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第23話「敵国貨幣、静かなる侵食」
しおりを挟むアグラリア王国の侵攻から一ヶ月。サーディス王国北部での戦闘は膠着状態に陥っていた。マックスウェル伯爵率いる北部防衛軍は、新型魔導武器の優位性を活かして反撃に転じたものの、アグラリア軍の数的優勢を覆すまでには至っていなかった。
王宮の作戦会議室では、長期戦の見通しに顔を曇らせる将軍たちの姿があった。
「現状では、早期決着は望めません」
軍司令長官のレオナルド将軍が厳しい表情で報告した。
「アグラリア軍は要所に堅固な防衛線を構築し、後方から継続的に補給を受けています。彼らは長期戦を覚悟しているようです」
国王テラモン3世が深刻な表情で尋ねた。
「我が軍の持久力は?」
「軍需調達公社と戦時経済令のおかげで物資は安定していますが、問題は財政です」
財務大臣セバスチャン卿が懸念を示した。
「この戦争を一年継続するには、さらに3000万ゴールドが必要となります。現状の税収では賄えず、第二次戦時国債の発行も限界があります」
重苦しい沈黙が会議室を支配した。打開策が見えない状況で、国王は一人の男に視線を向けた。
「ライアン殿、君の見解を聞かせてほしい」
静かに座っていたライアンが立ち上がった。「戦時経済顧問」の紋章が彼の胸に輝いている。
「陛下、この戦争を剣と魔法だけで勝つのは困難です」
彼は冷静に切り出した。
「しかし、別の武器があります。『経済戦』です」
「経済戦?」
王太子エドワードが興味を示した。
「はい。敵国の経済基盤を内部から崩壊させる戦略です」
ライアンは中央のテーブルに歩み寄り、アグラリア王国の地図を広げた。
「アグラリア王国の通貨『クラウン』を標的にします。その価値を下落させ、敵国経済を混乱に陥れるのです」
将軍たちの間に疑問の声が上がった。他国の通貨に干渉するという発想は前例がなかったのだ。
「どうやって?」
国王が関心を示した。
「三段階の作戦で進めます」
ライアンは自信に満ちた声で説明を始めた。
「まず第一段階。捕虜交換という名目で、大量の偽造クラウンをアグラリアに流入させます」
「偽造貨幣?」
セバスチャン卿が眉をひそめた。
「それは不正ではないのか?」
「戦時下では、これも立派な戦術です」
ライアンは冷静に答えた。
「しかも、私が計画する偽造クラウンは、通常の偽造とは異なります。見分けがつかないほど精巧なものを作り、しかも金含有量も本物と変わらないものにします。つまり、『偽物』ではなく『非公認の本物』というべきものです」
その独創的な発想に、参列者たちは目を見開いた。
「第二段階。国境地域の商人を通じて『高く買い、安く売る』取引を仕掛けます。具体的には、アグラリアの商品を市場価値より高く購入し、我々の商品を安く売ります。これにより、アグラリアのクラウン貨幣が大量に国外へ流出します」
「それでは我々も損失を被るのでは?」
財務大臣が懸念を示した。
「短期的には確かに損失です。しかし、この作戦に投じる資金は、正面戦場で消費される戦費の10分の1以下です。費用対効果は絶大です」
ライアンはさらに続けた。
「第三段階。第三国の商人を介して、アグラリア貴族の奢侈品嗜好を刺激します。彼らが自国の貨幣を使って外国の高級品を大量に購入すれば、さらにクラウンの国外流出が加速します」
彼の説明は明確で論理的だった。どの将軍も、その計画に反論の余地を見出せなかった。
「これらの作戦が成功すれば、クラウンの価値は急激に下落し、アグラリア国内ではインフレが発生します。兵士の給料は目減りし、士気は低下するでしょう。物資調達も困難になり、最終的には国内の政情不安につながります」
国王が深く考え込んだ。
「剣を交えずして敵を倒すということか」
「はい。血を流さずに勝利する道です」
長い沈黙の後、国王は決断を下した。
「進めよ。必要な権限と資金を与える」
***
作戦は即座に実行に移された。
まず、王立鋳造所の一角に極秘の作業場が設けられた。そこでは、選ばれた職人たちが昼夜を問わず働き、見分けのつかないアグラリア・クラウン貨幣を製造していた。
「含有金量は本物と同じですが、鋳造には『アグラリア非公認』と微細な刻印を入れています」
鋳造責任者がライアンに報告した。
「良心の呵責でしょうか?」
「いいえ、法的な抜け道です」
ライアンは冷笑した。
