上 下
27 / 33

忘れて

しおりを挟む

 伊呂波はなにも喋らない。
 朝陽もまた、声に出していい言葉が分からず、俯きがちに歩いていた。
 木の葉が風に揺られて擦れ合う音がどんどん大きくなっていっているような気がする。人間が奏でる音は消え、生き物の歌声が聞こえ始める。
 気が付けば、完全に人の気配がない森の中まで足を踏み入れてしまっていた。この山の主である伊呂波が一緒にいるため、遭難するようなことは無いと思うが、それでも夜の山道は危険だ。
 朝陽は遠くに微かに見える灯りの方へ戻ろうとした。が、伊呂波に袖を引っ張られ、引き止められる。

「伊呂波……、危ないから……」
「ここは大丈夫だよ」
「でも」

 暗がりで伊呂波の表情が分からず、胸騒ぎが収まらない。暗闇に身を置き続けると、よくないことを考えてしまって駄目だ。
 すぐにでも家に帰って、またいつもの日常を始めたい。
 しかし、伊呂波に戻る気はないようで、どこかに向かって歩き出してしまった。
 伊呂波を一人で行かせるわけにもいかず、朝陽は慣れない山道を下駄で歩く。鼻緒が足の甲に食い込み始め、痛みを感じるようになってきた。こんなことならちゃんと絆創膏を持ってくるんだったと後悔する。

「伊呂波……いっ、」

 歩調の早い伊呂波について行けず、大きく脚を動かそうとして転びかけた。しゃがみ込み足を確認すると血が滲み始めていた。
 これ以上は足手纏いになってしまう。朝陽は伊呂波に声をかけようとした。

「朝陽……!」

 伊呂波は朝陽の怪我に気付いたのか、慌てて傍に寄ってきた。

「ごめん、慣れないもの履いてきちゃったせいで……」
「傷は!? 大丈夫!?」

 片膝をついて、傷の具合を確認してしようとしてくる。無防備な足を眺められるのは恥ずかしい。朝陽はさりげなく手のひらで足先を覆い隠した。

「そんなに大袈裟なものじゃないから大丈夫だよ。…………だけど、これ以上歩き続けるのはちょっと厳しいかも……」
「…………ごめん……」

 それだけ言うと伊呂波は黙ってしまった。
 沈黙が怖い。伊呂波がなにを考えているのか分からず、また言葉が出てこなくなる。朝陽は気まずさに耐えられなくなり、下を向いた。
 と、唐突な浮遊感を感じて朝陽は間抜けな声を出した。

「うわぁ!」

 背中と脚に感じる力強い腕の感触に、朝陽はその腕の持ち主に視線を向けた。

「伊呂波!? なんで……!?」

 大人の姿になった伊呂波が朝陽を抱き上げていた。

「もしかして……!」

 朝陽は感激のあまり伊呂波の首に腕を回して抱きついた。力加減も無視して必死に抱き寄せる。首筋に顔を埋め、思い切り伊呂波を感じる。
 今にも消えてしまいそうだった伊呂波の気配が、腕いっぱいに力強く感じられるようになり、涙が出そうになる。

 伊呂波は朝陽を抱いたまま、ゆっくりと歩みを進めた。全身で伊呂波を感じる時間に気持ちが緩んでくる。目を瞑り、身を委ねる。

「……朝陽」

 しばらくそうしていると、遠慮がちに声をかけられた。

「あ……」

 目を開けると、一面に光の粒が散りばめられていた。

「ホタルだ!」

 いつの間にか川縁にいた朝陽は目の前の光景に言葉を失った。穏やかに流れる川にホタルの光が反射して、実際の数よりかなり多く見える。加えて、月の光が水面に反射して、幻想的な雰囲気を醸し出している。

「綺麗……!」
「気に入ってくれた?」
「もちろん!」
「良かった」

 伊呂波は嬉しそうに笑った。つられて朝陽も笑顔になる。またこうして伊呂波と笑い合えたことに胸がいっぱいになる。
 伊呂波は少し大きめの岩の上に朝陽を下ろした。座っている朝陽と岩の下に立つ伊呂波の目線が丁度同じ高さになる。
 初めて伊呂波と同じ目線で見た光景は、今まで見てきたどの景色よりも綺麗に感じた。
 と、伊呂波はおもむろに朝陽の足に触れた。

「え、伊呂波!?」
「動かないで」

 いきなり肌に触れられて肩がすくむ。朝陽の静止も虚しく、伊呂波は朝陽の下駄を脱がし、傷口に触れた。最初は鈍い痛みを感じたが、次第に妙な気分になってくる。
 伊呂波のしなやかな指が何度も足を撫でる。
 くすぐったい、し、なんか……
 空気を壊したくなくて我慢していると、ようやく伊呂波の手が離れた。
 見ると、傷口は綺麗に消えていた。
 不思議だなぁ、と改めて思う。目の前にいる伊呂波はどう見ても自分と同じ人間にしか見えない。垣根も隔たりもない、ただの人間同士。
 それなのに、伊呂波は神で朝陽は人間という業を背負って生きている。

「朝陽にさ、お願いがあるんだけど」
「なに?」

 伊呂波は朝陽の前に立ち、両手に自身の手を重ねながら口を開いた。
 ホタルの光が伊呂波の瞳をキラキラと輝かせる。ずっと見ていたい、そう思っていると、その瞳が近付いてきた。
 近くに伊呂波を感じる。それだけでこんなにも幸せな気持ちになる。
 朝陽はゆっくりと目を閉じた。

「僕のことは、忘れて」

 想像もしていなかった残酷な言葉に朝陽は目を開けた。瞳を見開き、固まる朝陽に伊呂波は構わず距離を詰めた。頬に手を添えられ、唇が触れる。寸前に。

「え……」

 伊呂波は光に包まれ、そのまま消えてしまった。
 朝陽は動くことができずに、ただただ伊呂波がいた場所を見つめ続けた。飛び散った光はもう伊呂波のものなのかホタルなのか分からない。跡形もなく消えてしまった伊呂波の存在に、ようやく気持ちが追いつき涙が溢れ出してきた。

 朝陽は両手で顔を覆い、大きな声で泣いた。
 しかし、そんな朝陽を慰めてくれる人はもういない。
 泣けば泣くほどその事実が突き刺さり、最後には涙も出なくなった。
しおりを挟む

処理中です...