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07. 発作
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遥香が、自身についての簡単な事情を説明して、美行とメッセージのやりとりをするようになってから一ヶ月ほど過ぎた頃。学校では新学期が始まっていた。
始めの数日はなんの問題もなく過ぎていた。
けれど、九月のある日。
遥香は学校で熱を出した。
朝、家を出る時にはいつも通りだった。登校してから、少しずつ熱が上がり始めたようだった。
「遥香。とりあえず保健室に行こう」
三時間目の授業が終わって、見ていられなくなった諒也が強制的に遥香を保健室へと連行する。その頃にはもう、諒也に支えてもらわないと歩けないくらいには具合が悪くなっていた。
保健室のドアを開けると、そこでこちらを振り向いたのはいつもの男性の保健医ではなかった。
「……あれ?」
思わず呟いた諒也の声につられるように遥香が視線を上げる。その初めて見る人物の姿を認めた途端に、諒也の腕の中で身体をこわばらせた。
「いつもの先生は……」
「今日は出張で、私が代理です。気分が悪いのかしら?」
簡潔な言葉をさばさばとした口調で発するのは、白衣を身にまとった女性。年齢で言うなら遥香や諒也の母親といっても差し支えがないくらいには歳を重ねた、いかにもベテランといった雰囲気を纏って穏やかに笑う中年の女性だった。
「彼が、熱を……」
諒也に支えられている遥香は、保健室を訪れてからの方が明らかに顔色が悪かった。視線がさまよう。
そんな遥香を見て、代理だという女性は納得したように頷いた。
「なるほど。では、念の為に検温を」
差し出された体温計を受け取り、諒也は遥香を座らせて検温する。
ほどなくして電子音が鳴り、デジタル体温計が表示した数字は、38.2度。平熱が35度ほどの遥香にとっては高熱だ。
「動けるようなら、帰宅した方が良いのだけど……」
言いながら遥香に近寄ろうとした女性に、ビクリと怯えを見せた遥香。その様子に、彼女は素早く気付いて動きを止める。
「付き添いの君、彼をベッドに寝かせてあげて。それから、病人の彼の名前と、クラス担任の名前を教えて」
「篠宮遥香です。担任は、水沼先生ですが……」
「分かった。少し席を外すけれど、大丈夫ね?」
最後のそれは、問いというよりは確認のようだった。おそらく、水沼に知らせてくれるつもりなのだろう。
そして、諒也が遥香のことで譲るはずもなく。力強く頷いた。
「はい」
諒也の返答を確認してから保健室を出ていく女性を見送り、諒也は遥香をベッドへと誘導する。
遥香を寝かせて、布団をかけてやって。とりあえずベッドのそばに座るために椅子を持ってこようとした諒也の腕を、遥香が掴んで引き止めた。
「遥香?」
「どこ、いくの……?」
熱のせいか焦点の合わないような潤んだ瞳で、諒也を見上げる。
不安をあらわにしたその表情に、諒也の方が戸惑った。
「いかな……で……」
熱い吐息とともに漏らされた、遥香の願い。
その言葉を。諒也が拒絶できるはずもない。
「大丈夫だ、遥香。ここに、いるから」
穏やかにゆっくりと言い聞かせるように。
いつものように髪を優しく撫でると、遥香はあからさまにほっとした様子で小さく吐息して、そっと瞳を閉じた。
熱のせいだけではなく、何かがいつもと違った。
なんだろう、と諒也が思った瞬間、保健室のドアが開いて水沼が姿を見せる。
「緒方、篠宮の様子はどうだ?」
付き添う諒也に近付いて、遥香を起こさないように気遣ってか小声で囁くように聞く。
「熱が高いです。もともと丈夫な方ではないので、心配ですね……」
諒也の言葉に、水沼は神妙な表情を浮かべて唸るように頷く。
「そうか……。今、篠宮の自宅に連絡してきたんだが、お姉さんがすぐに迎えに来るそうだ」