「将来、平和条約が結ばれた際に『公式に認められた貨幣ではない』と主張できるようにしておくのです」
同時に、国境地域での商取引計画も進行していた。
「第三段階の準備も整いました」
エドモンドが報告した。
「南方諸国とミドル諸島の商人たちが協力を約束しています。彼らはアグラリア貴族に特別な『戦時限定品』として高級品を販売する予定です」
「グランツの『黄金の水路』も使えるのか?」
「はい。彼は意外なことに積極的です。おそらく、この混乱に乗じて自身の影響力を拡大する機会と見ているのでしょう」
ライアンは満足げに頷いた。
「彼の野心も我々の計画に組み込める。すべては予定通りだ」
***
作戦開始から1ヶ月後、最初の成果が表れ始めた。
「アグラリアの首都カレンティアで物価が15%上昇したとの情報が入りました」
ガルドが秘密の報告書を示した。
「特に高級品の価格高騰が著しいようです。貴族たちの間では『戦争特需』だと信じられていますが、実際には我々の作戦の影響です」
「国境地域ではどうだ?」
「商人たちから多くのクラウン貨幣が集まっています。すでに通常流通量の約12%に相当するクラウンが我々の手元にあります」
ライアンは窓辺に立ち、遠くを見つめた。
「まだ始まったばかりだ。本当の効果はこれからだろう」
***
3ヶ月後、アグラリア王国内の状況は急速に悪化していた。
「クラウンの価値が40%下落しました」
エレナが最新の情報を報告した。
「アグラリア政府は原因を特定できず、混乱しているようです。彼らは『戦争による一時的な経済混乱』と発表していますが、すでに市民の不満が高まっています」
ソフィアが財務データを示した。
「特に軍への影響が顕著です。兵士たちの給料が実質的に半減し、脱走者も増加しているとのこと。前線への物資調達も困難になり、北部での攻勢は明らかに鈍化しています」
マックスウェル伯爵からも朗報が届いた。敵軍の士気低下と補給難により、サーディス軍が優位に立ち始めているというのだ。
「経済戦の効果は予想以上ですね」
エドモンドが感嘆の声を上げた。
「わずか3ヶ月で敵国経済を揺るがすとは」
「これは始まりに過ぎない」
ライアンは冷静に述べた。
「次の段階では、アグラリア国内の商工業者に直接働きかける。『戦争終結を求める市民運動』を密かに支援するのだ」
彼の計画は、単なる経済攪乱を超え、敵国の社会構造そのものを内部から崩壊させることを目指していた。
***
5ヶ月後、アグラリア王国の首都カレンティアでは反戦デモが発生した。商人や職人、さらには一部の下級貴族までもが参加し、「無意味な戦争を終わらせよ」「経済破綻を止めよ」と訴えていた。
クラウンの価値は当初の半分以下に落ち込み、一部の市場では受け取りを拒否する商人まで現れ始めていた。軍の給与支払いも滞り、食料や装備の不足から前線の士気は地に落ちていた。
サーディス王宮では、この状況を受けた臨時会議が開かれていた。
「アグラリア王国から和平の打診がありました」
外務卿が報告した。
「彼らは『双方の利益となる条件での停戦』を望んでいるようです」
国王が満足げに頷いた。
「我が軍も多くの犠牲を払ってきた。公正な条件での和平は歓迎すべきだろう」
王太子エドワードがライアンに視線を向けた。
「この成果は、君の『経済戦』の勝利と言えるだろう。剣ではなく金貨で敵を屈服させたのだ」
「過分なお言葉です」
ライアンは謙虚に頭を下げたが、その目には確かな自信が宿っていた。
会議後、国王は特別にライアンを呼び、直々に褒賞を与えた。
「北部の魔鉱石鉱山の採掘権10%を君に与える。これは王国最大の富の源泉だ」
「陛下の御厚意に深く感謝します」
「さらに、和平交渉の経済顧問としても参加してほしい。有利な条件を引き出すためには、君の知恵が必要だ」
これは予想外の展開だった。一商人が国家間の和平交渉に参加するのは前例のないことだ。ライアンの影響力は、もはや経済分野を超え、王国の外交政策にまで及ぼうとしていた。
***
しかし、成功にはしばしば危険が伴う。
王宮を後にしたライアンが商会に戻ると、ガルドが緊急の報告を持って待ち構えていた。
「危険な情報が入りました」
彼は声を潜めて言った。
「アグラリアの秘密情報部『黒鴉』が、あなたの暗殺を計画しているとの情報です」
「黒鴉?彼らは実在したのか」
ライアンは眉を上げた。
