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罪人探し編
第38話 開幕「月影遊女」
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舞台は昼と夜の姿が一変する温泉街。
主人公は問屋に勤める生真面目な性格の男。
昼は大勢の湯治客が通りを賑わし、湯気立ち上る湯屋を巡る。幼子がカランコロンと下駄を鳴らし、温泉饅頭を買ってくれと強請る穏やかな風景が見られる。
夜は人通り少なく寂しい景色に、連れ合いを求める者達が色宿を物色し練り歩く。目尻に紅を引いた娼が、チリンチリンと鈴を鳴らして客を引き、温泉で清めた身体を汗ばませる色街と化す。
満月の輝く夜、1人で道を歩いている男が居た。
真面目で誠実な人柄の男は、不埒な目的の為夜歩きをしているのでは無い。偶々家の風呂の具合が悪く工事が必要な為、仕方なしに訪れた湯屋からの帰り道であった。恋人の家の風呂を拝借する事も考えたが、恋人は実家暮らしで、親も下の兄弟も居る。風呂が直るまでは湯屋通いが続きそうだ、と男は真夜中の月を見上げた。淡く優しい月光が夜の空に溶けているようだ。兎が餅を突いているだの、美味そうな蟹がいるだのと見る者によって姿を変える月の姿。恋人は、きっと月には蟹が泳いでいるのだと夜涼みをしている時に言っていた。その答えにしっくりこない男は、強いて言えば兎かと、顎に手をやり考えていた時、近くにある人の疎な色宿の上の部屋、そのカーテンに映る住人の影が動いた。髪の長さと身体の曲線、膨らみからして女だろうと、男はその影を見上げる。女の影は横を向いたり、髪を撫でつけてみたり、己の手を眺めてみたりとその仕草を映し出す。影であっても女は女の嫋やかさがあるものだ、と男は興味深そうに影を目で追う。この夜から、男はこの道を通りがかると、女の影を目にするようになる。月照らす侘しい1人歩きは、影の観察が付き物となった。
一転して昼間の温泉街のシーンに入る。男が朝早く仕事場へ向かう道のりに、知り合いが声を掛けたり、湯屋仕事の歌を明るく歌う湯もみの女達が通り、店の支度をする饅頭屋が湯気を昇らせて客を呼ぶ。観客は楽しげな声を上げ、実際の湯気が上がりほんのり甘い香りが劇場内に流れる。隣同士の客が香りがした!と小さな声で盛り上がる。ニス達も不思議だと顔を見合わせた。
「この香りって、さっきまで無かったよな…?」
「うん…急に甘い匂いが…。あの蒸篭が開いた頃に漂ってきた」
周りの観客と同じように匂いの出所を探すニスとギャリアーに、グンカが解説する。
「後ろを見てみろ」
「後ろ……あっ」
会場の入り口の光が漏れる所で、黒子に扮した劇団員が箱のようなものを団扇で仰いでいる。よく目を凝らすと、その箱を持った黒子は客席から少し離れた所に沢山いる。
「あの箱の中に劇中に登場する匂いを放つ物を入れ、観覧席に香りを流しているんだ」
「あの饅頭の匂いを!?」
「ああ…だが実際の饅頭を仰いだのでは、香りは弱いだろうから、何かで代用しているだろうな。ちなみにこのほんのり甘い香りのする饅頭は、劇場周辺の露店で販売している。きっと我々が購入した劇場限定の食糧は劇中に出てくるだろう」
「演劇の中の登場人物と同じものが食べられるってわけか」
「じゃあ、このサンドイッチも…?」
ニスの手には、3種類の味を三等分にして分けたサンドイッチが入った紙袋がある。ソルトベースは既に食べ終えて、醤油ベースが残り二口、オーロラベースが半分残っている。
「ああ、多分な。パンの焼ける匂いか、バターの匂いか…。カメリア一座の公演は体験も大きな売りとなっている。きっと休憩時間や劇の終わりに露店は人でごった返すだろう」
「はぁ~…買っておいてよかったな」
ギャリアーが串に刺さった肉を頬張る。こちらも良い香りがするが、香りは強く無い。
「香りの強い物の持ち込みは推奨されない。この演劇中の香りが負けてしまうからな。飲食が許可されているのは、劇中の食べ物を買わせるためだろう。きっと休憩時間になったら劇団員があのシーンの饅頭だと言って売り歩くぞ」
