一途な猫は夢に溺れる

ことわ子

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一途な猫は夢に溺れる

結婚の催促

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 「お師匠さん、もうお昼ですよ」

 俺は埃っぽい寝室のカーテンを無慈悲に勢いよく開け放った。薄暗かった室内に光が差し込むと、酷い散らかりようなのが良く分かる。俺は床に散乱した本を拾い上げると本棚へと戻した。小さい頃から続けている俺の大切な仕事の一つだ。この有様から察するに、お師匠さんはまた徹夜で仕事をしていたらしい。夜更かしは良くないからと何度も言っているのに、夜の方が捗るからと、俺の目を盗んでは体力ぎりぎりまで仕事をする。そして泥のように寝て俺に起こされるまでがワンセットだ。
 俺だってもう十八になる。一人前に仕事も出来るし、小さいときよりは失敗も減った。純粋な力に至ってはお師匠さんよりもあるし、充分自分の食い扶持は自分で稼げる。それなのにお師匠さんは俺に街に出ることを禁止し続け、一向に仕事に行かせてくれようとしない。そして俺のために無理に仕事をし続けている。必然的に手持ち無沙汰になった俺はお師匠さんの世話を焼き、今では身の回りの殆どをこなすまでになった。
 俺は更に大きな本を拾い上げた。難しい文字が読めない俺にはなんの本かは分からないが、きっと文字が読めたとしても内容を理解することは出来ないだろう。基本的な教育はお師匠さんが全て教えてくれた。それでも普段使わない記憶は薄れていく。そもそも読み書きが出来る人間が少ないこの時代に、簡単な文字であれば読めるとなれば相当な強みになる。お師匠さんのような高名な魔法使いを目指しているわけではないし、今の俺には充分すぎると感じていた。
 本を動かした拍子に日の光に照らされながら埃がキラキラと舞った。俺は顔をしかめると窓に近づき全開にした。乾いた冷たい風が一瞬にして部屋の中の気温を奪う。俺は一瞬身震いすると、そのまま部屋を後にした。 

 「マオ、酷いなぁ」
「コーヒー淹れました。どうぞ」
「あっ、ありがとう」

 にこにこと自分の定位置である窓側の椅子に座ると、お師匠さんは自身の美しい金色の長い髪を無造作に一本に括った。そうやって邪魔にならないようにしてから俺が淹れたコーヒーを飲む。それがお師匠さんの遅すぎる朝の習慣だ。

「あ、今日は珍しく手紙が来てました」
「ん? 誰からだろ?」
「さぁ? 俺には難しい字は読めませんので」

 そう言うとお師匠さんは唇を尖らせた。

「だから、文字の読み書きなんて僕が教えてあげるってば~。他の事だってなんでも聞いてよ」
「いえ、俺にはもう充分すぎる教育を施してもらいましたので」

 俺はお師匠さんに手紙を渡す。お師匠さんは不満そうな顔で渡された手紙を受け取り、一瞥して顔を歪めた。

「うへぇ……実家からだ」
「ヴェシフート家から?」

 お師匠さんの家は人間の世界で言う貴族にあたるものらしい。あまり家のことを話したがらない所を見ると、どうやら家族とは上手くいっていないようだ。

「なんの用だろ……僕のことは死んだと思ってくださいって言ってるのになぁ」
「馬鹿なこと言ってないで、確認したらどうですか」
「マオ、最近冷たくなってきたよね。反抗期?」
「使い魔に反抗期なんてあるんですか?」
「うーん……聞いたこと無いけど、マオは変人と名高い僕の使い魔だしもしかしたら……」
「一緒にしないでください」
「酷いなぁ~」

 お師匠さんはいかにもショックを受けたと言う様な身振りで両手で顔を覆った。俺はそれを無視するとその場から離れて部屋続きのキッチンへ向かった。お師匠さんは朝ご飯(もう昼ごはんの時間だが)はいつも食べない。俺は一人分の昼食を用意しようと背より少し高い戸棚に手を伸ばした。新しいイチゴのジャムのビンを探し出し、手に取ろうとした瞬間、それが宙に浮いた。俺はため息をつくと後ろを振り返った。

「無視しないでください」

 俺の背後には子どものように頬を膨らませたお師匠さんがジャムのビンを持って立っていた。

「はいはい」

 俺はお師匠さんに向かって手を差し出した。勿論、ジャムのビンをよこせと言う意味で。しかし、伝わらなかったのか、もしくはからかっているのか、お師匠さんは俺の腕を握ると不意に撫で始めた。俺は瞬時に腕を引く。

「マオってばどんどん逞しくなってきてるよね」

 お師匠さんの為に鍛えているなんて口が裂けても言えない。

「ただの成長ですよ」

 素っ気無く返すと半分納得したような顔でジャムのビンを渡してきた。

「どんなに成長しても、甘いジャムが好きな所は変わらないね」
「ほっといてください」

 俺はビンを受け取ると、固いパンを切り分け始めた。俺一人分なら二枚で足りる。

「あ、手紙の内容なんだけど」

 お師匠さんは他人事のように喋りだした。いつものことだが、お師匠さんは自分のことに関して無関心過ぎる。俺に向ける関心の半分くらいは自分に向けて欲しいと思う。

「結婚しろってさ」
「……は?」

 俺はパンを切っていたナイフを足先に落とした。足に突き刺さる寸での所でお師匠さんが魔法で止めた。しかし俺はお礼を言うことも忘れて固まった。

「もうそろそろかなぁって思ってたんだけどねぇ」

 どこまでも他人事の物言いに段々と腹が立ってくる。
 いつかこうなることは分かっていた。お師匠さんは高名な魔法使いだ。そして貴族でもある。結婚して家の地位を盤石なものにする使命を負うことが生まれながらにして課せられている人種がいるのはこの時代珍しくない。
 勿論、使い魔であればお師匠さんが結婚しても一緒にいられる。人生の伴侶としてではなくても、一生傍にいることは出来る。
 だけど、俺は。

「なんでそんなに他人事なんですか」

 動揺を悟られないように声を和らげて聞く。

「いやぁ、実感湧かなくてさ」

 お師匠さんに実感が湧かなくても、俺には嫌と言うほど湧く。

「それに僕にはマオがいるしね」

 お師匠さんは突然背後から俺に抱きついた。薬草の甘い香りがお師匠さんからする。俺の大好きな匂い。
 子どもの頃は大きいと思っていたお師匠さんの手が俺の首に回された。見上げていたお師匠さんの目線を自分の目線が越したのは去年のことだったか。お師匠さんは自分より大きくなった俺の首に手を回すために爪先立ちをしている。不安定な体を支えようと手を伸ばしかけて、やめる。

「離れてください」
「えー」

 お師匠さんのこういう行動に一々振り回されることが疲れないと言ったら嘘になる。それでも俺はお師匠さんと一緒にいたいと強く思っている。そんな些細な夢ももうすぐ消えてしまうのかと思うと、辺りの色が消えていくのを感じた。

「それでさ、提案があるんだけど」

 お師匠さんの口ぶりは相変わらず軽い。
 小さく唇を噛む。まるで処刑を待つ罪人のような気分で俺は目を閉じた。

 俺の罪はなんだったんだろう。

 真実を隠していたこと?
 一緒にいたいと願ってしまったこと?
 それとも──。

 俺は静かにお師匠さんの言葉を待った。何を言われても受け入れようと心に誓いながら。

「マオが僕の恋人になってくれないかな」

 唖然とする俺の顔を嬉しそうに見つめる瞳がキラキラと光った。
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