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第12話「記憶の杯の力」
しおりを挟む霧原神社の境内に緊張が走った。
先ほどまでの混乱から一転、静寂が支配していた。社の外に出た蒼は、逃げる桐生の背中を見送った。手には取り戻した記憶の杯。その銀色の表面が朝日に照らされて輝いている。
「蒼!大丈夫?」七海が駆け寄ってきた。
「ああ」蒼は疲れた表情で頷いた。「心配かけてすまない」
綾音は瑠璃に支えられながら、弱々しく微笑んだ。「記憶の杯を...取り戻せたのね」
しかし、その瞬間だった。
「そう簡単には渡さん!」
鋭い声と共に、桐生が再び姿を現した。彼の手には小さな銀色の欠片——記憶の杯の一部だ——が握られていた。
「あの時、杯の一部を隠していたのか!」蒼は驚きの声を上げた。
桐生は冷たく微笑んだ。「私は用心深い男だよ。完全な形の杯をお前に渡すつもりはなかった」
彼は素早く七海に飛びかかり、彼女の腕を掴んで引き寄せた。再び取り出したナイフを彼女の喉元に突きつける。
「七海!」瑠璃が叫んだ。
「動くな!」桐生が警告した。「記憶の杯を置け、蒼。さもなければ彼女の命はない」
蒼は状況を冷静に判断した。桐生は追い詰められて危険な状態だ。七海の命を危険にさらすわけにはいかない。
「分かった」蒼は静かに言った。「杯を置く。七海を解放しろ」
「まず杯を」桐生は要求した。
蒼はゆっくりと杯を地面に置こうとした。しかし、その瞬間、彼の右手の轉魂の紋様が突然強く輝いた。
「なっ...!」
蒼の体から金色の光が放たれ、彼の轉魂の力が完全に覚醒したのだ。これまでとは比べものにならない強さで、右手の紋様が燃え上がる。
「これは...!」桐生も驚きの声を上げた。
蒼自身も戸惑ったが、すぐに理解した。記憶の杯と轉魂の力が共鳴している。そして、彼の中に眠っていた父の血——轉魂王の血——が完全に目覚めたのだ。
「七海、身を低くして!」蒼が叫んだ。
七海は咄嗟に体を折り曲げ、桐生の腕から滑り落ちた。その隙に、蒼は右手を突き出し、金色の光の筋を桐生に向かって放った。
「うわっ!」桐生は後ろに飛ばされた。
七海は急いで瑠璃と綾音の側に駆け寄った。蒼は記憶の杯を再び手に取り、桐生に向き合った。
「もう終わりだ、桐生」蒼は静かに言った。「諦めろ」
しかし桐生は笑った。「まだだ」
彼は手にした杯の欠片を掲げ、その力を解放した。欠片から青白い光が放たれ、周囲の空気が重くなる。
「魂術・記憶嵐!」
桐生の周りに記憶の断片が風のように渦巻き始めた。それは次第に激しさを増し、蒼たちに襲いかかる。
「みんな、下がって!」蒼は仲間たちを守るように前に立ちはだかった。
記憶の嵐が蒼を直撃し、彼の脳裏に見知らぬ記憶の断片が次々と流れ込んでくる。混乱を誘う攻撃だ。
「くっ...」蒼は意識を保つのに必死だった。
しかし、彼の轉魂の力が反応し、金色の光が外部からの記憶を弾き返し始めた。そして、先ほど桐生と契約した時に得た「記憶操作」の能力が、その防御をさらに強化する。
「何?」桐生は驚いた。「契約は切れたはずだ!」
「違う」蒼は力強く言った。「契約で得た力の『記憶』が私の中に残っている。それを轉魂の力で呼び覚ましたんだ!」
蒼の体から金色と青白い光が混ざり合った光が放射状に広がり、桐生の記憶嵐を押し返していく。
「これが...轉魂の真髄」蒼は前進しながら言った。「過去の契約者との絆は、契約が切れても完全には消えない。その記憶を呼び覚まし、力として使うことができる!」
「馬鹿な...!」桐生は戸惑いを隠せなかった。
