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変調

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「兄様、聞いて! 聞いて! あさが……!」

 踊るような足取りの八千代と、急な出費に震える朝陽は、先程閉め出した伊呂波を探して家の中を歩き回っていた。すぐ隣の部屋でしょぼくれているかと思っていたが、そこに伊呂波の姿はなかった。
 八千代は自慢したい欲を抑えきれずに、大きな声で伊呂波の名前を呼ぶ。
 広い家ではないため、自ずと残るは奥にあるあの部屋だけになった。
 何故だか途端に嫌な予感がしてきた。
 最初からあの部屋にはいい印象が無い。
 朝陽は急に感じ始めた焦燥感を無理矢理に無視をして、部屋の前で立ち止まった。

「兄様ー! ねぇ、ここにいるんでしょ?」

 八千代は無邪気に勢いよく襖に手をかけて開け放った。ぱん、と豪快な音がした。

「あさがね! ………………兄様?」

 部屋の隅で伊呂波は壁にもたれかかるようにして頭を伏せていた。うずくまるように上半身を屈めたまま、眉間に皺を寄せながら目を固く閉じている。八千代の言葉にも反応がなく、浅い呼吸を繰り返している。珍しく乱れた黒髪が状況が良くないことを物語っている。

「兄様? ねぇ、兄様!」

 八千代は慌てて駆け寄り伊呂波に触れた。呆気に取られていた朝陽も我に返り、伊呂波の傍に寄った。

「伊呂波? ねぇ、大丈夫!?」

 朝陽が頭に触れると伊呂波はうっすらと目を開けた。

「伊呂波、良かった!」
「兄様! 兄様! 兄様!!」

 意識を取り戻した伊呂波に一瞬安堵した朝陽は伊呂波の額を優しく撫でた。

「嫌! 嫌嫌嫌嫌! 兄様なんで!? 大丈夫だって言ったのに! なんで嘘つくの!?」
「八千代さま……?」

 八千代の取り乱しように朝陽は圧倒される。

「伊呂波……大丈夫……?」
「大丈夫なわけないじゃない!」

 八千代が噛み付く様に言葉を遮った。しかし、伊呂波は僅かに頷いてみせた。そしてゆっくりとした動きで口角を上げた。その様子に朝陽は八千代の言葉より伊呂波の返答をとった。

「伊呂波、動ける?」

 ここに居続けるのは良くない気がする。朝陽の直感がそう言っていた。

「…………うん」

 小さい声だったが、はっきりと伊呂波は返事をした。再び会話ができたことに安堵して質問を続ける。

「立てる?」

 その質問に返事は返ってこなかった。見るからに立てるような様子ではない。しかしいくら細身とはいえ、成人男性を担いでいける力は朝陽には無い。部屋にはもう一人、取り乱し続けている八千代がいるが、二人で力を合わせても伊呂波を移動するのは無理だろう。
 すると、突然、朝陽の背後から逞しい腕が伸びてきた。

「え……?」

 振り返ると人間の姿の玄が伊呂波を抱き抱えようとしていた。背中と膝裏に腕を回し、難なく持ち上げる。

「玄……!」
「どこに連れて行くんだ?」

 玄は少しだけ焦った様子で、しかし表面上はいつもの尊大な態度で朝陽の方を向いた。

「朝陽の部屋に……」
「え、」
「朝陽の部屋がいい」
「あたしの部屋?」
「うん」

 伊呂波は掠れた声でそう言った。朝陽は一瞬躊躇したが、すぐに頷くと玄を誘導した。


 伊呂波を朝陽の部屋に寝かせ、落ち着いたのを見届けた後、朝陽は隣の部屋に移った。

「嫌、嫌嫌嫌嫌嫌!」

 先程から取り乱し続けている八千代は玄の胸に顔を埋め、泣きながら拒否の言葉を繰り返している。
 兄が心配なのは分かるが、少し落ち着いた方がいいと思った朝陽は、迷ったが声をかけることにした。

「八千代さま……伊呂波は大丈夫ですよ」

 元気付けるつもりでそう言ったのに、八千代は逆上したように声を荒げた。

「知ったような口を聞かないで! あさは何も分かってない! 兄様のこと何も知らないくせに! どうせあさも兄様を見捨てて出て行くんでしょ!?」
「え、?」
「人間なんか信用できない! いつも自分のことばっかりでちよ達を振り回す!」

