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2巻
2-3
「難しいことはありません。僕は化粧品の製造工場と販売店を経営していますので、一緒にコンセプトや色味を考えていただくだけです。権利などの問題で、共同出資とはなりますが」
つまり、前世で芸能人やインフルエンサーがしていた、お化粧品のプロデュースだ。美容部員として働いていた時に、私ならこういう組み合わせでパレットを作る、こういう色が欲しい、と考えることもあった。
(こんな機会、もう二度とないかもしれない……)
前世での憧れが実現できる。それにもうひとつ、お申し出を受けたい大きな理由があった。
「共同開発でしたら、両国間の貿易の活性化にも、お役に立てるでしょうか?」
「勿論です。化粧品は特に、他の品目と比べて取引の数が少ないですから、成功させたいですね」
それは、ロゼリエ殿下の補佐役として書類仕事をしていた時に気がついて以来、ずっと気になっていたことだった。
私たちの国には、素敵なお化粧品がたくさんある。でもずっと閉鎖的な国だったから、未だに他国にはほとんど知られていない。だからどうにかしたくて方法を模索していたけれど……
(隣国の王族のお力を借りられるなら、この機会を逃す手はないわ)
共同開発の商品をきっかけにして、他の商品の流通も促進できればと考える。きっと殿下も同じ考えがあってご提案くださったのだろう。それに、外から様々な感性を取り入れてこそ、流行も商品も、新しいものが生まれていく。
(ただ……ぽっと出の私が殿下と共同開発をして、反感を買わないかしら?)
殿下がおっしゃるには、私はこの国で多少知名度があって好意的に噂されているらしいけれど。
「光栄なお申し出で、ぜひともお受けしたいのですが……」
一緒に共同開発となると、既婚者とはいえ殿下との関係を疑われたり、疎まれたりするのではないか。殿下の事業の不利益になったり、ラーナ家が批判を受けたりしたらと思うと簡単には頷けない。懸念を素直に口にすると、クレセット様がさらりと解決策を口にした。
「メリーナ、心配はいらないよ。君は未婚の令嬢ではなく、伯爵夫人だ。商品を世に出す際に夫の私が後援していると発表すれば、殿下との仲を疑う者はいないだろう」
いつもクレセット様に助けていただく形になって、心苦しいけれど……
「クレセット様、ありがとうございます。私、精一杯頑張ります」
「それでこそ君だ。応援しているよ、メリーナ」
クレセット様は微笑んで、背中を押してくださった。
「私は戦争を回避する。君は両国の貿易を活性化させる。立場は違うが、共に成し遂げよう」
「はい、クレセット様」
優しい手つきで髪を撫でられて、自然な仕草で額にキスをされる。王族の方々の前なのにと思いながらも、殿下方の「あれはクレセットで間違いないよな?」という声が楽しそうであることに甘えて、私はクレセット様を押し返すことはしなかった。
「殿下。それではまず、契約書の作成からお願いします」
「勿論だよ」
利益は均等に、発売時期は同日、その他にもクレセット様と殿下は次々と条件を出していく。
(私ひとりでもできるように、しっかり覚えないと……)
同じような状況が訪れた時に備えて、集中して頭に叩き込む。
クレセット様は、国防に関わるお仕事をされている。貿易を活性化させて外貨を稼ぐことも、国力を強くすること。それは、国を守る一端を担えるのではないだろうか。
(小さなことからでも、私にできることをするのよ)
頭の中で整理しながら覚えて、お二人の話が終わったところで、クレセット様は突然私の手を握った。その一瞬は優しい微笑みを浮かべていらしたのに、王子殿下に視線を向けるとまた深刻なお顔に戻る。
「それから、妻の侍女であるマクガヴァンに、私の代理権限を与えます。必ず彼女を同伴させ、妻と二人きりにならないようお願いします」
「彼女をクレセットと思えということか。いいよ。誤解されて君を怒らせるより、よっぽどいい」
王子殿下はすぐに了承された。
「それにしても、あのクレセットが、こんなにも愛妻家になるとはね」
「私自身、予想していませんでした。それから、もうひとつ。猫を被るのはおやめください」
「クレセットには言われたくないな」
穏やかに微笑む殿下を、クレセット様はただ静かに見据える。
「そう睨まないでくれ。僕も大人になって落ち着いたんだ。これが今の僕だよ」
「……左様ですか」
「君が変わったように、僕も姉上も変わったんだ。昔のように剣だけでなく、これからは言葉で対話したいと思っているよ」
お話から察するに、お二人は剣で交流を深めていたらしい。私の侍女であり護衛でもあるサラさんとクレセット様のご友人のセドさんも、同じように剣で交流しているため、それもひとつの形だとすんなり納得できた。
私の知らないクレセット様の一面を、少しずつ知っていくのが嬉しい。でもやっぱり、少しだけ妬いてしまった。
そんな私の内心など気づくはずもなく、穏やかな顔のままの殿下が私に向き直る。