蒼はさらに力を込め、葛老人との契約で得た体術の記憶も呼び覚ました。彼の動きが鋭くなり、記憶嵐の中を縫うように桐生に近づいていく。
「うおおっ!」
蒼の拳が桐生の腹部に突き刺さった。葛老人の武術と、新たに覚醒した轉魂の力が合わさった一撃だ。桐生は数メートル後方に吹き飛ばされ、地面に倒れた。
「ぐっ...」桐生は痛みに顔をゆがめながらも立ち上がろうとする。「まだ...私は...」
「もういい」蒼は彼に近づいた。「もう戦うことはない」
桐生は苦笑いを浮かべた。「お前は本当に...零王の息子だ...」
その時、桐生の手から記憶の杯の欠片が落ちた。蒼はそれを拾い上げ、自分が持っていた杯に近づけると、二つは磁石のように引き合い、完全な形に戻った。
「完全な形の記憶の杯...」蒼は感嘆の声を上げた。
杯が蒼の手の中で明るく輝き始め、彼の体を金色の光が包み込んだ。蒼の意識が急速に記憶の海に引き込まれていく。
「蒼!」綾音が心配して叫んだ。
「大丈夫...」蒼は微笑んだ。「杯が...私に見せようとしている...」
蒼の意識は完全に記憶の世界に沈んだ。そこには失われていた彼の家族の姿が、かつてないほど鮮明に浮かび上がっていた。
-----
明るい日差しが差し込む居間。父・零王が書物を読んでいる。母・彩が茶を淹れている。そして小さな女の子、妹の綾奈が蒼の手を引いて「お兄ちゃん、遊ぼう!」と笑顔で誘っている。
「蒼」父が穏やかな声で呼ぶ。「今日は特別な訓練をしよう。お前の中に眠る力を少しずつ目覚めさせるんだ」
「はい、お父さん」幼い蒼が元気に答える。
庭に出た父と蒼。父は蒼の右手に指を当て、轉魂の基本を教えている。
「心を開き、信じる者と契約を結ぶ。それが轉魂の基本だ」
「でも、どうやって?」
「今はまだ早い」父は微笑んだ。「でも、いつか分かる時が来る。その時は、この紋様が輝くだろう」
父は蒼の手の甲に軽く触れ、かすかな金色の紋様を浮かび上がらせた。
「お父さん、これは何?」
「お前の証だよ、蒼。轉魂王の血を継ぐ者の証」
夕暮れの風景に変わる。一家四人で縁側に座り、夕日を見ている。母が優しく蒼の頭を撫で、妹が蒼の肩に寄りかかっている。父は穏やかな表情で遠くを見つめている。
「蒼、綾奈」父が二人を見つめた。「お前たちは特別な子だ。いつか、この世界を守る役目を担うかもしれない」
「世界を...守る?」幼い蒼が不思議そうに尋ねる。
「そう」父は頷いた。「それが私たち深宮家の使命だ。七大魂器の守護者として...」
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蒼の意識が現実世界に戻った時、彼の頬には涙が伝っていた。
「蒼...?」七海が不安そうに声をかけた。
「大丈夫」蒼は涙をぬぐった。「家族の...本当の記憶を見たんだ。父と母、そして妹の顔...」
彼の声には深い感動が滲んでいた。長年失われていた家族との記憶が、ついに完全な形で蘇ったのだ。
しかし、その感動もつかの間、記憶の杯の光が急速に弱まり始めた。杯は蒼の手の中で次第に暗くなり、やがて普通の銀の杯のように見えるようになった。
「光が...消えた?」蒼は困惑した様子で杯を見つめた。
「七大魂器は一度使うと力を失うの」綾音が弱々しく説明した。「再び力を取り戻すには、他の魂器が必要になるわ」
「他の魂器...」蒼は呟いた。「父が言っていた感情の鏡か...」
桐生はもはや抵抗する力もなく、地面に座り込んでいた。彼は疲れ切った表情で蒼を見つめていた。
「お前は本当に零王の息子だ...」桐生は再び言った。「私は間違っていた。零王は世界を救おうとしていたんだ...」
