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ヘタレ王子の決意②

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 食堂の大きなテーブルとは違い、二人の間にあるのは小さなテーブルだけ、当然に距離は近い。テーブルの上にはブラックチェリーを混ぜ込んだクラフティと紅茶が置かれているが、ハリエット王子の方はその菓子にすら手をつけずに少し居心地悪そうに身を縮めている。
「あの……」
 モースリンは皿に取り分けたクラフティを金のフォークで優雅につついていたが、ハリエット王子の言葉に顔をあげて少し微笑んだ。
「どうなさいました?」
 途端にハリエット王子が「ぴゃっ!」と奇声をあげて姿勢を正す。
「そ、その、なんだ。それ、おいしいかい?」
 ここで彼の名誉のために言っておこう。普段のハリエット王子は頭脳明晰眉目秀麗文武両道――次期国王にふさわしい完璧王子であり、他からの人望も篤い。 
 ところがこの皇子、モースリンの前ではごらんのとおりである。「ええ、とっても」とモースリンがほほ笑めば、「そうか、たくさん食べるがいいぞ」と冷静に答えながら胸のうちで(くっ、可愛いじゃないか)と悶えるというありさまだ。
 この皇子はそれほどに、この美しい公爵令嬢を愛している。
 もともとが政略によって結ばれた婚約だ。愛などなくても正妃として迎えされすればその役は果たされる。王には世継ぎのための愛妾を迎え入れることが許されているし、実際にハリエット自身も妾腹の子だ。
 幸いにも正妃は病弱で子が成せぬ体であり、ハリエットの母も分不相応に自分が正妃の座におさまろうなどと考えるたちではなかったがゆえ、彼自身は市井の小娘が読む小説のような後宮の愛憎劇に巻き込まれることはなかったが。
 だがハリエットは、自分には父王のような器用な女の愛し方はできないだろうと自覚している。なにしろ、ただ正妃として迎えればいいだけの相手だけを、これほど強く愛しているのだから。
「あのさ、モースリン?」
 ハリエットは指輪を忍ばせた上着のポケットに手を突っ込んだ。が、言葉をためらう。
 この指輪はハリエットにとって『婚約指輪』だ。もちろん正式な婚約の指輪は王室名義ですでに贈られているが、それは見栄えばかり気にしたバカでかい宝石が嵌められたもので、とてもじゃないが普段つけて歩くようなものじゃない。
 なにしろバカでかい宝石を支えるための座金は太く丈夫でゴツゴツしており、つければグラスを持てばグラスにガチャガチャ当たる。その重さのせいで優雅で繊細な手元の動きが制限されるのだから、スプーンやフォークを持つにも邪魔だ。そういうわけで、その婚約指輪はモースリンの指に飾られることなく、家宝の一つとしてカルティエ家の宝石箱に収めらっぱなしになっている。
 そうではなく、常にモースリンの左の薬指に嵌って婚約者の存在を誇示する、いわば『男よけ』としての婚約指輪を贈りたいとハリエットは考えているのである。みっともない独占欲だという自覚はあるが、そうでもしないと安心できないほどにモースリンはモテる。
 まずは漆黒の夜闇に漬け込んで染め上げたかのような美しい黒髪。これは彼女が体内に膨大な闇の魔力を有している証である。
 『闇の魔力』といえば聞こえは悪いが、正義の象徴が光であり闇は悪の化身などという浅はかな短絡思考は一般庶民が楽しむ物語の中だけのこと、貴族の間ではどのような魔力であろうともその保有量こそが重要視される。つまり髪色にまで現れるほどの魔力量を誇る彼女は、それだけでも貴族の男がこぞって欲しがるほどの『優良物件』なのだ。
 それのみならずその美貌も--絹糸の如く繊細で豊かな黒髪とは対照的な白磁の肌。モースリンは色白で、そこに筆でスッと引いたような意志の強そうな目元が印象的なとびきりの美人である。つまりクールビューティ。
 外見だけでもこれだけ魅力的だというのに、幼い頃から王妃教育を受けて外国語は五ヶ国語をマスターしているし、礼法は完璧であるし、有事の際には王の代わりが務まるようにと政務についても一通りを叩き込まれている。つまり、とてつもないハイスペッククールビューティ。
 そんなの、他国の要人たちもほっておくわけがない。隙あらばハリエット王子の手中からモースリンを奪おうと、彼女を口説く男は後を立たない。今のところモースリンが博愛精神と王妃教育で培った礼法で波風立てずに上手にお断りしてくれてはいるが、ハリエットとしてはいつか横から出てきたポッとでの男にモースリンの心を奪われるんじゃないかとヒヤヒヤして仕方ないのだ。
 だからこその『男よけの指輪』、これをプロポーズの言葉とともにモースリンに渡して二人の婚約関係をより強固なものにした上で、周囲にも明らかに見せつけてしまいたいと、ハリエットはそう考えている。
 意を決して、ハリエットがポケットから指輪を取り出そうとしたその時、モースリンがテーブル越しにずいっと身を乗り出した。
「どうなさいました? 今日はなんだか、ずっと怒っていらっしゃるみたい」
 美しいまなじりを不安そうに下げて上目遣いで見上げられては、ハリエットの方がときめいてしまう。
(くっ、これのどこがクールビューティだ!)
 まるで構って欲しがりの子猫が飼い主のご機嫌を伺おうと見上げる時に似た甘え顔--彼女は気を許した相手にだけ、こうした油断しきった表情を見せる。そのあまりの可愛さに、ハリエットの意識が飛ぶ……
「ねえ、何か殿下のご気分を害するようなこと、私、してしまいました?」
 そう言われてハリエットは、ハッと正気を取り戻した。
「ち、違うんだ、モースリン、実は……」
 いつどうやってプロポーズしようかと緊張しっぱなしだったとは、ちょっと恥ずかしくて言えない。そこでハリエットはポケットから空手を抜いて、いくつか咳払いをした。
「え、あー、こほん。実は、なぜカルティエ家では17歳の誕生日だけを祝わないのか、気になってね」
 モースリンはハリエットが不機嫌ではないことが嬉しかったのか、「ふふっ」と小さく笑った。
「そんなことを気になさいますのね」
「それは、だって……珍しい慣習じゃないか。普通ならば社交界への顔繋ぎも兼ねて、大々的な誕生パーティーが開かれるものだろう?」
「そうですわね。でも、カルティエ家の、それも女子にとっては17歳の誕生日は少し特別なのです、パーティーなんて開いていられないくらいに、ね」
「んん? どういうことだい?」
「詳しくお話ししたいのはやまやまなのですが、これはカルティエ家に与えられた加護についてのお話なので、ここではちょっと……」
 魔法があれば、当然その範疇に入らぬ不思議もある。この国ではそうした不可思議なものを『女神の加護』と呼ぶ風習がある。
 だからハリエット王子も、それ以上深く追求しようとは思わなかった。どのような加護が与えられているかを詳しく聞き出そうとするのは、はしたない行為とされている。
「わかったよ、そういうことなら仕方ない。後日、誕生祝いの代わりに花を贈らせてくれないか、そのくらいは許されるだろう?」
「ええ、そのくらいなら……」
 はにかみながら微笑むモースリンを見て、ハリエット王子は強く心に決めた。
(はー、可愛すぎる。対面で指輪を渡すなんて無理。花束に愛の言葉と指輪を添えて贈ろう)
 それが果たせぬ夢となることも知らずに……
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