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大学の在学中に、和泉さんと学校付近の小洒落たバーで飲んだのはその時が二度目だった。
一度目に僕らが初めて顔を合わせた日からおよそ半年後の話で、その時はすでに僕らはよく顔を合わせる友人のような関係になっていた。
いつもは相馬も一緒に三人で会うことが普通だったのだが、二度目にそのバーで飲んだ時は、その普通が消え去ってしまった後の話だった。
「やっぱり、私って重いんだね」
その日はいつもより彼女にお酒が入るペースが早く、彼女にはすでに強めの酔いが回っていた。
「あんなに優しい晴くんでさえも見限るくらいなのよ。もうどうしようもない」
彼女は涙に埋もれた声で途切れ途切れに泣いていた。そんな彼女を見るのはその時が初めてだったし、僕はなんと声をかければよいかも分からず、いつものような単純な返答さえもできずに、ただ彼女に向かい合っていた。
「昔から人を好きになると、どうしても好きになりすぎちゃうの。好きでたまらなくなっちゃって、自分でもどうしたらいいか分からなくなるの。そのせいで嫉妬とか不満とかも溜まるし、愛が強すぎるのは相手にも負担だって分かってるんだけど、無理なの。抑えられないの」
なるほど、会う前に噂で聞いていた通りだったんだな、と思った。僕は気の利いた返事をすることがやはりできなくて、ただ相槌を打って彼女の心の内から吐き出される鬱屈とした感情を受け止めるだけの役割を担っていただけだったが、その日彼女は話しながらいつもの三倍ほどの量のお酒を飲んだ。
比較的お酒には強い彼女だったが、さすがにその量を処理しきるには限界だったらしく、そのまま泣き続けると、やがて疲れて眠ってしまった。
そのバーは明け方まで開いていて客数も少なかったため、僕はバーテンダーのお兄さんに許可をもらってしばらく彼女を眠らせたまま、一人でゆっくりとお酒を喉に通していた。
明け方になって彼女を起こし、閉店と同時にそのお店を出た。彼女は頭痛がするようで、半ば僕に寄りかかるような形で、僕はそれを支えながら階段を下りた。
冷たい風の吹く、冬の明け方だった。寒気に彼女の身体が震えたのが伝わり、その震えが僕にも伝染した。
僕は彼女の鞄を左肩にかけ、右手で彼女を支えながら歩いた。はじめは俄然調子の悪そうな彼女だったが、真冬の寒さに身を覚まされたのか、徐々にではあったがその足取りは幾分かマシなものになっていった。
「ごめん。ちょっと、休憩していい?」
ふと、彼女がそう言った。僕らは大学の近くにある自動販売機で温かい飲み物を買い、寒い空気に晒された石造りのベンチに腰かけ、二人そろって白い息を吐いた。限りなく白に近い、薄青い空の下で、僕らは沈黙の時を過ごした。
「こんな私に付き合わせちゃってごめんね」
大丈夫だよ、と僕は返した。隣に座る彼女はどこか遠いところを見つめるような瞳で、寂れた朝の道路を見つめていた。その双眸は、人通りのないこの辺りが藍白の空に照らされているのと同様に寒々しい雰囲気を纏っていた。
寒いね、と呟いた彼女は、カイロを出そうとして鞄のチャックを開けた。僕は何気なくその動作を見ていたのだが、その途中、僕の目に鞄の中にあったあるものがやけに色濃く映った。
彼女は、そんな僕に気が付き、どうしたの、と小さな声で訊く。僕は、いや、と返そうとしたが、やはりどうしても気になってしまい、鞄の中にあるそれを指さした。
「それ……なんの薬?」
それはいくらかまとまって小さな瓶に入った錠剤だった。彼女は、ああこれ、とその瓶を取り出して、なんのうしろめたさもなく僕に手渡した。
「精神治療の薬。ちゃんとした名前忘れちゃった。医者の先生が服用しなさいって」
僕は、言葉を失っていた。心の病気として薬を出されるまで、彼女は苦しんでいたのか、と。
