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35.はじまりの一歩を、あなたと
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「ったく。今日は定休日だっつうのに、保育園に取材、あげくに芝居までさせられて、今度は仕事か? 営業日よりも忙しい一日だぜ」
呆れたような、それでいて楽しげな声色が固定電話のリィンという連続した甲高い呼び出し音に混ざって消えていく。カウンター席に腰掛けていたマスターが腰を上げ、吐き出した言葉とは裏腹に軽快な足取りでカウンター内に戻っていった。
「はい、池野です……あぁ」
受話器を取り上げマスターが応答すると、数秒後に口元をつり上げ、立ちすくんだままの私を見遣って心底面白そうに声を上げた。
「なんだ、千歳か」
「っ!」
驚きのあまり弾かれたように顔をあげた。気道が狭くなるような感覚とともに、ひゅっと喉から乾いた音が鳴る。
「どうした? 今日は店休日だから豆の注文は受けられねぇぞ」
私の挙動をものともせず、マスターは受話器を左肩に挟みながら手元の積みあがった書類から『注文表』と記されたバインダーを手に取った。注文は受けられないと言いながらも、実はそれが真実ではないということが、この人の性格をひどく物語っているような気がした。
(……お見合い……終わった……の、かな……)
ゆっくりと、それでもこれまでにないほどの大きな鼓動を刻む心臓の音に合わせて脳裏に浮かぶのは、あのホテルの出入り口での後ろ姿だ。道路を隔てた先の、珊瑚色の鮮やかな振袖の隣に立つ、彼の後ろ姿。
(……そう、だ)
今日は、千歳はあの場所でお見合いをしていて。一目見ただけでもお似合いだとわかるような二人だったのだから、きっと上手くいったのだろう。その報告で――こうしてマスターに連絡を寄越したのではないだろうか。
「……」
わかっている。こんな結末になることはわかっていたし、この結末を呼び込んだのは他でもない私の選択なのだ。だから――きちんと、受け止めなければ。津波のように大きく押し寄せてくる数多の感情を処理しきれず、喘ぐように息をしながらぎゅ、と、胸元を握り締める。
「……あ? やよいの連絡先?」
訝しげに瞳を細めたマスターの口から私の名前が出た瞬間、ぴくりと肩が震える。千歳とマスターの間で、なぜそうした会話をしているのだろう。私の連絡先がどうかしたのだろうか。
そろそろと顔をあげれば、その直後、マスターは理解が及ばないと言わんばかりに眉根を顰めた。彼は納得がいかないというように手元のバインダーを手放して肩に挟んだ受話器を持ち直す。
「お前、やよいに取材されたんなら連絡先くれぇ知ってるだろう。……ん? なんで知ってるって……今日、っつうか今。俺もやよいに取材されてたからな。で、今はその話じゃねぇで……あ?」
電話口からかすかに漏れ出る千歳の声。いつも常連客をからかったりおちょくったりと翻弄する側のマスターが、どうやら千歳と押し問答を繰り返して翻弄されているようだ。それらがどうにも珍しく、そして理解ができず、私は胸元を握り締めたままただただ立ちすくむ。
「あ~、よくわかんねぇが、お前はやよいと話せればいいんだろ。まどろっこしいからこのまま変わるぞ? いいな?」
やがて面倒だと言わんばかりに片手でガシガシと頭を掻いたマスターから、受話器が私の目の前にすっと差し出された。
「やよい」
ふい、と。マスターの琥珀色の瞳が、私に真っ直ぐに向けられる。私の名前を呼ぶ声色の強さに、思わず呼吸が止まった。
私を真っ直ぐに見据えている彼の瞳には――『自分の本心から逃げるな』、という強い意志が、宿っている、よう……で。
まるで見えない糸に操られるかのように。私は思わず、よろよろとカウンターに歩み寄って、差し出された受話器に手を伸ばした。
そのまましばらく、手元の受話器を眺めつづける。
「……」
指先が冷たい。喉がひりついて、痛い。
千歳は私になにを話したいのだろう。婚約者が決まった、という話だろうか。
