ラジオ体操だいいち

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ラジオ体操だいいち

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いちにち中、寝ていれば幸せだった。
とはいっても、同居している両親、とくに母親から「あんた、嫁に行くあてもないんだし、あたしたちが死んだらどうにもならないでしょ」と背中を蹴られ(比喩的表現、暴力反対)、またわたし自身も「そりゃ、ちょっとでも働いておかないといろいろとまずいよねえ」と思い、週4日だけ事務仕事のアルバイトをしていた。母親からは「ひと月にこの金額は家に入れなさい」と言われ、なんだよバイト生活にとってはきつい金額じゃねえかよ母ちゃん、と文句を言いたくなっても、「まあそうだよね、実家を出ればこの倍は家賃として消えていくだろうな」と蹴られた背中を見ながらわたしのお腹は言うわけですよ。
しかしながら、給料から実家の家賃と自分の必要経費を引くと、洋服買って、アクセサリーも揃えて、それでいていまの感染症蔓延の時代だと外出しないほうが良いからゲームを買って遊ぼうかな、などという贅沢はできるわけはない。
そうなると、必然的に休みの日は家でごろごろすることになる。しかしごろごろするのは嫌いではない。
寝ていれば幸せだ。ふわふわと夢を見るのが好きだ。それしかすることがないけど、幸せだと感じるならまあ悪いことじゃないよね。

週4日勤務だと、平日が1日だけ休みとなる。
その休みの日、お昼を食べた後の午後2時から1時間くらいはいつも自分の部屋のベッドでお昼寝タイムだ。
小学校から使っている部屋で、ベッドに横向きに寝ると、学校入学前におじいちゃんに買ってもらった馬鹿でかい学習机が視界のほとんどとなる。

その日学習机に圧迫感を感じ、そうだ外の風を入れようと窓を開けると、本当に風が気持ちよかった。そういや部屋は締めきっているから暑いんだ。

わたしは、改めてベッドに横になり、そしてうとうとする。このベッドもおじいちゃんに買ってもらったものだけど、それはもうどうでも良いや。そして、窓の外からの風に乗って飛んでくるラジオ体操の曲と快活なナレーション。
わたしは体を起こした。
なんでこの時間にラジオ体操が流れているんだ。
それはかなり遠くから聞こえると思った。ラジオ体操第一というやつだ。ときどき途切れ途切れになったが、おおむねきちんと聞こえた。
今日はどこかで、小学生とその親が集まってときどきビニルシートの上でお弁当を食べたりしながら、玉入れしたり百メートル走をしたりラジオ体操したりする運動会が繰り広げられているのだろうか。それは想像すると、わたしにとってとても安心できる光景だったが、ところで運動会でラジオ体操したっけ。
わたしは自分が見知らぬジャングルにいることを想像した。自分以外人間はいない、見知らぬ虫と鳥と獣のガサガサ動く音に震えながら進むしかない道を進むと、突然視界が開ける。そこは学校のグラウンドの隅で、砂ぼこりとムッとした汗が混じった空気。たくさんの体操着を着た生徒たちがグラウンドの真ん中にいて、スピーカーから明らかに割れているラジオ体操の音楽。よかった、ここはとりあえずわたしが知っている場所だ。
だがやがて、すべてがぼんやりと透けていき、そしていつのまにか消えていた。
ラジオ体操は空気に溶けました。

「ああ、そりゃササグチさんちのおじいちゃんだね」と母は言った。ササグチさんは近所に住んでいる、杖をついて散歩することの多い老人だ。無口だが、近所の住人には会うと軽く会釈をする。
数ヶ月前に、奥さんが亡くなっている。それからずっと独り暮らしだ。バスでちょっと乗ったところに、息子夫婦が住んでいるらしいが、彼らの姿はこの近辺では見たことはない。
「まあ、息子さんの奥さんと仲悪いらしいよ」と母が典型的な噂話をした。
「しかしラジオ体操ね、あの人午後にラジオ体操を庭でやってて、たしか”うちの孫が録音してくれたんですよ”と言っていたんだよねえ、録音だかダウンロードなんだかよく知らないけど、とにかくラジオ体操の曲を持っていて、流しながら動いていたみたいで」
孫。
「でも、どっかからうるさいって文句来たみたいなのよね、最近音楽流さなくなったわ。でも今日は流していたのね」