「ちょっと気になるかも…」
「美味そうに食べるんだよな」
男が仕事場に着くと、会場も次第に静まって演劇に集中し出す。カメリア一座の裏方達は幕間の時間に間に合うように、大急ぎで限定フードをこさえている。
仕事を終えて家に帰ると、恋人が部屋の前に立っていた。久しぶりの逢瀬に男も恋人も笑顔を見せて、男の部屋で夕食を共にする。家の台所に立つ家庭的な姿に将来の展望を思い浮かべる男。恋人は男の好物を作り、お互いの近況を話しあう。男にとって最近の一番のニュースは、家の風呂が壊れた事であった。しかし男が言った言葉は、「変わりない」であった。恋人が泊まっていきたいと強請ったが、朝も早いと言い含めて家の前まで送っていく。男は恋人の接吻を受けて、家に入るのを見届けると湯屋に向かった。
今夜も月を遮る雲はなく、男の進む道を明るく照らしている。湯屋で汗を流すといつもの道を通り、火照る身体を冷ましながら帰る。針が9を差す頃、男はいつものように色宿の前を通った。男が見上げるのは輝く月ではなく、星々の瞬きでもなく、部屋に移る女の影。今宵もカーテンの向こうに居るようだ、と男は歩みを遅くする。黒い影はどうやら本を読んでいるようで、時々目を覆う髪を耳にかける。その部屋で流れるのんびりとした時間に、男は小さな笑顔を浮かべた。忙しく息つく暇もない昼に積み重なった疲れが、静かな夜に霧散してゆく。ぼんやりと上を見上げる男を、客引きが見逃すはずなく、寄って行かないかと声を掛ける。男は誠実な人柄で恋人以外との触れ合いは罪であると、妄りに関係を持つようなことはしなかった。1時間、いや30分だけでもと縋る客引きに辟易しながら、色宿の上にある部屋の事を聞く。色宿の二階三階も店なのかと聞いたら、客引きは二階は店で、3階の一部は娼達の宿となっていると話した。男が見上げる影の女の部屋は3階。あの部屋は…と質問を続けようとして、客引きはいかにも色宿を探していそうな集団を目にして、すぐさまそちらに移動した。残された男は本を読む影の女を見上げてまた歩き出す。色宿の前を通り過ぎても、その部屋を何度も振り返っていた。
重厚な幕が下りると、1人の劇団員が光のステッキを持って壇上の真ん中に立つ。この男の行く末がどこに向かうのか、煽るような口上を述べて劇場内の光が消灯される。一幕が終わったという事だろう。会場全体の明かりが灯ると、ステッキを持っていたのとは別の劇団員が立っていた。
「それでは会場の皆様、これより15分の休憩といたします。再演5分前になりましたら再度アナウンスを致しますので、暫しご自由にお過ごしください。尚、休憩中会場内に劇中の飲食物販売コーナーを設けますので、よろしければご利用くださいませ」
劇団員がお辞儀をすると、一気に騒がしくなる劇場内で観客達は一斉に席を立つ。気が早い観客は幕間と予想し、明るくなってすぐに動き出した者も居る。3人が後ろを振り返ると、特別販売コーナーは既に人が群がっており、その中にベンガルの姿も見えた。
「案の定だな」
「そりゃあ食べたくなるだろう。俺達のサンドイッチも出てきたな」
「あ、お饅頭を売ってる人がいる…」
ニスが指差す方角には、劇の中に登場した饅頭屋の格好をした劇団員が、湯気の立ち上る蒸篭を持って饅頭を売っている。饅頭売りが通るのは一番広い通路で、ニス達の前も通りそうだ。席に残っていた観客は、その仄かな甘い匂いと湯気につられて2個3個と饅頭を買っている。蒸篭の隙間から、ふっくら蒸したての白い丸が沢山並んでいるのが見える。
「買うか?」
美味そうだと思ったのは3人一緒だったようで、グンカの言葉に2人とも頷いた。前を通ろうとする饅頭屋に声を掛けて3つを紙に包んで貰う。素手で持てない程熱い饅頭に、あちあち言いながら3人一緒に齧り付いた。
「ほわほわしてる…あつっ…甘い…」
「あっつ…!ん~…皮に少し塩気があっていいな」
「うん…美味だな」
饅頭に舌鼓を打ちながら劇について話していると、1人の劇団員がニス達の前に来て立ち止まり、持っている紙と席を確認する。ニスはパンフレットの一件を思い出す。後程席に届けると話していたので、もしかしたらと買い物鞄からチケットを取り出す。劇団員は「あ」と声を上げて、ニスのチケットを見る。
