影のひと

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第4章「影のひと2(完結)」

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カフェの中には、男性がひとりだけ入口付近の席に座ってテーブルの上にコーヒーを残しながら、スマートフォンを見ていた。

僕らは奥の席に座る。
「何か食べますか?」
彼女は首を振って言った。
「コーヒーにします」
「僕も」
と、タロウくんは言った。パンケーキ食べたい気持ちはどっか行ったみたいだった。
まあ、そりゃそうか。
僕もコーヒーにした。

彼女はとくに美人ではなくいくつかしわは確かにあったが、四十代ぐらいに見えた。並木道のカエデと同じくらいの年齢に見える。でもいろいろなことを考えると、実際はたぶん五十代前半なのだろう。
グレーのコートは脱いでいた。中に来ているものは無難な色使いだったが、ところどころ糸がほつれていたり、袖口が黒ずんでいたりした。

コーヒーが三人に運ばれてウエイトレスが向こうへ行くと、影であって風船にもなった彼女は、口を開いた。
「ご迷惑をおかけした上に、話も聞いてくださってありがとうございます」
彼女は、こう言って、話をはじめた。

「わたしが二十歳をちょっと過ぎたころ、大村さんに出会いました。どうやって会ったかは、まあ、ごめんなさい、もうあまり思い出したくはないころの話だからね、言わないでおきます。ひどいところで働いていた。本当にひどいところで、ひどい扱いだった。
そんなところで働きたくもなかったけれども、自分の父親がいなくなってね、働かなくてはならなかったのだけれど、父親の知り合いに紹介された働き先がそこだった。誰か来てくれないかなあってずっと思ってた。辞めても暮らしていけないから、辞められないし、ひどいところでも働いていれば、ときどき自分でケーキでも買って食べられたしね。誰か、誰かがここやめてこっちにくれば?と言ってくれれば辞めるのになあって思ってたわ。

そんなとき、たまたまその店に来た彼が、”もしも美味しいカレーを作ってくれたら、僕が雇ってあげるよ”と言ってくれた。助けが来たのだなと、嬉しくなったわ。
そのころ彼はまだ父親の下で重役として働いていたころだったけど、画家としてはかなりの人気になっていた。無事、カレーで合格点を出したわたしを、彼は2人目の個人秘書にしたの。彼の秘書はもうひとりいて、その人がメインの秘書だった。わたしはまあ、おまけの秘書で、彼は”君には、僕の家で僕の手伝いをする仕事がメインで”ってね」

影と風船だった女は僕らを見た。
僕は、適切な言葉を思い付かずに「そうですか」とだけ言った。
タロウくんは何も言わなかった。

「彼のアトリエには、モデルの女性が何人か来たわ。でもわたしはアトリエには長いこと入らせてもらえなかった。わたしはそのような選ばれた人間じゃないんだよなあと、仕方ないって思ってた。わたしがここにいること自体が恵まれたことだと思ってた。
何度か誘われて一緒に、寝たこともあったわ。
それで十分だと思ってた。
ただ、ある日彼はわたしをアトリエに呼んだの。そして、あの絵を描き始めた。
それが、さっきの絵、”影の人”。

わたしには、完成まで決して見せなかった。
毎日描き終わると、わたしに見せないように鍵のかかる部屋に入れていた。
あの人が、女の人を見る目はね、決して冷たいものではないの。
優しいのよ、本当に。わたしたちの冷たくてひどい部分を引き出しているのにね。そういうものを愛おしいと思っていたのかしら。ちょっと変態よね」

彼女はコーヒーをひと口飲んだ。

「完成したら見せてくれたわ。そのときの衝撃といったら。わかるでしょう?だってわたしがどこにもいないのよ。わたしどころか、生きているものは何ひとつ存在しない絵。
でも彼は微笑んだわ。
”本当の君を描くことができた”って。”本当の自分が永遠に絵の中に残る、そんな機会がある人なんてなかなかいないものだ…”って、ね」