孫、いい奴だなとわたしは思った。

ラジオ体操を頑張っていた小学生のころを思い出そうとした。だが誰かが記憶を大雑把に吸ったみたいで、クリアな映像がなにひとつなかった。運動会で体操着でラジオ体操したような気がした。いや、夏休みに早起きして目が半分夜中に取り残されたままラジオ体操したような気がした。どうだったかな。なんだかぼんやりしている。
仕方ないね。私の記憶はつぶれた会社だ。いつのまにか机やロッカーやらそういう大道具的なものも撤去され、ほこりだけが残ってる。

ねえササグチさんの「録音」ラジオ体操を聞いたときね、わたし、ジャンプが終わるあたりで寂しい気持ちになったんだよね。夏の祭りの店じまいを見ているような気持ちになって。

うるさいなんて言う奴は、きっとその寂しさを思い出して耐えられなかったのかもしれない。
ラジオ体操のはじまりは、あんなにけたたましくハッピーにまどろみを叩きこわしてくれるのに。

寂しいのはわたしも耐えがたい。耐えがたいね。寝て起きてすべて解決してたら良いのにね。

次の平日休みの日、午後にラジオ体操は流れなかった。
その次の平日休みの日も流れなかった。

さらに次の平日休みの日、わたしがお手伝いの買い物でスーパーに行くと、ササグチさんとすれ違った。ササグチさんは若い男性と一緒だった。ふりかえり、しばらく観察すると、ササグチさんがショッピングカートの持ち手をにぎり、カートによりかかるようにして前に進み、若い男性は杖を持って隣を歩いていた。あれはササグチさんの杖だな。
ゆっくり、ときどき止まりながらササグチさんはきょろきょろする。若い男性はそれをじっと見ている。ササグチさんは、買いたいものを探してるのかなと思う。
止まっている時ふたりは会話しない。だが、しばらくするとササグチさんはまたゆっくり歩き出す。すると、男性もゆっくり歩き出す。
吸った息と、吐いた息みたいに、ふたりで揺れながら歩いていた。

あれはお孫さんかなあと思った。サササグチさんと気の合わないお母さんを持つ息子さんかなあ。彼はときどきおじいちゃんに会いに来ているのかなあ。

ササグチさんはそんなにすばやく歩ける人ではない。きびきびとジャンプできるようにはとても見えない。でも、午後、誰もいない部屋の中、窓を閉めてラジオ体操第一を流して、少しずつ少しずつ、ゆらゆらゆらゆら揺れているのかなあ。

少しばかり、わたしはラジオ体操第一を歌おうと思った。
出だしのメロディは完璧に覚えていた。同時にナレーションをするのは至難の業だと思ったのでしなかった。
スーパーの袋をかかえ、不織布マスクをし、声にあわせてわたしは揺れる。声の揺れと体の揺れがマッチして、2メートル以上離れた場所を通るイチゴ模様のマスクの足の細い女の子が、さらにさらに遠ざかってゆく。そんな大きな声で歌ってないが、きっとなにかうめいているようには聞こえるのだろう。
やあ君、これは、みんな知ってるあのラジオ体操だいいちだよ。

それはラジオ体操ではない、あなたの気持ち悪いうめき声よ。その女の子の後ろ姿は叫んでいた。

そうだね、と、わたしは頷く。
本当にごめんね。
わたしは、ラジオ体操をあるべき場所に、つまりササグチさんと孫に返すことにした。ジャングルの奥に。
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