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婚約破棄という選択肢⑥

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 一日の日課を終え、モースリンは帰宅するために馬車に揺られていた。
真向いには迎えに来たビスコースが座っている。彼はぼんやりと窓の外を眺める妹を見て、ため息をついた。
「昼の騒動の顛末は、俺の耳にも届いている」
「そうでしょうね、だから心配して迎えに来てくださったのでしょう」
「本当にそれで良かったのか?」
「婚約解消の話でしょ、良いっていうか、しかたないじゃない」
 モースリンは袖をめくりあげて、手首に浮かんだ数字をビスコースに見せた。
「二回目の予知夢でも、ハリエット様の隣には、あの白い髪の少女がいたわ。そしてハリエット様は、まるで汚いものでも見るような目で私を見ていた……」
「そんなわけが……だって、あのハリエットが?」
「残念ながら、あのハリエット様が、よ」
「だから、死の運命を回避するために破婚を?」
「そうよ、まあ、命をかけてもいいほど好きだったわけじゃないってことね」
 うそだ、とビスコースは思った。この妹が婚約者である皇子をどれほど愛しているか、ビスコースは知っている。
 いまでこそ長身の引き締まった男性らしい体に成長したハリエットだが、幼いころはモースリンよりも小柄で、女の子のようにかわいらしい見た目をした子供だった。そんなハリエットをモースリンは溺愛して、どこへ行くにも必ず彼のあとについて回ったものだ。
 あれは二人が6歳になったときのこと、ようやくハリエットの背丈がモースリンに追いついたころのことだ。ハリエットが王城の庭にある林にモースリンを連れて行ったことがある。もちろんビスコースは子守として二人に付き添った。
 王宮なのだから庭は広大だ。特に林はちょっとした狩り遊びができるようにミズナラやコナラや柏の木を植えて、下草も刈り払わずに自然の林に近い状態にしつらえられている。そこに敷かれた遊歩道を歩きながら、ハリエットがモースリンに聞いた。
「ねえ、カブトムシって見たことある?」
 城下の男の子たちの間では『カブトムシ相撲』という遊びが流行っていた。王子であるハリエットは城下で同じ年頃の男の子と遊ぶことはできなかったが、カブトムシ相撲がどういう遊びなのかくらいは知っていた。それは捕まえてきたカブトムシを小さな紙箱の中に入れて戦わせる遊びなのだが、もちろん体の大きなカブトムシの方が強い。男の子たちの間では体の大きいカブトムシは貴重品扱いであった。
「王宮の庭には蜜を出す木があって、大きいカブトムシがいっぱいくるんだ。大きいのが取れたら、君にあげるね」
 モースリンはのちに、「あの瞬間、この人はなんて無垢で愛おしいんだろうって衝撃を受けたの」とビスコースに語った。
 何しろモースリンは幼いころから容姿が良くて、かなりモテた。そして早熟な貴族の子息たちは幼いころから女の子の気をひくには高級菓子や宝石や、花なんかを贈ればいいと知っている。だからモースリンは、そういったカネに物言わせた贈り物を勝手に送りつけられることも多くて、辟易しているところだった。
 ところがこの王子はなぜかカブトムシをくれるつもりだと。その理由を聞けばモジモジと指先をひねりながら。
「城下の子たちはそうやって一緒に遊んで仲良くなるらしいんだ、だから、ね。君と仲良くなりたくて……」
 この純真無垢さ!
 それで一気に庇護欲と母性と恋心を一度に揺さぶられたのだと、これもモースリンがのちに語ってくれた。
「同時に、不安にもなったのよ、こんな純粋無垢で晩熟な人が、生き馬の目どころかケツの毛までむしるような貴族社会で生きていけるんだろうかって」
 その日以来、いついかなる時どんな場面でも全方向からハリエットをサポートできるようにと、モースリンは自ら進んで王妃教育を受け、政治を学び、作法を身につけ、剣技まで修めて努力を重ねてきた。
 つまりモースリンは、幼いころにたかがカブトムシ一匹もらっただけで自分の人生をかけてしまう程度にはハリエットを愛している。
 もちろん命だって惜しまないであろうことを、ビスコースは知っている。
 あれは二人が十二歳になったときの事――地方を視察していたハリエットが刺客に襲われたことがある。その時、モースリンは誰よりも早くハリエットに抱き着いてその実が刃に刻まれないように守った。熟練の護衛たちよりも素早い動きであった。
 幸いにも刺客の刃はモースリンの肩口をわずかに裂いただけだったが、たとえあの刃がまっすぐ自分の心臓に向いていたとしても、モースリンはためらうことなくハリエットをかばったことだろう。ハリエットと自分の命と、どちらが大事かと聞かれれば迷わずにハリエットを選ぶ女――それがモースリンである。
 そのモースリンが「命が惜しい」なんていうわけがない、それを知っているからこそ、ビスコースはことばもなくうつむいた。
 と、その時、馬車ががたんと揺れて止まった。
「どうした賊か!」
 ビスコースが怒鳴ると、馬車の外から戸惑いをたっぷりと含んだ御者の声が返される。
「いいえ、王子です! 王子殿下が……」
「ハリエットが?」
 ビスコースは片手をあげてモースリンに「動くな」と伝えると、自分は馬車の外へと飛び出した。
 そこには、道のど真ん中、馬車の行く手をふさぐように、護衛の兵を従えたハリエットが立っていた。
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