「桐生...」蒼は彼に近づいた。「まだ遅くない。父の真の意図を知った今、私たちは協力できるはずだ」
桐生は苦笑した。「いや...もう私の役目は終わった。これからは...お前が...」
彼の言葉は途中で切れた。彼は力尽きたように倒れ、意識を失った。
「彼は...?」七海が心配そうに尋ねた。
瑠璃が桐生の脈を確認した。「生きてる。ただ疲労が極限まで達しているだけよ」
蒼はほっとして息をついた。憎むべき相手だったが、桐生もまた父の友人だった。そして、彼なりの方法で世界を救おうとしていたのだ。
「どうする?」瑠璃が尋ねた。
「霧原の人々を元に戻す必要がある」蒼は決意を固めた。「記憶の杯の力は消えたが、桐生の研究所には記憶を保存したサンプルがあるはず。それを使えば...」
「私が手伝うわ」瑠璃が頷いた。「研究所のことは私がよく知っているから」
その後、数日間は忙しい日々となった。瑠璃の協力で、研究所から記憶のサンプルを回収し、霧原町の人々に少しずつ記憶を取り戻させていった。桐生は地元の病院で治療を受け、意識を取り戻したものの、蒼との対決で使った力の反動で、しばらくは魂術が使えない状態になっていた。
そして、一週間後——
「本当に行くの?」
神社の境内で、七海が蒼たちに別れを告げていた。彼女は記憶を完全に取り戻し、神社の巫女として残ることを決めたのだ。
「ああ」蒼は頷いた。「次の魂器『感情の鏡』を探さなければならない。桐生の記憶によれば、それは『神和』という都市にあるらしい」
七海は寂しそうな表情を見せたが、すぐに明るく微笑んだ。「分かったわ。でも、また戻ってきてね」
「約束する」蒼は彼女の手を握った。「ここは俺の故郷だ。必ず戻ってくる」
綾音も少し元気を取り戻し、自分の足で立てるようになっていた。「準備はできたわ」
瑠璃も旅に同行することを決めていた。「私も行くわ。私の家族の記憶も探さなければならないから」
三人は最後に七海と抱擁を交わし、霧原町を後にした。古びたバス停で、神和行きのバスを待つ三人。
「これからどうなるんだろう」瑠璃が空を見上げながら呟いた。
「分からない」蒼は正直に答えた。「ただ、父の使命を引き継ぎ、七大魂器を集める。それが今の俺にできることだ」
「私たちがいるわ」綾音が静かに言った。「一人じゃない」
蒼は微笑んだ。かつての孤独な少年は、今や仲間たちと共に旅立とうとしていた。右手の轉魂の紋様がかすかに輝き、新たな冒険への期待を感じさせる。
-----
一方、遠く離れた場所——
「魂器回収機関」本部。高層ビルの最上階にある会議室で、緊急会議が開かれていた。
「桐生が敗北した」厳めしい顔の男性が報告した。「記憶の杯は深宮蒼の手に渡った」
「予想通りね」薄暗い部屋の奥から、澄んだ女性の声が響いた。
「次の指示をください」男性が頭を下げた。
「次は私が行くわ」
影から一人の少女が姿を現した。白い髪に青い瞳、冷たい美しさを持つ少女。彼女は氷のような冷徹な表情で前に進み出た。
「雪村千冬です」少女は静かに自己紹介した。「私が深宮蒼を追跡し、魂器を回収します」
「君に任せる」男性は頷いた。「彼らは神和へ向かうはずだ。感情の鏡を探しているようだ」
「了解しました」雪村千冬は小さく頭を下げた。「必ず成功させます」
彼女は窓の外を見た。そこには大都市「神和」の夜景が広がっていた。巨大なビル群と輝く街の灯り。その中のどこかに、次なる魂器「感情の鏡」が隠されている。
「深宮蒼...」千冬は冷たく呟いた。「私があなたの前に立ちはだかる」
轉魂使いの旅は、まだ始まったばかりだった。
【終】
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