「……静香さんが?」
なぜ静香が平日のこの時間に自宅にいたのか、という疑問が浮かぶけれど。それを水沼に聞いても、答えが返ってくるはずもない。
「緒方も、心配なら一緒に帰るか?」
そう言いながら、水沼は教室から持ってきたらしい二人分の荷物を、諒也に差し出す。
「先生、これ……」
渡された荷物は、遥香と諒也のもので。受け取りながら、少し唖然としてしまう。
「必要になるだろうと思ってな。付き添って帰るんだろう?」
何もかもお見通しなのか。苦笑しつつ続けられた言葉に、教師らしからぬものを感じてしまう。
「いいんですか……?」
「いや、本当はダメなんだぞ。今回は特別だ」
他の先生方には内緒だぞ、と言いながら諒也の早退も容認する水沼も、なんだかんだ言って遥香のことを気にかけ、心配してくれているのだ。
諒也は、水沼の厚意に素直に甘えることにする。
「……ありがとうございます」
静香が学校を訪れたのは、それから本当にすぐのことだった。
他の教員に案内されてきた静香は、女性の保健医代理の姿を認めると一瞬だけ複雑そうな表情になったように見えた。ぺこりと頭を下げる静香を、諒也が呼ぶ。
「静香さん、こっち」
「……遥香?」
急いで遥香のそばに寄り、顔を覗き込んで呼びかける静香の声に反応して、遥香がうっすらと瞼をあげる。
「…………」
遥香は何かを言おうとしたけれど、唇からは吐息が漏れただけだった。
「遥香、歩けるか?」
促されて遥香はのろのろと身体を起こす。ベッドの端に座って両足を下ろし、そのまま立ち上がろうとするけれど、力が入らずに床にへたりと座り込んでしまう。
「……遥香」
へたり込んだ遥香のそばに膝をついて、諒也は遥香の両腕を自分の首に回すようにして縋らせる。
「つかまってろよ」
言いながら、熱っぽい華奢な遥香の身体をふわりと抱き上げる。
半ば意識のない遥香は、反射的にその諒也の肩に額を押し付けた。
そのまま水沼たちに挨拶をして、静香が荷物を持ち移動する。
静香は車で来ていた。
諒也は後部座席に乗り込み、静香が準備してきていた毛布で遥香の身体を包むようにして抱きかかえる。遥香の身体に負担にならないように、静香はゆるりと車を発進させた。
「静香さん。今日、俺もそっちに泊まっていい?」
遥香を市村宅の方へ連れていくのだろうと踏んだ諒也からの申し出に、静香が困ったように吐息した。
「ダメよ。きちんと遥香を連れて帰りなさい」
「……え?」
それがどういう意味なのか、諒也には一瞬わからなかった。
「今日はね、私がそばにいない方がいいと思う」
だからいつも通りに二人で帰りなさい、と。
運転中だからこちらを見ることはなかったけれど、静香が少し寂しそうに笑った気配がしたのが諒也にも伝わってくる。
「どうして……」
諒也の疑問が口をついて出ると、静香はほんの少しだけためらって、そして続ける。
「……明日、何の日か知ってるよね」
「……遥香と静香さんのご両親の命日だよね」
「そうよ。じゃ、明後日は?」
「遥香の誕生日……」
「そうね」
吐息しながら、静香は慎重に言葉を選んでいるように見えた。
「遥香の、これはね。……風邪とか、そういう病気ではないと思う」
諒也は、その静香の言葉を反芻して眉をひそめた。
「遥香がこの時期に毎年体調崩すのって、ただの偶然じゃなかったってこと……?」
静香は、風邪ではないと言った。では、他になにか要因があるのか。
諒也が気付いたのは、ここ数年。同じ季節の頃合いに体調を崩すなぁ、と。その程度だった。
けれど、よくよく思い返してみれば、毎年、遥香の両親の命日の前。正確には前日。
つまりは『今日』だったのではなかったか。
「静香さん」
「ごめんね、諒也。これはまだ憶測でしかないから、私からは何とも言えない」
「…………?」
静香のあやふやな答えに、なにやら納得はできなかったけれど。苦しそうにつらそうに言う静香に、それ以上の追求はできなかった。
