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第29話:「市場操作防止の結界」
しおりを挟む水源浄化株での劇的な勝利から三日後、フェニックス・インベストメントの事務所は早朝から活気に満ちていた。壁一面に貼られた巨大な市場区域の地図の前で、誠は集中した表情で何かを考えていた。地図にはギルド・エクスチェンジの詳細な構造図が描かれ、赤いマーカーでいくつかの地点が印されていた。
「何をしているの?」
ミラが朝のお茶を持って近づいた。
「市場の構造的欠陥を分析しているんだ」誠は地図から目を離さずに答えた。「水源浄化株での勝利は大きかったが、それは一時的なものに過ぎない。ヴァンダーウッド家は依然として感情増幅の魔石という武器を持っている」
「それで?」
「より根本的な対策が必要だ」誠は振り返り、ミラの目をまっすぐ見た。「感情増幅の魔石などの影響を遮断する魔法結界を、市場自体に設置するんだ」
ミラは目を丸くした。「市場全体に結界を?それって可能なの?」
「理論上は可能だ」ソフィアが書類を持って入ってきた。「私が王立魔法学院で調べた結果だけど、『感情波動遮断結界』という古代魔法があるの。魔法議会の会議室にも使われていた技術よ」
誠は頷いた。「その結界をギルド・エクスチェンジ全体に展開できれば、感情増幅の魔石は無力化される。すべての投資家が冷静な判断で取引できるようになる」
「すごいアイデアね」ミラは感心したが、すぐに現実的な疑問を投げかけた。「でも、ギルド・エクスチェンジの幹部たちが同意するかしら?彼らの多くはヴァンダーウッド家と繋がりがあるわよね」
「だからこそ、説得が必要なんだ」誠は決意を込めて言った。「アルフレッドの政治的影響力と、私たちのデータと論理で押していく」
その時、トビアスが事務所に飛び込んできた。「誠さん!アルフレッド卿がお見えです!」
アルフレッド・ノーブルガードが優雅な足取りで入ってきた。彼の表情には、いつもの陽気さと同時に、決意のようなものが見えた。
「おはよう、誠」彼は挨拶した。「早速だが、良いニュースがある。ギルド・エクスチェンジの最高責任者、マーカス・トレードウィンド氏との会合の約束を取り付けた。明日の午前だ」
「さすがアルフレッド!」誠は喜んだ。
「しかし、彼は保守的な人物だ」アルフレッドは警告した。「説得は簡単ではないだろう」
「わかっている」誠は自信を持って応じた。「だからこそ、徹底的に準備をするつもりだ」
---
翌日の午前、ギルド・エクスチェンジの幹部会議室。重厚な木製テーブルを囲んで、ギルドの幹部たち、誠たちフェニックス・インベストメントのメンバー、そしてアルフレッドが着席していた。
「それでは、本日の特別会議を始めます」
マーカス・トレードウィンドは60代の威厳ある男性で、40年以上ギルド・エクスチェンジで働いてきたベテランだった。彼は誠たちに厳しい視線を向けながら口を開いた。
「ノーブルガード卿からの要請で、この会合を設定しました。フェニックス・インベストメントの皆さんが、市場改革の提案をしたいとのことで」
「ありがとうございます、トレードウィンド様」誠は礼儀正しく頭を下げた。「本日は『市場操作防止の結界』の設置について提案させていただきたいと思います」
会議室にささやきが広がった。誠はソフィアに目配せし、彼女が魔法の投影装置を起動させた。壁に「市場操作防止の結界」と題された図表が映し出される。
「現在の市場には構造的な問題があります」誠は静かな声で説明を始めた。「特定の魔法アイテム、具体的には感情増幅の魔石などを使った市場操作が可能な状態になっています」
「そのような噂は聞いておりますが、証拠はありますか?」マーカスが冷ややかに尋ねた。
「あります」誠は頷き、ミラに促した。
ミラが立ち上がり、詳細なデータ分析を示した。
「過去5年間の市場データを分析した結果です」彼女は自信を持って説明した。「特定の大口投資家の取引前後に、不自然な市場心理の変化が統計的に有意に発生しています。これは自然な現象ではなく、何らかの外部操作があったことを示しています」
彼女はグラフと数字で、市場操作の痕跡を明確に示していった。
「さらに」ソフィアが続けた。「王立魔法学院での研究により、感情増幅の魔石の存在とその影響範囲が科学的に証明されています」
彼女は魔石の特性と、それが市場に与える影響についての学術的な説明を行った。専門知識に裏打ちされた彼女の説明は説得力があった。
誠は再び前に立った。「私たちが提案するのは、古代魔法『感情波動遮断結界』をギルド・エクスチェンジ全体に設置することです。これにより感情を操作する魔法の影響を完全に遮断し、すべての投資家が冷静な判断で取引できる環境を作り出します」
マーカスは眉をひそめた。「そのような大規模な魔法結界の設置には、莫大なコストがかかるのではないですか?」
「その点も考慮しています」誠は頷いた。「MPUが資金の大部分を負担する用意があります。加えて、この結界は市場の信頼性を高め、長期的には取引量の増加につながると予測しています」
幹部たちは小声で議論を始めた。彼らの表情からは、提案に興味を持ちながらも、躊躇している様子が読み取れた。
「魔法結界の設計と維持は?」別の幹部が質問した。
ソフィアが答えた。「王立魔法学院の協力を得ています。また、メンテナンスについても長期計画を立てています」