「ラーナ夫人。……いえ、メリーナ殿。僕のことは、ヴィンスと呼んでください」
「大変光栄ですが、王族のお方を愛称でお呼びするのは……」
「クレセットの奥方なら、僕の姉も同然です。僕はクレセットの一つ年下ですし、クレセットは兄のようなものですよ」
クレセット様が小さく、どの口が、と呟いた。私が思っている以上に、仲が良さそうだわ。お父様同士がご友人なら、クレセット様と殿下も、本当に兄弟のような関係かもしれない。
「それでは、畏れ多いことですが、お言葉に甘えます。ヴィンス様」
そうお呼びすると、ヴィンス様は花が綻ぶような笑みを浮かべた。お顔立ちは前世で見た海外モデルのような美しさと格好良さを兼ね備えているけれど、雰囲気と髪がふわふわしていて、なんだか可愛らしい。
「殿下。せっかくの機会ですので、昔のように剣の手合わせをいたしましょう」
「嫌だ。手を怪我したら化粧の研究ができないじゃないか」
「怪我を負うほど、剣の腕が鈍ったとでも?」
「鈍ってないけど……嫉妬して僕に当たるのは格好悪いよ」
「当たってなど。私はただ殿下に、妻に近づく害虫になってほしくないだけです」
爽やかな笑顔でおっしゃると、ヴィンス様はぴたりと動きを止めた。
「クレセットは、本当に変わったな。前に会った時はいつもピリピリしてて、僕も姉上も君が怖くて、剣を持ってしか近づけなかったのに」
兄弟のような関係かもしれないと想像した矢先にこんな会話を聞いてしまい、そうではなかったのかしら……とこっそり内心で軌道修正を試みる。剣で会話をしていた、というのも、そもそものきっかけは、当時のクレセット様に丸腰では近づけなかったからかもしれない。
「それがこうして、君が地雷を踏まれたとあからさまに主張していても、会話が続けられるなんて。クレセットを変えたメリーナ殿は、偉大なお方だ」
「妻は、聖母であり女神です」
(過大評価がすぎるわ……)
王族の方の前だというのに、クレセット様は小さくなった私をまた抱き寄せて、愛の言葉とともに私の髪にキスをした。
その後、クレセット様は軍の方々と会議を始め、私は客間へと案内された。
リビングと寝室が分かれていて、どちらからも海が見える素敵なお部屋だ。室内の装飾には貝殻でできたものもあり、まるで人魚姫のお部屋みたいだった。
(ヴェロニカ様は、着替えまで用意してくださったのね)
部屋の物は自由に使っていいと許可してくださった。クローゼットにたくさんかかっているドレスやワンピースも含まれるようで、どれもサイズを調節して着られるタイプだ。旅行用に持参した私の服は街歩き用だから、お城で過ごすには向かない。
(この国のドレスは動きやすそうね)
スカートの生地は張りがあって、華やかな刺繍が施されている。ふわりとしたデザインなのに、下にパニエはない。
上は柔らかい生地のブラウスだけど、その上にジャケットやベストを重ねるらしく、袖がヒラヒラせず邪魔にならない。腰に巻く白い布にも美しい刺繍が施されていて、後ろで結ぶとリボンのようで可愛い。その他にも、色とりどりのスカーフが並んでいた。
(このスカーフ、髪に結んでも、編み込んでも可愛いわね)
廊下で見た人たちは、髪を覆うか結ぶか、もしくは首元に結んでいた。それ以外は見なかったけれど、ヘアバンドのようにしても可愛い色とデザインだ。
「サラさん、少しいいかしら?」
「……はい」
サラさんのまっすぐで綺麗なマロンブラウンの髪には、どんな色が合うかしら? ミルクティー色の瞳に合わせて、優しい色もいいわね。大人っぽい雰囲気だから、寒色や鮮やかな色も似合いそうだわ。でもやっぱり、雰囲気を変えて可愛くしてみたい。
スカーフを持ってワクワクする私に、サラさんは一瞬表情を硬くしたけれど、何も言わずにドレッサーの前に座ってくれた。
そして、その晩。
「メリーナはベッドを使ってくれ」
「いえ、私がソファで寝ます」
「君をソファで寝させるわけにはいかないよ」
私たちは、新婚旅行の二日目と同じ会話をしていた。
クレセット様は先程、おやすみ、と言って自然な流れでリビングに行こうとされていた。でもクレセット様は明日から戦争回避のための大事な会議が続くから、睡眠不足になってはいけない。どう考えてもベッドはクレセット様が使うべきだわ。
「クレセット様は、しっかりと心身を休めるべきです」
「君がソファで眠ると思ったら、とても心が休まらないよ」
「大丈夫です。私は狭いところで寝ることに慣れていますので」
「だからこそ余計に、ベッドで寝て欲しい」
失言だったと思った時には、輝く笑顔のクレセット様に、パタリと扉を閉められていた。私は寝室側。クレセット様はリビング側。ドアノブを押さえられているのか、びくともしない。私は扉を叩いて、不服を訴えた。
「クレセット様っ」
「今日は船での移動もあって疲れただろうから、君がベッドを使ってくれ。明日は、私が使わせて貰うよ」
「そうおっしゃって、明日も私をこちらに閉じ込めるおつもりでしょう?」
私を大切にしてくださるお気持ちは嬉しい。でも、私は公爵家で硬くて狭いベッドで眠っていたからこそ、ソファでは疲れがしっかり取れないことを知っている。
