奇跡を呼ぶ旋律

桜水城

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 美しい少女が微笑んでいる。
 まるで一輪の気高い蘭の花のような、などと陳腐な表現で称えられる彼女の美しさは天性のものだ。
 セインテの叙事詩に出てくる百合の乙女ビシアデステがどれほどの美貌なのかは知る由もないが、たとえこの目の前にビシアデステが現れても、私は爪の先ほども彼女に心奪われることはないだろう。
 なぜなら私は恋をしている。私に向かって微笑んでくれる美しい少女に。私だけに見せてくれる無邪気な笑顔に。
 彼女はその姿に相応しい可愛らしい名前を持っている。そう、テ……。
 おや? 思い出せない……。
 あんなに愛しさを込めて何度も呼んだ名前を思い出せない……。
 私は……どうしてしまったのだろう……? 
 私は……私は……。
 
 * * * * *
 
 目が覚めても、残念ながらそこは極楽浄土ではなかった。いや、幸いにして、というべきか。だが、私にとっては生きているということこそが苦痛であり、死という永遠の眠りはこの上なく甘美なものに思えていたのだ。しかし、現実は無情、そう簡単に楽にはなれないのだ。
 とりあえず、私はまだ生きているようだ。この喉にある焼け付くような痛みは死人には感じられないものだろう。
 目が開いても、起き上がることができず、私は仕方なく首だけ動かして辺りを見た。部屋の中だ。それに、体には布団がかけられている。しばらくぶりに味わうベッドの心地良さ。もう少し眠っていてもいいだろうか。まぶたの重さに任せて目を閉じたときだった。
「どうだい? 調子は」
 扉の開く音と、木靴と床が奏でる狂想曲のような響きと共に、女の声が入ってきた。私は再び目を開き、声の主の姿を探した。ああ……彼女だ。
「よくもまあそんなに眠れるもんだね。丸一日眠ってたんだよ。わかる?」
 笑顔が眩しい。こんなにも女性の笑顔というのは美しいものだったの……いや、この部屋自体が眩しいのだ。恐らくは西向きの窓だからなのだろう。夕日の赤い光が差し込んできていて、つい目を細めてしまうような眩しさなのだ。
「見たところおっさん……吟遊詩人だね? 旅の途中かい?」
 また「おっさん」と呼ばれてしまった。そんなに私は老けてみえるのだろうか。まだ若いつもりの心に鉛の矢を突き立てられて、私は涙目にこそならなかったものの、落ち込んでため息をついた。
「ああ……だが、おっさんはやめてくれないか? 私にも名前がある」
「へぇ……そうかい。聞かせてもらおうか」
 ここでふと私の中に疑問が沸き起こった。どうして彼女は一段上から私を見下ろしたような口調なのだろうか。
 考え始めてすぐに私は自らの置かれた立場、そして彼女が私にしてくれたことを思い出した。そうか。当然のことなのだ……。私は文無しで野垂れ死にしそうだった、それを彼女が助けてくれて、ベッドにまで寝かせてくれたのだ。
 余計なことを考えている暇はない。ちゃんと彼女に答えなくてはならない。
 だが、また私の脳は余計な思考にとらわれてしまった。どこまで答えれば良いだろう。本名を名乗る? いや、私の本名など長過ぎて彼女に伝えるには……。
「どうしたんだい? 名前があるんだろ。何を躊躇ってるんだい?」
 なかなか答えない私にしびれを切らせて……というほどでもないだろうが、彼女が急かして来た。程度の違いはあれど、彼女を待たせているのには違いはない。早く答えなければ。
 ようやく体が動かせるようになってきたようで、私はやっとこすっとこ起き上がり、彼女に対してちゃんとまっすぐに向き直った。
「ああ、わたすは……じゃなくて、えー、あー、私の名は……」
 何を焦っているんだ、私は。みっともない。何でもないところで舌をかんでしまった。恥ずかしすぎる。恥ずかしかったが、彼女の瞳をしっかり見つめて、深呼吸してから私は名乗った。
「ディン、吟遊詩人のディン二十一歳だ。よろしく」
 言葉の響きをかっこよくしようと、なんとなく年齢までつけてしまって少し後悔した。
 そして、ディナーゼ・ヴィ・マクマホス・シェザール・トゥルストという長い名前を持っているということは彼女には告げないでおこう。過去の栄光にすがるのは醜すぎる。栄光と言っても、ただ貴族の息子であったというそれだけの事実でしかないが。
「二十一歳? 嘘だろ? あたしとそう変わらないじゃないか。もう三十路超えてるのかと思ったよ」
 何だと小娘? いや、何ですとお嬢さん? そんなに年寄りだと思われていたのか。私は自分で思っている以上に老けて見えるらしい。生まれつきなのか? いや……きっと旅の苛酷さからだろう。