「あまりこういうのに頼るのはよくないって分かってるよ。けど、どうしても必要な時は来るから、その時はちゃんと服用するようにって言われてるの」
冷たい風が二人を撫でていく。僕はまたいつもの単純な相槌さえ返すことができないでいた。そんな僕を見て、彼女はふふっと寂しそうに微笑んだ。
「引いた?」
そのあまりにも軽い語気に、僕は、いや、とようやく声を出すことができた。
「びっくりはしたけど、引いてはないよ」
「そう。まあ、大丈夫だから。そこまで堕ちたりはしない。薬がないとどうしようもない、みたいにはなりたくないから」
そう言いながら彼女は薬瓶を鞄に戻し、横に置いてあったココアを一口飲んだ。
「そもそも、この強すぎる感情がいけないのよ」
温かいココアの湯気と彼女の白い吐息が混ざり、白い寒空に浮き上がっていく。
「「好き」なんて気持ちを消せたら、こんなに苦労してないのにね」
白い吐息と共にこぼれた、その言葉。
その刹那に、僕はハッと息をのんだ。
僕は、なぜ自分が彼女に対して興味を持っていたのかを、その瞬間にようやく理解した。
僕は、彼女の感情が分からなかったのだ。これまで何度も触れてきた「好き」という感情は、もともと人の心を豊かにするものだと僕は思っていた。人に幸せを与えるものだと思っていた。
その「好き」が終わったときに寂しさや悲しさが付随するのであって、「好き」という感情そのものは基本的にいいものであると認識していたからだ。
何かを、誰かを好きになっている人のオーラは綺麗だったし、「好き」の感情に触れたときもそれがその人を幸福にしていることを感じ取ることができたからだ。
しかし、彼女においてはそうではなかった。彼女は、「好き」という感情によって苦しめられていたのだ。自分がなぜそれほど「好き」が強いのかも分からずに。
ただ生まれ持った愛情の振り幅が大きく、それが彼女に適した大きさではなかったために、彼女はこうして寒空の下で、冷え切った瞳を痛く震わせているのだ。「好き」という感情が、彼女を傷つけていたのだ。
「……「好き」がいらない?」
僕は探るようにして訊いた。
いらない、と彼女はすぐに答えた。
「この気持ちで幸せになったことがない」
淡々とした響きだった。少しでも触れたらすぐにでも壊れてしまいそうな横顔が、僕の心の底を確かに震わせた。
僕がこれまで感情を取ってあげようとした人たちの中でも、特に思いの詰まる表情だった。この人をどうにか助けてあげたい、という気持ちが、感情の薄い僕にも生まれるほど。
「「好き」の気持ち、取ってあげられるとしたら……?」
その言葉に彼女が視線を返した。
「どういうこと?」
「仮に。もし「好き」を取ってもらえるとしたら、の話だよ」
うかがうように訊くと、彼女は薄く、何よりも白いため息をついた。
「そんなことできるなら、とっくにやってもらってる」
鼓動が速くなった。彼女から「好き」を取るべきか。取るとしたら、どのくらい取るべきか。そもそも人の感情に触れること自体、実はもう何年もやっていなかった。十分人の感情のことは分かったし、そのおかげで僕自身にも、並みの人より薄いとはいえど、たくさんの感情が与えられたからだ。
「もし、「好き」を取ってもらえるとしたら、どれくらい取ってほしい?」
「……全部」
涼しい語気と双眸だった。
「もうこの気持ちにはずいぶんといじめられたから」
心が痛かった。そんな感情が僕に生まれたことは、それまでに一度もなかった。彼女を救いたい。人の感情に久々に触れる不安などどうでもいいほど、彼女は痛ましかった。
「後悔しない?」
僕が訊いた。
「するわけない」
彼女が答えた。
僕は彼女の肩に手を置く。
大きなさざ波のように渦巻く彼女の様々な感情に耐えながら、僕は「好き」の感情を探した。
僕が、彼女から「好き」を消し去ったのだ。
だから、僕はこうして今も彼女の近くから離れられない。
彼女がこうなってしまったのは、僕のせいだ。
そしてそれは、彼女の意思でもあった。