影と風船だった女は微笑んだ。細長いビニールテープが、すきま風に揺れているみたいな笑顔だった。

「そこで、わたしへの興味は終わったのかしらね。そのあと、家に何度かカエデさんが来たわ。モデルになりにね。そしてわたしは、彼の秘書をクビになった。終わったの」

彼女がしばらく黙ったので、僕は質問をした。

「あなたをそうやって捨てたから、恨みに思っていたんですか?カエデさんのことも、その…」

彼女はゆっくりと首を振った。
「嫉妬なんてしてないって思ってたわ」 
そして、コーヒーをまたひとくち飲む。まだ、終わりが来ないように時間をかせぐように。

「わたしはちょっとSFチックな奇妙な世界を体験しただけだって思ったわ。こんなの一時的な旅行みたいなもので、まあ、人生の中でこういう奇妙な経験をすることもあるわね、わたしはまたひどい世界に戻るかもしれないけれど、もしかしたらまた面白い世界がさそってくれるかもしれないし。そう思った。でもそれは間違っていた。まあ、何度も間違えるのが、人生だものね。
わたしはその後、”それほどひどいこと”にはならなかったわ。ただ、ずっと”地中”にいることにはなった。”地底”ではなかったけれどね。

わたしは結局地中をふらふらして、なんとなく、地上の、すきまから入ってくる太陽の光を見ていた。その”太陽の光”の中にいる人が、いつか来てくれるかもしれないって思っていた。しかし誰も来ないうちに、もう、いつのまにか自分の年齢が信じられないくらい、年をとってしまった。
そして…あの人の生き霊を襲ってしまった。憎しみなんてわたしの中にないと思ってた。憎しみというか、激しい感情というものがないと思ってたの。だから、自分で自分がちよっと信じられないの」

「太陽の光」
昨日僕は、太陽の光が入った剣で、影のひとを突き通したのだ。

彼女はそこで、コーヒーを一気に飲み干した。そして、口を真一文字にしたあとで、何かを決意したように言った。

「あなた方、不思議な力があるのね。こんなことお願いする筋合いはないのはわかってるけど、お願いしてみたいの。わたしを、風船にしてくれないかしら」

「は?」
声を出したのはタロウくんだった。タロウくんはさっきから、はあ、とため息を何度かついていたので、あまり楽しくなかったのだろうなとは思っていた。

彼女はタロウくんの言葉を受け止めて、なおかつ続けた。
「おかしなことを言ってるのはわかってる。でも。わたしの魔法みたいなものはさっきのでもうおしまい。あれは本当にわたしの体を変えたわけではなくて、ただの幻だしね。だから、そうね、あなた方の力を借りたいの。私の貯金はあまりないけど、全部あげるわ。だからわたしを風船にしてほしいの。あんなに大きくて不気味なものじゃなくて、スーパーで子どもがもらうようなやつ。ふわふわ空を飛んで、風がふくそのままにね」

「何勝手なことを言ってるんですか」
タロウくんの声は明確に怒っていた。
「あなたはちょっとした力を持っていた。それは誰かに嫌がらせするのではなく、もっと自分の役にたつことに使うべきだったんです。そんなこともわからずに、あなたは無駄に年だけとっていったんですか?もう戻れないくらいに」
僕は、視線でタロウくんに”ちょっと黙っていて”、と告げた。
彼女は、タロウくんのあんまりな言葉を聞いても、表情を変えていなかった。似たようなことは、散々言われたんだけどね、と言っているような口元だった。
「風船になりたい。つまり空を飛びたいんですか?風船より、鳥のほうが良いのではないですか?」
と、僕は聞いた。
彼女は力無く笑って言った。
「鳥みたいに、意志を持ってどこかへ行こうと思うのも疲れるのよ。ただ、風まかせで飛んでいきたいの。だから風船がいちばんなの」
「そうですか」
と、僕はそのあとに
「すみません、そんな力は僕らにはないんです」
と言った。
「霊を追い払うことはできます。魔法をこの空間から消すことはできるんです。でも、人間を別のものに変えることはできないです。すみません。お役にたてなくて」

