記憶喪失の僕が最強の轉魂使いだった件

ソコニ

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第19話「千冬の過去」

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朝の光が窓から差し込む前、蒼は再び小さなノックの音で目を覚ました。時計を見ると、まだ午前5時を少し過ぎたところだった。

「千冬だ」

綾音も起き上がり、警戒しながらも頷いた。蒼がドアを開けると、そこには昨夜と同じく私服姿の千冬が立っていた。

「約束通り来た」

そう言って千冬は静かに部屋に入った。彼女の青い瞳には、まだ感情の欠片が僅かに見えるものの、昨夜よりも冷静に見えた。彼女は窓から差し込む薄明かりに照らされた部屋を見渡し、静かに椅子に腰かけた。

「昨日は突然すまなかった」千冬の声は平坦だったが、以前のような完全な無感情ではなかった。「考える時間が必要だった」

「大丈夫だよ」蒼は彼女の前に座った。「よく戻ってきてくれた」

千冬は一瞬、蒼の目をまっすぐ見つめ、それから視線を落とした。そして、彼女は自分の過去を語り始めた。

「私が氷室財団と関わったのは、五年前のことです」

彼女の声は静かに、しかし確かな意志を持って部屋に響いた。

-----

五年前、雪村千冬は普通の中学生だった。平凡だが幸せな家庭で、両親と弟と暮らしていた。父親は大学教授で、母親は専業主婦。家族仲は良好で、特に問題はなかった。

しかしある日、弟の健太が突然、激しい頭痛を訴え始めた。病院での検査結果は深刻だった——脳に原因不明の異常が見つかったのだ。

「既存の医療では治療が難しい」と言われた家族に、一筋の光明が差し込んだ。氷室財団からの接触だった。

「我々には特殊な治療法があります」と財団の医師は言った。「ただし、それには家族全員の協力が必要です」

希望にすがる思いで、雪村家は財団の私設医療施設に入ることを決めた。初めのうちは通常の治療のように見えた。弟は特別な装置に繋がれ、家族も定期的な検査を受けた。

「最初の一か月は、本当に治療だと思っていました」千冬の声が僅かに揺れた。「でも、徐々に様子がおかしくなっていったのです」

検査と称して、家族は一人ずつ別々の部屋に連れて行かれるようになった。そこで彼らは「感情写しの鏡」と向き合わされた。最初は単なる心理テストのように思えた。鏡を見て、自分の感情を言葉にする。怒り、悲しみ、喜び、恐怖...すべての感情を詳細に報告するよう求められた。

しかし、その過程で家族に変化が現れ始めた。

「父が最初でした」千冬は静かに言った。「ある日、父は怒りの感情を完全に失っていました。どんなに挑発されても、怒ることができなくなっていたのです」

次は母だった。彼女からは悲しみが消えた。息子の病状が悪化しても、涙を流すことができなくなった。弟の健太は恐怖を失った。危険なことに対する警戒心がなくなり、自傷行為さえするようになった。

