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「朝陽……どうしたの?」

 休日の昼下がり。
 縁側で日向ぼっこをしていた伊呂波は、不思議そうな顔で小首を傾げた。
 こっそり盗み見していたつもりだったのに、どうやらばればれだったようだ。朝陽は顔が熱くなるのを感じて視線を逸らした。

「な、なんでもない……」
「嘘だ、なにか隠してる」

 こんな時だけ察しがいい。
 朝陽は不自然に思われないように距離をとり、取り繕う言葉を考えた。

 結局、昨日は家に帰るまで伊呂波と手を繋いでいた。途中、偶然を装って朝陽から離そうとしても伊呂波に握り直された。なぜか緊張して嫌な汗をかいていたが、伊呂波はお構いなしだった。

 手を繋ぐくらい友達同士でもする。そう自分に言い聞かせて乗り切ろうと思うのに、触れた唇が熱を持ち過ぎて上手くいかない。
 伊呂波の様子を窺うが平然としている。むしろいつもより上機嫌で足取りも軽い。
 こんな些細で重要なことを気にしているのは自分だけなのだと、分かってしまい少し落ち込む。
 そんな気持ちになってもなお、朝陽の熱は収まりそうになかった。

 一晩寝れば落ち着くと思っていた。
 そんな自分の考えが浅はかだったと思い知ったのは伊呂波の顔を見たときだった。
 全然落ち着いてない……。
 むしろ昨日より輝いて見えるのは欲目だろうか。
 自分の中の伊呂波に対する気持ちの名前が知りたくて、ずっと伊呂波を眺めていた。

 そして間抜けなことに、今に至る。


「あー、今日、なにしたい?」

 我ながらいい話題が見つかったと思った。
 朝陽は送別会に出るかわりに今日は伊呂波と過ごすと約束していたことを思い出した。
 厳密に言えば忘れ去っていたわけではなかったが、忙しさにかまけていたら声をかけるタイミングを失っていた。
 家事をしていて随分待たせてしまっていたが、約束は守りたい。伊呂波も昨日のことで気遣ってくれたのか、それに関しての話題は出してこなかった。
 伊呂波のさりげない気遣いはいつも優しい。

「いいの?」

 まさか、そう返ってくるなんて。
 伊呂波は朝陽に対して強く主張してこない。
 少しだけ食い下がってくることはあっても、朝陽が本当に嫌だと感じるラインまでは踏み込んでこない。
 特に朝食のことで揉めた後は、そのライン引きが顕著になった。自分がやらかしたこととはいえ、その都度何かに怯えるように、様子を見ながら朝陽に接してくる伊呂波を見ているのは辛い。

「もちろん! 約束は守るよ!」
「やった!」

 出来れば本音で話して欲しいと思う。
 しかし、それに足る信頼を自分から勝ち取っていかないことにはどうしようもない。

「じゃあ、付き合って」
「へ……」
「行きたいところがあるんだ」
「あ、あーうん、」

 付き合って、という言葉にすら過剰反応する。あたしは中学生か! と頭を抱えたくなるが、不審者丸出しになってしまうので我慢する。
 そもそも伊呂波は朝陽のことを『自分の妻』という役職でしか見ていない。夫婦だから一緒に寝たいし、夫婦だから他の男が触るのも許せない。夫婦だから仲良くしたいし、夫婦だから尊重したい。
 真面目に向き合ってくれているが、その真面目さが時に残酷だ。

 真剣に気持ちを向ければ向けただけ、伊呂波とのズレに苦しむことになる。
 自分の気持ちの名前が知りたいと思った。
 けれど、世の中には知らない方が幸せなこともたくさんあるということを朝陽は知っている。

「どこに行きたいの?」
「あ、えーと、着いてからのお楽しみ」

 どうやら伊呂波はサプライズが好きなようだった。朝陽を喜ばせたいというオーラがダダ漏れでつい口元が綻ぶ。

「分かった。じゃあ十分後に玄関に集合ね」
「うん」

 そう約束すると、朝陽は自室へと戻った。正直に言うと伊呂波が出かけると言い出すとは思っていなかったため、軽い化粧しかしていなかった。慌てて日焼け止めを塗り、焼けないように長袖に着替える。
 折角のお出かけならもっとオシャレをしたいし、しっかり化粧もしたいのが本音。しかしそんな時間はない。朝陽は御気に入りのつばの大きな帽子を目深に被り誤魔化した。


 玄関に行くと伊呂波ともう一人、知らない男が立っていた。背は伊呂波と同じくらいだが、伊呂波よりもだいぶ体格が良い。伊呂波が線の細い美人系ならその真反対の印象だ。ボサボサとした茶色の前髪が目に掛かっていて顔はよく分からない。

 しかし、朝陽はその男がやけに気になった。一目惚れしたとか、そういうわけではない。
 朝陽は体格が良い男の人を見るのが好きだった。好きなタイプはと聞かれれば、決まってボクシング選手の名前を挙げていて、いつも周りから分かりづらいと言われていた。
 拓真も割りと体格が良い方で、そこで第一印象が上がった過去がある。

 朝陽はしばらく男を眺めていたが、我に返って目を逸らした。
 伊呂波はにこやかに近づいてきた。後ろには犬のしっぽが見える。

「朝陽! 帽子、似合ってるよ」
「え、あ、あぁ、ありがとう」

 化粧を誤魔化すために被ってきただけだったため、急に褒められて狼狽えてしまう。伊呂波はどんな格好でも褒めてくれそうだが、どうせならもう少し考えれば良かったと思った。
 そんな伊呂波のうかれた様子に隣の男は大き過ぎるくらい大きなため息をついた。

「じゃあ、行こうか!」

 そんな大きなため息をものともせず、伊呂波は朝陽の腕を引いた。
 え、
 ちょっと

「待って!」

 朝陽は当たり前のようにスルーされた男の方を見てストップをかけた。
 伊呂波を始め、その男までもが不思議そうな顔で朝陽を見た。
 なんかおかしい事言った!?
 まさかのアウェイな空気に朝陽は混乱した。

「この人は……?」

 伊呂波は訝しげな表情で朝陽を見て、男はまた面倒臭そうにため息をついた。

「この人って……?」
「いや、だから、この──」
「オレだよ、オレ」

 このしゃべり方には思い当たる節がある。
 だけど。

「あ、そう! 玄だよ!」

 まさしく求めていた答えが返ってきて、満足と驚きがない混ぜになる。感情が忙しい。

「玄!? 玄ってあの……?」
「そうだよ」

 ぶっきらぼうな口調が完全に玄だ。
 何が起きてもおかしくないと思っていたはずなのに、驚いてしまった。朝陽は少しの悔しさを感じ、伊呂波に説明を求めるように視線を向けた。

「玄は人間にもなれるんだよ」
「形だけだけどな」

 ほう。そうだとすると。

「伊呂波も動物になれたりするの?」
「いや、僕はなれないよ」

 そうなのか。
 少しだけ動物になった伊呂波を見てみたかったが、なれないなら仕方ない。残念に思う気持ちが顔に出てしまったのか、伊呂波は目を泳がせた。

「早くしないと時間なくなるぞ」

  人間の姿の玄がそう言いながら急かした。正体が分かってもまだ慣れないが、イタチの姿よりは尊大な態度がしっくりくる。

「そうだね、行こう」

 伊呂波はそう言うと、慣れた手つきで、まるでそうするのが当たり前かのように朝陽の手をとった。
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