【完結】間違って地獄に落とされましたが、俺は幸せです。

白井のわ

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あともうちょっとだけ、右にズレてくれていたのなら……

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 すっかり汗をかいてしまった、グラスの水を一気に流し込む。

 ふんだんに使われている、レモンのお陰だろう。生クリームとメイプルシロップで甘ったるくなっていた口の中が、さっぱりした。

「失礼致します」

 さすがというかなんというか。

 気配り上手な彼ことバアルさんは、俺がピッチャーの方をちらりと見ただけで、流れるような動作で空のグラスに水を注ぎ、ふわりと微笑んだ。

「……ありがとう、ございます」

 正直、心臓に悪い。

 いつもの青いシャンデリアではなく、自然光によって淡い光を帯びた、眼差し。いくつもの六角形のレンズで構成された、鮮やかな緑の複眼が細められただけでも、顔に熱が集まっていくのが分かる。なのに、綺麗に整えられた白い髭が似合う、彼の温かい笑顔は抜群だ。俺にとっては。

 ただでさえ、ほんの少し前の食べさせ合いっこで、ドキドキしっぱなしだった俺の心臓を鷲掴んで離さない。

 ……気をしっかりもたないと。少しでも抜いてしまえば、あっという間にだらしなく頬が下がってしまいそうだ。

「アオイ様」

「は、はい。なんですか? バアルさ……」

 緑の瞳とかち合ったのと、白い手袋に覆われた指先が、俺の顎を持ち上げたのは、ほぼ同時だった。

 やっぱりカッコいいな……

 ゆっくり近づいてくる彫りの深い顔立ちに、つい見惚れてしまっている内に、何か柔らかいものが口の端ギリギリに触れてから離れていった。

「失礼、クリームがついておりましたので」

 なんでもなかったかのように、バアルさんは、穏やかな低音で淡々と、先程の行動についての理由を述べた。

 その長い指で、テラス席を吹き抜ける風によって弄ばれた俺の髪を、梳くように整えてくれてから、ゆるりと目を細める。

「ああ、ありがとう……ござい、ます……」

「いえ」

 柔らかい笑みを湛え、短く応えたバアルさんは、何だか上機嫌そう。かっちりと撫でつけれた、オールバックの生え際に生えている触覚を揺らしたり、背にある半透明の羽をはためかせてはいる。

 とはいえ、その表情は至っていつも通り平静そのもの。だから一瞬、俺自身も流そうとしていた。

 ……なんだ、クリームか。

 パンケーキの最後の一切れ、結構大きかったもんなぁ。わざわざ取ってくれたのか、優しいなぁ……

 勿論、流せるハズがなかったのだけれど。それどころか冷静になればなるほど、彼の行動を反芻してしまったのだけれど。

 いやいやいや、いやいやいや……今の口で、だっただろ……

 く、唇で直になんて……そんなの、ほぼキスじゃないか。実際ちょっと触れちゃったし……

 今までは、手だったり額とか頬だったけど。いや、それだけでも、してくれるだけでも十分嬉しかったんだけどさ。

 さっきのは、ヤバイ。胸がいっぱい過ぎて処理できない。なんか目の奥が熱くなってきてるし。

 ……いや、落ち着け、冷静になれ。

 バアルさんは俺の為に、俺が恥をかかないように、クリームを取ってくれただけなんだから。でも……

 もう、あとちょっと、ほんの少しだけでも右にズレてくれていたらなぁ…………って何を考えているんだ。俺は。

「アオイ様」

「ひゃいっ」

 世話好きな彼のご厚意に対して、不純な気持ちを抱いてしまったせいだ。

 声が盛大に裏返るどころか、二人がけのベンチが音を立てて揺れるほど、全身を跳ねさせてしまった。

「午後からのご予定は、いかがなさいますか?」

 明らかに挙動不審な俺に対して、優しい彼は特に追求するわけでもなく、両手で俺の手を包み込んで握りしめ、顔を覗き込むように首を傾げる。

「貴方様さえ宜しければ、城内の散策などいかがでしょう?」

 いまだ思考回路が熱を持っているせいで、返事もまともに出来なかった。そんな俺の代わりにしてくれた、彼からの魅力的な提案に、ようやく浮かれまくっていた脳内が少し冷静さを取り戻した。
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