蝸牛は喪の色に染まる

橘 咲帆

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蝸牛は喪の色に染まる

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 その男は、ふらりと現れた。
 男が進む先には、波のような形に設えられた白菊に彩られた祭壇がある。そしてその中央には、柔和な微笑みをたたえた壮年男性の写真。

 参列者からの侮蔑、好奇、様々な感情を含む視線も、密やかな噂話も、男の歩みを止めることは出来なかった。濡れ羽色の絽の羽織に染め抜かれた、笹竜胆紋ささりんどうもん。着物から透ける白い長襦袢。墨染の裾が足元でひらりひらりと翻る。裾が広がり過ぎないように太腿ふとももの付け根に添えられた手は、白く、細く。筋張っていなければ、女の手といっても差し支えがないしっとりとした手だ。
 不意に男の歩みが止まる。

 一秒、二秒、三十秒。どのくらいであっただろう。暫く立ち止まって祭壇を見つめると、そっと手にした荷物を整然と並べられた椅子の最前列に置く。そして再び歩んで祭壇の前に進み、ゆっくりと腰を折って一礼をした。はらりと頬にかかるショートボブに整えられた横髪は、黒い絹糸のようだ。そして首元には、印された時から最低でも数日経ているはずなのに、赫々と散る痕がくっきりと残り、印した者の執着心の程を窺い知れる。

 男が香をつまみ、目を瞑った刹那。地の底から湧き出るような唸り声を上げて白い喪服を着た喪主の女が男に襲い掛かる。

 元来、この日本に於いて喪服の色というものは、白だったそうだ。婚礼の際に着用した白無垢を仕立て直したそれを喪主である妻が着用する場合、もう誰の妻にもならないという意志をもって着用する。ほんの数日前、故人の死因を知るまでは、喪主の女は二心なく白い喪服に袖を通したことだろう。
 しかし、故人の死因は──。

【腹上死】

 黒い喪服で現れた男の上での死であった。

◆◆◆

 藤沢駅で江ノ電に乗り換えて、数駅。改札を抜けると、いまにも泣き出しそうな空が広がっていた。自宅の最寄り駅から意外にも一度の乗り換えで来られたここは、一時間半に満たない時間で到着出来る。ちょうど匠巳たくみが薄い文庫本を読み終わるほどの時間だった。

 思えば、父は少し前からおかしかった。

「あ、あれ、あの人なんだったかな。あの人おかしかったよな。原付きバイクのこと、いまだにラッタッタとか言っていたおばさん」

 何故原付きバイクの事をラッタッタという言葉に結び付けたのか、その言葉を聞いた当時の幼かった匠巳にはわからなかったが、なんとも楽し気なラッタッタという言葉の響きは印象に残っていた。なんでも昔の原付きバイクのCMで外国の有名女優が発した言葉だったとか。

「保子おばさん?」
「ああ、そうそう。保子おばさんだ」

 保子おばさんは父の母世代であり、匠巳から見ると大叔母に当たる人である。いくつかの会社を経営し、それなりに裕福な暮らしをする國守くにもり家の親戚筋にあって、極々一般的なサラリーマンに嫁いだ保子おばさんは、庶民的な大叔母であった。経済的には匠巳の父よりも遥かに余裕がないはずなのに、何故か気前よく匠巳に小遣いをくれたものだ。年金生活者となり、出歩かなくなった大叔母は、たまに出会って話をする親戚の子どもに浮かれていたのかもしれない。
 そんな印象的な大叔母の名前を思い出せなかった匠巳の父。
 その頃からもう既に病魔の兆候はあったのかも知れない。

 匠巳は美大生だ。
 いくつもの会社を経営する國守家の男ならば、ビジネススクールに通うべきなのに、匠巳は、経営者目線でプロダクトデザインを学びたいなどと、もっともらしい理由をつけて、父とは別の道に進もうとした。もちろん、母は大反対だったが、父はどんな学びも無駄にはならないだろうと、匠巳のわがままを許してくれた。