「チケット番号拝見してよろしいですか?」
「はい…」
グンカは何だ?と不思議そうな顔で見ている。
「はい、確認が取れました。こちら、パンフレットでございます。大変ご迷惑おかけしました。お客様がお持ちになっている筆は、当一座のスタア愛用の筆でございまして、よろしければお使いください」
劇団員はカメリア一座と書かれた紙袋からパンフレットを見せると、ニスに手渡し礼をして去って行った。グンカは2人に事情を聞く。乾物屋店員への土産としてパンフレットを買い求めた所サインを書いて貰える事になったのだが、急用が出来て筆と間違えてパンフレットを持って行ってしまった。店に「月影遊女」のパンフレットの在庫がなく、販売担当の劇団員が後程届けると話していた事を伝えた。
グンカが成程と頷いている横で、ニスは紙袋からパンフレットを取り出してみる。表紙はカメリア一座と演目である「月影遊女」の名が記されている。抽象的な絵は、物語の主人公の男が色宿上の部屋の影の女を見上げるシーンを表している。
「ん?ニスの表紙に3人分のサインがあるな」
「本当だ…」
「俺もサイン貰ったな…中の役者紹介のページに……」
ギャリアーは人物の写実的な絵と名前が並ぶ紹介ページを捲りサインを探す。主役級の役者は丸丸1ページを使って紹介され、脇役や裏方は名前だけ記されているようだ。
「これだな…男に想いを寄せる友人役。この人が露店に居たんだ」
「見せ場は程ほどといった所か」
「ニスのは?」
開いて中を見ると、主役の役者から端役まで全ての役者のサインが揃っている。
「あ…サインが沢山…」
「本当だ」
「なに…?」
グンカにパンフレットを渡そうとした時、下に何かが落ちた。3人は床を見るとニスの靴の上に同じパンフレットが落ちているのを発見した。
「2部?」
「ここにメッセージがある…」
「”お連れ様の分もサービスで入れておきました”……こちらもサイン入りだ」
「太っ腹だな……全出演者のサイン入りパンフレットなぞ、ファンなら喉から手が出るほど欲しいだろう」
「店員さん…喜ぶかしら」
ニスがギャリアーに1部渡そうとすると、ギャリアーは遠慮した。
「俺はあまり演劇に詳しくないし…ニスが持ってな。ひとつは店員への土産だから自分用で取っておけよ」
「貴重なものだからな」
2人の勧めでニスは紙袋にパンフレットを戻して買い物鞄に入れた。中に入った大量の飴が邪魔をするが、それをよけて何とか縦に入った。
男は相変わらず湯屋通いを続けていた。風呂はとっくに大工が直して、綺麗なお湯を貯めることが出来る。恋人が来た時には、風呂を沸かしたりもした。愛を確かめ合った夜、隣に眠る恋人に背を向けて男は寝たふりをしていた。あの影の女の姿が脳内にチラつき、今宵はどんな姿をしているのだろうと、ぐるぐると考えてしまう。男は眠る恋人にすまないと言い残し、部屋を出て行った。
湯屋はもう閉まっている時間だった。男は月明かりが照らす道を駆け抜ける。情事の後の疲労を部屋に置き去りにして、燃える心のままにあの影を追う。時計の針は頂点を指し、静まり返った温泉宿を男の呼吸音とサンダルを履いた足音が通り抜けていく。一目でいい、一目…男はついに色宿の前に立った。息を整えながら上を見上げると、あの部屋の明かりは点いていた。しかし女の影はない。男は落胆した。酸素の足りない身体が、秘めた想いを閉じ込めていた枷を脆くした。「俺は…あの影の女に恋をしている」口に出すと、抑え込んでいた切ない想いが一気に胸に流れ込み、男を苦悩させる。面識もない、顔も名前すら知らない。それなのに、あの影が恋しくてたまらない。
男はトボトボと部屋に帰った。音を立てないように、ひっそりと扉を開けて中に入ると、相変わらず恋人は眠っていた。男が夜の街を必死に駆けて、恋する相手に会いに行った事も知らずに。会えなかった落胆を塗り潰せない罪悪感に頭を抱えた。恋人への裏切りとも言える恋心。すまないと口しても、後ろめたい感情が、落胆に勝らない。眠る恋人にもう一度小さく謝って、隣に寝転がり目を閉じた。