彼の意図を、彼の本心を知るのが、ひどく怖い。
(……で、も)
けれど、その恐怖よりも。
もう二度と――自分の本心から逃げたくない、という気持ちのほうが。
今はその感情のほうが、強かった。
「も、し……もし」
『……や、よさん』
長い長い躊躇いのあとに吐きだした言葉に返された千歳の声色は、ひどく安堵したようなため息とともに私の耳朶に溶け込んできた。
『ごめん、急に。というか、その……今までのことも』
「……ううん」
久しぶりに聞く彼の声は、私の記憶のなかにくっきりと刻まれた声と、なにひとつ変わらなくて。隠しようもない鮮烈な懐かしさが胸をついて、不意に鼻の奥がつんと痛んだ。
『父さんがやよさんに接触したあの日から、ちょっと自宅に連れ戻されちゃって』
「えっ……」
『スマホも取り上げられててね。しかもご丁寧に、やよさんの連絡先だけ消されてるし。勝手にお見合いは設定されるし、本当に散々だったよ』
「……」
千歳は電話口の向こう側で、困ったように吐息を落とす。彼――景元千耀は、よほど私のことが気に食わないのだろう。千歳のスマートフォンから私の連絡先を消すことで千歳からは接触を計れなくするほどに。目の前に横たわるそんな事実に、心がずんと重くなっていくような気がした。
『お見合いはね、破談にしたよ』
「え!?」
『っていうと語弊があるかなぁ。率直に言うと、フラれた。まぁ僕自身も断るつもりだったっていうのもあるけどね』
お見合いが上手くいったと思っていた私はひどく驚いた。そんな私の返答にも、どうということはないという風に電話口の向こう側で彼はへらりと笑い声を落としていく。
『っとまぁ……近況報告はこれくらいにして。本題、いいかな』
「……」
電話口の遠くから、小さな衣擦れの音がした。軽く咳ばらいをした彼が居住まいを正したような気配があって、私は思わず唇を噛みしめる。
『僕……今まで逃げてきたけどさ。……悲劇のヒーローぶって、駒にはなりたくないって、いろんなことから逃げてきた。でも、……もう逃げないって決めた』
「……」
淡々と紡がれていく千歳の想いは、ひどく落ち着いたものだった。長い時間をかけて固めた決意のようなそれらに、私はほとんど無意識に、息を止めて耳を傾けた。
『やよさん。1年……いや、半年。半年、待っていてくれないかな』
寸分の揺らぎすらみせない決意の言葉に、一瞬――世界中の時が止まった気がした。
『僕は、これからニューヨークに行く。ニューヨークで……景元グループの拠点基盤を作って、それを足掛かりに父さんを説得してみせる。一から話すと少し複雑になるんだけどね、今日のお見合い相手、時東グループのご令嬢だったんだ』
「とき…!?」
時東グループ。いくつものテーマパークを手がけ、そして世界中の観光地を結んだツアーを展開する、景元グループと同様に日本中の誰もが知っている旅行会社だ。
確かに景元と時東ならば、家柄のつり合いも取れる。一瞬、そんなことを思ってしまったけれど、続けられた言葉に思わず絶句してしまい、思考が一気に乱されてしまう。
『だけど彼女は叶えたい夢があって、そのついでにニューヨークで時東の仕事をやっているんだと』
「……ついで」
『そう、ついで。僕もその話、びっくりした』
ついで……で仕事をする。なんというバイタリティのあるひとだろう。夢を叶えるために、自らが背負う家柄という境遇すらも力に変える……強い、女性。
(その人……取材、してみたい……)
不意に脳裏に浮かんだ言葉は、この場に似つかわしくないそんな言葉だった。と同時に、胸の奥に込み上げる確かな熱い感情を無視することなんて、できなかった。
ライターを辞めることを決意したのに。文筆から離れると、決めたのに。
こんな、制御できない感情が……私のなかに、まだ。まだ、こんなにも……こびりついていたなんて。
眦に熱いなにかが滲んで、思わず空いた手でそれを拭った。
『で、彼女はどうしても結婚したくない。だけど僕は、彼女――時東との繋がりを持たなければならない』
「……」