 ──善き夫、善き父であったのだ。

 だから、本当に匠巳には理解が出来なかった。そんな父が誰にも気取られることなく愛人を囲っていたなどとは。しかも、その愛人は男──。どこでどう時間の工面をしていたのかは不明だったが、愛人宅は匠巳の自宅から電車で一時間半近くかかる場所にある。車で来るならば、もっと時間がかかるだろう。いや、あるいは、父が男を呼び寄せていたのだろうか。

 ところで、谷戸の文字が付く地名は、鎌倉にはそこかしこに見受けられる地名だ。谷戸とは、丘陵地を雨が侵食して出来る谷状の地形の事で、遠くはるか昔から、この地に住む人々は水場が豊富な谷戸沿いに生活の場を持っていた。

 改札を抜けた匠巳は、細く曲がる谷戸の坂道を登っていく。ゆるやかな坂道の右側は家であったり、土留めを兼ねた石垣であったりした。左側は延々と人家が続く。時折長く白い石塀があり、ふんわりと抹香まっこうの香りがする。どうもどうやらそこは由緒ある寺のようだ。寺には見事な枝ぶりの紅葉が何本も植えられており、木々の新緑が目に優しかった。それにしても、じめじめとした空気に張り付くように流れる汗が鬱陶しい。こんな事ならば、やはり全て弁護士任せにする方がよかったかなと後悔した。
 しかし、やがて、その家の前に着くと不思議な達成感を覚えた。

 昭和の佇まい。
 そんな言葉で表されるような家だった。ところどころ欠けた石塀は苔むしている。呼び鈴、呼び鈴と、匠巳は探すが、呼び鈴はない。致し方なくスマホの発信履歴をタップすると、その男の声がした。

『もしもし』
「すみません。國守です。着きました」

 迎えに出ると男が言うので、匠巳は玄関先の植栽を観察した。こんもりとした紫陽花の植栽の下には石蕗がびっしりと生えており、とうとう降り出した雨をぽつりぽつりとはじいている。雨が降って来たとはいえ、いまさら傘を取り出すのも面倒だなと玄関のひさしの下に佇んでいると、からりと軽い音をたてて玄関の引き戸が開いた。

 ──子ども?

 歳の頃は、十歳くらいといったところか。小学生くらいの少年が匠巳のことを迎えた。どうぞお入りくださいとの言葉に、歳の割に大人びた印象を持つ。

 今どき珍しい床の間に掛け軸がある客間に通された匠巳は、その男と対峙した。深々と頭を下げる男は、葬儀の際の羽織を脱いだだけの、墨染の着流し姿だった。

「この度は、ご愁傷さまでございました。また、当家にて最期を迎えられたこと、誠に申し訳なく」

 続く「存じます」の声は小さく、小さく、掻き消えた。

「いえ、謝罪の言葉は要りません」

 謝られても、匠巳はどう返していいかわからなかった。
 床の間を背に、男の真正面に座って男の頭頂部を見つめてはいるが、一向に頭をあげない様子にごうを煮やした匠巳は徐々に不機嫌になる。そこへ、先程の少年が、小さなお盆に日本茶を淹れたものをのせて入って来た。座卓も何もない座敷だったため、少年は匠巳の斜め前に座ると、すっと畳の上を滑らせるように茶托に載せた茶を差し出した。

「粗茶ですが」

 再び飛び出した、少年らしからぬ言葉に匠巳は苦く笑った。
 匠巳が茶を受け取って二、三啜っても、少年はまだそこを去らず、ちらっちらっと匠巳を見上げている。

「大丈夫、美味しいよ」

 安心させるように匠巳が言うと、にっこりと屈託のない笑みを浮かべてぺこりと頭を下げ、茶を乗せて来た盆を小脇に抱えて出ていった。

「可愛い子ですね。貴方のお子さんですか?」

 少年は男に似た顔立ちをしていたため、匠巳が訊ねると、男は答える。

「いえ、姉の子です」
「なるほど、貴方にもどことなく似ているわけだ」
「そうですか? 自分では余り似ていないと思っていました」

 ようやく男は頭をあげたが、どうにも話が続かないため、匠巳は単刀直入に用件を言う事にした。

「父の遺言について、弁護士から連絡があったと思います。父は向こう十年分、月、五十万の金銭。つまり、総額六千万円を、貴方の口座宛に振り込むように、とのことです」
「はぁ」