僕だけが、彼女が人を「好き」になれない理由を知っている。
一度目に僕らが初めて顔を合わせた日からおよそ半年後の話で、その時はすでに僕らはよく顔を合わせる友人のような関係になっていた。
いつもは相馬も一緒に三人で会うことが普通だったのだが、二度目にそのバーで飲んだ時は、その普通が消え去ってしまった後の話だった。
「やっぱり、私って重いんだね」
その日はいつもより彼女にお酒が入るペースが早く、彼女にはすでに強めの酔いが回っていた。
「あんなに優しい晴くんでさえも見限るくらいなのよ。もうどうしようもない」
彼女は涙に埋もれた声で途切れ途切れに泣いていた。そんな彼女を見るのはその時が初めてだったし、僕はなんと声をかければよいかも分からず、いつものような単純な返答さえもできずに、ただ彼女に向かい合っていた。
「昔から人を好きになると、どうしても好きになりすぎちゃうの。好きでたまらなくなっちゃって、自分でもどうしたらいいか分からなくなるの。そのせいで嫉妬とか不満とかも溜まるし、愛が強すぎるのは相手にも負担だって分かってるんだけど、無理なの。抑えられないの」
なるほど、会う前に噂で聞いていた通りだったんだな、と思った。僕は気の利いた返事をすることがやはりできなくて、ただ相槌を打って彼女の心の内から吐き出される鬱屈とした感情を受け止めるだけの役割を担っていただけだったが、その日彼女は話しながらいつもの三倍ほどの量のお酒を飲んだ。
比較的お酒には強い彼女だったが、さすがにその量を処理しきるには限界だったらしく、そのまま泣き続けると、やがて疲れて眠ってしまった。
そのバーは明け方まで開いていて客数も少なかったため、僕はバーテンダーのお兄さんに許可をもらってしばらく彼女を眠らせたまま、一人でゆっくりとお酒を喉に通していた。
明け方になって彼女を起こし、閉店と同時にそのお店を出た。彼女は頭痛がするようで、半ば僕に寄りかかるような形で、僕はそれを支えながら階段を下りた。
冷たい風の吹く、冬の明け方だった。寒気に彼女の身体が震えたのが伝わり、その震えが僕にも伝染した。
僕は彼女の鞄を左肩にかけ、右手で彼女を支えながら歩いた。はじめは俄然調子の悪そうな彼女だったが、真冬の寒さに身を覚まされたのか、徐々にではあったがその足取りは幾分かマシなものになっていった。
「ごめん。ちょっと、休憩していい?」
ふと、彼女がそう言った。僕らは大学の近くにある自動販売機で温かい飲み物を買い、寒い空気に晒された石造りのベンチに腰かけ、二人そろって白い息を吐いた。限りなく白に近い、薄青い空の下で、僕らは沈黙の時を過ごした。
「こんな私に付き合わせちゃってごめんね」
大丈夫だよ、と僕は返した。隣に座る彼女はどこか遠いところを見つめるような瞳で、寂れた朝の道路を見つめていた。その双眸は、人通りのないこの辺りが藍白の空に照らされているのと同様に寒々しい雰囲気を纏っていた。
寒いね、と呟いた彼女は、カイロを出そうとして鞄のチャックを開けた。僕は何気なくその動作を見ていたのだが、その途中、僕の目に鞄の中にあったあるものがやけに色濃く映った。
彼女は、そんな僕に気が付き、どうしたの、と小さな声で訊く。僕は、いや、と返そうとしたが、やはりどうしても気になってしまい、鞄の中にあるそれを指さした。
「それ……なんの薬?」
それはいくらかまとまって小さな瓶に入った錠剤だった。彼女は、ああこれ、とその瓶を取り出して、なんのうしろめたさもなく僕に手渡した。
「精神治療の薬。ちゃんとした名前忘れちゃった。医者の先生が服用しなさいって」
僕は、言葉を失っていた。心の病気として薬を出されるまで、彼女は苦しんでいたのか、と。
「あまりこういうのに頼るのはよくないって分かってるよ。けど、どうしても必要な時は来るから、その時はちゃんと服用するようにって言われてるの」
冷たい風が二人を撫でていく。僕はまたいつもの単純な相槌さえ返すことができないでいた。そんな僕を見て、彼女はふふっと寂しそうに微笑んだ。
