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学校への復帰と……

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 翌朝、母に車で校門前まで送られた詩奈しいな
 重いリュックを背負い、松葉杖での登校初日が始まった。

 玄関に着き、瑞輝みずき凌空りくが待っている事に気付いた瞬間、不安しか無かった詩奈しいなの顔に、パッと明るい光が差した。
 詩奈しいなのリュックを持った瑞輝みずき

(矢本君と北岡君、私が来るのを待っていてくれたんだ! クラスも違うから、矢本君には、もうあまり会う事も無いと思っていたのに、嬉しい!)

 その嬉しさで、少なくとも今日一日は乗り切って行けそうに思った詩奈しいなだったが……
 
   詩奈しいなのクラスは1組で、幸い階段を4階まで上ってすぐの教室だが、その4階分の階段が思ったより長く、松葉杖では15分以上かかっていた。
 ほとんどの生徒達の登校前に玄関に着いたはずが、途中で登校する生徒達にどんどん追い抜かれ、教室に辿り着くまでには生徒達の2/3以上が席に着いていた。
 
「おはよう」

 久しぶりで、誰に挨拶していいのか分からないまま、手前のドアで先生がするように挨拶した詩奈しいな

 勇気を奮った詩奈しいなの挨拶への返事は、誰からも無かった。

 その代わり、クラスのあちこちから、クスクスと含み笑いのような声が聴こえて来た。
 入院前の詩奈しいなの席は窓際の一番後ろだったが、その席だけ、机と椅子が逆様にされていた。

「誰がこんな事したんだ?」

 座る事が出来ず困惑している詩奈しいなの前に行き、机と椅子を元通りに置いた凌空りく
 その途端、生徒達から冷やかしの声が上がった。
 詩奈しいなが席に着くと、黒板の全体に描かれた落書きが目に飛び込んで来た。
 それは、すぐに自分と凌空りく瑞輝みずきの事だと分かった。
 『祝 ビッチ女の復帰』と大きく書かれ、矢印付きの三角関係の相関図と、2種類の名前の組み合わせの相合傘、ピンクのチョークで描かれた沢山のハート。

 詩奈しいな凌空りくが気付くのを待っていたとばかりに、ますます冷やかしの声が大きくなった。
 凌空りくが無言で黒板を消しかけた時に、ドアが開いて、瑞輝みずきが入って来た。

「ゴメン! 牧田のリュック、そのまま4組に持って行ってた!」

 瑞輝みずきの声に振り向いた詩奈しいなの表情が、先刻、クラスに入る時までの笑顔と全く違っている事に気付き、教室内にいるはずの凌空りくを探した。
 凌空りくを見付けるよりも早く、消そうとしている黒板の落書きの方が、瑞輝みずきの目に留まった。

「感じ悪いな~、このクラス!」

 瑞輝みずきは、クラス内の生徒の顔をぐるりとにらみ付けるように見渡してから、凌空りくと一緒に、もう1つの黒板消しで消し出した。
 瑞輝みずきの後を追って来た、同じく4組の有川若葉わかばも、その落書きを目にして憤慨ふんがいしていた。

「間違えてるじゃん! ここは、私の名前書く所だって!」

 瑞輝みずきの名前の書かれた相合傘の相手が詩奈しいなという事に納得いかず、文句を付けた若葉に、クラス中がドッと笑った。
 彼らの幼馴染みである若葉もまた、凌空りく瑞輝みずきと同様にカリスマ性が有り、女子からも男子からも好かれていた。
 3人揃うと『三貴神』と称され、尊ぶ女生徒達も少なからずいた。
 1組の教室内に3人揃っている間は、クラスメイトからのヒソヒソ声も冷やかしも消えていた。

(有川さん……同じクラスになった事は無くて、初めて近くで見たけど、こんな人目を引くキレイな人だったんだ~! これだけ美人で人気者だったら、矢本君に自分からグイグイ積極的に出る気持ちも、分かる気がする……)

 小麦色の肌に、黒目がちな大きな瞳と口角の上がった美しい輪郭の唇、水着のグラビアアイドルのようなプロポーションの良さが制服の上からでも分かる。
 そんな若葉を眩しい感じに見えるのは、詩奈しいなだけではなく、クラス中の男女も同様だろう。
 人は、自分には到底勝ち目の無いような尊い存在の前では、思い通りの言動が出来なくなるものなのかも知れない。
  