「……君を屋敷に閉じ込めて、私だけのものにしたいとは思っているよ」
「っ!」
「おやすみ、メリーナ」
「…………おやすみなさい、クレセット様」
離れていく靴音を聞きながら、私はその場に座り込んだ。ドアノブはもう動くはずなのに、私はその扉を開けられない。
(本音、かしら……)
声がいつもより低かった。もし今の言葉が本音なら、私は思っている以上に愛されているのではないだろうか。
(……誤魔化されてしまったわ)
明日は寝室で寝てくださるという約束を取り付けられなかった。なんとか立ち上がってベッドに横になっても、また先程の言葉を思い出してしまう。
妻になって二年近く経っても、クレセット様の溺愛にはまだ慣れない。それどころか毎日ドキドキさせられてしまう。窓を開けると、心地いい潮風が、火照った頬を冷ましてくれた。
◆
この国の夜は、空が少しだけ明るい。それは、漁に出る大量の船の明かりが空を照らしているからなのだと、クレセットは知っている。
部屋の窓からはその光景は見られなかった。滞在中に、メリーナを連れて見に行ってみようか。遠くで煌々と灯る明かりに負けないくらいに瞳を輝かせて、その光景を見つめるのだろう。想像して、クレセットは頬を緩めた。
だが、自分に近づく足音を聞き取った途端、すぐに表情を消す。振り返ると、ヴェロニカが立っていた。
「クレセット、眠れないのか?」
「考え事をしていました」
「そうか。思考を整理する時に外を歩く癖は、昔から変わっていないな」
ヴェロニカは懐かしむように目を細めた。
「初めて会ったのは、お前が十一の頃だったな」
ヴェロニカは当時十二歳。ヴィンセントは十歳。長男の第一王子は十六歳で、後継者としての教育もあったため、歳の近い三人で一緒に遊ぶよう言われていた。
だが当時のクレセットは、後になって振り返れば自分でも分かるほどに、二人と同年代の子供と言うには意識や言動が違いすぎていた。ちょうどラーナ家の仕事に直接携わるようになった時期で誰も寄せつけないようになっていたのだ。
最初の頃、ヴェロニカとヴィンセントには、視線を向けただけで怯えられた。だが、自衛のためだったのだろうか、剣を持って近づいた彼らに、少しだけクレセットの中で興味が湧いた。クレセットとしては、手にしている剣自体に関心があったのだが、彼らからしたら自らが関心を引けたと思ったのだろう。剣で勝負だ、と張り切られてしまい、軽くあしらったものの、それがきっかけで彼らの元来の負けず嫌いが開花する結果となった。
そこからは、ラーナ家がこの国に滞在している間、会話らしい会話もなくただ手合わせばかりしていた。クレセットにとっては、ただ面倒な相手に絡まれたという記憶しかない。彼らと兄弟のような関係だったかもしれないと思っているメリーナには、とてもではないが言えないことだ。
「兄上もお前に会いたかっただろうが、あいにく今は、洪水の起きた東部地方で対応に当たっている」
「王太子殿下には後日、改めてご挨拶に伺います」
「そうしてくれ。兄上も喜ぶ」
唯一王太子だけは、クレセットとまともに会話をした人物だった。その内容は国の防衛についてという堅苦しいものだったが、話は弾んだ。
この国は、王太子である長男が政治を、長女のヴェロニカが軍事を、次男のヴィンセントが貿易を担っている。軍事と貿易の全権を弟妹に渡しても一切の淀みなく機能しているのは、ただ仲が良いからではなく、王太子に周囲を上手く従える能力があったからだ。それをクレセットも評価している。
「それはそうと、悩み事か?」
ヴェロニカの言葉に、クレセットは思案する。
頼めばメリーナと別の部屋にして貰えるだろうが、夫婦仲が悪いのかと疑われてしまう。城の者に知られれば、自国ほどではないにしても、メリーナが不当な扱いを受けるかもしれない。可能性が少しでもある限り、迂闊なことはできなかった。結局は、寝室とリビングで分かれて眠るのが最善だった。
「妻が可愛くて困っております」
「ただの惚気だったか」
ヴェロニカは肩を竦めた。
「だからこそ、メリーナを傷つける者は、誰であろうと許してはおけません」
「分かった分かった。遠回しに牽制されてるんだな? 王族相手に喧嘩を売るのは、お前の一家くらいだよ」
楽しげに笑うヴェロニカ。これが他の王族と伯爵であれば気分を害するだけでは済まないところだが、ラーナ伯爵家だけはそれを許されている。
「これからもラーナ伯爵家だけは、私たちに遠慮なく苦言を呈してくれ」
「父から聞き及んでおりますので、元よりそのつもりです」
「父たちのように、私たちも親しくなれればと思うが……いや、もう親しかったな」
そんなつもりはない。赤の他人とまでは言わないが、親しくなった過去もなければ、親しくなる予定もない。
遠慮なく嫌そうな顔をするクレセットの肩を、ヴェロニカが、冗談だ、と拳で小突いた。
「お前の父君が母君を見初めた理由は、私も理解できる。母君は自ら戦えるからな。だが、メリーナ殿のことはまだ理解できない」