主人公は問屋に勤める生真面目な性格の男。
昼は大勢の湯治客が通りを賑わし、湯気立ち上る湯屋を巡る。幼子がカランコロンと下駄を鳴らし、温泉饅頭を買ってくれと強請る穏やかな風景が見られる。
夜は人通り少なく寂しい景色に、連れ合いを求める者達が色宿を物色し練り歩く。目尻に紅を引いた娼が、チリンチリンと鈴を鳴らして客を引き、温泉で清めた身体を汗ばませる色街と化す。
満月の輝く夜、1人で道を歩いている男が居た。
真面目で誠実な人柄の男は、不埒な目的の為夜歩きをしているのでは無い。偶々家の風呂の具合が悪く工事が必要な為、仕方なしに訪れた湯屋からの帰り道であった。恋人の家の風呂を拝借する事も考えたが、恋人は実家暮らしで、親も下の兄弟も居る。風呂が直るまでは湯屋通いが続きそうだ、と男は真夜中の月を見上げた。淡く優しい月光が夜の空に溶けているようだ。兎が餅を突いているだの、美味そうな蟹がいるだのと見る者によって姿を変える月の姿。恋人は、きっと月には蟹が泳いでいるのだと夜涼みをしている時に言っていた。その答えにしっくりこない男は、強いて言えば兎かと、顎に手をやり考えていた時、近くにある人の疎な色宿の上の部屋、そのカーテンに映る住人の影が動いた。髪の長さと身体の曲線、膨らみからして女だろうと、男はその影を見上げる。女の影は横を向いたり、髪を撫でつけてみたり、己の手を眺めてみたりとその仕草を映し出す。影であっても女は女の嫋やかさがあるものだ、と男は興味深そうに影を目で追う。この夜から、男はこの道を通りがかると、女の影を目にするようになる。月照らす侘しい1人歩きは、影の観察が付き物となった。
一転して昼間の温泉街のシーンに入る。男が朝早く仕事場へ向かう道のりに、知り合いが声を掛けたり、湯屋仕事の歌を明るく歌う湯もみの女達が通り、店の支度をする饅頭屋が湯気を昇らせて客を呼ぶ。観客は楽しげな声を上げ、実際の湯気が上がりほんのり甘い香りが劇場内に流れる。隣同士の客が香りがした!と小さな声で盛り上がる。ニス達も不思議だと顔を見合わせた。
「この香りって、さっきまで無かったよな…?」
「うん…急に甘い匂いが…。あの蒸篭が開いた頃に漂ってきた」
周りの観客と同じように匂いの出所を探すニスとギャリアーに、グンカが解説する。
「後ろを見てみろ」
「後ろ……あっ」
会場の入り口の光が漏れる所で、黒子に扮した劇団員が箱のようなものを団扇で仰いでいる。よく目を凝らすと、その箱を持った黒子は客席から少し離れた所に沢山いる。
「あの箱の中に劇中に登場する匂いを放つ物を入れ、観覧席に香りを流しているんだ」
「あの饅頭の匂いを!?」
「ああ…だが実際の饅頭を仰いだのでは、香りは弱いだろうから、何かで代用しているだろうな。ちなみにこのほんのり甘い香りのする饅頭は、劇場周辺の露店で販売している。きっと我々が購入した劇場限定の食糧は劇中に出てくるだろう」
「演劇の中の登場人物と同じものが食べられるってわけか」
「じゃあ、このサンドイッチも…?」
ニスの手には、3種類の味を三等分にして分けたサンドイッチが入った紙袋がある。ソルトベースは既に食べ終えて、醤油ベースが残り二口、オーロラベースが半分残っている。
「ああ、多分な。パンの焼ける匂いか、バターの匂いか…。カメリア一座の公演は体験も大きな売りとなっている。きっと休憩時間や劇の終わりに露店は人でごった返すだろう」
「はぁ~…買っておいてよかったな」
ギャリアーが串に刺さった肉を頬張る。こちらも良い香りがするが、香りは強く無い。
「香りの強い物の持ち込みは推奨されない。この演劇中の香りが負けてしまうからな。飲食が許可されているのは、劇中の食べ物を買わせるためだろう。きっと休憩時間になったら劇団員があのシーンの饅頭だと言って売り歩くぞ」
「ちょっと気になるかも…」
「美味そうに食べるんだよな」
男が仕事場に着くと、会場も次第に静まって演劇に集中し出す。カメリア一座の裏方達は幕間の時間に間に合うように、大急ぎで限定フードをこさえている。