「はい。アグラリア王室直属の暗殺部隊です。通常はその存在すら否定されていますが、確かな情報源からの報告です」
「具体的な計画は?」
「数名の刺客がすでに王都に潜入しているようです。彼らは『経済戦の主導者』であるあなたを標的にしています」
ライアンは窓の外を見やり、静かに言った。
「予想していたことだ。敵を倒しつつあるということの証だろう」
「警護を強化すべきです」
「もちろん。しかし、それだけではない」
ライアンの目に冷たい光が宿った。
「この機会を利用して、アグラリア情報部の組織を壊滅させる。刺客を捕らえ、彼らの組織網を探り出すのだ」
「罠を仕掛けるわけですね」
「そう。敵の攻撃を利用して、逆に打撃を与える」
彼はエドモンドとエレナを呼び、緊急の対策会議を開いた。単なる防衛ではなく、積極的な反撃計画が練られていった。
***
その夜、王都の高級住宅街にあるライアンの邸宅は、普段より静かだった。使用人たちは早めに休み、門番も数人しか見当たらない。館の明かりもまばらで、主人が不在かと思わせる雰囲気だった。
しかし、それは罠だった。
邸宅の周囲には、ガルドが率いる精鋭の護衛隊が潜んでいた。さらに、王太子の命令で王国特務隊の一部も配置されていた。館内の「使用人」たちも、実は訓練された護衛だった。
真夜中過ぎ、予想通り侵入者の姿が確認された。黒装束の男たちが、驚くべき身のこなしで邸宅の壁を乗り越え、窓から侵入しようとしていた。
彼らは見事な連携で館内に潜入し、主寝室へと向かった。ドアを静かに開け、ベッドに横たわる人影に近づく。刃物が月明かりに反射した瞬間—
「動くな!」
四方から一斉に明かりが灯り、武装した護衛たちが現れた。ベッドの人影は単なる人形だった。
「アグラリア王国黒鴉部隊、お前たちを逮捕する」
暗殺者たちは一瞬驚いたが、すぐに反撃に転じた。彼らの動きは超人的で、普通の護衛なら太刀打ちできないほどだった。
しかし、ライアンの用意した罠はそれだけではなかった。部屋の床に仕掛けられた特殊な魔法陣が発動し、侵入者たちの動きを鈍らせる。それは魔鉱石の力を利用した、新型の拘束術だった。
短い激闘の末、5人の暗殺者のうち3人が生け捕りとなり、2人は自害した。
「見事な罠でした」
作戦の全容を見ていた王国特務隊長が感嘆の声を上げた。
「あなたは初めから彼らの侵入を予測し、完璧な対策を講じていました」
ライアンは冷静に応じた。
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず。これは単なる論理的帰結です」
彼は捕らえられた暗殺者たちを見下ろした。
「彼らを厳重に尋問してほしい。アグラリアの情報網を根絶するチャンスだ」
しかし、ガルドが不安げに近づいてきた。
「生け捕りにした3人のうち2人がすでに死亡しました。毒入りの歯を噛み砕いたようです」
「そうか…」
ライアンは残された1人に目を向けた。青白い顔をした若い男だった。
「彼から情報を引き出せるか?」
「困難でしょう。黒鴉の訓練は徹底しています」
「だが、全てを知らずに送り込まれた下級構成員のはずだ。彼の知る情報は限られているだろうが、それでも価値はある」
ライアンは静かに言った。
「尋問は私に任せてほしい。経済的アプローチで試してみる」
***
翌朝、この暗殺未遂事件は王都中に広まった。国王は激怒し、アグラリア王国への非難声明を発表。和平交渉の条件も厳しくなる見通しとなった。
しかし、ライアンにとって、この事件は新たな機会でもあった。彼の名声はさらに高まり、「経済戦の英雄」として市民から熱狂的な支持を受けるようになったのだ。
国王も臨時の会議を開き、ライアンの安全確保と権限強化を決定した。
「我が国の勝利に不可欠な人物だ。あらゆる手段で守らねばならない」
しかし、ライアン自身は平然としていた。彼の計画は、この暗殺未遂さえも見越していたかのようだった。
「一時的な混乱に過ぎません」
彼は国王に静かに言った。
「むしろ、これを機にアグラリアへの経済戦をさらに強化しましょう。彼らの焦りは、我々の戦略が成功している証です」
それは、生命の危機さえも自らの計略に組み込む冷徹な戦略家の言葉だった。ライアンの目には、次なる戦略が映し出されていた。通貨操作から始まった経済戦は、いよいよ最終段階に入ろうとしていた。
(第23話 完)
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