腕の中、熱い吐息で呼吸を繰り返す遥香を、諒也はぎゅっと抱きしめた。
そして。
その日の夜だった。
緒方家の、今では遥香の部屋となったゲストルームの、ベッドの上で。
ふっと目を開けた遥香は、人の気配に気付いて身体をこわばらせた。
「……遥香」
部屋の明かりはつけていなかった。いつも通り、ベッドサイドのライトだけ。
ずっと付き添っていた諒也が、遥香の様子に声をかけるけれど。
薄暗い部屋の中で相手が分からないのか、目覚めたばかりで寝ぼけているのか。それとも、熱のせいで意識が朦朧として諒也を誰かと間違えているのか。
「い……や……」
ガタガタと震える遥香は、明らかにおかしかった。
「遥香?」
心配して伸ばされた諒也の手を、遥香が力なく振り払う。
「やめ……、こない……で……」
華奢な身体を庇うようにして上半身を起こし、ベッドの上で諒也から遠ざかろうとしている。怯えている。何に?
焦点の合っていない遥香の瞳から涙が零れた。
「遥香!」
不安定にぐらりと傾いた遥香の身体を支えようとした諒也の腕に、頼りない身体がビクリと揺れる。
「さわらないで!」
初めて投げつけられた強い拒絶の言葉に、諒也の鳶色の瞳に一瞬だけ傷付いた色が浮かぶ。
遥香は両腕で自分の身体を抱きしめてベッドの隅で壁に身体を押し付けて、小さくうずくまるようにして座る。その黒曜石の瞳からはとめどなく涙が溢れ、細い身体はカタカタと小刻みに震え続ける姿は痛々しかった。
その、尋常ではない遥香の様子に、諒也はどうしていいのか分からない。
「いやだ、やめて……たすけて……」
遥香の声は、掠れて震えていた。
「……遥香……」
怯える遥香に、諒也はできるだけ穏やかに呼びかける。
「や……いや……」
震え続ける遥香の瞳は、諒也を映していない。錯乱している。
ここにはない、何かに怯えている。
違う。誰か、に。
それに気付いた諒也は、今度は強引に遥香の身体を引き寄せようとした。
グイと伸びてきた腕に、遥香の身体はビクリと大きく震えて必死で抗おうとする。
「いやぁぁぁっ!」
迸った絶叫。
諒也には遥香が怯える『誰か』が分からない。だけど、このままにはしておけなかった。
華奢な身体は容易に抱き込まれながら、それでも諒也の腕から逃れようと遥香は暴れる。
「やだ……っ!」
高熱と恐怖で震え続ける遥香の身体を抱きしめて。
「大丈夫だから。遥香。何もしないから」
宥めるように、耳元で優しく繰り返す。何度も。
「ごめ……な…さ……、ごめん……なさい……」
引き攣れる声で喘ぐように繰り返される謝罪の言葉に、諒也は心が痛くなった。
『誰』だ。『誰』が遥香をこんなに追い詰めた。
「たすけて……」
「大丈夫。大丈夫だ、遥香」
何度も、何度も。
優しく背中をさすりながら繰り返す諒也の言葉は、遥香には届いていないのか。
「……なん…で……」
遥香の瞳はどこか遠いところを見つめたまま。はらはらと零す涙を拭うことすらできず。
「ど……して、うんだ…の……」
紡がれた言葉。
その、意味に。気付いた諒也の動きが止まる。
「……いっそ、……ころして……」
「…………っ!」
続けて絞り出された遥香の声に、今度こそ息をのんだ。
その瞬間、遥香は緊張がピークに達したのか。ガチガチだった全身からふっと力が抜けて、カクリとその身の全てを諒也に委ねるように意識を手放した。
気を失った遥香をもう一度ベッドに寝かせ、人の気配に気付いた諒也が階下に降りると、そこには静香の姿があった。
驚きはしない。遥香との同居を始めた時に合鍵を渡してあったし、夜に様子を見に来るとも言われていた。
「静香さん……」
驚きはしないが、なんとも言えない表情で諒也が彼女を見れば、静香は少し困ったように微笑した。
「ごめんね……びっくりしたでしょ」
その言葉が何を指すのか瞬時に理解できる。