『だから僕は、彼女を使って景元の海外進出を計る。その地盤を作るために……ニューヨークに、行く』
なにひとつ乱すことのない静かな雨が降り注ぐように、ひどく鎮まった声色だった。電話口の彼は、私にも聞こえるほどの深い深呼吸をひとつ落としていく。
『……駒なら駒なりに抗ってみせる。駒なりに爪痕を遺して、父さんもじぃさんも、チヒロにだって僕のことを認めさせてみせる。もう、失敗作なんて言わせない。オートマタのままでいたくない。やよさんの隣に立てる……ニンゲンになりたい』
なにかの気迫を感じるような言葉たち。心が定まったと言わんばかりの彼の静かな声色は、反対に私の心を乱していくようで。胸元を握しめる手に、ぎゅっと力がこもる。
『僕は……親になるって幸福がどんなもので、どんな形をしているのか。実際に子どもを持ったとき、自分がどんな感情を抱くのか、いまも想像できてない。だけど……僕は。僕は、この先もやよさんとともにありたいんだ』
呼吸がひどく浅くなっていることを自覚した。ゆらゆらと揺らいでぼやける世界は、頼りなくて、それでも、ひどく――――まぶし、くて。
『だから……だから。半年。半年だけ、待っていて』
お願いだから。そっと打ち明けるような、そんな声で。言葉としては紡がれなかった懇願が、ひとつの揺らぎすら気取らせなかった彼の一瞬の震えが、伝わった気がした。
「……」
千歳は「もう逃げない」覚悟を決めた。なら、私は――?
ゆっくりと息を吸って……吐いた。喉の奥が引き攣っていて、受話器を持つ手が震えていた。
胸の奥が痛くて仕方なかった。少し息を吸うと、自らの意志に反して小さな嗚咽がこぼれ落ちていく。
思わず顔を伏せて、空いた手で受話器を持つ手を覆って、どうにも抑えられない震えを誤魔化した。
「……ちと、せ」
『うん』
名を呼んだ彼の返答には、なにひとつ迷いがなくて。震える声で小さく吐息を吐きだすと同時に、つぅ、と。両目から、熱い雫が頬を滑り落ちていった。
「私も……一緒に。一緒に、ニューヨークに……行って、いい……?」
電話口からの返答が聞こえるよりも前に、ふっと。カウンター内のマスターが、小さく、やわらかな吐息を落としたのが、聞こえた。
呆れたような、それでいて楽しげな声色が固定電話のリィンという連続した甲高い呼び出し音に混ざって消えていく。カウンター席に腰掛けていたマスターが腰を上げ、吐き出した言葉とは裏腹に軽快な足取りでカウンター内に戻っていった。
「はい、池野です……あぁ」
受話器を取り上げマスターが応答すると、数秒後に口元をつり上げ、立ちすくんだままの私を見遣って心底面白そうに声を上げた。
「なんだ、千歳か」
「っ!」
驚きのあまり弾かれたように顔をあげた。気道が狭くなるような感覚とともに、ひゅっと喉から乾いた音が鳴る。
「どうした? 今日は店休日だから豆の注文は受けられねぇぞ」
私の挙動をものともせず、マスターは受話器を左肩に挟みながら手元の積みあがった書類から『注文表』と記されたバインダーを手に取った。注文は受けられないと言いながらも、実はそれが真実ではないということが、この人の性格をひどく物語っているような気がした。
(……お見合い……終わった……の、かな……)
ゆっくりと、それでもこれまでにないほどの大きな鼓動を刻む心臓の音に合わせて脳裏に浮かぶのは、あのホテルの出入り口での後ろ姿だ。道路を隔てた先の、珊瑚色の鮮やかな振袖の隣に立つ、彼の後ろ姿。
(……そう、だ)
今日は、千歳はあの場所でお見合いをしていて。一目見ただけでもお似合いだとわかるような二人だったのだから、きっと上手くいったのだろう。その報告で――こうしてマスターに連絡を寄越したのではないだろうか。
「……」
わかっている。こんな結末になることはわかっていたし、この結末を呼び込んだのは他でもない私の選択なのだ。だから――きちんと、受け止めなければ。津波のように大きく押し寄せてくる数多の感情を処理しきれず、喘ぐように息をしながらぎゅ、と、胸元を握り締める。
「……あ? やよいの連絡先?」