彼女はさほどがっかりしたようには思えなかった。表情がほとんど変わらない人だった。
「ごめんなさいね、へんなことを言ってしまって」
そして、彼女は財布の中から一万円札を出した。
「わたしはここで帰ります。あなた方、これでパンケーキでも食べて」
一万円札はかすかに、服の防腐剤の匂いがした。
もしかしたらどこかで使う予定の、しまわれていた大切なお札だったのかもしれないと僕は思った。
「あの、最後にひとこと、言います」
と、僕は彼女に言った。
「あなたの魔法が消えてしまったことは、よかったと思います。そして人間が風船になる魔法を僕らが知らないのもよかったと思います。あなたが人間として意思を持ってやるべきことが、まだ、あるのだと思います」

彼女は何も言わず口元だけに笑みを浮かべたあとで立ち上がると、とんとんとんとん、ととくに重さも軽さも感じない足どりで歩いて店を出た。

彼女の輪郭だけが、椅子の背に残っている気がした。

タロウくんは黙っていたが、しばらくあとに言った。
「タカフミくんはまだ、僕のことをまともで優しいと思ってる?」
あのときと同じ、ゆれている声だ。

以前、ふたりでバーで飲んだあと、帰り道をふたりよろよろしながら帰ったときの話だ。
ふたりでかなり酔っ払ってしまい、駅にいたる大通りから何本か中に入ってしまい、さて、駅はどこだったかな、あははは、とお互いアホみたいな顔をして笑っていたのだった。

するとタロウくんは顔を笑いの形のままこんなことを言い始めた。
「なあ、さっきのバーでいた二人組の女性だけどな。オレンジの髪の方」
僕はさっぱり覚えていなかった。
「数日後に、大怪我すると思う。それか、家族が大怪我すると思う」
「そうなのか、さっぱりわからなかった」
僕は驚きながら言った。オレンジの髪の女性がいたことすら、覚えてないのだ。
「でも、僕は何もしない。本当にそれが起こるかもわからないし、そうだとしても、近づいて巻き込まれるのが嫌なんだ」
タロウくんはうつむいて言った。そして、
「もし、気付いたのが君のほうだったとしたら、君はなんとかしようとしたかもな。たとえ、失敗しても」
と、ゆれる声で言った。声がゆれたのは、酔ったせいではなさそうだった。
「何もしないかもしれないよ」
と、僕は言った。それは嘘だった。きっと近づいて、「あなたに危険がせまってます」とか言ってしまつって、女性にカクテルを引っかけられてしまったかもしれない。

タロウくんは、「そっか」と言って、こう続けた。
「僕はタカフミくんといると、ちょっとばかり君から漏れ出た優しさが僕の優しさのふりをしてくれることがある。君が一緒にいてくれると、僕も本当は優しいまともな人間じゃないかと思うことがあるよ」
僕は言った。
「タロウくんは、まともで優しいよ。大丈夫さ」
嘘じゃない。タロウくんはまともで優しいところがあるから、酔ってふらふらになって、そしてほんとうのことを僕に言うんだ。
「ほら、駅が見えて来たよ」
と、僕はその明かりを目にしっかり映して、タロウくんに告げた。

美術館のカフェに、女性2人組が入ってきた。
甲高い声、パフェがどうのという話が聞こえる。
「思ってるよ」
と、僕はタロウくんに言った。
「あの時と変わらないよ。あなたのことを、まともで、優しい人だと思っている」

僕はタロウくんの”影”を見て、心が落ち着いていくことがある。
タロウくんの”影”を見ると、自分が地面に立っているということを思い出すのだ。
僕が地面から飛んでいかないのは、タロウくんがいるからだ。

今日もひとりだけなら、体と精神の疲労に負けてしまい、影と風船だった彼女への最後のひとことも言えなかったと思う。

しかし、僕はそれを彼にうまく言う自信がない。タロウくんを傷つけるひとことになってしまう気がするのだ。

「悪いな」
と、タロウくんは言った。
「大丈夫だよ。なあ、そろそろ腹も減ってきたし、どっかでラーメンでも食べようよ。おごるよ。今日、ついてきてくれてありがとうな」
と、僕は言った。
「ラーメンかよ」
タロウくんの声は、もうゆれてはいなかった。
「餃子もつける」
僕はそう提案した。
「ま、良いだろう」
そう言うと、タロウくんはコーヒーを飲み干した。

「うわ、ぬるいを通り越して冷えてるわ」
と、彼は言った。

(終わり)
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