「あれでも、かなりマシには……なったのよ」
「あれで?」
小さく吐息しながら、静香が曖昧に笑う。
「理由は分からないの。遥香は何も言わないから。私に言えるのは、遥香のあの発作が始まったのが、両親が亡くなった次の年だったということ」
「…………」
「情けないでしょ。弟が抱えてる苦しみの、ほんの欠片もわからないなんて」
静香は言葉を重ねる毎に悔しそうな表情になってゆく。
「守ってるつもりで、本当は全然守れてないの。遥香は、本当の意味で弱い部分は私には絶対に見せてくれない……」
静香の様子から、先ほど遥香がこぼした言葉を聞いたことがないのだろうと推察した。きっと、遥香がギリギリのところで貫き通した、これは意地だ。大切な姉に心配をかけたくない、そんな思いが根強くあるのだろう。
だから、諒也は遥香が貫いた意地を、尊重する。静香には申し訳ないとは思うけれど、遥香のあの言葉は、まだ、諒也の中に止めておく。
「お願い、諒也……」
そんな言葉を静香に言われるのは初めてで。
「お願いだから、遥香を助けて……。私には無理だった、できなかった。たぶん……これからも出来ない……。だから、諒也お願い。遥香を、救って……」
言い募る静香は泣きそうな顔をしていて。そんな彼女を諒也は初めて見た。
本当であれば、遥香と諒也の同居はもっと早くに実現していたはずだった。それこそ、静香と知則が結婚してすぐにでも。
事前に、諒也の方から打診はしていたのだ。
それを拒んだのは静香だった。
ブラコンの静香が弟離れできなかったこともある。でもそれだけではなく、遥香のそばで彼のために出来ることをしたいと、静香が強く願っていたから。
遥香のために、できるだけのことをしたかった。遥香の心を、救いたかったのだ。
だけど、静香にはできなかった。
遥香の心は、まだキズを抱えたまま。膿を出し切ることもできずに。静香にできることは、もうなくなってしまったのだと思った。
だから、静香は諒也に託した。
新婚旅行に出発する前夜。
それは、遥香が自室に戻ってから。静香は諒也に言った。同居を許す代わりに条件がある、と。
決して遥香を傷付けないでほしい。泣かせるなとは言わない。ただ、遥香を裏切るようなことは絶対に許さない、と。
それだけを条件に。あの日、あの時。静香は、諒也が遥香と同居することを承諾した。
その時よりずっと前から、静香はいつでも二人を見守ってきたのだ。諒也になら任せられる。そう判断した。
「静香さん……?」
「お願い……」
瞬きと共に、静香がギリギリで堪えていた涙がぽろりと零れ落ちる。
遥香とよく似た泣き方。
二人が大切に大切に思う存在である遥香とそっくりな泣き顔に、諒也はどう反応したら良いのか分からない。
「頼むから、その顔で泣かないで……」
困り果てた諒也が訴える。
遥香に激甘な諒也は、遥香に泣かれるのが苦手だ。泣き顔も綺麗だけれど、やっぱりいつも笑っていてほしいと思う。
そんな幼なじみと同じ顔で泣かれたら、どうすればいいのか分からない。
「俺は……遥香のためになるのなら、何でもする」
それこそ、言われなくても。どんなことでも。
結局は、静香の願い通り。
遥香が幸せになることが、遥香が笑っていてくれることが、諒也の望みなのだ。願わくば、その隣には常に自分が在りたいと思いつつ。
諒也は、遥香に見せるのと同じように、穏やかに微笑んで見せた。
始めの数日はなんの問題もなく過ぎていた。
けれど、九月のある日。
遥香は学校で熱を出した。
朝、家を出る時にはいつも通りだった。登校してから、少しずつ熱が上がり始めたようだった。
「遥香。とりあえず保健室に行こう」
三時間目の授業が終わって、見ていられなくなった諒也が強制的に遥香を保健室へと連行する。その頃にはもう、諒也に支えてもらわないと歩けないくらいには具合が悪くなっていた。
保健室のドアを開けると、そこでこちらを振り向いたのはいつもの男性の保健医ではなかった。