 瑞輝みずきと若葉が4組に戻り、温厚で大人しい凌空りくだけになると、クラスメイト達から容赦無く陰口と冷やかし声が襲い掛かり、詩奈しいなは耳を塞いで机に伏せた。

「止めろよ! 病欠明けの生徒に嫌がらせするのは!」

 普段、声を荒げる事の無い凌空りくが大声で詩奈しいなを庇うと、クラスメイト達は思惑通りと言わんばかりに嘲笑し出した。

「北岡君、4組の矢本君と両天秤にかけられて、本音はどうなの?」

「若葉まで、巻き込まれて、気の毒だよね~!」

「三貴神を従えるなんて、図々しい!」

「牧田なんか、そこまでいい女かよ?」

「そのままずっと入院しとけば良かったのに」

「今更、登校して来ても、誰? って感じなんだけど!」

「体育祭とか、足引っ張られそうで迷惑じゃね!」

 大声で罵声を止めさせようと試みても、余計に彼らをあおる結果にしかならず、諦めて口を閉ざした凌空りく

(これから、毎日、こんな学校生活を繰り返す事になるの……? 小学校の時から今まで、学校は面倒臭いと思う事は有っても、行くのが嫌だった事なんて一度も無かったけど……もう、帰ってしまいたい! こんな状態だと、矢本君や、何より同じクラスの北岡君にすごく迷惑かけてしまう!)

 自分に向けられている仕打ちも辛いが、それにも増して、瑞輝みずき凌空りくを煩わせる事が心苦しい詩奈しいな

「何だか、今日は妙に騒がしいな!」

 担任の浜口正大まさひろが教室に入った途端、生徒達は咄嗟とっさに口を閉ざした。

「えー、約1ヵ月くらい怪我で休んでいたが、今日からやっと、牧田が復帰した。当分の間、まだ松葉杖は手放せない。要領悪かったり、遅れる事も多いだろうから、クラスの皆で手伝ってあげるように! 牧田、そこの席のままで大丈夫か?」

 一番後方の窓際席は、入口からは遠いものの、壁に松葉杖を立て掛けて置く事が出来、詩奈しいなにとっては好都合だった。

「この席のままがいいです」

 松葉杖が他の生徒達の通行の邪魔をしないように、しばらく席替えはしない事を望む詩奈しいな

「そうか、1ヵ月ぶりの登校だから、無理しないように。勉強も付いてくるのが大変かも知れないが、リハビリの合間に復習もしっかりするんだぞ! 何か困った事が有ったら、いつでも相談に乗るから、言ってくれ」

 1時限目の英語の教師が廊下で待っているのが見え、浜口が入れ替わった。

(入院する前までは気付かなかったけど、浜口先生って、意外と親切な先生だったんだ。相談って、クラスメイトの態度が嫌な事とか……? でも、そんな相談して、先生がクラスメイト達を注意すると、絶対仕返しされそう……)

 まだ我慢出来るレベルは、自分の中で堪え、担任には相談しない方が良いと思えた詩奈しいな

 入院中、凌空りくが分かりやすく工夫して書いていたノートを見せてもらっていたが、特に英単語を覚えようとしてなかったせいか、久しぶりの英語の授業は、耳慣れない単語ばかりで、リスニング問題が聞き取れなかった。
 他の教科は、凌空りくからのノートが功を成し、授業が理解出来た。

 困難だったのは、体育の授業。
 まず4階分の階段を下りて行くのに時間がかかり、誰も残っていない更衣室での着替えや、長い廊下を歩いて体育館に行くのにも時間がかかった。
 体育館に付いた時には、もう既に、バスケットボールの練習が開始され、体育館の隅に座り見学した。
 体育が終わると、また長い廊下を歩き、更衣室で着替え4階まで上るのが一苦労で、教室に戻った時には休憩時間も終わっていた。
 
(今までは、4階に上る程度でもダルいと思っていたけど、松葉杖の方がずっと大変過ぎる! 普通に歩いて上れていた事が、どんなにラクな事だったんだろうって、今さら思い知らされた。普通に歩けていたのに、そんな事が、ダルいなんて思ってしまったから、罰が当たったのかな……?)

 詩奈しいなは今週、給食当番の班だったが、松葉杖では給仕出来ないという事で免除された。
 だが、その分、班のメンバー達の負担が増えたというクレームが、詩奈しいなの耳に聞えよがしに届いた。

「ごめんなさい。足が治ったら、その分、連続で給食当番するから」

 と、給食当番のメンバー達に頭を下げた詩奈しいな

「そういう事じゃないんだよね~。結局、治ってからサボった分を取り戻そうとしても、他の班は牧田さんが加わった分ラクになるけど、今の私達は、少ない人数で負担が増えている事に変わりないじゃん!」

 嫌味のように言い返され、閉口した詩奈しいな

「僕が、牧田さんの代わりに入るよ」

 詩奈しいなが責められているのが聞こえ、凌空りくが申し出た。

「北岡君に代わりしてもらえるなら、まあいいけど!」

 給食当番のメンバー達は、それ以上は文句を言わなかった。

「代わってくれてありがとう、北岡君」

「大した事無いよ。給食当番くらい」

 凌空りくのおかげで救われたものの、後ろめたい気持ちは余計に募った。
 そしてそれは、給食当番だけに限らず、清掃の時間にも痛感させられた。

「ごめんなさい、掃除もまだ無理で」

 頭を下げて謝った詩奈しいな

「体育も、給食当番も、清掃も見学ですか~! いいとこ取り過ぎて、良い御身分ですね~!」

「役に立たず迷惑ばっかなら、学校来なくて良くね?」

「今度は、北岡君も別の場所の掃除だから、こっちに来て助けられないし、私達の負担大きいよね!」

(今まで身内以外に面倒かけた事なんて無い生活していたから、怪我するまで気付かなかったけど、自分が役に立たないせいで人に迷惑かけてしまうのって、こんなに心苦しいものだったんだ……まだ松葉杖で出来ない事が多い状態な私が、学校に復帰するのは早過ぎたのかも知れない)