「構いません。これ以上メリーナと親しくする者が増えても困りますので」
「嫉妬深い男に育ったものだ」
クレセットがあからさまに嫌悪感をぶつけても、ヴェロニカは意に介する様子を見せない。だがすぐに笑みを消し、クレセットを見据えた。
「クレセット。お前は、私と結婚するものと思っていた」
「そのような話は父から聞いておりません」
動揺することなく、淡々と答える。昔のように感情を消した瞳に、ヴェロニカは一瞬怯んだものの、目を逸らすことはしなかった。
「……お前は変わったが、本質は変わらないな。帰国したら、母君にまた手合わせをしたいと頼んでおいてくれ」
そう言い残し、ヴェロニカは元来た道を戻って行った。
その姿が見えなくなり、クレセットは息を吐く。そのまま、一般人であれば誰もいないように見える方向へと声をかけた。
「二人きりではないから、問題ないだろうか」
「殿下も私の存在にお気づきのようでしたので問題ありませんが、後々誤解を生まないよう、奥様にはここで殿下にお会いした旨をお話しすべきかと」
柱の陰から現れたサラは、冷静に答える。クレセットが部屋を出た時から後をつけてきていた。勿論クレセットも最初から気づいており、ヴェロニカと二人きりになる可能性を潰すために、隠れての同行を容認していたのだ。
「話すことで、メリーナに誤解させる可能性は」
「話さずに誤解させてこじれる可能性の方が高いかと」
「そうか」
だが、どう言えば誤解されないだろうか。また頭を悩ませ始める。
「それから、事後報告にはなりますが、奥様の護衛はシュタイン令息にお願いして参りました」
サラの言葉は、ヴェロニカの出した伝令が早々に到着し、国王からの返答を持ったセドが送られてきたことを意味していた。
いい人選だ、とクレセットは内心で頷く。セドは優秀な騎士であり、クレセットの昔からの友人だ。突然隣国に滞在することになったクレセットが、愛する妻の護衛として、公私共に信頼できるセドを呼んだと思わせることができる。そしてセドも、その演技が充分にできる技術があった。
それにセドなら、この国の騎士たちと共に敵対国の情報収集や整理をして欲しいと頼んでも、歪曲されない情報を持ち帰ってくれるだろう。クレセットは、ヴェロニカから何らかの目的があって情報を制限される可能性も視野に入れていた。
「急に呼び寄せたから怒っているだろうな」
王城とはいえ、誰が聞いているか分からない。クレセットも演技を加えるが、半分は本音だ。
「夜でも明るい空が見られて役得だと、笑っておられました」
「……それは本当か?」
「はい。あれほどできたお方が、何故未だに独り身なのか理解に苦しみます」
それをセドの前では言ってやるなよと、伝えるべきか悩む。セドはサラに恋をしているが、サラはその気持ちに全く気づいていない。時々それが不憫になる。だがメリーナから、二人のことは二人で決めていくべきだと言われている。ここは口を噤むことにした。
再び息を吐き、空を見上げる。そして、今更ながら後悔した。閉じ込めて自分だけのものにしたいと思っていることを、メリーナ自身に伝えてしまった。気持ち悪い男だと嫌悪されたかもしれない。明日、どういう顔で会えばいいだろう。
「メリーナに愛想を尽かされたら、私はどうすれば……」
「追いかければよろしいかと」
「……そうだな」
追いかけた先で拒絶されたらどうすれば、という弱音は、さすがに呑み込んだ。
◆
「女神か……」
翌朝。着替えを終えてリビングの扉を開けると、クレセット様は私を見つめて、そうおっしゃった。今日はこの国のドレスを着て、髪には美しい柄のスカーフをヘアバンドのように巻いている。
「メリーナ。君はいつも美しいが、違う装いも女神のようだよ」
「ありがとうございます、クレセット様」
クレセット様はいつも、私が服や髪型を少し変えただけでも気づいて褒めてくださる。私も最近では照れずにお礼を言えるようになった。……クレセット様の手が私の髪に触れて、甘く微笑まれるまではだけれど。
「あの、マクガヴァン令嬢……」
少し離れたところで、セドさんの声がした。紺色の軍服を纏った、炎のように赤い髪の男性だ。瞳は鋭い金色をしているけれど、明るい笑顔と雰囲気が可愛い印象を与える。セドさんは私の護衛という名目で国王陛下から派遣されたとおっしゃっていたから、この部屋にセドさんも一緒にいることに驚きはない。
私のメイドのドロシーとデイジーと、他の従者たちは、クレセット様のご指示でこの国に入る前に帰国していた。きっと何かあった時に、大人数だと守りきれないとご判断されたのだろう。
(サラさんには侍女と護衛とメイドの仕事を兼ねて貰うことになるから、負担をかけてしまうわ)
とても申し訳なく思う。でも、せめて身支度くらいはと自分で済ませたら、準備を手伝いにきてくれたサラさんに寂しげな顔をされてしまった。
そんなサラさんのお部屋にも、この国のドレスや小物が用意されていた。私の部屋を訪れた時にスカーフを使っていなかったから、せっかくだからと説得して、髪を緩い三つ編みにして明るい色のスカーフを編み込ませて貰った。