「引いた?」
そのあまりにも軽い語気に、僕は、いや、とようやく声を出すことができた。
「びっくりはしたけど、引いてはないよ」
「そう。まあ、大丈夫だから。そこまで堕ちたりはしない。薬がないとどうしようもない、みたいにはなりたくないから」
そう言いながら彼女は薬瓶を鞄に戻し、横に置いてあったココアを一口飲んだ。
「そもそも、この強すぎる感情がいけないのよ」
温かいココアの湯気と彼女の白い吐息が混ざり、白い寒空に浮き上がっていく。
「「好き」なんて気持ちを消せたら、こんなに苦労してないのにね」
白い吐息と共にこぼれた、その言葉。
その刹那に、僕はハッと息をのんだ。
僕は、なぜ自分が彼女に対して興味を持っていたのかを、その瞬間にようやく理解した。
僕は、彼女の感情が分からなかったのだ。これまで何度も触れてきた「好き」という感情は、もともと人の心を豊かにするものだと僕は思っていた。人に幸せを与えるものだと思っていた。
その「好き」が終わったときに寂しさや悲しさが付随するのであって、「好き」という感情そのものは基本的にいいものであると認識していたからだ。
何かを、誰かを好きになっている人のオーラは綺麗だったし、「好き」の感情に触れたときもそれがその人を幸福にしていることを感じ取ることができたからだ。
しかし、彼女においてはそうではなかった。彼女は、「好き」という感情によって苦しめられていたのだ。自分がなぜそれほど「好き」が強いのかも分からずに。
ただ生まれ持った愛情の振り幅が大きく、それが彼女に適した大きさではなかったために、彼女はこうして寒空の下で、冷え切った瞳を痛く震わせているのだ。「好き」という感情が、彼女を傷つけていたのだ。
「……「好き」がいらない?」
僕は探るようにして訊いた。
いらない、と彼女はすぐに答えた。
「この気持ちで幸せになったことがない」
淡々とした響きだった。少しでも触れたらすぐにでも壊れてしまいそうな横顔が、僕の心の底を確かに震わせた。
僕がこれまで感情を取ってあげようとした人たちの中でも、特に思いの詰まる表情だった。この人をどうにか助けてあげたい、という気持ちが、感情の薄い僕にも生まれるほど。
「「好き」の気持ち、取ってあげられるとしたら……?」
その言葉に彼女が視線を返した。
「どういうこと?」
「仮に。もし「好き」を取ってもらえるとしたら、の話だよ」
うかがうように訊くと、彼女は薄く、何よりも白いため息をついた。
「そんなことできるなら、とっくにやってもらってる」
鼓動が速くなった。彼女から「好き」を取るべきか。取るとしたら、どのくらい取るべきか。そもそも人の感情に触れること自体、実はもう何年もやっていなかった。十分人の感情のことは分かったし、そのおかげで僕自身にも、並みの人より薄いとはいえど、たくさんの感情が与えられたからだ。
「もし、「好き」を取ってもらえるとしたら、どれくらい取ってほしい?」
「……全部」
涼しい語気と双眸だった。
「もうこの気持ちにはずいぶんといじめられたから」
心が痛かった。そんな感情が僕に生まれたことは、それまでに一度もなかった。彼女を救いたい。人の感情に久々に触れる不安などどうでもいいほど、彼女は痛ましかった。
「後悔しない?」
僕が訊いた。
「するわけない」
彼女が答えた。
僕は彼女の肩に手を置く。
大きなさざ波のように渦巻く彼女の様々な感情に耐えながら、僕は「好き」の感情を探した。
僕が、彼女から「好き」を消し去ったのだ。
だから、僕はこうして今も彼女の近くから離れられない。
彼女がこうなってしまったのは、僕のせいだ。
そしてそれは、彼女の意思でもあった。
僕だけが、彼女が人を「好き」になれない理由を知っている。
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