 八千代の悲痛な叫びに朝陽は声が出てこなくなった。まるで図星を指されたように血の気が引いていくのが分かる。腕に力が入らない。立っていることが出来なくなってしゃがみ込む。

 今の楽しさを盾にして、この暮らしをいつまで続けていくのかという疑問を無視し続けた。その代償を今払わされようとしている。

 何も言わない朝陽を肯定と捉えたのか、八千代は更に大きく泣き声を上げた。せっかく綺麗にしていた顔は涙でぐちゃぐちゃになり、玄のシャツに色が移ってしまっている。
 玄は宥めるように八千代の頭を撫で続け、促すような目で朝陽を見ている。
 何か言わなきゃ…………
 そう思えば思うほど、何を言ったらいいのか分からない。言葉にできない感情が纏わりついてくる。

 泣き止まない八千代を抱えて、玄が立ち上がった。

「伊呂波は………………大丈夫だろ」

 玄の言葉に朝陽はハッとなって顔を上げた。玄は目を伏せて背を向けた。そのまま何も言わずに八千代を連れて、どこかに消えてしまった。

***

 もう夜中の二時になると言うのに、伊呂波は目を覚さないでいた。朝陽は眠る伊呂波の隣で伊呂波を見つめ続けてた。
 外からは色々な生き物の鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。しかし、そんな騒がしさとは対照的に部屋の中は重い静けさに包まれていた。
 朝陽は徐に伊呂波の手に触れた。相変わらず冷たい手は暑い夜には一層心地良く感じる。
 触れようと思えば触れられる距離に伊呂波がいることに涙が出そうになる。

「ちょっと、くすぐったいかな……」

 俯きながら泣きそうになるのを我慢していると、頭上から声がした。その声に瞬時に涙は引っ込んでいく。

「伊呂波!」
「あれ? 今何時?」

 朝陽は抱きついてしまいたい衝動を抑え込んで、できるだけいつも通り振る舞おうとする。

「もう真夜中だよ」
「随分寝ちゃってたみたい」
「全然起きないからびっくりしちゃった」
「ごめん、ごめん」

 いつもの伊呂波だ、そう思うと安心感からまた涙が出てきそうになった。口を真一文字に引き結んで我慢しようとしたが、景色がぐらつくほど瞳いっぱいに涙が溜まってしまった。

「朝陽、泣いてる?」
「泣いてない」
「そっか」

 朝陽の強がりの言葉も伊呂波は受け止めてくれた。二人の間にゆっくりとした時間が流れる。
 伊呂波は悩むように目を閉じた後、口を開けた。

「朝陽はさ、ここから出て行きたい?」
「え……」
「正直な気持ち聞かせて」
「今は出ていくなんて考えてないよ!」

 感情に任せて否定する。今の暮らしは朝陽にとってもかけがえのないものになっている。
 しかし伊呂波は悲しそうに瞳を揺らした。

「今は、か」
「あ、そういう意味じゃなくて……」

 本当に?
 自分の発言に保険をかけなかった?
 気持ちの定まらない現状を誤魔化そうとしなかった?

 自問自答に頭が痛くなってくる。こんな状況になっても自分の気持ちが分からない。

「………………ちょっと、距離を置いた方がいいのかもしれない」
「どういう──」
「じゃないと、僕は朝陽を諦めきれなくなる」

 諦めるって…………?

 疑問を言葉にする前に伊呂波にきつく抱き締められた。力は強いのに、伊呂波の優しい気持ちが伝わってくる。朝陽は伊呂波の首筋に顔を埋めた。玄に泣きつく八千代のように、自分もここで泣けたらどんなに良いかと思った。しかし中途半端な自分にはそんな資格はない。
 代わりに朝陽は震える腕を上げた。伊呂波の背中に腕を回そうとして、触れるか触れないかのところで朝陽は急に力が抜けていくのを感じた。
 抗えない力に夢に引き込まれる瞬間、朝陽は伊呂波の顔を見た。
 何かを諦めたような優しい笑顔。
 その顔に痛みを感じる間もなく、朝陽は意識を手放した。


 
 その日を最後に伊呂波は朝陽の前から姿を消した。
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