「……あれ?」
思わず呟いた諒也の声につられるように遥香が視線を上げる。その初めて見る人物の姿を認めた途端に、諒也の腕の中で身体をこわばらせた。
「いつもの先生は……」
「今日は出張で、私が代理です。気分が悪いのかしら?」
簡潔な言葉をさばさばとした口調で発するのは、白衣を身にまとった女性。年齢で言うなら遥香や諒也の母親といっても差し支えがないくらいには歳を重ねた、いかにもベテランといった雰囲気を纏って穏やかに笑う中年の女性だった。
「彼が、熱を……」
諒也に支えられている遥香は、保健室を訪れてからの方が明らかに顔色が悪かった。視線がさまよう。
そんな遥香を見て、代理だという女性は納得したように頷いた。
「なるほど。では、念の為に検温を」
差し出された体温計を受け取り、諒也は遥香を座らせて検温する。
ほどなくして電子音が鳴り、デジタル体温計が表示した数字は、38.2度。平熱が35度ほどの遥香にとっては高熱だ。
「動けるようなら、帰宅した方が良いのだけど……」
言いながら遥香に近寄ろうとした女性に、ビクリと怯えを見せた遥香。その様子に、彼女は素早く気付いて動きを止める。
「付き添いの君、彼をベッドに寝かせてあげて。それから、病人の彼の名前と、クラス担任の名前を教えて」
「篠宮遥香です。担任は、水沼先生ですが……」
「分かった。少し席を外すけれど、大丈夫ね?」
最後のそれは、問いというよりは確認のようだった。おそらく、水沼に知らせてくれるつもりなのだろう。
そして、諒也が遥香のことで譲るはずもなく。力強く頷いた。
「はい」
諒也の返答を確認してから保健室を出ていく女性を見送り、諒也は遥香をベッドへと誘導する。
遥香を寝かせて、布団をかけてやって。とりあえずベッドのそばに座るために椅子を持ってこようとした諒也の腕を、遥香が掴んで引き止めた。
「遥香?」
「どこ、いくの……?」
熱のせいか焦点の合わないような潤んだ瞳で、諒也を見上げる。
不安をあらわにしたその表情に、諒也の方が戸惑った。
「いかな……で……」
熱い吐息とともに漏らされた、遥香の願い。
その言葉を。諒也が拒絶できるはずもない。
「大丈夫だ、遥香。ここに、いるから」
穏やかにゆっくりと言い聞かせるように。
いつものように髪を優しく撫でると、遥香はあからさまにほっとした様子で小さく吐息して、そっと瞳を閉じた。
熱のせいだけではなく、何かがいつもと違った。
なんだろう、と諒也が思った瞬間、保健室のドアが開いて水沼が姿を見せる。
「緒方、篠宮の様子はどうだ?」
付き添う諒也に近付いて、遥香を起こさないように気遣ってか小声で囁くように聞く。
「熱が高いです。もともと丈夫な方ではないので、心配ですね……」
諒也の言葉に、水沼は神妙な表情を浮かべて唸るように頷く。
「そうか……。今、篠宮の自宅に連絡してきたんだが、お姉さんがすぐに迎えに来るそうだ」
「……静香さんが?」
なぜ静香が平日のこの時間に自宅にいたのか、という疑問が浮かぶけれど。それを水沼に聞いても、答えが返ってくるはずもない。
「緒方も、心配なら一緒に帰るか?」
そう言いながら、水沼は教室から持ってきたらしい二人分の荷物を、諒也に差し出す。
「先生、これ……」
渡された荷物は、遥香と諒也のもので。受け取りながら、少し唖然としてしまう。
「必要になるだろうと思ってな。付き添って帰るんだろう?」
何もかもお見通しなのか。苦笑しつつ続けられた言葉に、教師らしからぬものを感じてしまう。
「いいんですか……?」
「いや、本当はダメなんだぞ。今回は特別だ」
他の先生方には内緒だぞ、と言いながら諒也の早退も容認する水沼も、なんだかんだ言って遥香のことを気にかけ、心配してくれているのだ。
諒也は、水沼の厚意に素直に甘えることにする。
「……ありがとうございます」
静香が学校を訪れたのは、それから本当にすぐのことだった。
