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一緒に

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***

 夢から覚めたと思った。
 しかし、まだ、夢の途中なのだと、どこまでも続く漠然とした白い空間にうずくまる伊呂波を見て、そう感じた。
 視覚以外の五感が全て奪われているかのように何も感じない。自分がここにちゃんと存在しているのかすら疑わしくなってくる。それでも朝陽は伊呂波を目指し歩みを進めた。
 一歩一歩近づく度に伊呂波の呻き声が大きく聞こえるようになってくる。朝陽は胸の痛みを堪えながら伊呂波の傍に寄った。

「伊呂波? 聞こえる?」

 朝陽はできるだけ優しく伊呂波の髪の毛に触れた。伊呂波は微かに反応を見せ、気怠げに頭を上げた。
 最後に見たときより顔色が悪くなっている。

「あたし、大切なこと忘れてたみたい」

 伊呂波は虚な目で朝陽を見た。もう限界が近いのかもしれない。そう思うと涙が出てきそうになるが、泣きたいのは伊呂波の方だと奥歯を食いしばる。

「ごめんね、覚えてるって言ったのに」
「伊呂波はずっと覚えていてくれたんだよね」
「それなのに、あたし……あたしは」

 声が震える。ここで泣くなんて卑怯者がやることだ。

「これからもずっと伊呂波の傍に居たいって言ったら調子良いかな……?」

 伊呂波は何も答えない。こんなことを言っても意味がないかもしれない。それでも朝陽は止まれなかった。

「今更って思うかもしれないけど」

 朝陽は虚な伊呂波の瞳に自身を写した。あの部屋のように澱んだ色の奥に光が宿るのを信じて、真っ直ぐ見据える。

「あたし、伊呂波のことが大切なの。大切だから消えて欲しくない」

 虚無に満ちた瞳を見続けるのが怖くなって、朝陽は伊呂波を抱え込むようにして抱きしめた。

「伊呂波、帰ろう? また一緒にご飯食べて、笑って、怒って……それで……それで…………、」

 ここまで堪えていたのに、いつのまにか涙は溢れ出し、伊呂波の背中を濡らしていた。止めようにも次から次へと嗚咽が漏れてくる。
 これまで以上に料理は頑張るし、伊呂波とちゃんと向き合う。無理矢理会話を切ったりしないし、『決まりごと』を減らしたっていい。
 だから、
 だから…………

「……そうだね」
「へ?」

 背中を伝って伊呂波の声が耳に届く。信じられない気持ちに慌てて身体を離し、伊呂波を見ると、虚だった瞳は朝陽をしっかりと写していた。

「伊呂波!」
「ごめん、もう少しだけ、」

 朝陽は離れていた身体を伊呂波に引き寄せられた。

「これって節度のない距離かなぁ?」
「そうかも」

 耳元で聞こえる声がくすぐったい。
 思わず首をすくめたが、すぐに伊呂波の顔が割って入った。戯れるようなその仕草に愛おしさが募る。

「伊呂波、くすぐったい」
「だって、朝陽、こんな時でもないと許してくれないでしょ」
「だからって」

 少しの抵抗を見せるが、本気で嫌がっていないことなどお見通しだろう。
 ちょっとマズイかも。
 伊呂波は浮かれていて、朝陽も多分浮かれている。
 こんな状況で想いを伝えても軽薄になってしまう。それなのに言葉が勝手に迫り上がってくる。

「ねぇ伊呂波」
「なに?」
「家に帰ろう」
「一緒に?」
「一緒に」

 伊呂波は慈しむように朝陽の手を取った。朝陽も受け入れるように手を重ねた。

 二人で、帰ろう。


 気が付けば、伊呂波の部屋で二人身を寄せ合っていた。
 今度こそ戻ってきたのだと、辺りを見回しながら思った。この部屋は相変わらず陰気な空気が溜まっている。しかし伊呂波と一緒なら怖くなかった。

「朝陽」

 伊呂波は朝陽の肩を抱き、耳元で囁いた。
 朝陽が気を許したせいで伊呂波が調子に乗り始めていることは、なんとなく気が付いていた。朝陽を見つめる瞳はいつにも増して愛おしむようで、触れる手も優しい。

 恥ずかしい。

 そう思うが、いつものように拒否出来ない。
 多分、今が伊呂波と向き合う一歩を踏み出す最適なタイミングなのだ。伊呂波は朝陽のことを見ていて、朝陽もいつもより素直な気持ちになれている。しかし、言葉にするのが難しく、口をぱくぱくと動かすのみになってしまう。

「伊呂波」

 二人を包む甘やかな空気は伊呂波を呼ぶ声によって掻き消された。振り向くと、あのオオカミがこちらを見ていた。
 朝陽は一瞬呆けたが、このオオカミが伊呂波の母親だということを思い出し、自分の状況を顧みた。伊呂波にぴったりと寄り添い、更に肩を抱かれている。
 姑の前ではあまり適切ではない距離感に、慌てて伊呂波から離れた。

「千登勢(ちとせ)さん!」
「お義母さん!」

 二人はお互いに顔を見合わせる。

「お義母さんって……?」
「なんでもない! なんでもないから!」

 心の中で勝手にお義母さんと呼んでいたのがバレて、恥ずかしい思いをする。

「あー! えっと、あのー千登勢さん、って……?」

 わざとらしいくらいのオーバーリアクションで声を裏返しながら話を逸らす。伊呂波はそこまで気にしてしなかったのか、すぐに朝陽の話題に乗ってきた。

「あ、このオオカミ、千登勢さんって言って、僕の──」
「もう知っておる」
「え、そうなの? いつの間に?」
「お前が留守にしている間に、じゃ」

 呼び方について、千登勢に突っ込まれなかったのが不幸中の幸いだ。神様は一々細かいことは気にしないのかもしれないが、もし指摘でもされていようものなら、一生引きずる自信がある。

「そっか。千登勢さんと仲良く出来そう?」
「はぇ!? 仲良く!?」
「? うん。そうなってくれたら嬉しいなって」
「仲良く……仲良く……」

 今日初めて会った姑に対して「もう仲良しだよ!」なんて口が裂けても言えない。しかし分からない、とも答えられないから困る。
 伊呂波の天然な質問に朝陽は窮地に立たされた。
 なんと答えるのが正解なのだろう。
 まだ夫婦という自覚すら薄いのに、親族関係で悩むことになろうとは。

「この娘とは良い関係を築けそうだと思っておる」

 見かねた千登勢が先に肯定してくれた。その優しさに、朝陽は一気に千登勢のことが好きになった。

「そっか。…………良かった」

 優しい伊呂波の笑顔に、朝陽の空気が緩んだ。しかし、千登勢は逆に張り詰めた空気で口を開こうとした。が、伊呂波がそれを遮る。

「僕がいなくなっても、みんなで仲良く暮らしてくれたら嬉しいな」

 独り言のように伊呂波が呟いた。
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