「マクガヴァン令嬢、その……とても、似合っています」
「ありがとうございます」
セドさんが爽やかな笑顔で褒めると、サラさんは淡々と返す。セドさんの本心からの褒め言葉を、サラさんはいつも社交辞令と思っているのよね。
(セドさんも褒める時に、急に社交界で見せるような笑顔になるのだもの)
そうしないと緊張して言えないのかもしれない。気持ちは分かるけれど、見ていてもどかしい。クレセット様も心配そうに二人を見つめていた。
そこで朝食が運ばれてきて、サラさんは私のそばに立ち、セドさんは扉を開けに行く。クレセット様も表情を消して席についた。三人ともいつもながら公私の切り替えが見事で、私も見習いたいと思った。
食事を終えたところで、クレセット様は深刻なお顔で、話があるとおっしゃった。
「昨夜遅くに歩きに出たところ、王女殿下に偶然会って話をした。マクガヴァンもいて二人きりではなかったから、誤解しないで欲しい」
「私は王女殿下が接触する可能性を想定して、旦那様をつけていました。決して二人きりで出かけたわけではありません」
サラさんが淡々と補足する。
「……二人揃ってそんな真剣な顔で言われると、逆に怪しいなって思うものですけど、一切そう聞こえないのがすごいですね」
セドさんの言葉に同意すると、やっぱりそう思いますよね、と苦笑を返される。クレセット様とサラさんはピンときていないみたい。
「普通なら、夜中に二人きりで出かけたことを誤魔化してるみたいに聞こえるはずなんですけど」
「お仕えする旦那様です。ありえません」
「ですよね。ありえませんよね」
「サラさんも、クレセット様も、誠実なお方ですもの。もしヴェロニカ様と二人きりだったとしても、疑いませんよ」
好きだからこそ、嫉妬と不安はあるけれど……それを言葉にしたら、クレセット様を信じていないように思われてしまう。この国には戦争を避けるために滞在されているのだから、私のことで余計な心配をおかけしたくなかった。
(クレセット様から、身に余るほどに想っていただけているのに……)
つまり、前世で芸能人やインフルエンサーがしていた、お化粧品のプロデュースだ。美容部員として働いていた時に、私ならこういう組み合わせでパレットを作る、こういう色が欲しい、と考えることもあった。
(こんな機会、もう二度とないかもしれない……)
前世での憧れが実現できる。それにもうひとつ、お申し出を受けたい大きな理由があった。
「共同開発でしたら、両国間の貿易の活性化にも、お役に立てるでしょうか?」
「勿論です。化粧品は特に、他の品目と比べて取引の数が少ないですから、成功させたいですね」
それは、ロゼリエ殿下の補佐役として書類仕事をしていた時に気がついて以来、ずっと気になっていたことだった。
私たちの国には、素敵なお化粧品がたくさんある。でもずっと閉鎖的な国だったから、未だに他国にはほとんど知られていない。だからどうにかしたくて方法を模索していたけれど……
(隣国の王族のお力を借りられるなら、この機会を逃す手はないわ)
共同開発の商品をきっかけにして、他の商品の流通も促進できればと考える。きっと殿下も同じ考えがあってご提案くださったのだろう。それに、外から様々な感性を取り入れてこそ、流行も商品も、新しいものが生まれていく。
(ただ……ぽっと出の私が殿下と共同開発をして、反感を買わないかしら?)
殿下がおっしゃるには、私はこの国で多少知名度があって好意的に噂されているらしいけれど。
「光栄なお申し出で、ぜひともお受けしたいのですが……」
一緒に共同開発となると、既婚者とはいえ殿下との関係を疑われたり、疎まれたりするのではないか。殿下の事業の不利益になったり、ラーナ家が批判を受けたりしたらと思うと簡単には頷けない。懸念を素直に口にすると、クレセット様がさらりと解決策を口にした。
「メリーナ、心配はいらないよ。君は未婚の令嬢ではなく、伯爵夫人だ。商品を世に出す際に夫の私が後援していると発表すれば、殿下との仲を疑う者はいないだろう」
いつもクレセット様に助けていただく形になって、心苦しいけれど……
「クレセット様、ありがとうございます。私、精一杯頑張ります」
「それでこそ君だ。応援しているよ、メリーナ」
クレセット様は微笑んで、背中を押してくださった。
「私は戦争を回避する。君は両国の貿易を活性化させる。立場は違うが、共に成し遂げよう」
「はい、クレセット様」
優しい手つきで髪を撫でられて、自然な仕草で額にキスをされる。王族の方々の前なのにと思いながらも、殿下方の「あれはクレセットで間違いないよな?」という声が楽しそうであることに甘えて、私はクレセット様を押し返すことはしなかった。
「殿下。それではまず、契約書の作成からお願いします」
「勿論だよ」
利益は均等に、発売時期は同日、その他にもクレセット様と殿下は次々と条件を出していく。
(私ひとりでもできるように、しっかり覚えないと……)
同じような状況が訪れた時に備えて、集中して頭に叩き込む。