他の教員に案内されてきた静香は、女性の保健医代理の姿を認めると一瞬だけ複雑そうな表情になったように見えた。ぺこりと頭を下げる静香を、諒也が呼ぶ。
「静香さん、こっち」
「……遥香?」
急いで遥香のそばに寄り、顔を覗き込んで呼びかける静香の声に反応して、遥香がうっすらと瞼をあげる。
「…………」
遥香は何かを言おうとしたけれど、唇からは吐息が漏れただけだった。
「遥香、歩けるか?」
促されて遥香はのろのろと身体を起こす。ベッドの端に座って両足を下ろし、そのまま立ち上がろうとするけれど、力が入らずに床にへたりと座り込んでしまう。
「……遥香」
へたり込んだ遥香のそばに膝をついて、諒也は遥香の両腕を自分の首に回すようにして縋らせる。
「つかまってろよ」
言いながら、熱っぽい華奢な遥香の身体をふわりと抱き上げる。
半ば意識のない遥香は、反射的にその諒也の肩に額を押し付けた。
そのまま水沼たちに挨拶をして、静香が荷物を持ち移動する。
静香は車で来ていた。
諒也は後部座席に乗り込み、静香が準備してきていた毛布で遥香の身体を包むようにして抱きかかえる。遥香の身体に負担にならないように、静香はゆるりと車を発進させた。
「静香さん。今日、俺もそっちに泊まっていい?」
遥香を市村宅の方へ連れていくのだろうと踏んだ諒也からの申し出に、静香が困ったように吐息した。
「ダメよ。きちんと遥香を連れて帰りなさい」
「……え?」
それがどういう意味なのか、諒也には一瞬わからなかった。
「今日はね、私がそばにいない方がいいと思う」
だからいつも通りに二人で帰りなさい、と。
運転中だからこちらを見ることはなかったけれど、静香が少し寂しそうに笑った気配がしたのが諒也にも伝わってくる。
「どうして……」
諒也の疑問が口をついて出ると、静香はほんの少しだけためらって、そして続ける。
「……明日、何の日か知ってるよね」
「……遥香と静香さんのご両親の命日だよね」
「そうよ。じゃ、明後日は?」
「遥香の誕生日……」
「そうね」
吐息しながら、静香は慎重に言葉を選んでいるように見えた。
「遥香の、これはね。……風邪とか、そういう病気ではないと思う」
諒也は、その静香の言葉を反芻して眉をひそめた。
「遥香がこの時期に毎年体調崩すのって、ただの偶然じゃなかったってこと……?」
静香は、風邪ではないと言った。では、他になにか要因があるのか。
諒也が気付いたのは、ここ数年。同じ季節の頃合いに体調を崩すなぁ、と。その程度だった。
けれど、よくよく思い返してみれば、毎年、遥香の両親の命日の前。正確には前日。
つまりは『今日』だったのではなかったか。
「静香さん」
「ごめんね、諒也。これはまだ憶測でしかないから、私からは何とも言えない」
「…………?」
静香のあやふやな答えに、なにやら納得はできなかったけれど。苦しそうにつらそうに言う静香に、それ以上の追求はできなかった。
腕の中、熱い吐息で呼吸を繰り返す遥香を、諒也はぎゅっと抱きしめた。
そして。
その日の夜だった。
緒方家の、今では遥香の部屋となったゲストルームの、ベッドの上で。
ふっと目を開けた遥香は、人の気配に気付いて身体をこわばらせた。
「……遥香」
部屋の明かりはつけていなかった。いつも通り、ベッドサイドのライトだけ。
ずっと付き添っていた諒也が、遥香の様子に声をかけるけれど。
薄暗い部屋の中で相手が分からないのか、目覚めたばかりで寝ぼけているのか。それとも、熱のせいで意識が朦朧として諒也を誰かと間違えているのか。
「い……や……」
ガタガタと震える遥香は、明らかにおかしかった。
「遥香?」
心配して伸ばされた諒也の手を、遥香が力なく振り払う。
「やめ……、こない……で……」
華奢な身体を庇うようにして上半身を起こし、ベッドの上で諒也から遠ざかろうとしている。怯えている。何に?