仕事を終えて家に帰ると、恋人が部屋の前に立っていた。久しぶりの逢瀬に男も恋人も笑顔を見せて、男の部屋で夕食を共にする。家の台所に立つ家庭的な姿に将来の展望を思い浮かべる男。恋人は男の好物を作り、お互いの近況を話しあう。男にとって最近の一番のニュースは、家の風呂が壊れた事であった。しかし男が言った言葉は、「変わりない」であった。恋人が泊まっていきたいと強請ったが、朝も早いと言い含めて家の前まで送っていく。男は恋人の接吻を受けて、家に入るのを見届けると湯屋に向かった。
今夜も月を遮る雲はなく、男の進む道を明るく照らしている。湯屋で汗を流すといつもの道を通り、火照る身体を冷ましながら帰る。針が9を差す頃、男はいつものように色宿の前を通った。男が見上げるのは輝く月ではなく、星々の瞬きでもなく、部屋に移る女の影。今宵もカーテンの向こうに居るようだ、と男は歩みを遅くする。黒い影はどうやら本を読んでいるようで、時々目を覆う髪を耳にかける。その部屋で流れるのんびりとした時間に、男は小さな笑顔を浮かべた。忙しく息つく暇もない昼に積み重なった疲れが、静かな夜に霧散してゆく。ぼんやりと上を見上げる男を、客引きが見逃すはずなく、寄って行かないかと声を掛ける。男は誠実な人柄で恋人以外との触れ合いは罪であると、妄りに関係を持つようなことはしなかった。1時間、いや30分だけでもと縋る客引きに辟易しながら、色宿の上にある部屋の事を聞く。色宿の二階三階も店なのかと聞いたら、客引きは二階は店で、3階の一部は娼達の宿となっていると話した。男が見上げる影の女の部屋は3階。あの部屋は…と質問を続けようとして、客引きはいかにも色宿を探していそうな集団を目にして、すぐさまそちらに移動した。残された男は本を読む影の女を見上げてまた歩き出す。色宿の前を通り過ぎても、その部屋を何度も振り返っていた。
重厚な幕が下りると、1人の劇団員が光のステッキを持って壇上の真ん中に立つ。この男の行く末がどこに向かうのか、煽るような口上を述べて劇場内の光が消灯される。一幕が終わったという事だろう。会場全体の明かりが灯ると、ステッキを持っていたのとは別の劇団員が立っていた。
「それでは会場の皆様、これより15分の休憩といたします。再演5分前になりましたら再度アナウンスを致しますので、暫しご自由にお過ごしください。尚、休憩中会場内に劇中の飲食物販売コーナーを設けますので、よろしければご利用くださいませ」
劇団員がお辞儀をすると、一気に騒がしくなる劇場内で観客達は一斉に席を立つ。気が早い観客は幕間と予想し、明るくなってすぐに動き出した者も居る。3人が後ろを振り返ると、特別販売コーナーは既に人が群がっており、その中にベンガルの姿も見えた。
「案の定だな」
「そりゃあ食べたくなるだろう。俺達のサンドイッチも出てきたな」
「あ、お饅頭を売ってる人がいる…」
ニスが指差す方角には、劇の中に登場した饅頭屋の格好をした劇団員が、湯気の立ち上る蒸篭を持って饅頭を売っている。饅頭売りが通るのは一番広い通路で、ニス達の前も通りそうだ。席に残っていた観客は、その仄かな甘い匂いと湯気につられて2個3個と饅頭を買っている。蒸篭の隙間から、ふっくら蒸したての白い丸が沢山並んでいるのが見える。
「買うか?」
美味そうだと思ったのは3人一緒だったようで、グンカの言葉に2人とも頷いた。前を通ろうとする饅頭屋に声を掛けて3つを紙に包んで貰う。素手で持てない程熱い饅頭に、あちあち言いながら3人一緒に齧り付いた。
「ほわほわしてる…あつっ…甘い…」
「あっつ…!ん~…皮に少し塩気があっていいな」
「うん…美味だな」
饅頭に舌鼓を打ちながら劇について話していると、1人の劇団員がニス達の前に来て立ち止まり、持っている紙と席を確認する。ニスはパンフレットの一件を思い出す。後程席に届けると話していたので、もしかしたらと買い物鞄からチケットを取り出す。劇団員は「あ」と声を上げて、ニスのチケットを見る。
「チケット番号拝見してよろしいですか?」
「はい…」
グンカは何だ?と不思議そうな顔で見ている。