 なんとも気の抜けた答えだった。

「遺贈。という形になります。遺贈には、もちろん相続税がかかりますので、そのあたりの手続きは、うちの弁護士が相談に乗るそうです」
「はぁ」
「この処置にご同意いただけるなら、書類に印鑑を頂けますでしょうか」
「はぁ」

 曖昧な返答を繰り返す男に、匠巳はイライラした。

「その服、喪に服しているつもりですか」
「だって、こわ……怖、かったんです」
「え?」

 突然震え出した男に、匠巳は戸惑った。

「だって、あの人、僕の上で突然白目を剥いて、泡まで吹いて」

 座敷にあって、男と匠巳の座る位置は離れていたが、男はにじり寄るように匠巳に近づいて来た。

「そう……ですか」
「あの人と僕は繋がったままで……」
「えっと、あの。それに関しては……父との性的な話はちょっと」

 自分の「父」が「男」であると感じる話題には違和感を覚えるはずだ。誰であってもそうだろう。

「あれは、やっぱり僕のせいだ。僕のせいであの人は……」

 匠巳はその言葉に対してそうだとも、そうでないとも言えなかった。父の異変はそれより前に始まってはいたと思う。しかし、死への引き金をひいたのは、男との行為だ。

「あれ以来、うまく眠れないんです。寝ようとするとあの人の顔が、最期の顔が……」

 とうとう男は匠巳にしなだれかかる。

「お金は要りません。どうか情けを……」

 男は、後ろ手に帯の結び目を解く。
 普段匠巳が接している大学の同級生とは全く違う、とんでもない色香だった。いや、これは男だ。しかも、父の愛人だと思うのに、匠巳はくらくらとした。

 しとしとと降り続ける、銀糸のような雨の音。それに負けないように競い合って鳴く鳥たちの声。ピチピチと鳴く鳥もいれば、鶯の声が重なり、さらには鴉の鳴き声が全てを覆う。濃密な湿り気を帯びた空気に、鳥の声。雨が降っているせいで肌寒いのに、音だけは南国のようだ。どこか、近くで一際大きく、名も知らぬ鳥の声を聞いたような気がした。

 ──匠巳と男の唇が重なる。

「舌を出して」

 男が素直に舌を出すので、匠巳はその舌を絡めとり、じゅるじゅると吸い上げた。吸いきれなかった唾液が口の端に浮かぶ。

「ん、ふぅ」

 ちゅく、じゅるとした水音と、男の艶めいた鼻息が座敷に満ちる。
 匠巳は男を押し倒した。

「ああっ」

 匠巳は男の着物を剝いでいく。男締めの金具の場所がわからず、無理に引っ張ろうとしたところで、男の白い手が金具を外す。墨染の着物の前が開けても、そこには白い長襦袢が着こまれている。長襦袢を止めている腰紐にも匠巳がてこずるので、男がその結び目をするりと外した。男は長襦袢の下に何も身に着けていなかった。

「下着、穿かないんですか」

 匠巳の質問に、男は「あんっ」と喘いだ。男の肩先にある、男には似つかわしくないタトゥーに、匠巳は息を呑んだ。

「これは、あの人が……こんな気持ちの悪いものが彫られた男を抱くのは俺だけだって……無理やり彫らせたんです」

 グロテスクかつ写実的に描かれた蝸牛かたつむりのタトゥーが、ねっとりと絡みつくように男の身体を這っている。

「この蝸牛は、俺だって。あの人が……僕の身体をいつも舐めまわしているんだって」

 匠巳はがぶりとその蝸牛に嚙みついた。

「痛いっ、やめてッ──」

 口の中に広がる鉄の味に興奮をした。

 それを皮切りに、がぶり、がぶりと男の身体に噛み痕を刻む。あの日、あの葬儀の日に男に印されていた赫い跡を打ち消すように、それよりも残る痕を刻み付けていく。男は痛みに呻きながらも、しっかりと陰茎を勃たせていた。
 くの字に立てられた男の膝裏を持ち上げ、白い足袋のこはぜを外すと、足袋を畳の上に放った。
 匠巳は男のつま先を食んだ。男の足のつま先は、親指より人差し指が長いギリシャ型と呼ばれる形をしている。ひとつひとつの指に軽く歯をたてて噛むと、男は甘い嬌声をあげた。