クレセット様は、国防に関わるお仕事をされている。貿易を活性化させて外貨を稼ぐことも、国力を強くすること。それは、国を守る一端を担えるのではないだろうか。
(小さなことからでも、私にできることをするのよ)
頭の中で整理しながら覚えて、お二人の話が終わったところで、クレセット様は突然私の手を握った。その一瞬は優しい微笑みを浮かべていらしたのに、王子殿下に視線を向けるとまた深刻なお顔に戻る。
「それから、妻の侍女であるマクガヴァンに、私の代理権限を与えます。必ず彼女を同伴させ、妻と二人きりにならないようお願いします」
「彼女をクレセットと思えということか。いいよ。誤解されて君を怒らせるより、よっぽどいい」
王子殿下はすぐに了承された。
「それにしても、あのクレセットが、こんなにも愛妻家になるとはね」
「私自身、予想していませんでした。それから、もうひとつ。猫を被るのはおやめください」
「クレセットには言われたくないな」
穏やかに微笑む殿下を、クレセット様はただ静かに見据える。
「そう睨まないでくれ。僕も大人になって落ち着いたんだ。これが今の僕だよ」
「……左様ですか」
「君が変わったように、僕も姉上も変わったんだ。昔のように剣だけでなく、これからは言葉で対話したいと思っているよ」
お話から察するに、お二人は剣で交流を深めていたらしい。私の侍女であり護衛でもあるサラさんとクレセット様のご友人のセドさんも、同じように剣で交流しているため、それもひとつの形だとすんなり納得できた。
私の知らないクレセット様の一面を、少しずつ知っていくのが嬉しい。でもやっぱり、少しだけ妬いてしまった。
そんな私の内心など気づくはずもなく、穏やかな顔のままの殿下が私に向き直る。
「ラーナ夫人。……いえ、メリーナ殿。僕のことは、ヴィンスと呼んでください」
「大変光栄ですが、王族のお方を愛称でお呼びするのは……」
「クレセットの奥方なら、僕の姉も同然です。僕はクレセットの一つ年下ですし、クレセットは兄のようなものですよ」
クレセット様が小さく、どの口が、と呟いた。私が思っている以上に、仲が良さそうだわ。お父様同士がご友人なら、クレセット様と殿下も、本当に兄弟のような関係かもしれない。
「それでは、畏れ多いことですが、お言葉に甘えます。ヴィンス様」
そうお呼びすると、ヴィンス様は花が綻ぶような笑みを浮かべた。お顔立ちは前世で見た海外モデルのような美しさと格好良さを兼ね備えているけれど、雰囲気と髪がふわふわしていて、なんだか可愛らしい。
「殿下。せっかくの機会ですので、昔のように剣の手合わせをいたしましょう」
「嫌だ。手を怪我したら化粧の研究ができないじゃないか」
「怪我を負うほど、剣の腕が鈍ったとでも?」
「鈍ってないけど……嫉妬して僕に当たるのは格好悪いよ」
「当たってなど。私はただ殿下に、妻に近づく害虫になってほしくないだけです」
爽やかな笑顔でおっしゃると、ヴィンス様はぴたりと動きを止めた。
「クレセットは、本当に変わったな。前に会った時はいつもピリピリしてて、僕も姉上も君が怖くて、剣を持ってしか近づけなかったのに」
兄弟のような関係かもしれないと想像した矢先にこんな会話を聞いてしまい、そうではなかったのかしら……とこっそり内心で軌道修正を試みる。剣で会話をしていた、というのも、そもそものきっかけは、当時のクレセット様に丸腰では近づけなかったからかもしれない。
「それがこうして、君が地雷を踏まれたとあからさまに主張していても、会話が続けられるなんて。クレセットを変えたメリーナ殿は、偉大なお方だ」
「妻は、聖母であり女神です」
(過大評価がすぎるわ……)
王族の方の前だというのに、クレセット様は小さくなった私をまた抱き寄せて、愛の言葉とともに私の髪にキスをした。
その後、クレセット様は軍の方々と会議を始め、私は客間へと案内された。
リビングと寝室が分かれていて、どちらからも海が見える素敵なお部屋だ。室内の装飾には貝殻でできたものもあり、まるで人魚姫のお部屋みたいだった。
(ヴェロニカ様は、着替えまで用意してくださったのね)
部屋の物は自由に使っていいと許可してくださった。クローゼットにたくさんかかっているドレスやワンピースも含まれるようで、どれもサイズを調節して着られるタイプだ。旅行用に持参した私の服は街歩き用だから、お城で過ごすには向かない。
(この国のドレスは動きやすそうね)
スカートの生地は張りがあって、華やかな刺繍が施されている。ふわりとしたデザインなのに、下にパニエはない。
上は柔らかい生地のブラウスだけど、その上にジャケットやベストを重ねるらしく、袖がヒラヒラせず邪魔にならない。腰に巻く白い布にも美しい刺繍が施されていて、後ろで結ぶとリボンのようで可愛い。その他にも、色とりどりのスカーフが並んでいた。
(このスカーフ、髪に結んでも、編み込んでも可愛いわね)
廊下で見た人たちは、髪を覆うか結ぶか、もしくは首元に結んでいた。それ以外は見なかったけれど、ヘアバンドのようにしても可愛い色とデザインだ。
「サラさん、少しいいかしら?」
「……はい」