「はい、確認が取れました。こちら、パンフレットでございます。大変ご迷惑おかけしました。お客様がお持ちになっている筆は、当一座のスタア愛用の筆でございまして、よろしければお使いください」
劇団員はカメリア一座と書かれた紙袋からパンフレットを見せると、ニスに手渡し礼をして去って行った。グンカは2人に事情を聞く。乾物屋店員への土産としてパンフレットを買い求めた所サインを書いて貰える事になったのだが、急用が出来て筆と間違えてパンフレットを持って行ってしまった。店に「月影遊女」のパンフレットの在庫がなく、販売担当の劇団員が後程届けると話していた事を伝えた。
グンカが成程と頷いている横で、ニスは紙袋からパンフレットを取り出してみる。表紙はカメリア一座と演目である「月影遊女」の名が記されている。抽象的な絵は、物語の主人公の男が色宿上の部屋の影の女を見上げるシーンを表している。
「ん?ニスの表紙に3人分のサインがあるな」
「本当だ…」
「俺もサイン貰ったな…中の役者紹介のページに……」
ギャリアーは人物の写実的な絵と名前が並ぶ紹介ページを捲りサインを探す。主役級の役者は丸丸1ページを使って紹介され、脇役や裏方は名前だけ記されているようだ。
「これだな…男に想いを寄せる友人役。この人が露店に居たんだ」
「見せ場は程ほどといった所か」
「ニスのは?」
開いて中を見ると、主役の役者から端役まで全ての役者のサインが揃っている。
「あ…サインが沢山…」
「本当だ」
「なに…?」
グンカにパンフレットを渡そうとした時、下に何かが落ちた。3人は床を見るとニスの靴の上に同じパンフレットが落ちているのを発見した。
「2部?」
「ここにメッセージがある…」
「”お連れ様の分もサービスで入れておきました”……こちらもサイン入りだ」
「太っ腹だな……全出演者のサイン入りパンフレットなぞ、ファンなら喉から手が出るほど欲しいだろう」
「店員さん…喜ぶかしら」
ニスがギャリアーに1部渡そうとすると、ギャリアーは遠慮した。
「俺はあまり演劇に詳しくないし…ニスが持ってな。ひとつは店員への土産だから自分用で取っておけよ」
「貴重なものだからな」
2人の勧めでニスは紙袋にパンフレットを戻して買い物鞄に入れた。中に入った大量の飴が邪魔をするが、それをよけて何とか縦に入った。
男は相変わらず湯屋通いを続けていた。風呂はとっくに大工が直して、綺麗なお湯を貯めることが出来る。恋人が来た時には、風呂を沸かしたりもした。愛を確かめ合った夜、隣に眠る恋人に背を向けて男は寝たふりをしていた。あの影の女の姿が脳内にチラつき、今宵はどんな姿をしているのだろうと、ぐるぐると考えてしまう。男は眠る恋人にすまないと言い残し、部屋を出て行った。
湯屋はもう閉まっている時間だった。男は月明かりが照らす道を駆け抜ける。情事の後の疲労を部屋に置き去りにして、燃える心のままにあの影を追う。時計の針は頂点を指し、静まり返った温泉宿を男の呼吸音とサンダルを履いた足音が通り抜けていく。一目でいい、一目…男はついに色宿の前に立った。息を整えながら上を見上げると、あの部屋の明かりは点いていた。しかし女の影はない。男は落胆した。酸素の足りない身体が、秘めた想いを閉じ込めていた枷を脆くした。「俺は…あの影の女に恋をしている」口に出すと、抑え込んでいた切ない想いが一気に胸に流れ込み、男を苦悩させる。面識もない、顔も名前すら知らない。それなのに、あの影が恋しくてたまらない。
男はトボトボと部屋に帰った。音を立てないように、ひっそりと扉を開けて中に入ると、相変わらず恋人は眠っていた。男が夜の街を必死に駆けて、恋する相手に会いに行った事も知らずに。会えなかった落胆を塗り潰せない罪悪感に頭を抱えた。恋人への裏切りとも言える恋心。すまないと口しても、後ろめたい感情が、落胆に勝らない。眠る恋人にもう一度小さく謝って、隣に寝転がり目を閉じた。
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静かな契約ざまぁ劇、開幕。
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