 匠巳はヘテロだ。今はちょうど女はいなかったが、別にモテない訳ではない。女とのセックスは経験があった。そんな匠巳ではあったが、躊躇することなく男の中心を口にした。

「あっ、ああっ……きもちいい」

 男は満足気に腰をくねらせた。匠巳の舌使いに合わせるように、自分の悦いところを匠巳に押し付けて来る。じゅぶじゅぶと卑猥な音を立てて匠巳がその頭を上下させると、あっけなく男は匠巳の口中に白濁を散らした。匠巳は吐き出された白濁をさも当然のようにごくりと飲み干す。対する男もその行為を当たり前のように受け入れ、はあはあと荒い息とともに、欲を吐きだした余韻に浸っている。
 匠巳は男の足を高くかかげ、男の身体を二つ折りにする。男は緩慢な動きで自分の両の腕で膝裏を支え、顔をそらした。男のアナルが匠巳に向かってさらけ出された。

「……エロ」

 男のアナルは縦に割れて、ぷっくりと盛り上がり、さながら女性器のようだった。ぷつりと中指を入れれば、中は湿っていて、ずぶずぶとなんなく匠巳の指を飲み込んでいく。

「やぁっ──……」

 こんなに男のここが柔らかいものなのかと、匠巳はいぶかしみ、男のアナルを舐めた。男のアナルは蜜……そう、はちみつの味がする。

「仕込んでいましたか?」

 男は再び、匠巳の問いかけに「あんっ」と、喘ぎ声で答えた。匠巳は舌を尖らせて、男のそこに差し入れた。ぴちゃぴちゃと卑猥な音を立てて出し入れをすると、面白いほど男はあんあんいっている。まっさらなはちみつではないと思う。味付きのローションだろうか。それも、水溶性のさらさらとしたものではない。オイルベースのような、ねっとりとした湿り気で、そこが排泄器官であるという認識がおかしくなるような甘い味だった。
 男が何を思い、下着を身に付けずに墨染の喪服をまとい、自分のアナルにローションを仕込んだのか。匠巳をその身体で篭絡したかったのだろうか。六千万もあれば、男一人の人生、暫く暮らしていけるだろう。匠巳には金がある。父の死をきっかけに、会社の経営からは身を引いたが、都内でも有数の一等地に邸宅を構え、株式も保有している。一人息子である匠巳なので、相続は母と折半ではあったが、男に与えられる六千万という額が遠く及ばないほど、確かに匠巳には金がある。
 匠巳は男のアナルに自分の陰茎を当て、腰を押し付けた。

「す、ごい……きた」

 男の深い吐息が漏れる。男の入り口は匠巳の陰茎を柔く喰らい込み、中に入ればつぶつぶと粒立ち、奥へ、奥へと誘う。俗に言う、数の子天井と巾着とたこ壺という名器の合わせ技。

「うっ……」

 匠巳は小さく呻いた。挿入しただけで意識を持って行かれそうだった。こんなに具合のよい場所に挿れたのは初めてだった。男が白濁をとろとろと吐く。所謂トコロテンというやつだ。感度のよい男の様子に、さらに匠巳は興奮をした。匠巳は夢中になって腰をふった。

「あ、ああっ……まって、止まってぇ。イった、いったからッ……だめっ、だめぇ、またキちゃぅ」

 男は派手な喘ぎ声を繰り返している。そして、ごくりと唾を飲み込むと、「んっ」といきんだ。男の奥の奥が開き、匠巳をぐぼりとはめ込んだ。白い喉は反り返り、半ば開いた口からは。「あーあー……」と上ずった喘ぎとも呻きともとれる声がする。匠巳の目の周りに星がトぶ。びゅくん、びゅくん。匠巳は男の奥に熱を放った。

