今日は踊りながら帰ろう

naokokngt

文字の大きさ
1 / 1

今日は踊りながら帰ろう

しおりを挟む
今日は踊りながら帰りたいな。わたしは思う。気分が軽いからではない、逆だ。踊れば軽くなるからだ。踊れば、いろいろなことから解き放たれるだろう。
しかしながら、この前歌いながら歩いたことを思い出した。歌いながら歩いたら、すれ違った通行人に変な顔をされたのだ。
踊りながら歩いたら、まず間違いなくあのときと同じような顔をされるだろうな。もっとすごい変な顔をされるかもしれない。
それはちょっと楽しみだ。
ちょっとは楽しみだけど、やっぱり自分を見て変な顔をされたら、楽しくなるより傷つく部分が大きくて総合するとおおむね傷つくという結論になる。
やはり、踊らないほうがよいだろうか。
わたしの望みは、いきなり怖気づく。

感染症が蔓延する中、いまは7月はじめで、時間はもうすぐ午後6時となる。だが夜はまだだ。夜はどこかでドラマの再放送見ているみたいでまだ出社してこない。ごめん始業時間ギリギリで行くけど、雨雲のあの子がちょっと世間を薄暗くして場を持たせてくれてるみたいじゃん?あの子、大人しそうなのにわりと自己主張するよね。

要するに雲は低く、いまにも雨が降り出しそうだった。傘はあるが、折りたたみだ。降り始めたらかばんから出すのが面倒だなあと思っていた。
空を見ると、雲の上からは青空が待ち構えているような気もするが、それはわたしの気のせいだろう。青空は青空だ。ただ、そこにあるだけだ。待ってなんかいない。ただ、そこにあるだけ。
母親がウスターソースを買い忘れたので、わたしが会社帰りのこれから、スーパーに寄って買うこととなっていた。
わたしという人間は、ずっと家で寝ているのが幸せだった。しかし働けと母に強く言われて働き始めた。最初は週4日でなんとなく働いていたが、徐々に「いつか社会人としてひとりで暮らしていくためには、もうちょっと働かなくては」と思うようになり、会社ももっと働いてほしいんだよね、と望んでいて、そして来月からついに週5日働くことになった。
わたしが「もうちょっと働かなくては」と思うようになったのは、母親の声が徐々に小さくなっていっているように感じることも、原因のひとつかもしれない。
あら、わたしは散歩の時間を増やしているのよ、と母は言う。たくさん歩いているのよ、体は大丈夫なんだから、あんたは何も心配することはない。
でも、スーパーで買い忘れたものがあるならわたしが会社帰りに寄るんだから遠慮なく電話してよね、としつこく言うようはしている。