焦点の合っていない遥香の瞳から涙が零れた。
「遥香!」
不安定にぐらりと傾いた遥香の身体を支えようとした諒也の腕に、頼りない身体がビクリと揺れる。
「さわらないで!」
初めて投げつけられた強い拒絶の言葉に、諒也の鳶色の瞳に一瞬だけ傷付いた色が浮かぶ。
遥香は両腕で自分の身体を抱きしめてベッドの隅で壁に身体を押し付けて、小さくうずくまるようにして座る。その黒曜石の瞳からはとめどなく涙が溢れ、細い身体はカタカタと小刻みに震え続ける姿は痛々しかった。
その、尋常ではない遥香の様子に、諒也はどうしていいのか分からない。
「いやだ、やめて……たすけて……」
遥香の声は、掠れて震えていた。
「……遥香……」
怯える遥香に、諒也はできるだけ穏やかに呼びかける。
「や……いや……」
震え続ける遥香の瞳は、諒也を映していない。錯乱している。
ここにはない、何かに怯えている。
違う。誰か、に。
それに気付いた諒也は、今度は強引に遥香の身体を引き寄せようとした。
グイと伸びてきた腕に、遥香の身体はビクリと大きく震えて必死で抗おうとする。
「いやぁぁぁっ!」
迸った絶叫。
諒也には遥香が怯える『誰か』が分からない。だけど、このままにはしておけなかった。
華奢な身体は容易に抱き込まれながら、それでも諒也の腕から逃れようと遥香は暴れる。
「やだ……っ!」
高熱と恐怖で震え続ける遥香の身体を抱きしめて。
「大丈夫だから。遥香。何もしないから」
宥めるように、耳元で優しく繰り返す。何度も。
「ごめ……な…さ……、ごめん……なさい……」
引き攣れる声で喘ぐように繰り返される謝罪の言葉に、諒也は心が痛くなった。
『誰』だ。『誰』が遥香をこんなに追い詰めた。
「たすけて……」
「大丈夫。大丈夫だ、遥香」
何度も、何度も。
優しく背中をさすりながら繰り返す諒也の言葉は、遥香には届いていないのか。
「……なん…で……」
遥香の瞳はどこか遠いところを見つめたまま。はらはらと零す涙を拭うことすらできず。
「ど……して、うんだ…の……」
紡がれた言葉。
その、意味に。気付いた諒也の動きが止まる。
「……いっそ、……ころして……」
「…………っ!」
続けて絞り出された遥香の声に、今度こそ息をのんだ。
その瞬間、遥香は緊張がピークに達したのか。ガチガチだった全身からふっと力が抜けて、カクリとその身の全てを諒也に委ねるように意識を手放した。
気を失った遥香をもう一度ベッドに寝かせ、人の気配に気付いた諒也が階下に降りると、そこには静香の姿があった。
驚きはしない。遥香との同居を始めた時に合鍵を渡してあったし、夜に様子を見に来るとも言われていた。
「静香さん……」
驚きはしないが、なんとも言えない表情で諒也が彼女を見れば、静香は少し困ったように微笑した。
「ごめんね……びっくりしたでしょ」
その言葉が何を指すのか瞬時に理解できる。
「あれでも、かなりマシには……なったのよ」
「あれで?」
小さく吐息しながら、静香が曖昧に笑う。
「理由は分からないの。遥香は何も言わないから。私に言えるのは、遥香のあの発作が始まったのが、両親が亡くなった次の年だったということ」
「…………」