彼女は結界の詳細な設計図と運用計画を示した。
議論は一時間以上に及んだ。誠たちは質問の一つ一つに丁寧に答え、提案の実現可能性と有効性を強調した。アルフレッドも時折発言し、政治的な観点から改革の重要性を訴えた。
徐々に、幹部たちの態度に変化が見られ始めた。最初は懐疑的だった表情が、次第に関心と理解を示すようになってきた。
マーカスが意見をまとめようとした時、会議室のドアが突然開かれた。
「失礼します」
中年の男性が入ってきた。整った服装と威厳ある立ち居振る舞いから、高位の貴族であることが窺える。
「ジェイムズ・ヴァンダーウッド卿」マーカスが驚いた様子で立ち上がった。「こちらへは…」
「緊急の用件があると聞き、急いで参りました」ジェイムズはレオンハルト・ヴァンダーウッドの甥で、家族の実務を取り仕切る人物だった。彼は冷たい目で誠たちを見た。
「魔法結界?市場操作防止?」彼は嘲るように言った。「これは明らかに市場への不当な介入です。私たちヴァンダーウッド家は強く反対します」
「ヴァンダーウッド卿」誠は冷静に対応した。「この提案は特定の個人や家族を標的にしたものではありません。すべての投資家にとって公平な市場環境を作ることが目的です」
「きれいごとを言わないでください」ジェイムズは声を荒げた。「これが貴方がたの、我が家への攻撃であることは明白です」
「それは違います」誠は毅然と言い返した。「市場の透明性と公正さは、最終的には全ての参加者にとって利益になります。ヴァンダーウッド家のような大規模投資家にとっても、長期的には良い結果をもたらすでしょう」
「我々は300年の伝統を持つ家です」ジェイムズは威圧的な態度で言った。「そのような伝統と経験を持たない者たちが、市場の仕組みを理解できるとは思えません」
「伝統は尊重すべきです」誠は静かに答えた。「しかし、時代とともに改革も必要です。市場は一部の特権階級のものではなく、すべての人々のものであるべきです」
会議室は緊張感に包まれた。マーカスが介入しようとしたが、アルフレッドが先に立ち上がった。
「ヴァンダーウッド卿」彼は外交的な口調で言った。「私もノーブルガード家の一員として、伝統の価値を理解しています。しかし、王国の繁栄のためには、より多くの人々が経済活動に参加できる環境が必要です」
彼の言葉は、貴族同士の対話という形で説得力を持った。
「この提案は特定の家を狙ったものではなく、市場そのものを強化するためのものです」アルフレッドは続けた。「それは最終的には、大貴族を含むすべての人にとって利益になるでしょう」
ジェイムズは反論しようとしたが、他の幹部たちの表情を見て思いとどまった。彼は誠に冷たい視線を送り、「この件は家長に報告します」と言い残して退室した。
彼が去った後、会議室には複雑な空気が流れた。マーカスはため息をついた。
「非常に難しい立場に立たされました」彼は言った。「しかし、提案自体には価値があると認めざるを得ません」
彼は他の幹部たちと目を合わせ、小さく頷きあった。
「結論としては、『市場操作防止の結界』を試験的に導入することを承認します」マーカスは宣言した。「最初は市場の一部エリアだけに設置し、効果を検証した上で、拡大を検討します」
誠たちの顔に喜びの表情が広がった。完全な勝利ではなかったが、重要な一歩を踏み出せたのだ。
「ありがとうございます、トレードウィンド様」誠は深く頭を下げた。「必ず良い結果をお見せします」
---
会議後、フェニックス・インベストメントの面々とアルフレッドは近くの茶館で勝利を祝った。
「やりましたね!」トビアスは興奮した様子で言った。
「まだ試験的導入に過ぎない」誠は冷静に言った。「しかし、これが正しい方向への大きな一歩であることは間違いない」
「ヴァンダーウッド家は簡単には引き下がらないでしょう」ミラは心配そうに言った。
「もちろんだ」アルフレッドも頷いた。「しかし、彼らも公然と結界に反対することは難しい。それは自分たちが市場操作をしていることを認めるようなものだからな」
「次の課題は、結界の効果を証明することです」ソフィアが言った。「私は学院の専門家たちと協力して、最も効果的な結界の設計に取り組みます」
「そして私たちは、MPUの資金管理と、結界の効果を証明するためのデータ収集を進めるわ」ミラが付け加えた。
誠は窓の外を見た。市場区域の中心に立つギルド・エクスチェンジの建物が見える。そこに魔法結界が張られる日が来れば、市場はより公正なものに変わるだろう。それは彼の前世からの夢—経済の力を通じて世界をより良くすること—に一歩近づく瞬間でもあった。
「これは私たちだけの勝利ではない」誠は静かに言った。「すべての小規模投資家、そして公正な市場を願うすべての人々の勝利だ」
窓の外では、市場区域の人々が忙しく行き交っていた。彼らはまだ知らないが、今日の決定が市場の未来を大きく変えることになるのだ。
「次は何を?」アルフレッドが尋ねた。
「結界の設置を成功させること」誠は決意を込めて言った。「そして、それを足がかりに、『王国富裕令』の撤回を目指す」
彼の言葉に、全員が頷いた。旅はまだ始まったばかりだったが、今日の勝利は確かな希望をもたらしていた。
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