サラさんのまっすぐで綺麗なマロンブラウンの髪には、どんな色が合うかしら? ミルクティー色の瞳に合わせて、優しい色もいいわね。大人っぽい雰囲気だから、寒色や鮮やかな色も似合いそうだわ。でもやっぱり、雰囲気を変えて可愛くしてみたい。
スカーフを持ってワクワクする私に、サラさんは一瞬表情を硬くしたけれど、何も言わずにドレッサーの前に座ってくれた。
そして、その晩。
「メリーナはベッドを使ってくれ」
「いえ、私がソファで寝ます」
「君をソファで寝させるわけにはいかないよ」
私たちは、新婚旅行の二日目と同じ会話をしていた。
クレセット様は先程、おやすみ、と言って自然な流れでリビングに行こうとされていた。でもクレセット様は明日から戦争回避のための大事な会議が続くから、睡眠不足になってはいけない。どう考えてもベッドはクレセット様が使うべきだわ。
「クレセット様は、しっかりと心身を休めるべきです」
「君がソファで眠ると思ったら、とても心が休まらないよ」
「大丈夫です。私は狭いところで寝ることに慣れていますので」
「だからこそ余計に、ベッドで寝て欲しい」
失言だったと思った時には、輝く笑顔のクレセット様に、パタリと扉を閉められていた。私は寝室側。クレセット様はリビング側。ドアノブを押さえられているのか、びくともしない。私は扉を叩いて、不服を訴えた。
「クレセット様っ」
「今日は船での移動もあって疲れただろうから、君がベッドを使ってくれ。明日は、私が使わせて貰うよ」
「そうおっしゃって、明日も私をこちらに閉じ込めるおつもりでしょう?」
私を大切にしてくださるお気持ちは嬉しい。でも、私は公爵家で硬くて狭いベッドで眠っていたからこそ、ソファでは疲れがしっかり取れないことを知っている。
「……君を屋敷に閉じ込めて、私だけのものにしたいとは思っているよ」
「っ!」
「おやすみ、メリーナ」
「…………おやすみなさい、クレセット様」
離れていく靴音を聞きながら、私はその場に座り込んだ。ドアノブはもう動くはずなのに、私はその扉を開けられない。
(本音、かしら……)
声がいつもより低かった。もし今の言葉が本音なら、私は思っている以上に愛されているのではないだろうか。
(……誤魔化されてしまったわ)
明日は寝室で寝てくださるという約束を取り付けられなかった。なんとか立ち上がってベッドに横になっても、また先程の言葉を思い出してしまう。
妻になって二年近く経っても、クレセット様の溺愛にはまだ慣れない。それどころか毎日ドキドキさせられてしまう。窓を開けると、心地いい潮風が、火照った頬を冷ましてくれた。
◆
この国の夜は、空が少しだけ明るい。それは、漁に出る大量の船の明かりが空を照らしているからなのだと、クレセットは知っている。
部屋の窓からはその光景は見られなかった。滞在中に、メリーナを連れて見に行ってみようか。遠くで煌々と灯る明かりに負けないくらいに瞳を輝かせて、その光景を見つめるのだろう。想像して、クレセットは頬を緩めた。
だが、自分に近づく足音を聞き取った途端、すぐに表情を消す。振り返ると、ヴェロニカが立っていた。
「クレセット、眠れないのか?」
「考え事をしていました」
「そうか。思考を整理する時に外を歩く癖は、昔から変わっていないな」
ヴェロニカは懐かしむように目を細めた。
「初めて会ったのは、お前が十一の頃だったな」
ヴェロニカは当時十二歳。ヴィンセントは十歳。長男の第一王子は十六歳で、後継者としての教育もあったため、歳の近い三人で一緒に遊ぶよう言われていた。
だが当時のクレセットは、後になって振り返れば自分でも分かるほどに、二人と同年代の子供と言うには意識や言動が違いすぎていた。ちょうどラーナ家の仕事に直接携わるようになった時期で誰も寄せつけないようになっていたのだ。
最初の頃、ヴェロニカとヴィンセントには、視線を向けただけで怯えられた。だが、自衛のためだったのだろうか、剣を持って近づいた彼らに、少しだけクレセットの中で興味が湧いた。クレセットとしては、手にしている剣自体に関心があったのだが、彼らからしたら自らが関心を引けたと思ったのだろう。剣で勝負だ、と張り切られてしまい、軽くあしらったものの、それがきっかけで彼らの元来の負けず嫌いが開花する結果となった。
そこからは、ラーナ家がこの国に滞在している間、会話らしい会話もなくただ手合わせばかりしていた。クレセットにとっては、ただ面倒な相手に絡まれたという記憶しかない。彼らと兄弟のような関係だったかもしれないと思っているメリーナには、とてもではないが言えないことだ。
「兄上もお前に会いたかっただろうが、あいにく今は、洪水の起きた東部地方で対応に当たっている」
「王太子殿下には後日、改めてご挨拶に伺います」
「そうしてくれ。兄上も喜ぶ」
唯一王太子だけは、クレセットとまともに会話をした人物だった。その内容は国の防衛についてという堅苦しいものだったが、話は弾んだ。
