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409号室

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第十四話 別れのご挨拶 Farewell greetings

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私はずっと誰かに見られているような……嫌な視線を感じていたのです。

そう。

何かまとわりつくような嫌な……ぞっとするような視線です。

父は気のせいだって笑っていました。



でも、気のせいなんかじゃなかったのです。

あの人は、突然私の前に現れました。

そう……あれは父の葬儀の日でした。



あの人は、ずっと私を見ていたといっていました。

そして、私は……その日のうちに……あの男に犯されました。

私、怖くて……怖くて……。

私、ふと思ったんです。

まさか、父を殺したのも……。



私が思わず問いかけると、あの人、ただ笑っていました。



えっ……。結婚?

はい……。結婚するのは事実です。

あ、ありがとうございます。

まさか、刑事さんから祝福されるなんて……思ってませんでした。

あの……私があの男にされたこと……あの……彼には……。

え……。言わないでいてくれるんですか?

ありがとうございます……。

え?あの人が私の結婚を知っていたか?

ええ。もちろん……知っていたようです。

最後の電話の時、あの人は、私が結婚することにひどく怒っていました。

あの日、あの人と決着をつけなければと思ったんです。

それで、あの人の部屋に行きました。

私が行くと、彼はなんだか上機嫌でした。

私、不思議に思って聞いたんです。

そしたら、私の結婚祝いにワインを買ってきたって……。

あの人は最後にお別れのワインを飲もう。そういったんです。

いつもの怖い顔じゃなくて、すごく穏やかな顔でしたから、私……少し安心したんです。

でも、やっぱり怖くて……。

私、断ったんですが、それを飲んだらもう絶対に付きまとったりしないから、約束するからと真剣な顔で言ったものですから。

そして、渋々ワインを飲んだんです。

そして……それからは何も覚えていません……。







終った。

すべて終った。

目覚めた時、私はゲームの勝者となっていた。



「美人女子大生とストーカー男が無理心中!?」

「哀れなストーカー狂気の末路、無理心中失敗し、逮捕」



新聞に躍る記事。

看護婦が

「大変だったわねえ。可哀想に……」

と口々に声をかけていった。

あの男は塀の中。

もう、私を束縛するものはない。

私は……勝ったのだ。

「瀬良ちゃん。具合はどう?」

病室には、千華さんがお見舞いに来てくれた。

「うふふ……お花持ってきたのよ。植物は心を和ませてくれるわ」

「ありがとうございます……。千華さん」

「瀬良ちゃん、今回は本当に大変な目にあったわね」

「はい……」

「もう大丈夫よ。あなたは、何にも心配しないで、氷上先生と幸せになるのよ?」

「はい……ありがとう……千華さん……」

「ね……?」




笹山千華手製のフラワーアレンジメント(今日はかなりの大作だった)を見上げ、氷上は声を上げた。

「綺麗な花束ですね。これがフラワーアレンジメントですか」

「ええ。式場に飾って頂こうと思いまして。私がお祝いとして贈ることができるのはこんなものぐらいしかないですわ」

「いやいや、実に素晴しい」

「ありがとうございます。……いよいよ明日ですわね。ご結婚」

「そうですね。イマイチ、実感は湧きませんが……」

「うふふ……瀬良ちゃんのウェディングドレス姿、本当に綺麗でしたわ。早く先生に見て頂きたいわ」

「そうですか……楽しみですね」

「本当に可愛い花嫁」

そう千華は視線を落とした。

「私が……あの子だったら良かったのに……」

「笹山君」

「何も言わないで!!」

普段冷静な彼女の剣幕に、氷上は身体を硬直させた。

「今の私に優しい言葉はかけないで下さい」

重い沈黙が二人を支配した。
やがて、千華がぽつりと口を開いた。

「先生、幸せになって下さいね」

「え?ええ」

「そうしたら、私もきっと幸せになれますわ。愛するというカタチはひとつではありませんものね」

「笹山君……」


「ね?先生。あの子と幸せになって下さいな。私は幸せな顔をしたあなたを見ているだけで、きっと幸せになれるから……。私を幸せにして下さいましね?」







瀬良への疑惑は大きくなるばかりだった。



馬鹿な……瀬良にはアリバイがある。

だが……もし、もしこのアリバイが崩れたら?

