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009 痛みと言う恐怖
しおりを挟むとは言ってみたものの、だ。俺は人を殴った経験が極端に少ない。
ひ弱な体の時には喧嘩に勝てるはずもないのでされるがままの方が多かったし、抵抗を試みたこともあるが無為に終わったこともたくさんある。
「来ないのか?」
男が俺を挑発する。
覚悟を決めて拳を握る。緊張で手にジワリと汗の感触があった。
木の床を蹴り、俺は男目掛けて拳を振りかぶる。
「ギャハハハ! 素人丸出しだな兄ちゃん!」
「うおおおおおおお!!」
渾身の力で顔面に拳を叩き込む。……つもりだが、男は半身を引いて簡単に避けた。
男は左足を引いている。俺は空振りしてしまい、男は俺の腕を右側から掴んだ。左手で掴むその力はかなり強く、腕がギリリと嫌な感触を俺に伝える。
「パンチってのはこうやるんだよ!」
「ふぐッ……!」
そのまま腕を掴み上げられた俺は、男の強烈な右手を顔面に叩き込まれる。手を離されると俺はもう膝をついてしまい、顔面を押さえた。
顔面が痛い。鈍くジワリとした痺れと共に、熱さすら感じる感覚が右頬を中心に広がっている。これほどまでに痛いのはいつ以来かわからない。ブリーだって俺を投げることが多かったし、小屋に潰されて死にかけた時はそれどころじゃなかったから感覚がなかった。
喧嘩の痛みは生々しく、俺の体を芯から冷やす。歯の奥がガタガタと震えて、痛みに恐怖していることが自分でもわかった。
怖い。痛いのが本当に怖い。
「や、やり直すぞ……俺は!」
「は?」
痛む右手を宙へかざし、胸の前の画面をタッチする。先程殴りかかる前に選択しておいた画面だ。
光が溢れる。
「来ないのか?」
男が俺を挑発していた。痛みは消えている。
「やる前からビビりまくってんじゃねえか!!」
俺の様子を見た男が笑う。
確かに時間を戻して、傷も痛みもない状態になった。しかし恐怖した心は治らない。先程の痛みと、己の力が全く届かない光景は、確実に俺へ恐怖を植え付けていた。
でもやるしかない。こんなところで痛みに怯えている場合じゃないんだ俺は。これから先たくさんの魔物と戦おうと言う男が、この程度の痛みで恐怖していてどうする!!
「うおおおおおお!!」
「ギャハハハ! 素人丸出しだな兄ちゃん!」
俺は拳を男の顔面へ叩き込もうと振る。しかし先程と全く同じに男は左足を一歩引くだけで避けてしまう。そのまま俺の腕を捉えようとするのを、俺は知っている。
だからすぐに腕を引いて、左手をすかさず顔面に叩き込むと、一瞬男の反応が遅れた。
「ぶげッ!」
「ダッセ! あいつ素人に顔面入れられてやがる!」
「ぶげってなんだよぉ~!」
ギャラリーが沸き立つ。俺の拳は無事に届いた。運よくというべきか、当たり所が悪かったのか、男は鼻血を垂らしてしまっている。
殴ったはずの俺の拳もジンジンと痛む。殴った方も痛い、とは説教でよく聞いたセリフだが、まさしくその通りだったんだな。と、俺はどこか楽観的にその感触から考えていた。
全く歯が立たないと一時は恐怖した男に俺の拳が届いた。その事実は俺へ自信を与えた。
「やってくれたなこの野郎!!」
男は鼻血を拭うと、俺の方へとその大きな左手を伸ばした。
避けようと後ろに下がるが間に合わず胸倉を掴まれる。男は右手を振りかぶっている。
「覚悟しろよ……!」
男の顔が視界いっぱいに広がった直後、それが拳へと置き換わる。
「ぐぉ……!!」
衝撃が顔面の中心に襲い来る。
咄嗟に腕で庇おうとしたが全然間に合わない。視界が軽くひっくり返りかけたところで、俺の鼻血がボタボタと落ちるのが見えた。口の中が鉄の味でいっぱいになっている。
痛みは相変わらず酷いものだが、一度知っているとさっきほどの恐怖を覚えることはなかった。
「やり直す!」
俺は画面をタッチする。
光が溢れる。
「やってくれたなこの野郎!!」
鼻血を拭った男が俺の胸倉を掴んだ。
振りかぶった右手は避けられない。ならば。
「ぐぃ!?」
「頭突きだ! あの兄ちゃん頭突きしやがった!! なんて反射神経してんだあいつ!」
「顎にもろに当たったぞ。あれは脳震盪が起きてるな……」
男がふらふらと俺から離れて、足をもつれさせてこけた。これは……どうするべきなんだ? 見守って起き上がるのを待つのが正解なのか、どうなんだ。
「兄ちゃん追撃だ! 徹底的にやっちまいな!」
「え、あ、それでいいのか」
ギャラリーの声に後押しされて、俺は男に詰め寄ると更に数発顔面を殴りつけた。周りから見ればきっと不格好なんだろう。俺が殴る度に「下手くそ!」とヤジが飛んだ。
実際その通りで、攻撃してるはずなのに指と手首がめちゃくちゃ痛い。全然上手く殴れている気がしない。
だがそれでも。
「おおおお!! 農家の兄ちゃんが勝っちまいやがった!!」
男は目を剥いて倒れた。周囲から歓声と指笛の音が飛び交う。
凄い血の気の多い人たちだな……。と若干引いてしまうが、俺も高揚してハイになっているらしかった。
「よっしゃあああああああああああ!!」
力いっぱい拳を掲げて叫ぶ。周りも更に盛り上がり、余計騒がしくなる。
「と、受付しないと」
「いいぞ兄ちゃん! お前がギルドメンバーになったら俺と組もう! ランクの昇格も手伝ってやんよ!」
「お、いいなそれ! 俺も手伝うぜー!」
俺は男の横に落ちた用紙を拾い上げ、受付の元で必要事項を書き上げる。
血気盛んな冒険者たちは囃し立て、急かしてくる。勢いに押されて受付へ提出すると、女性は言った。
「では登録料の30万ゴールドをお支払い下さい」
「…………へ?」
「30万ゴールドです」
30万ゴールド。凡そ町の人三人分の月給。貧乏なうちの村でそれほど貯金している者はいるだろうか??
「え、と、登録料?」
俺が戸惑っていると、何かを察した冒険者たちが静かになっていく。
「はい。今後の保証を受けるための初期手続きに必要な料金です。お支払い頂けますか?」
「え、いや、え?」
現実はこうも無慈悲なものだろうか。そりゃそうだ。ギルドもボランティアじゃない。仕事なんだ。
依頼の仲介手数料もあれば登録料だってあるだろう。
「あの、払えません……」
俺がそう告げると、冒険者たちは即座にその場から解散していった。
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