訝しげに瞳を細めたマスターの口から私の名前が出た瞬間、ぴくりと肩が震える。千歳とマスターの間で、なぜそうした会話をしているのだろう。私の連絡先がどうかしたのだろうか。
そろそろと顔をあげれば、その直後、マスターは理解が及ばないと言わんばかりに眉根を顰めた。彼は納得がいかないというように手元のバインダーを手放して肩に挟んだ受話器を持ち直す。
「お前、やよいに取材されたんなら連絡先くれぇ知ってるだろう。……ん? なんで知ってるって……今日、っつうか今。俺もやよいに取材されてたからな。で、今はその話じゃねぇで……あ?」
電話口からかすかに漏れ出る千歳の声。いつも常連客をからかったりおちょくったりと翻弄する側のマスターが、どうやら千歳と押し問答を繰り返して翻弄されているようだ。それらがどうにも珍しく、そして理解ができず、私は胸元を握り締めたままただただ立ちすくむ。
「あ~、よくわかんねぇが、お前はやよいと話せればいいんだろ。まどろっこしいからこのまま変わるぞ? いいな?」
やがて面倒だと言わんばかりに片手でガシガシと頭を掻いたマスターから、受話器が私の目の前にすっと差し出された。
「やよい」
ふい、と。マスターの琥珀色の瞳が、私に真っ直ぐに向けられる。私の名前を呼ぶ声色の強さに、思わず呼吸が止まった。
私を真っ直ぐに見据えている彼の瞳には――『自分の本心から逃げるな』、という強い意志が、宿っている、よう……で。
まるで見えない糸に操られるかのように。私は思わず、よろよろとカウンターに歩み寄って、差し出された受話器に手を伸ばした。
そのまましばらく、手元の受話器を眺めつづける。
「……」
指先が冷たい。喉がひりついて、痛い。
千歳は私になにを話したいのだろう。婚約者が決まった、という話だろうか。
彼の意図を、彼の本心を知るのが、ひどく怖い。
(……で、も)
けれど、その恐怖よりも。
もう二度と――自分の本心から逃げたくない、という気持ちのほうが。
今はその感情のほうが、強かった。
「も、し……もし」
『……や、よさん』
長い長い躊躇いのあとに吐きだした言葉に返された千歳の声色は、ひどく安堵したようなため息とともに私の耳朶に溶け込んできた。
『ごめん、急に。というか、その……今までのことも』
「……ううん」
久しぶりに聞く彼の声は、私の記憶のなかにくっきりと刻まれた声と、なにひとつ変わらなくて。隠しようもない鮮烈な懐かしさが胸をついて、不意に鼻の奥がつんと痛んだ。
『父さんがやよさんに接触したあの日から、ちょっと自宅に連れ戻されちゃって』
「えっ……」
『スマホも取り上げられててね。しかもご丁寧に、やよさんの連絡先だけ消されてるし。勝手にお見合いは設定されるし、本当に散々だったよ』
「……」
千歳は電話口の向こう側で、困ったように吐息を落とす。彼――景元千耀は、よほど私のことが気に食わないのだろう。千歳のスマートフォンから私の連絡先を消すことで千歳からは接触を計れなくするほどに。目の前に横たわるそんな事実に、心がずんと重くなっていくような気がした。
『お見合いはね、破談にしたよ』
「え!?」
『っていうと語弊があるかなぁ。率直に言うと、フラれた。まぁ僕自身も断るつもりだったっていうのもあるけどね』
お見合いが上手くいったと思っていた私はひどく驚いた。そんな私の返答にも、どうということはないという風に電話口の向こう側で彼はへらりと笑い声を落としていく。
『っとまぁ……近況報告はこれくらいにして。本題、いいかな』
「……」
電話口の遠くから、小さな衣擦れの音がした。軽く咳ばらいをした彼が居住まいを正したような気配があって、私は思わず唇を噛みしめる。
『僕……今まで逃げてきたけどさ。……悲劇のヒーローぶって、駒にはなりたくないって、いろんなことから逃げてきた。でも、……もう逃げないって決めた』
「……」
淡々と紡がれていく千歳の想いは、ひどく落ち着いたものだった。長い時間をかけて固めた決意のようなそれらに、私はほとんど無意識に、息を止めて耳を傾けた。
『やよさん。1年……いや、半年。半年、待っていてくれないかな』