「うっ……」

「十夜……どうしたの?」

背後から母が声をかけてきた。

「頭が痛くて……」

「いけないわね……。風邪でも引いたんじゃないの?」

母はそっと僕の額に手を当てた。

ひんやりと気持ちがいい。

「熱は……ないようね。でも、一応、風邪薬……飲んでおきなさい」

「あ……うん……」

僕は常備薬の中から風邪薬を取り出した。

風邪……薬……?

まさか……。


僕の頭の中に、急速にある仮説が組みあがっていく。

僕はそれが間誤いであることを祈った。







どれだけこの日を待っていたのだろう。

鏡の中の私。

白いウェディングドレスを着た私。

まるで、幼い頃に憧れた、おとぎ話の中のお姫様みたい。

控え室で私は先輩たちの訪問を受けた。

「うわっ!眩しいぜ!先生、羨ましすぎるぞ!」

「瀬良ちゃん!綺麗ね~。ほんと、綺麗!!早く。先生に見せてあげたい!」

水沢先輩は涙ぐんでさえいた。

私はふと自分の心の中に感じたことのない暖かさが広がるのを感じて、ふっと目頭が熱くなった。

私にお姉さんがいたら、こんな感じなんだろうか。

「やだ、瀬良ちゃん。泣いちゃだめよ!せっかくのお化粧、取れちゃうでしょう?

