動し、女性のマネキンを男性のマネキンの隣に寝かせた。

(これで、このマネキン達は大丈夫だろう)

 確信した空良は、化け物のことを見つめる。

(この化け物も、元は人間……なのか?)

 桜の『この迷宮にいる化け物の大半は、元々人間だったもの達だよ』という言葉を思い出しながら、空良は眉間にシワを寄せた。
 青い肌をし、六つの目をもち、長く固そうな手に、刃物のような爪がある。
 その姿は人間というにはあまりにもおぞましい。

 この迷宮から出られなければ、いつか自分もこうなってしまうのかと想像すると、恐怖が込み上げた。

 しかし、それと同時に、今、目の前にいる化け物が、生きて逃げきることができなかった人なのだと思うと、胸が痛くなる。

(こんなの、間違ってる)

 心の中で呟き、空良が化け物を見つめていると、化け物はもう手が届かないと気付いたらしく、手を引いた。
 そして、窓の所から去っていった。

 化け物が去って行ったのを確認した空良は、ほっと胸を撫で下ろす。
 そして立ち去ろうとした時だった。

「有難う」

 と、男性の声がして、完全に気が緩んでいた空良は驚きに体を跳ねさせる。
 男性の声がした方を見ると、いつの間にか男性のマネキンが立っていた。

「え? まさか、マネキンが喋ったのか?」

 突然の出来事に、一瞬驚いた空良だったが、この迷宮だったらそんなこともあるだろうと、すぐに冷静さを取り戻す。

「有難う、空良」

 そう言ったマネキンの声は、空良がよく知っている、父の声だった。

「……あ」

 声を聞いた空良の目に涙が浮かぶ。
 現実世界では、引きこもりになってからずっと、父とまともに会話もしていなかった。

 元々、父は無口な人で、たまに一緒に朝食を食べていても、会話などしなかった。
 唯一、父が喋るのは「いってきます」と言うだけ。
 空良は「いってらっしゃい」のひと言が言えなくて、いつも下を向いていた。

 その、父の声でお礼を言われ、空良の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

「……有難うは、こっちの台詞だよ」

 空良は涙を拭いながら言う。

 そして、鼻をすすり上げて、目の前にいる男性のマネキンの事をまっすぐに見た。

「有難う、俺、必ず生きて帰るから!  ちゃんと直接、お礼言うから!」

 空良はそう言うと、マネキンにお辞儀をしてから歩きだし、両親の寝室から出ていく。
 次に空良が向かったのは、自分の部屋だった。
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