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第9話「神社の地下祭壇」
しおりを挟む神社が見えてきた時、蒼の足取りは既に重くなっていた。瑠璃との契約が切れた後、記憶糸の能力を失い、追手から逃れるのは容易ではなかった。彼女は今、蒼のすぐ後ろで走っていたが、彼女自身も疲労の色が濃かった。
「あそこ!」瑠璃が息を切らしながら指さした。
赤い鳥居が霧の中から姿を現す。二人は最後の力を振り絞って駆け上がった。境内に足を踏み入れると、そこには誰もいなかった。
「綾音?七海?」蒼は小声で呼びかけた。
返事はない。二人は警戒しながら、神社の本殿へと向かった。
「どこにいるんだろう...」
その時、本殿の裏から微かな物音が聞こえた。蒼と瑠璃は慎重に音の方へ近づいていく。本殿の裏手に回ると、そこには地面に開いた大きな穴があった。穴の周りには石が取り除かれ、地下への階段が露わになっていた。
「地下への入口...」蒼は息を呑んだ。「綾音たちが開けたに違いない」
「危険かもしれないわ」瑠璃が警告した。「桐生先生も既に動いているはず」
蒼は迷いなく頷いた。「それでも行くしかない。綾音と七海が下にいる」
二人は階段を降り始めた。石で作られた狭い階段は、地下へと深く続いていた。蒼はポケットから小さな懐中電灯を取り出し、暗闇を照らす。
「この神社の地下に記憶の杯が...」瑠璃が小声で言った。
「そして父の記憶も、この杯につながっているかもしれない」蒼は付け加えた。
階段を降りること数分、二人は広い通路に出た。通路の壁には古い文様が刻まれており、かすかに光を放っていた。
「蒼!」
突然、前方から声が聞こえた。綾音が走ってくる。彼女の表情には安堵と焦りが混ざっていた。
「よかった、無事だったのね」綾音は蒼を見つめた。「追手は?」
「まだ追ってきている」瑠璃が答えた。「でも神社の結界が少し時間を稼いでくれるでしょう」
「七海は?」蒼が尋ねた。
「先に行っているわ」綾音が言った。「祭壇を見つけたの。でも...何か変だった」
「どういうこと?」
「説明している時間はないわ。急ぎましょう」
三人は通路を進んだ。壁に刻まれた文様は次第に複雑になり、光も強くなっていく。通路は大きく蛇行し、時折小さな部屋に出くわした。それらの部屋には古い石像や、読めない文字で書かれた碑文があった。
「これは古代の魂術使いたちの神殿ね」綾音が説明した。「七大魂器が作られた場所の一つかもしれない」
さらに進むと、通路は突然広がり、巨大な空間に出た。それは円形の大きな祭壇だった。天井は高く、中央には台座があり、その周りを取り囲むように壁画が描かれていた。
七海は台座の近くで、壁画を調べていた。彼女は三人の姿に気づくと、手を振った。
「やっと来たのね!」七海が駆け寄ってきた。「見て、これは...」
蒼は壁画に目を向けた。そこには壮大な物語が描かれていた。古代の人々、空から降り注ぐ黒い霧、そして逃げ惑う人々の姿。
「魂災...」蒼は呟いた。
壁画をじっくり見ると、その物語が理解できた。かつて世界に「魂の嵐」と呼ばれる災厄が訪れた。それは人々の魂を吸い取り、多くの命を奪った。絶望の中、七人の魂術使いが現れ、特別な器を作り出した——七大魂器だ。彼らはその力で魂の嵐を封じ込めることに成功した。
「これが...魂災の真実」蒼は息を呑んだ。
壁画の最後には、七つの器が円を描くように配置され、中央に立つ一人の人物が描かれていた。その人物は光り輝く姿で、七つの器の力を操っているようだった。
「七大魂器は魂災を封じ込めるために作られたのか...」瑠璃も驚きを隠せなかった。
「でも桐生先生は...」七海が言いかけたが、言葉を切った。
蒼は台座の方に歩み寄った。そこには何かが置かれているはずだったが、空っぽだった。
「記憶の杯はどこだ?」蒼は焦りを感じた。
「それが言おうとしたこと」七海が不安そうに言った。「私たちが到着した時、既に杯はなかったの」
「桐生が先に来ていたのか...」
その時、祭壇の奥から拍手の音が響いた。
「素晴らしい推理だ、深宮蒼」
桐生が暗がりから姿を現した。彼の手には完全な形になった銀の杯——記憶の杯があった。
「桐生...!」蒼は身構えた。
「焦らないで」桐生は穏やかな口調で言った。「私は君たちを傷つけるつもりはない。むしろ、助けになりたいと思っている」
「また嘘を」綾音が冷たく言った。
「嘘ではない」桐生は杯を掲げた。「この杯の力で、蒼君の記憶を全て取り戻せる。それが私の目的だ」
蒼は混乱した。桐生は本当に自分を助けようとしているのか?それとも何か策があるのか?