◆◆◆

 匠巳はゆらゆらと自分の身体と揺らされて目を開けた。

「ん? 親父?」

 そこには匠巳の父がいて、心配そうに匠巳を覗き込んでいた。匠巳は父に謝らなければいけない。謝罪の言葉が口をついた。

「親父、ごめん……俺……」

 そこで、はたと匠巳は気が付いた。

(あれ? 俺、なんで親父に謝らないといけなかったけ? あ、そうだ。俺、親父の愛人とセックスしたんだった)

 目覚めたそこは、匠巳の家族がよく利用をしていた広々としたキャンプ場だった。天気のよい日には真正面に富士山を望むキャンプ場で、大学生になった匠巳はサークル仲間とも連れ立って訪れるようになった。ボツボツと重い音で雨を弾くテント。こんな天気なのに外で寝ている状況って楽しくない? キャンプの醍醐味だよね。と、はしゃいだのは、自分だったろうか。友人だったろうか。

 テントのジッパーを上げて、外に出ると、焚き火タープの下で父が薪を削っている。火口にするフェザースティックを作っているのだ。

(さっき、俺の事揺らして起こしたんじゃなかったっけ? あ、そうか。夢……)

 夢でもいいと思った。父に再び会えたことが純粋に嬉しかった。母にとってはとんだ裏切りをしでかした父だったが、成人息子である匠巳にとっては父に愛人がいたという事実も、まあそんなものかと流せることだ。
 匠巳が近寄って手伝おうとすると、父がシッシッと匠巳を追い払う。シッシッ、シッシッ。その追い払う手先の動きだけが白く浮き出る。

(なんでだよ。雨が降って寒いし、火の傍に近寄りたいだけなのに……)
 
 シッシッ、シッシッ。シッシッ、シッシッ。
 今度こそ匠巳は目を覚ます。

 匠巳の横には男が小さな寝息をたてていた。陶器のように美しい肌が、ぼんやりとうかんでいる。この男の年齢は幾つなのだろう。男の髪の生え際には、よくよく見ると白い筋が見てとれた。

◆◆◆

 匠巳は身支度を調えて、目を覚まさない男を寝かしたままその家を辞そうとしていた。ぎしぎしと鳴る廊下を歩き、玄関まで行くと、そこには茶を出してくれた少年が膝をかかえていた。そういえばこの家には少年が居たのだったと思いだした。うかつであった。先ほどまでの情事を聞かれていたのかも知れないと、気まずい思いをした。

「もう帰るの?」

 玄関の上がりかまちにうずくまる少年の横に腰かけると、匠巳は答えた。

「帰るよ」
「ここに来た人はみんなあいつに騙されるんだ」
「そうなの?」
「うん。もともとは僕と母さんがここに住んでいて、時々おじさんが遊びに来て……」

 いじいじと自分のつま先を弄りながら少年は続ける。

「そのうち、あいつが来て、母さんがいなくなっちゃった。そうしたら僕、おじさんが来た時はおうちから出されちゃうようになったんだ」

 少年のつま先は指の長さがほとんど変わらない、スクウェア型をしていた。その隣に並ぶ匠巳のつま先は靴下に覆われてはいるが──。匠巳はぼんやりと「存外兄弟というものはつま先が似るもんなんだな」と思った。

「それにあいつ、僕のちんちんを舐めるんだ」

 匠巳は、少年に聞いた。

「僕、名前はなんていうの?」

 少年は答えた。

「たくと」
「漢字は?」
「はこがまえにパン一斤のほうのたくみに、ひと
「そっか、匠人くんか」
「お兄ちゃん、また来るの?」
「うん。来るよ。今度来るときは、匠人くんを迎えに来る時だ」

 戸惑う少年を残し、匠巳は玄関を一歩出た。玄関先の紫陽花が雨を受け、揺れていた。
 
─了─
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