 そして、私とそう変わらないという彼女の発言に些か衝撃を受けている。彼女は十五、六歳の小娘だと私は思っていた。
「あたしはミラ。歳はあんまり言いたくないけど、十八歳だよ。よろしく、ディン」
 呼び捨てか小娘!? いや、呼び捨てですかお嬢さん!? いくら命の恩人とはいえ、年上に向かって呼び捨てとはいただけない……そう思っても口には出さなかった。いや、出せなかったと言った方が正しい。
 彼女……ミラには何か威厳のようなものを感じるのだ。そう、長年商売をやってきている人間の放つ自信に満ち溢れたオーラがあるのだ。だから私は代わりに質問を口にした。
「どうして私を助けてくれたんだ?」
 眩しさに目を細めながら彼女の顔を見上げると、ただでさえ大きな目が更に大きくなっていた。
「どうしてって……うちの前でくたばられちゃ商売の邪魔だからね。空いた部屋に入れたまでさ」
 なんとなくそれだけではない気がするのは私の思い上がりだろうか。彼女は素直ではない、そう直感したのはお門違いだろうか。彼女の答えに口元が緩むのを私は抑え切れなかった。
「何にやけてんのさ。勘違いするんじゃないよ、あたしは慈善事業でやってるわけじゃないんだからね」
 鋭く冷たい視線を向けられてもなお、私はへらへらとしたしまりのない顔のままでいた。彼女は優しいのだ。久しぶりに触れた人の温かさというものに包まれた心が喜びに満ちている。
 すると、彼女の言葉に答えるように私の腹の虫が鳴った。
「ああ……。丸一日眠っていたんだからね。そりゃ腹も減るってもんさ」
 彼女は呆れたといった表情を見せたが、私の胸は高まる期待に躍っていた。やっと食事にありつける。なんだかんだ言って彼女は温かい食事を用意してくれるのだろう。私は甘えていた。甘えた心があった。
 しかし、そんなに現実が甘いものなわけがない。
 すがるように見上げた先の彼女の瞳は、柔らかで暖かな視線……などでは全くなく、冷たく刺す針のように私を睨みつけているのだった。
「なんだい? あたしはそこまでお人よしじゃないよ。食いたいんだったら金を寄越しな」
 彼女は水仕事に荒れた手をぐいっと私の目の前に差し出した。私は面食らった。まさか……金をとるのか? 宿泊した分もとられるのだろうか。しかし……私の持ち合わせなど……。
 そこではっと思い出した。私は確か広場で稼いだ銅貨を握り締めていたはずだ。だが、この手には何の感触もない。目の前に両手をゆっくりと持ってきて眺めてみた。ない。この手には何もない。開いても握っても何もない。私の中からすうっと血の気が引いていく。どうしよう。わずかではあったが、あれが私の全財産だったのだ。あれがなければ私は何もできない、絶望が私を追い詰める……というほどでもないが。
「あんたが探してるのはこれかい?」
 私の様子を見て察したのか、彼女はベッドの脇に備え付けられている机を指し示した。そこには私の稼いだわずかばかりの銅貨が無造作に散らばって置かれていた。私は机に飛びついた。
「あんたを運んだときにあんたの手からこぼれ落ちてね……。全部拾ったつもりだけど、足りないかい?」
 一つ、二つ、三つ……ああ、何度数えても同じだ。五枚の銅貨がそこにはあった。
「いや、これで全部だ。これで何か食べさせ……ゴホッゴホッ」
 「食べさせてくれ」と言いたかったのに咳き込んでしまった。そうだ、私は風邪をひいていたのだった。ゆっくり眠れて休息をとれたとは言え、風邪が治ったわけではない。
「ああ、やっぱり風邪をひいていたんだね。熱があるようだったし、うなされていたしね。仕方がないね、じゃ、代金は後払いで良いからちょっと待ってな。用意してくるよ」
 やれやれ、といった表情でミラは部屋を出て行こうとした。私は慌てて声をかけた。
「え? この金は……?」
 振り向いた彼女は両手を広げて頭を振るという大げさな身振りで私への感情を表現してみせた。
「そんなはした金もらったって何の役にも立たないよ。ここをどこの国だと思ってるんだい?」
 セインテ、と私は心の中で呟いた。そうだ。この国は周辺国のどこよりも物価が高いのだった。
「お礼はあとでたっぷりと頂くんだから、とりあえずは腹ごしらえしときなよ、おっさ……ディン」
 呼び直してくれて正直嬉しかった。何だろう、この胸の底から湧き上がってくる気持ちは。
 ふわふわとしてとらえどころのない気持ちだったが、私はこの気持ちを無視しようと決めた。いずれにしろ必要のない感情だ。私はまた旅立つのだから。
 ミラが出て行った後に香りが残った。優しい香りだ。不意に私は故郷を思い出して切なくなった。
 
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