「なぜ俺の記憶を?」蒼が慎重に尋ねた。
「君の記憶の中に、七大魂器の在り処がある」桐生は答えた。「特に、次の魂器『感情の鏡』の場所だ。私には必要な情報なんだ」
蒼は壁画を見上げた。魂災を封じ込めた七大魂器。桐生が言うには、父はその力を解放しようとしていた。だが、この壁画を見る限り、魂器は世界を救うために作られたものだ。
「もし本当に世界を救いたいなら」蒼は桐生に向き合った。「なぜ町の人々から記憶を奪う?なぜ完全記憶体を創ろうとする?」
「それは必要な過程だ」桐生は答えた。「魂器の力を制御するには、強力な意識の器が必要になる。完全記憶体はそのための器だ」
桐生は一歩前に出た。「さあ、蒼君。これ以上時間を無駄にするのはよそう。記憶の杯の力で、君の中に眠る記憶を呼び覚ますんだ」
蒼は仲間たちを見た。綾音は警戒の色を隠さず、七海は不安そうだった。瑠璃は複雑な表情で、桐生と蒼の間を見つめていた。
「もし...記憶が戻ったら」蒼は慎重に言った。「その後はどうなる?」
「それは君次第だ」桐生は微笑んだ。「私の目的は七大魂器を集めること。君が協力してくれれば、君の家族について知っていることをすべて教えよう」
蒼は深く考えた。自分の記憶が戻れば、家族のこと、父の真実、そして自分自身の正体がわかるかもしれない。しかし、桐生を信じるのは危険だ。
「蒼、ダメよ」綾音が小声で警告した。「罠かもしれない」
桐生は杯を差し出した。「決めるのは君だ、蒼君。記憶を取り戻すか、それとも永遠に失ったままでいるか」
長い沈黙の後、蒼は一歩前に出た。
「記憶を...取り戻したい」
「蒼!」綾音が叫んだ。
「大丈夫だ」蒼は振り返って彼女に微笑んだ。「自分の過去を知ることから、すべては始まる」
蒼は桐生に向き直った。「ただし、杯は私が持つ。自分で使う」
桐生は少し考えた後、頷いた。「いいだろう」
彼は杯を蒼に差し出した。蒼が手を伸ばした瞬間、桐生の目が鋭く光った。
「残念だが、これは譲れない」
桐生が突然杯を引き上げ、その中身を蒼にかけた。杯の中には透明な液体があり、それが蒼の顔にかかった瞬間、彼の意識が急速に遠のき始めた。
「蒼!」綾音と七海が同時に叫んだ。
蒼の視界がぼやけ、体がその場に崩れ落ちる。桐生の笑い声が遠くから聞こえてくる。
「記憶の杯の真の力は、記憶を取り戻すだけではない。それを抽出する力も持っているんだよ」
蒼の意識が闇に沈みかけている中、彼は自分の頭から何かが引き出されていくような感覚を覚えた。まるで記憶そのものが体から抜き取られていくような...
「やめて!」瑠璃の声が聞こえた。
蒼の視界の端で、瑠璃が桐生に飛びかかる姿が見えた。しかし桐生は簡単に彼女を払いのけた。
「邪魔をするな、瑠璃。これは必要な犠牲だ」
蒼の意識はますます薄れていく。遠くで綾音が何かを叫んでいるが、声はもう聞こえない。彼の頭の中では、断片的な記憶の光景が走馬灯のように流れ始めていた。
幼い頃の家族との暮らし。父の厳しくも優しい指導。母の温かな笑顔。そして小さな妹。
その記憶は突然、黒い霧と炎の光景に変わる。悲鳴。叫び声。そして父の必死の形相。
「蒼を守れ!彼にはまだ使命がある!」
そして全てが闇に沈む直前、蒼の目の前に一つの光景が鮮明に浮かび上がった。七大魂器が円を描いて配置され、中央に自分自身が立っている光景。それは壁画にあった最後の場面と酷似していた。
「お前こそが...鍵だ...」
それが父の声だった。
意識を失う直前、蒼は必死に右手を動かそうとした。轉魂の紋様が弱く光り、彼の意志に応えようとしているように見えた。しかし、力は足りない。
闇が全てを包み込み、蒼の意識は完全に途切れた。桐生の勝利の笑みと、仲間たちの絶望的な叫び声だけが、彼の消えゆく意識に刻まれていった。
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