それにしても、会社は本当に疲れるところだ。だから、さっさと帰って寝たい。しかし今から寝たら確実に夜中に目が覚める。夜中に目が覚めてもそれがどうしたという気もするけれど。朝に目を覚ますことと、夜中に目を覚ますことは違うんだよ、朝の目覚めは囚人の目覚めだが夜中の目覚めは自由人の目覚めだ。言っててよくわからんけれど。
駐車場を横切って、わたしはスーパーの入り口へと向かった。
ああ踊りたいな。ダンスの経験なんてないけれど。歌いながら歩いていたらとても汚らわしいものを見るような目をされたけれど。しかしながら、人前で歌いながら歩くことは、それほど罪深いことなのだろうか。罪だとすれば何罪なのだろうか。騒音による傷害罪?わたしの歌は人を傷つけるのか。ひどいな、わたしの歌は。
「あの」
わたしが自分の歌に懲役何年か決めようとしたところで、誰かに声をかけられたことに気づいた。
「はい、なんでしたっけ?」
「落としましたよ」と、キーホルダーを渡してくれたのは、ランドセルを担いだ、少しくたびれたマスクをした少年だった。
しかし背は高く、165センチのわたしとほとんど変わらなかった。ランドセルは黒色で、かついでいる彼の背中には余裕がありそうだった。いまの子どもは大きいな、高学年だろうか。
「ありがとう」とわたしは言って、渡されたキーホルダーを見た。おいおい家の鍵じゃないか。誰だ落としたの。
「いや、落としたのはわたしか」とひとりでつぶやくと、
「あの?」と言われた。その言葉に少し恥ずかしくなる。
「ごめんなさい、冗談の言い方もわからなくなってるんだよね」
マスクの下は見えなかったが、まなざしの角度から少年は少し怪訝な表情をしていると思われた。
わたしたちの右側で、軽自動車が直進で駐車して、中から大きなかばんを持ったふくよかな女性が降りて早足でスーパーの中へ入っていった。
「わたしはへんな人間なんだよ」とわたしは言った。
「あなたさっき踊りそうな感じでしたよね?」と少年は言った。
「よくわかったね」と、わたしは軽く驚きながら言った。
「僕も踊りたいなと思ってたんです」と、少年は言った。
「なんか嫌なことあった?」
「違います」と、少年は不思議そうな眉の角度で言った。「嬉しかったから踊りたいんです」
「へえ、どんな嬉しいこと?」
「算数がわかったんです。割合が」
「うん、それはよかったね。割合って難しいものねえ」
「放課後、先生に教えてもらって、わかったんです.、テストの点数があまりにも悪かったから」
「へえ、よかったじゃん」と、わたしは笑いかけた。すると、少年の顔が勢いよく広がった。間違いなく勢いよく笑っている。
「だって、テスト28点だったんだ、でも教えてもらったし次は50点行けそうだと思う」
わたしは、数秒あとに聞いた。
「百点満点で?」
「はい」
わたしは何も言わず何度かうなずいた。「まあ、割合って難しいものねえ」ともう一度言った。でも、わかるまで教えてくれた先生も、真っ直ぐついてゆく少年も、この雲を突き抜けて太陽を呼ぶひとすじの光だ。
「わたしも喜びで踊りたくなってきたよ」と言った。
「いいと思います」と少年はにこにこしたまま言った。「でも、これからスーパーに行って、夕ご飯の買い物しなきゃいけないから、ちょっと踊る時間がないです。心の中でおねえさんと踊ることにします」
わたしはその言葉の意味するところをしばらく考えた。
「君が、買い物するの?」
「お母さんがずっと具合が悪いんです」
「それは大変だね」
「でも大丈夫。僕がしっかりしてるから。割合もわかったし」
わたしは改めて、彼のランドセルの肩ベルトを見た。布が裂けているところが右と左、両方ある。ずいぶん古いランドセルなのではないかとふと思った。まるで昔の遠い誰かの時代から続く老いゆく体に鞭打ちながら、これが自分の最後の仕事だと、君のことを守ろうとしているみたいだ。
「そうだね、割合がわかったんだから、バッチリだ。君はすごい。よく頑張ってる」
わたしの言葉に少年の目がもう一段階細くなり、顔がもう一段階広がった。目が、アメリカと中国に片方ずつ飛んでいきそうだ。
「じゃあ」と少年は手を振ってスーパーへと走っていった。
黒いランドセルが彼の背中についていこうと必死にしがみついていた。

彼はわたしに話したかったのだろう。わたしは踊りたい。彼も踊りたい。だから、少年はわたしと言葉が通じると思ったのだ。そして本当に言葉が通じた。

わたしは少しばかり立ち止まり、そして足で地面をとんとんとたたいた。次にどんなステップを踏むべきか。いや、そんなこと考えないで。歩くことは踊ることだ。
雲は相変わらず低いままだ。わたしたちの会話を聞かなかったのか、聞こえないふりをしていたのか。
せめて、彼が家にたどりつくまで、雨よ降らないで、と、わたしの口は言葉を発する。その言葉も踊りの一部だ。
だからゆっくりとわたしは歩く。地面を踏みしめて。空を支えて。

少年よわたしは踊るよ。君の気持ちわたしの気持ち。くらべる数もとにする数。そして君と、わたしと、君のお母さんとわたしの母が幸せであるようにと、いのる。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

麗しき未亡人

石田空
現代文学
地方都市の市議の秘書の仕事は慌ただしい。市議の秘書を務めている康隆は、市民の冠婚葬祭をチェックしてはいつも市議代行として出かけている。 そんな中、葬式に参加していて光恵と毎回出会うことに気付く……。 他サイトにも掲載しております。

パパのお嫁さん

詩織
恋愛
幼い時に両親は離婚し、新しいお父さんは私の13歳上。 決して嫌いではないが、父として思えなくって。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

身体の繋がりしかない関係

詩織
恋愛
会社の飲み会の帰り、たまたま同じ帰りが方向だった3つ年下の後輩。 その後勢いで身体の関係になった。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

処理中です...