「情けないでしょ。弟が抱えてる苦しみの、ほんの欠片もわからないなんて」
静香は言葉を重ねる毎に悔しそうな表情になってゆく。
「守ってるつもりで、本当は全然守れてないの。遥香は、本当の意味で弱い部分は私には絶対に見せてくれない……」
静香の様子から、先ほど遥香がこぼした言葉を聞いたことがないのだろうと推察した。きっと、遥香がギリギリのところで貫き通した、これは意地だ。大切な姉に心配をかけたくない、そんな思いが根強くあるのだろう。
だから、諒也は遥香が貫いた意地を、尊重する。静香には申し訳ないとは思うけれど、遥香のあの言葉は、まだ、諒也の中に止めておく。
「お願い、諒也……」
そんな言葉を静香に言われるのは初めてで。
「お願いだから、遥香を助けて……。私には無理だった、できなかった。たぶん……これからも出来ない……。だから、諒也お願い。遥香を、救って……」
言い募る静香は泣きそうな顔をしていて。そんな彼女を諒也は初めて見た。
本当であれば、遥香と諒也の同居はもっと早くに実現していたはずだった。それこそ、静香と知則が結婚してすぐにでも。
事前に、諒也の方から打診はしていたのだ。
それを拒んだのは静香だった。
ブラコンの静香が弟離れできなかったこともある。でもそれだけではなく、遥香のそばで彼のために出来ることをしたいと、静香が強く願っていたから。
遥香のために、できるだけのことをしたかった。遥香の心を、救いたかったのだ。
だけど、静香にはできなかった。
遥香の心は、まだキズを抱えたまま。膿を出し切ることもできずに。静香にできることは、もうなくなってしまったのだと思った。
だから、静香は諒也に託した。
新婚旅行に出発する前夜。
それは、遥香が自室に戻ってから。静香は諒也に言った。同居を許す代わりに条件がある、と。
決して遥香を傷付けないでほしい。泣かせるなとは言わない。ただ、遥香を裏切るようなことは絶対に許さない、と。
それだけを条件に。あの日、あの時。静香は、諒也が遥香と同居することを承諾した。
その時よりずっと前から、静香はいつでも二人を見守ってきたのだ。諒也になら任せられる。そう判断した。
「静香さん……?」
「お願い……」
瞬きと共に、静香がギリギリで堪えていた涙がぽろりと零れ落ちる。
遥香とよく似た泣き方。
二人が大切に大切に思う存在である遥香とそっくりな泣き顔に、諒也はどう反応したら良いのか分からない。
「頼むから、その顔で泣かないで……」
困り果てた諒也が訴える。
遥香に激甘な諒也は、遥香に泣かれるのが苦手だ。泣き顔も綺麗だけれど、やっぱりいつも笑っていてほしいと思う。
そんな幼なじみと同じ顔で泣かれたら、どうすればいいのか分からない。
「俺は……遥香のためになるのなら、何でもする」
それこそ、言われなくても。どんなことでも。
結局は、静香の願い通り。
遥香が幸せになることが、遥香が笑っていてくれることが、諒也の望みなのだ。願わくば、その隣には常に自分が在りたいと思いつつ。
諒也は、遥香に見せるのと同じように、穏やかに微笑んで見せた。
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