寸分の揺らぎすらみせない決意の言葉に、一瞬――世界中の時が止まった気がした。
『僕は、これからニューヨークに行く。ニューヨークで……景元グループの拠点基盤を作って、それを足掛かりに父さんを説得してみせる。一から話すと少し複雑になるんだけどね、今日のお見合い相手、時東グループのご令嬢だったんだ』
「とき…!?」
時東グループ。いくつものテーマパークを手がけ、そして世界中の観光地を結んだツアーを展開する、景元グループと同様に日本中の誰もが知っている旅行会社だ。
確かに景元と時東ならば、家柄のつり合いも取れる。一瞬、そんなことを思ってしまったけれど、続けられた言葉に思わず絶句してしまい、思考が一気に乱されてしまう。
『だけど彼女は叶えたい夢があって、そのついでにニューヨークで時東の仕事をやっているんだと』
「……ついで」
『そう、ついで。僕もその話、びっくりした』
ついで……で仕事をする。なんというバイタリティのあるひとだろう。夢を叶えるために、自らが背負う家柄という境遇すらも力に変える……強い、女性。
(その人……取材、してみたい……)
不意に脳裏に浮かんだ言葉は、この場に似つかわしくないそんな言葉だった。と同時に、胸の奥に込み上げる確かな熱い感情を無視することなんて、できなかった。
ライターを辞めることを決意したのに。文筆から離れると、決めたのに。
こんな、制御できない感情が……私のなかに、まだ。まだ、こんなにも……こびりついていたなんて。
眦に熱いなにかが滲んで、思わず空いた手でそれを拭った。
『で、彼女はどうしても結婚したくない。だけど僕は、彼女――時東との繋がりを持たなければならない』
「……」
『だから僕は、彼女を使って景元の海外進出を計る。その地盤を作るために……ニューヨークに、行く』
なにひとつ乱すことのない静かな雨が降り注ぐように、ひどく鎮まった声色だった。電話口の彼は、私にも聞こえるほどの深い深呼吸をひとつ落としていく。
『……駒なら駒なりに抗ってみせる。駒なりに爪痕を遺して、父さんもじぃさんも、チヒロにだって僕のことを認めさせてみせる。もう、失敗作なんて言わせない。オートマタのままでいたくない。やよさんの隣に立てる……ニンゲンになりたい』
なにかの気迫を感じるような言葉たち。心が定まったと言わんばかりの彼の静かな声色は、反対に私の心を乱していくようで。胸元を握しめる手に、ぎゅっと力がこもる。
『僕は……親になるって幸福がどんなもので、どんな形をしているのか。実際に子どもを持ったとき、自分がどんな感情を抱くのか、いまも想像できてない。だけど……僕は。僕は、この先もやよさんとともにありたいんだ』
呼吸がひどく浅くなっていることを自覚した。ゆらゆらと揺らいでぼやける世界は、頼りなくて、それでも、ひどく――――まぶし、くて。
『だから……だから。半年。半年だけ、待っていて』
お願いだから。そっと打ち明けるような、そんな声で。言葉としては紡がれなかった懇願が、ひとつの揺らぎすら気取らせなかった彼の一瞬の震えが、伝わった気がした。
「……」
千歳は「もう逃げない」覚悟を決めた。なら、私は――?
ゆっくりと息を吸って……吐いた。喉の奥が引き攣っていて、受話器を持つ手が震えていた。
胸の奥が痛くて仕方なかった。少し息を吸うと、自らの意志に反して小さな嗚咽がこぼれ落ちていく。
思わず顔を伏せて、空いた手で受話器を持つ手を覆って、どうにも抑えられない震えを誤魔化した。
「……ちと、せ」
『うん』
名を呼んだ彼の返答には、なにひとつ迷いがなくて。震える声で小さく吐息を吐きだすと同時に、つぅ、と。両目から、熱い雫が頬を滑り落ちていった。
「私も……一緒に。一緒に、ニューヨークに……行って、いい……?」
電話口からの返答が聞こえるよりも前に、ふっと。カウンター内のマスターが、小さく、やわらかな吐息を落としたのが、聞こえた。
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