灰色の天使

さしみみみ

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灰色の天使

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大勢が住む首都圏よりも遥か北方では、ある年から雪だけが永遠に降り続くようになった。

その原因は、今に至るまで詳しく解明されていないが、その付近に位置する街は幸いにも都市部への人口流入によって元よりゴーストタウンと化しており、残った僅かな人々も続く寒さに耐えかねて、結局どこかへ行ってしまった。
それから、およそ十数年。降り続ける雪と、動かない曇り空と、コンクリートの廃墟群が織りなす荒廃した薄墨色の風景が果てしなく続くこの街は、今や真の意味でゴーストタウンになっていた。なぜなら、そこは一度人の世を外れたような人間にとっては、おそらくこの惑星で一番の居場所だったからだ。

既に感覚の消え失せた足で地面を踏むと、ざく、と何かが割れる固い音が鳴る。見ると、黒いコンクリートの地面が足跡から覗いていて、積雪の下の氷が砕けた音だと気が付いた。そして、自分が立っているのが古い道路の上だという事にも。長く降る雪は、かつての遺構を覆い隠してしまう。
立ち並ぶ崩壊した廃墟団地の間にブランコやすべり台のような古い小さな遊具がある。あちこち塗装が剥がれてみすぼらしいその姿は時折この辺りで目にする凍りついた小動物の骸とどこか似ており、彼らもまた忘れ去られ死んでしまったのだろう、と空想する。
錆びついたブランコの上に置かれていたのは、一つのぬいぐるみだった。おそらく団地の子供が忘れていった物であろうそれは、寂しげに私のことをじっと見上げている。だが、今から元の持ち主へと届けに行ける筈もなく、私はそれを腕に抱きながら軋むブランコに座り込んだ。
ここには、人々から忘れ去られ、捨てられた物だけが静かに積もっていく。
私も含めて。

第4種遺体。それが、私の身に施された枷の名前だった。
第4種遺体とは即ち、本来死ぬはずだった人間が何らかの要因により死んでいない状態を指す。平たく言えば、娯楽映画でよく目にするゾンビのことだ。
真実かどうかは定かではないが、それは一度に多くの人間が死を迎える場でごく稀に発生する。戦場のような場所がその好例で、古い記憶なので少々曖昧なところはあるが、私も前線で銃弾を胸に受けて戦死したはずだった。
第4種遺体の存在は、先行きの見えない最前線では生きる希望として伝わっている。しかし、そうなった人間の迎える末路は全て同じだった。
前提としての話だが、第4種遺体とは死体だ。故に、本来の死体同様に温度の高い場所では腐敗する。
よって、自らの家族に再会するようなことは基本的に望めず、完全に腐りきってしまえばそこで時間切れ。二度と立ち上がることはできない。
だが、私はそうならなかった。この永遠に降り続くかのような雪によって太陽が遮られ、常に低温のこの街でなら、腐敗することなく活動を続けることができたからだ。きっと、私は歴代でも最も長く活動している第4種遺体に違いない。
この街が戦線から歩いて移動できる程度には近くにあったことも大きい。第4種遺体となったばかりの頃は時折道路を移動する歩兵たちや装甲車を遠く目にすることができた。だが、それも5年前ほどからぱたりと見なくなってしまった。
あの戦争は終わったのだろうか。こうなってしまった今はその勝敗に興味はないが、戦後の祖国の社会は見違えるような変化を遂げているかもしれない。どちらにしろ私には関係のない話だ。
偶に、自分の終わりについて考えてみることがある。
皮膚の感覚を失ったこの体は寒さに凍えることもなく、この環境でも多少の違和感はあるものの歩行が可能なくらいには機能していた。この調子で何年も活動が続けられているのだが、いつか死を迎える時が私にも訪れるのだろうか。
死体が死ぬというのは奇妙な話ではあるのだが、それ以上に上手く表現する言葉は思いつかない。私はゾンビというよりも、どちらかと言えば肉体のある亡霊と表現した方が収まりがいい。終わらせようと思えばいつでも手放せるのだから、それすらできない霊よりも少しはましなのかもしれないが。
"私"がもう一度死んだ時、その意識はどこへ行くのだろうか。
私という自我は生前の“私”と同じであるのか。
この体はいつもそんなことを私に問いかける。

件のぬいぐるみを手に抱きながら団地を出たところ、古びた小さな橋の前に出た。人工的で無機質な水路はすっかりと凍りつき、色のない薄暗い曇り空を反射していた。空の色を見るに夜が近いようだ。
この体になってからというもの、私は水も食事も睡眠もその一切が必要となくなり、一日が非常に長く感じられるようになってしまった。睡眠は人生の時間のおよそ三分の一を占めているとどこかで聞いた覚えがある。かつては何とも思っていなかったが、夜というのは実際かなり長い。
暗い間はいつも、街の外れにあるこれまた古いビルの屋上で過ごす事にしていた。
初めは遠くで軍隊の車のヘッドライトの淡い光を見るためにここに来ていたのだが、繰り返すうちにそれがいつの間にか習慣と化していた。
あらゆる物が死んでいるこの街は、常に濃い静寂が辺りを満たしている。石ころが一つ転がってどこかにぶつかったとしても聞き取れるほどに音すらもここでは過去の物となっていた。
だから、すぐに気が付いた。
風を切る音が背後で鳴り、ぺたりと何かが地面に触れる生々しい音がする。
立っていたのは一人の少女だった。