 詩奈しいなは両松葉杖を使用している状態で復学した事を後悔し、放課後、その事を担任の浜口に相談しようか悩んでいると、瑞輝みずきが教室に来た。
 
「俺、今日、部活休みなんだ。下にお母さん来ているんだろ? そこまで、送るよ」

 そう言って、詩奈《しいな》のリュックを持った。

「ありがとう、矢本君」

 登校すると、大好きな瑞輝みずきに逢えるというメリットが大きい。
 辛かったのは、初日で慣れていなかったせいかも知れないと、もう少し頑張ってみようと思った詩奈しいな

「このクラス、陰湿そうだけど、凌空りく、大丈夫だったか?」

 直接、詩奈しいなに尋ねると、遠慮して大丈夫そうに装うだろうと判断した瑞輝みずきは、凌空りくに訊いた。

「よく牧田さんが我慢していたと思えるほど、僕の方が堪えたよ」

「そんなに酷かったのか? 大丈夫か、牧田?」

 凌空りくが率直に伝えると、瑞輝みずきが心配そうに尋ねた。

「うん……想像よりもずっときつかった。クラスメイトの態度もだけど、何も出来ない自分が、すごく情けなかった」

 あまり弱音を吐かない詩奈しいなの切なそうな言葉が、瑞輝みずき凌空りくの胸を締め付けた。

「ゴメンな、こんな事にならなかったら、牧田がそんな思いしなくて済んだのに」

 詩奈しいなの発言のせいで、瑞輝みずきが自身を責めるのだけは避けたいはずだったが、そんな気遣いも出来なくなるほど、今日一日だけで詩奈しいなは精神的にダメージを負っていた。

「僕一人では、牧田さんを庇いきれなくて、ごめん」

 凌空りくも済まなそうに言った。
 あれほど詩奈しいなの為に手伝ったり、庇ってくれていた凌空りくにまで、そう言わせて、自分が嫌になりそうな詩奈しいな

「ごめんね、2人のせいじゃないから! ただ、私、まだ学校に復帰するの早過ぎたのかも知れないって……」

「そんな事言うなよ! 俺も、もっと協力するから!」

 このままでは詩奈しいなが登校拒否しそうな気がして、止めようとした瑞輝みずき
 
「いや、瑞輝みずき。牧田さんが、そうしたいなら、僕は止めない方がいいと思う。あのクラスは、牧田さんにとってかなり苦痛だろうから」

 同じ教室にいない瑞輝みずきには分からなかったが、同じ教室内で様子を見ていた凌空りくが言うのだ。
 相当きつい事態を感じ取り、その状況で詩奈しいなに通学を続けさせるのは無責任に感じた。

「今日だけでは、急に生活環境が変わり過ぎたから付いていけない感覚も有るし……明日も様子見てから、決めようと思う」

 初日の様子だけで即断するのは良くないと思い、瑞輝みずき凌空りくにこれ以上、余計な気遣いをさせないよう、音を上げずにいようと思った詩奈しいな

「そうか。明日は来るんだな?」

 念を押した瑞輝みずき

「うん、明日も登校するから、また都合良い時に手伝ってくれると嬉しい」

 瑞輝みずきが、こうして、自分が登校するのを快く思ってくれている。
 その瑞輝みずきの身近に居たい気持ちが強く感じられる詩奈しいな

 校門から出ると、母の車が道路脇に停まっており、詩奈しいなの姿に気付いた母が出て来た。

「ありがとう、リュックもらうね。また明日!」

 そう言いながら、少し引き攣った笑顔を見せた詩奈しいな

「久しぶりの学校はどうだった?」

 母親には、クラスでの事を話すべきか迷った。
 話すと、また瑞輝みずき凌空りくへのいたたまれない思いが蘇って辛くなる。
 もう一日待ち、それで辛かった時は、母に話す事にした詩奈しいな

「矢本君や、北岡君に手伝ってもらって、助かった! でも、体育とか給食当番とか掃除とか、出来ない事が多過ぎて申し訳無かった」

 その時の心境をなるべく思い出さないように、詩奈しいなは淡々と言った。
 少しでも感情を含めると、涙が止まらなくなりそうだった。

 母は、詩奈しいなの言葉通りだけではない気がしていたが、なるべく本人の感情を逆撫でしないよう、それ以上は何も尋ねなかった。
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