「私は...気づいていました」千冬の声が小さくなった。「私たちから何かが奪われていることに。でも、弟を救うためには協力するしかないと思っていたのです」

そして遂に、千冬自身の番が来た。彼女は特別な部屋に連れて行かれ、大きな八角形の鏡と向き合わされた。

「その日、白衣の医師たちに混じって、黒いスーツの男性がいました」千冬は瞳を閉じた。「氷室厳勝です」

厳勝は千冬を称賛した。「君は特別だ。他の被験者よりも感情の純度が高い。我々の計画に最適だ」

千冬には何を言っているのか理解できなかった。しかし、すぐに恐ろしい儀式が始まった。鏡が妙な光を放ち、彼女の体から何かが引き出されていくような感覚に襲われた。

「それは...言葉では言い表せない痛みでした」千冬の顔に初めて明確な苦痛の表情が浮かんだ。「私の中から、すべての感情が引き剥がされていくような...」

儀式が終わった時、千冬は完全に変わっていた。喜び、悲しみ、怒り、恐怖...あらゆる感情が彼女から消え去り、彼女は空っぽの人形のようになった。

「その状態で私は『完璧な兵器』として評価されました」千冬は淡々と続けた。「感情に左右されず、命令に忠実に従う存在として」

家族の他のメンバーは、彼女ほど「成功」しなかった。感情の一部を失っただけでは不十分だと見なされ、さらなる実験の対象となった。最終的に、彼らは廃人同然となった。

「弟の病気?それも嘘だったのです」千冬の声には初めて明確な怒りの色が混じった。「健康だった弟を騙して...私たち家族を実験台にするための罠だったのです」

-----

千冬の話が終わると、部屋には重い沈黙が流れた。蒼の目には怒りの炎が宿り、綾音も悲しみに沈んでいた。

「それから...」千冬は続けた。「私は魂器回収機関の一員として訓練を受けました。感情のない私は、能力を最大限に発揮できる『理想的な道具』だったのです」

「千冬...」蒼は言葉に詰まった。

「しかし」千冬は蒼を見つめた。「あなたが記憶の杯の力で記憶を取り戻したと聞いて...私にも可能性があるのではないかと思い始めたのです」

「だから僕に接触したんだね」蒼は理解した。

千冬は小さく頷いた。「私も...感情を取り戻したいのです。家族を救いたい」

「必ず助ける」蒼は強い決意を込めて言った。「僕には父から受け継いだ使命がある。魂器を集め、世界を守ること。でも今は、君と君の家族を救うことも、僕の使命だ」

千冬の目に、わずかに潤みが浮かんだ。彼女自身、その変化に驚いたように目を見開いた。

「涙...?」彼女は自分の頬に触れた。「私は...感情を...」

「少しずつ戻っているんだ」蒼は微笑んだ。「君の中の感情は完全には消えていなかった。鏡に封じ込められていただけなんだ」

「感情の鏡」綾音が言った。「それが鏡の力です。感情を抽出し、封じ込める。でも、その逆も可能なはず。封じ込められた感情を解放することもできるはずです」

千冬は希望の光を見つけたように、初めて明確な表情を見せた。

「それでは...今日の展示会での作戦を立てましょう」彼女は姿勢を正した。

三人は今日の「感情芸術展」での詳細な計画を練り始めた。千冬から得た内部情報によれば、儀式は午後3時にメイン会場で行われる。一般客にも公開されるが、実際には厳重な警備の下で執り行われるという。