幻覚でも見てしまったのか、と思った。その少女が灰色のワンピースのような服装に身を包んでいたからだ。仮に生身の人間、それも子供であればまず一時間と持たずに凍死する。
よってその正体は幻覚か、あるいは私のような超常現象の類いのどちらかに絞られる。そして、彼女は後者だった。
「こんばんは。ここに居たんだね、探したよ」
少女が私の方を向いて言った。薄手の服からすらりと伸びた手足は細く、その瞳は冷たくも穏やかで、美術館の宗教画の一つから飛び出してきたと言われても信じられる。なにしろ、彼女の背には翼があった。
だが、探したとはどういう意味だろう。向けられた声に応えようとするも、声帯はすでに機能していないため返答することは難しい。
「あぁ、無理はしなくていいから」
幼い見た目とは裏腹に、その声は静かな落ち着きに満ちていた。彼女は吹き付ける風に長い髪を靡かせながら、ひた、ひたと裸足で雪の上に足跡を残して私に近づき、じっと顔を覗き込む。口振りから察するに私が既に死んでいることは理解しているようだ。
「……ずっと、ここに一人で?」
質問に頷く。顔の筋肉は長いこと動かしていないからかとっくに凍りついており、表情を作ることもできなかった。
「少し、君に話があるんだ。失礼するよ」
陰鬱な鉛色の雲から降り注ぐ雪の一つに手で触れ、彼女は私の隣へと座り込んだ。背の翼からふわりと落ちた羽を一つ拾い上げる。だがそれは絵に描いたような純白の翼ではなく、鋼のように重厚な灰色だった。
彼女は何者なのだろう。

「偶に居るんだよ、君のような人は」
霞がかった遠方を眺めながら、彼女はそう切り出した。
「それを何て呼んでるのかは知らないけど……簡単に言えば君は、正しく死ねなかったんだ」
再び私が頷くと、ほんの一瞬目線を落とした後に、彼女は同情するような声色で「ごめんね」と呟く。静かに口から漏らした息は煙のように白く、それは彼女が確かな熱を持っている、つまり生きているという証拠だった。
「……世界がこうなった理由を、知りたいかい?」
そして彼女は、傍らに積もった雪を見ながら問う。私は顔を上げ、光を失った瞳を向けながら返答した。
その答えは意外な物だった。
「別に、誰かのせいって訳じゃない。この星が眠りにつく。それ以上のことはない」
彼女は続ける。
「その原因は色々とあるけれど……これは自然なことだよ。生き物が産まれて死ぬのと同じ。君への例えとしては、あまり適切じゃないかもしれないけれど」
つまり、この世界が終わりを迎えようとしているということだ。
「一つ、君に残酷な事実を告げるけど……覚悟はできてる?」
今更、人だった頃に未練はない。人間に戻れるだなんてことは、初めから思っていない。そんな心づもりで頷くと、私の目に真っ直ぐと焦点を合わせながら彼女は告げた。
「……この星に人間はもう居ない。他の生き物も、そのほとんどが滅んでしまった。生き残ったとしてももう時間の問題だ」
突如として向けられた事実に意表を突かれ、思わず身を引いてしまった。
人間が、もう居ない?
それは、私がこうして北方で街を彷徨っていたたった数年のあいだに人類が何らかの滅亡してしまったという事を意味していた。
「それで、君が居ることを知った。まだ完全に意識が消え去ってない人間は、君しか知らない」
言いながら、彼女は細い指先で私の頬に触れる。
その言葉がどこまで本当なのかは分からない。例えば、彼女が知らないだけで洞窟のような場所で細々と生き残っている人間がまだどこかに居るかもしれない。
だが、仮にそれが真実だとしたらなんと虚しい話だろう。最後の人類は、偶然蘇ってしまったただの死体だっただなど、出来の悪い冗談のようだ。
どちらにしろ、それを確かめる術はない。この体が永遠に生きられるとしても、一人で巡るにはこの世界は広すぎる。
「君がどんな風に生きて、どんな風に死んで、その後に何を思ったのかは分からないけど……このまま、連れていくことはできる」
人間離れした容姿。背に芽生えた翼。そして、連れていくという言葉。彼女が何者であるのかは、私の中では見当がついていた。
「それで、どうする?君が決めてくれ」

目の前に彼女は手を差し出す。
この手を取れば私はきっと身を縛る枷から放たれて、そして正しい形で死ぬ。
きっと、それが最善なんだろう。元より、死ぬはずだった命なのだから。
それでも。
それでも私は、その手を取ることができなかった。既に終わった世に対する人としての郷愁か、あるいは生物としての最後の意地なのか。それは、私には分からない。ただ、この期に及んで芽生えたその感情が、拒絶することを選んでいた。
「……そうか。それなら、君を尊重するよ」
半ば悟ったように彼女はいい、そして口元を静かに微笑ませた。
何の力も持たない一度死に損なっただけの生きる屍。それでも、既に何も残っていないこの世界を手放すことが選べなかったのは何故なのだろうか。
「それじゃあ。また、会えたらいいな」
とん、と彼女は足を地面から離すと、その体は雪となって風に消えていった。

そうして、また次の朝が訪れた。重々しい曇り空の下に廃墟群が立ち並ぶ、死の色に満ちた北の街の景色。
自ら死を拒んだ私を迎えるのはそれだけだ。だが、何故か少しだけそれが輝いて見える。
私はきっと、これからも死に損なった人間として一人活動を続けることだろう。そこに理由や目的はない。残りたいからここに残っただけのことだ。
だから精々、私はこの静かで飾りのない世界をただ見つめていればいい。
一度、拾ってしまった命なのだ。
どこでそれを手放すか、私はまだそれに答えるつもりはない。

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