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退院の日
しおりを挟む俺はこんな目に遭わせたクソ犬を、ぜったいに殴るとひそかに決意していた。
ぼっこぼこにしてやる。
だからこそ、目的のためにどうするのが最適解か、必死になって考えた。
俺は反抗することを止め、従順になったフリをして、反撃の機会を静かに待つことにした。
その甲斐あってか安定期に入った俺は、婚姻届に捺印することを引き換えに、晴れて退院を認められたのだった。
◇◇◇
退院の日は、薄曇りの空から今にも雪が降ってきそうなあいにくの天気だった。
テレビでは、豪雪地帯に出向いた取材クルーがわざとらしい中継レポートをしていた。
こっちでも初雪かなと、俺は少ない荷物をリュックに詰めながら、四ヶ月近く軟禁されていた病室から空を眺めた。
勝手知ったる退院手続きだ。
わざわざ親に休みをとってもらわなくても、タクシーで帰ればいい。
平日の昼間なんて普通の会社員には仕事があるのだ。大丈夫だからと、両親の付き添いは断っていた。
入院費用は、当然だがアルファ側が負担してくれたらしい。まぁ当然だろう。
この豪華な特別室の入院費がいくらになるのかなんて、怖くて知りたくもない。
それとは別に慰謝料をふんだくってやるんだからなと目論みながら、俺は秘書らしき人に手渡される退院の書類を確認し、必要なものに黙々とサインをしていった。
最後に、相手方が空欄のままの婚姻届に自分の名前を書きながら、ふと疑問に思った。
腹の子どもが目当てだったら、結婚までする必要……ないよな?
何だろう、この違和感。
そもそも本当にもみ消したい醜聞だったら、それこそ秘密裏に処分すればいいだけだろう。何かがおかしい。
疑問に思いながらも、小さな荷物を肩にかけ直しながらくぐった自動ドアの外。
病院の正面玄関前のロータリー、そのど真ん中に、黒塗りのベンツがスッと止まったのだ。
デジャブ。――俺はこの車を、知っている。
「歩さん! 間に合ってよかった!」
人懐こい柴犬を彷彿とさせる青年……いや、発育がいいだけで少年……か?
俺でも知っている都内の名門中学校の制服を着ている少年が、車のドアから嬉しそうに飛び出してきたのだ。
その勢いのまま、俺に抱きついてぶんぶん尻尾を振っている。
さっき俺の書類をまとめてくれていた秘書の男性が無言で封筒を手渡せば、少年は中身をちらっと確認して、婚姻届を宝物だといわんばかりに大切そうに胸に抱いた。
「歩さん、ありがとうございます。僕も一生懸命かけ合ってはみたんですが、さすがに今すぐ法律を変えるのは難しいみたいで。お恥ずかしながら力及ばず、すみません。
でもあのときお約束したとおり、あなたに寂しい思いはさせないと誓います。僕が十八歳になったら、一緒に婚姻届を提出しに行きましょう! それまでこれは、大切に保管しておきますので!」
さすがの俺も、もう分かってしまった。こいつが、俺の、運命の番……。
「あああああああ……」
俺は頭を抱えて、膝をついた。
俺、今まで完全に被害者面してたけど、こんな未成年に……!? 間違いなく俺が加害者だ! 最悪だ! 記憶はないけど、この見るからにいいとこの坊ちゃんの上に、俺が、乗っかったんだな!? 俺のクソ野郎! 性犯罪者め!
そりゃみんな俺によそよそしいはずだ! うおおおお! 死にたい!
「大丈夫ですか!? すぐに医者を!」
「いや、体は大丈夫! 精神的なアレだから! どうぞお気遣いなく!!」
俺は自分の頬を両側から挟むようにバチンと叩いた。
少年の人生を狂わせておいて、崩れ落ちている場合じゃない。どうしていいか分からないけど、一生をかけて償わなくては!
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