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オオカミ

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 よし江に話を聞いてから焦燥感だけが朝陽を突き動かした。
 バスの時間まで待てずに、駆け上がるように山を登り始める。初日に後悔した山道をまた無謀にも歩み始めた。涙で視界が揺れる。何かを考えようと思っていたが、思考がまとまらなかった。
 息が切れて、体内の酸素が薄くなっているのを感じても進むことをやめなかった。あれだけ印象的だった蝉の声も一切脳まで届かない。
 早く帰らないと。
 なぜか朝陽は強くそう感じていた。
 進める脚はこの三日間の疲労もあり、段々ともつれるようになってきた。しかし、もう無理だと折れそうになる度、あの、諦めたような表情で笑った伊呂波の笑顔が頭を掠めた。

 ほとんど意地で家に着くと、玄関に倒れ込んだ。もう一歩も動けない。そう思うが、ここで寝ているわけにもいかない。
 朝陽は棒になった脚を投げ出し、上半身だけを何とか起こした。すると、背後から何者かの視線を感じた。

「伊呂波……!?」

 歓喜に満ちた声で名前を呼ぶ。疲れなど忘れて振り返る。
 しかし。
 視線の先には、一匹のオオカミが居た。朝陽が知っているオオカミよりは一回りほど大きく、そして吸い込まれそうな墨色の毛皮を纏っていた。金色の瞳が朝陽を捉えて離さない。
 普通なら、慌てて逃げる場面だろう。
 しかし朝陽はなぜかそういう気にはなれなかった。むしろそのオオカミに伊呂波の影を感じて手を伸ばした。

「怖くはないのか、人間」
「怖いとは思わないです」
「そうか……」

 オオカミは何かを考えるように鼻を鳴らした。

「伊呂波の居場所を知ってますよね?」
「その前に、我の存在が気にならぬのか?」
「そんなことより、伊呂波のことが先です」

 なにふり構っていられない。このオオカミがどういう立場の存在かなんて、今の朝陽には些細な問題だ。

「まぁ、待て。少し我の話を聞け。お前の態度によっては伊呂波の居場所を教えてやらないでもない」

 焦れる朝陽にオオカミは少し冷静になれと諭してきた。言われて初めて自分が我を忘れていたと気付いた。気持ちが昂り過ぎて周りが見えなくなっていた。
 それでも前のめりな姿勢は変えられない。

「態度って……どうすればいいんですか?」
「お前のことは八千代から聞いた。その上で聞きたいことがある」

 八千代の名前に朝陽はハッとしてオオカミに近づいた。

「八千代さまはどうしていますか?」

 伊呂波のことももちろん心肺だが、朝陽は八千代のことも気にかけていた。玄と共にどこかに消えた後、二人とも姿を現さなくなった。

「八千代はのぉ、引きこもってはいるがあれだけ泣き叫び続けられる元気があれば大丈夫であろう」

 今なら八千代があれだけ取り乱し続けた理由が分かる。
 それを自分は大したことではないと安易に捉え、彼女に冷静になるようにと声をかけた。酷いことをしてしまったと思う。
 もし、もう一度、会えるなら精一杯謝りたい。

「良かった……」
「だがのぅ、伊呂波は」
「伊呂波、は……」

 オオカミは言葉を区切って朝陽を真っ直ぐ見据えた。金色の二つの瞳に自分が写っているのが分かる。まるで宝石に閉じ込められたかのように、永遠に動けないような錯覚を覚えた。

「知りたいか?」

 オオカミの問いに朝陽は迷いなく頷いた。

「前の生活に戻れなくなるとしても?」

 そんなことくらい、大したことではないと朝陽は思った。
 この数日間ずっと考えた。中途半端な自分を恥じた。次に選択を迫られた時は自分に正直でいようと思った。

「伊呂波はわたしの大切な人です。だから──」
「もう良い」

 オオカミは呆れたような、安堵したような表情で鼻を鳴らした。張り詰めていた空気が少しだけ穏やかになるのを感じた。

「我も鬼ではない。息子より先に嫁の本心を聞くなど野暮がすることよ」
「むすこ…………息子!?」
「なにを驚いておる。伊呂波の母と知って話しかけてきたのではないのか?」
「いや、あの……」

 知らなかった。というより想像していなかった。
 途端にそわそわしだした朝陽にオオカミは無言で背中を向けた。

「ついて来い」

 オオカミは返事を待たずに歩き始めた。慌てて朝陽も後を追いかける。

「ここじゃ」
「ここは……」

 伊呂波が倒れていた、あの部屋の前でオオカミは立ち止まった。

「この部屋も、もうこんなに澱んでおったか」
「あの、ここって……」
「ここは伊呂波の部屋じゃ」
「伊呂波の部屋……?」

 こんなに薄暗く陰気な場所が、あの優しい伊呂波の部屋などと、どう考えても信じられなかった。

「部屋、というよりは心の拠り所のような場所じゃな」
「そんなに大切な場所なのに、なんでこんなに不安な気持ちになるんですか!?」

 縋るように質問する。

「昔は、……昔はこんな場所じゃなかった」

 忘れられると神様は消える。それは幸せな最後ではないだろう。人々に信仰され、神もまた人々を想い、尽くす。そのバランスが崩れ、尽くすだけになった神はどれだけ淋しかっただろう。忘れられ始めてもなお、神は人を想い、そして擦り減っていく。
 長い年月はこの部屋を淀みで埋め尽くすには充分すぎる時間だった。

「それでも、お前のお陰で伊呂波はなんとか持ち堪えられたみたいじゃな」
「それってどういう……?」

 朝陽が伊呂波と同居を始めてまだ一か月も経っていない。朝陽が伊呂波の心の支えになれたとは到底思えない。

「ほれ」

 オオカミは口で咥えた何かを朝陽の元に持って来た。よく見るとそれは伊呂波が大切にしていた枯れた押し花だった。

「これ…………」
「触りな」
「えっ」

 不思議がる朝陽の腕をオオカミは鼻先を使って無理矢理持ち上げる。朝陽は促されるままに花に触れた。
 途端に周りの景色が反転した。伊呂波が消えたときのような、抗えないチカラが朝陽を包み込む。自分の意志で動くことができない。
 オオカミに見守られながら、朝陽はぬかるみに脚を絡め取られていくように夢の世界に堕ちていった。
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