「厳勝と零児が儀式を執り行います」千冬が説明した。「私は儀式の中心で、鏡と向き合う役目です。50人の被験者たちの感情が抽出され、私の中に流れ込む...」

「それは絶対に阻止する」蒼は断固とした口調で言った。「ただし、一般客を巻き込むわけにはいかない」

「正面からの阻止は難しいわ」綾音が懸念を示した。「会場は厳重に警備されているし、一般客も大勢いる」

蒼は考え込んだ。「儀式の直前に、鏡を奪取するのがベストだろう」

「それなら私が協力できます」千冬が言った。「儀式の準備段階で、私は鏡の近くにいることができます」

計画が具体化していく中、蒼は一つの問題に思い当たった。

「千冬、君と魂契約を結ぶことができれば、僕の力で君を守れるんだが...」

千冬の表情が暗くなった。「それは...無理です」

「感情がないからね」綾音が理解を示した。「轉魂契約には感情が必要だから...」

「そうなんです」千冬は悲しげに頷いた。「私との魂契約はできない。感情がないから」

蒼は彼女の肩に手を置いた。「必ず方法を見つける。約束する」

千冬は僅かに頬を紅潮させた。それは彼女の中に感情が戻り始めている明らかな証拠だった。

「私が魂器回収機関を裏切れば、追われる身になります」千冬は静かに言った。「もう後戻りはできません」

「一人じゃないよ」蒼は強く言った。「僕たちがいる」

千冬は初めて、微かな微笑みを浮かべた。「ありがとう...深宮蒼」

朝日が部屋に差し込み、三人の顔を優しく照らした。今日は運命の日となる。氷室財団の儀式を阻止し、感情の鏡を手に入れ、千冬と彼女の家族を救う戦いの日だ。

「計画を最終確認しましょう」蒼は言った。

三人は入念に作戦を確認した。千冬は内部協力者として、儀式の準備中に現場の状況を探る。蒼と綾音は一般来場者として紛れ込み、儀式の直前に行動を起こす。

「集合時間は?」

「午後2時半」千冬が答えた。「儀式の30分前、裏口で会いましょう」

細部まで計画を詰めた後、千冬は立ち上がった。

「もう行かなければ」彼女は言った。「私の不在が長すぎると、疑われます」

「気をつけて」蒼は真剣な表情で言った。「怪しまれないように」

千冬は頷き、ドアに向かった。出る前に、彼女は振り返った。

「私は...裏切り者になるのですね」彼女の声には微かな不安が混ざっていた。

「違う」蒼はしっかりと言った。「君は真実に立ち戻るんだ。君を利用した者たちこそが、本当の裏切り者だよ」

千冬は静かに頷き、部屋を後にした。彼女の背中は以前よりもずっと人間らしく見えた。

「信じていいの?」綾音が千冬が去った後、小声で尋ねた。

「ああ」蒼は窓から朝の神和の街を見下ろした。「彼女の中に感情が戻り始めている。それは彼女が人間に戻りつつある証拠だ」

綾音はしばらく黙った後、頷いた。「彼女の話...全て本当だと思う」

「氷室財団の非道さには、怒りを覚えるよ」蒼は拳を握りしめた。「だからこそ、今日は必ず成功させなければ」

二人は準備を始めた。風間から借りたカメラで来場者を装い、武器になりそうなものも何点か用意した。しかし最大の武器は、蒼の轉魂の力だ。

「もし感情の鏡を手に入れられたら」綾音が考え込むように言った。「記憶の杯と組み合わせることで、大きな力が生まれるはず」

「七大魂器の二つが揃う」蒼は頷いた。「父の記憶によれば、二つ以上の魂器が一つになると、その力は単純な足し算以上になるらしい」

「でも...もし失敗したら?」

蒼は真剣な表情で答えた。「失敗は許されない。多くの人々の運命がかかっている。特に千冬と彼女の家族を救うためにも」

綾音は静かに頷いた。彼女も決意を固めたようだった。

「千冬との契約ができないのは残念ね」綾音が言った。「彼女の『感情凍結』能力は、今日の戦いで役立つはずなのに」

「方法はあるはずだ」蒼は考え込んだ。「もし感情の鏡を使えば...彼女の封じられた感情を解放できるかもしれない。そうすれば...」

「契約も可能になる」綾音が言葉を継いだ。

二人は希望を胸に、最後の準備を整えた。部屋を出る前、蒼は記憶の杯を取り出し、その表面を撫でた。力を失った杯からは、もはや特別な反応はなかったが、それでも父との繋がりを感じさせる大切な存在だった。

「父さん、見ていてください」蒼は静かに呟いた。「あなたの遺志を継ぎ、今日は第二の魂器を手に入れます」

綾音は黙って頷き、蒼の側に立った。二人の間には強い絆が感じられた。

窓の外では、神和の街が朝の喧騒に包まれ始めていた。感情芸術展の開催を告げる旗やポスターが街のあちこちに見られる。人々は何も知らずに、今日が特別な日になることも、一部の人間の運命が大きく変わる日になることも知らなかった。

「行こう」蒼は決意を込めて言った。

二人はホテルの部屋を後にした。彼らを待つのは、感情の鏡との対峙、儀式の阻止、そして新たな仲間との戦いだった。
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