まあ、瀬良ちゃんはメイクなしでも十分綺麗だけどね」

「先輩……」

「そう言えば、十夜の奴来てないなあ~。なんだ~?大事な恩師の結婚式に遅刻する気か?」

私がそっと目頭を押さえると、水沢先輩が立ち上がって、

「さあ、男共は行った行った~!!まだ花嫁は準備があるのよ~。こ~ら!雪定君、未練がましい顔するんじゃないの!」

と雪定先輩をどついた。

「ちぇっ!うるせえなあ~。水沢~。お前、絶対嫁の貰い手ねえぞ!」

「うるさいわね!つべこべ言わないで行くの!じゃあね。瀬良ちゃん。式場で待ってるわ」

水沢先輩がウインクしてそっとドアを閉めた。

急に静まり返った室内。

そっと深呼吸。


私は幸せになるの。

愛する人と一緒に。


ねえ?お父様。ご覧になって。

私は今。

あなたの亡霊を乗り越える。

そして、永遠の自由を。



「ね?お父様」


私がそっと鏡に笑いかけると、ドアが小さく開いた。

「先輩?何か忘れ物ですか……?」

振り返ると。そこには……。



「よお。綺麗じゃねえか……。瀬良?」



あの男が立っていた。



嘘……。

どうして……。



「どうしてって顔しているな?無理もない。そこのテレビ、付けてみろよ」

私は凍りついたように動けなかった。

新島はめんどくさそうに私の横をすり抜けると、テレビの電源を入れた。

旧式のテレビは耳障りな音を立てて、ゆっくりと画面を映し出した。

そこに現れたのは……



「殺人犯、護送中に逃亡」



「な?いつの間にか殺人犯にされちまっていたよ。君のおやじさんを殺したな。

お前も大した女だな。恐れ入ったぜ?俺はお前のことを征服し、手のひらの上で転がしているとばっかり思っていたが、

実際は俺の方がお前に踊らされていた」

「な……何のことかしら?言っている意味が……わからないわ……」

私は本当にわからなくなっていた。

目の前に起こった状況を信じられなくて。

これはきっと悪い夢なのだ。

そうだ……夢……。

早く……醒めて……。

お願い……。



だが、男が私を掴んだ痛みは、紛れもなく現実のものだった。



「瀬良……お前は俺の女なんだぜ?」

男が私を抱き寄せた。男の荒い吐息が首筋にかかる。

「結婚なんてさせるもんか……。お前は俺と一緒になるんだよ。永遠にな」

真珠のネックレスが飛び散った。

きらきらと雫のように……。

「き……きゃああああああっ!!」

「俺のものだ……。全部俺のものだ。お前のその唇も……」

「んっあっ……!」

男は私の首筋に噛み付いた。

「きゃあっ!痛い!!」

耳元でドレスの裂ける音が響いた。

「い……いやっ……いや……」

ドレスが……。

「この身体も……」

「やっ……あっ……」

何かが小さな音を立てて、床に転がった。

それはティアラだった。



いや……

どうして……。

赦して下さらないの?



お父様……



花嫁に……。

花嫁……。

私は……



秀一さん

助けて



手を伸ばすと、何かが……何かが……私の手にぶつかった。

それは灰皿だった。

大きな琥珀色の灰皿だった。

私は思いっきりそれを振り下ろした。

脅迫者の脳天に。

鈍い音が響き、私の顔に生暖かいものが大量に降り注いだ。

ドレスが朱に染まっていた。



赤い……

紅い……



なんて……綺麗……。



男は永遠に動くことの叶わない「無機質」と化していた。



行かなくちゃ……。

秀一さんが待っている……。



その時、テーブルの上で、携帯が泳いでいた。



え……。

携帯?



血糊のついた手で携帯を開くと、そこには。



「お話が、あります。

第三研究室にて待っています。

 藤代十夜」



行かなくちゃ……。



もうすぐ、最後の審判が訪れる。



きっと……私は。



私は男の屍を踏みつけると、ふらふらと外の光に吸い込まれた。







私はゆっくりとドアを開けた。

中では私たちを祝福する人々が沢山。

彼らは私を見ると、凍りついたように言葉を失っていた。



どうしたの?



誰かが叫んでいる。

血……血だ……。

誰かが悲鳴を上げている。

耳障りな黄色い声で。



うふふ……。

そんなに血が珍しいの?

馬鹿ね。

あなたにだって流れているじゃないの。

それに、あなた方には用がないわ。



秀一さん。

どこ?

ああ……。そこにいらしたのね?

うふふ……。

見て。

私、綺麗でしょう?

誰よりも、あなたに見て欲しかったのよ。

いやだ……。

そんな顔……なさらないで。



これが最後の御挨拶なのだから。



秀一さん。

愛していました。

でも、私は、もうあなたの花嫁にはなれない。

ごめんなさいね。

私のことは、忘れて下さい。



私は小さく唇を動かした。



「さようなら……」







花嫁が現れた瞬間、会場は静まり返った。

祝福の声をかけるものは一人もいなかった。

すべての人々が、その血塗れの花嫁の姿に呑まれていた。

彼女は狂気にも似た美しさで、その場をさらっていた。

その天使のような微笑みで。

誰もがその美に圧倒されていた。

赤い天使に魅了されていた。

天使は会場に視線を泳がせていた。

誰かを探しているようだった。

ぱっと彼女の顔が明るくなった。

「瀬良……」

年の離れた花婿は、そんな花嫁をただ見つめていた。

少女は嬉しそうに、満足そうにドレスの裾を翻すと、にっこりと微笑んだ。

子供のような無邪気な微笑み。

彼がふらふらと少女の方に歩き出すと、彼女の唇がゆっくりと動いた。



「さ よ う な ら」



少女は今度は寂しげに微笑んだ。

胸の締め付けられるような笑み。



少女は光に溶けて消えていた。



「瀬良あああぁっ!?」



教会では取り残された花婿の慟哭だけが反響していた。
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