この国は、王太子である長男が政治を、長女のヴェロニカが軍事を、次男のヴィンセントが貿易を担っている。軍事と貿易の全権を弟妹に渡しても一切の淀みなく機能しているのは、ただ仲が良いからではなく、王太子に周囲を上手く従える能力があったからだ。それをクレセットも評価している。
「それはそうと、悩み事か?」
ヴェロニカの言葉に、クレセットは思案する。
頼めばメリーナと別の部屋にして貰えるだろうが、夫婦仲が悪いのかと疑われてしまう。城の者に知られれば、自国ほどではないにしても、メリーナが不当な扱いを受けるかもしれない。可能性が少しでもある限り、迂闊なことはできなかった。結局は、寝室とリビングで分かれて眠るのが最善だった。
「妻が可愛くて困っております」
「ただの惚気だったか」
ヴェロニカは肩を竦めた。
「だからこそ、メリーナを傷つける者は、誰であろうと許してはおけません」
「分かった分かった。遠回しに牽制されてるんだな? 王族相手に喧嘩を売るのは、お前の一家くらいだよ」
楽しげに笑うヴェロニカ。これが他の王族と伯爵であれば気分を害するだけでは済まないところだが、ラーナ伯爵家だけはそれを許されている。
「これからもラーナ伯爵家だけは、私たちに遠慮なく苦言を呈してくれ」
「父から聞き及んでおりますので、元よりそのつもりです」
「父たちのように、私たちも親しくなれればと思うが……いや、もう親しかったな」
そんなつもりはない。赤の他人とまでは言わないが、親しくなった過去もなければ、親しくなる予定もない。
遠慮なく嫌そうな顔をするクレセットの肩を、ヴェロニカが、冗談だ、と拳で小突いた。
「お前の父君が母君を見初めた理由は、私も理解できる。母君は自ら戦えるからな。だが、メリーナ殿のことはまだ理解できない」
「構いません。これ以上メリーナと親しくする者が増えても困りますので」
「嫉妬深い男に育ったものだ」
クレセットがあからさまに嫌悪感をぶつけても、ヴェロニカは意に介する様子を見せない。だがすぐに笑みを消し、クレセットを見据えた。
「クレセット。お前は、私と結婚するものと思っていた」
「そのような話は父から聞いておりません」
動揺することなく、淡々と答える。昔のように感情を消した瞳に、ヴェロニカは一瞬怯んだものの、目を逸らすことはしなかった。
「……お前は変わったが、本質は変わらないな。帰国したら、母君にまた手合わせをしたいと頼んでおいてくれ」
そう言い残し、ヴェロニカは元来た道を戻って行った。
その姿が見えなくなり、クレセットは息を吐く。そのまま、一般人であれば誰もいないように見える方向へと声をかけた。
「二人きりではないから、問題ないだろうか」
「殿下も私の存在にお気づきのようでしたので問題ありませんが、後々誤解を生まないよう、奥様にはここで殿下にお会いした旨をお話しすべきかと」
柱の陰から現れたサラは、冷静に答える。クレセットが部屋を出た時から後をつけてきていた。勿論クレセットも最初から気づいており、ヴェロニカと二人きりになる可能性を潰すために、隠れての同行を容認していたのだ。
「話すことで、メリーナに誤解させる可能性は」
「話さずに誤解させてこじれる可能性の方が高いかと」
「そうか」
だが、どう言えば誤解されないだろうか。また頭を悩ませ始める。
「それから、事後報告にはなりますが、奥様の護衛はシュタイン令息にお願いして参りました」
サラの言葉は、ヴェロニカの出した伝令が早々に到着し、国王からの返答を持ったセドが送られてきたことを意味していた。
いい人選だ、とクレセットは内心で頷く。セドは優秀な騎士であり、クレセットの昔からの友人だ。突然隣国に滞在することになったクレセットが、愛する妻の護衛として、公私共に信頼できるセドを呼んだと思わせることができる。そしてセドも、その演技が充分にできる技術があった。
それにセドなら、この国の騎士たちと共に敵対国の情報収集や整理をして欲しいと頼んでも、歪曲されない情報を持ち帰ってくれるだろう。クレセットは、ヴェロニカから何らかの目的があって情報を制限される可能性も視野に入れていた。
「急に呼び寄せたから怒っているだろうな」
王城とはいえ、誰が聞いているか分からない。クレセットも演技を加えるが、半分は本音だ。
「夜でも明るい空が見られて役得だと、笑っておられました」
「……それは本当か?」
「はい。あれほどできたお方が、何故未だに独り身なのか理解に苦しみます」
それをセドの前では言ってやるなよと、伝えるべきか悩む。セドはサラに恋をしているが、サラはその気持ちに全く気づいていない。時々それが不憫になる。だがメリーナから、二人のことは二人で決めていくべきだと言われている。ここは口を噤むことにした。
再び息を吐き、空を見上げる。そして、今更ながら後悔した。閉じ込めて自分だけのものにしたいと思っていることを、メリーナ自身に伝えてしまった。気持ち悪い男だと嫌悪されたかもしれない。明日、どういう顔で会えばいいだろう。
「メリーナに愛想を尽かされたら、私はどうすれば……」
「追いかければよろしいかと」
「……そうだな」
追いかけた先で拒絶されたらどうすれば、という弱音は、さすがに呑み込んだ。
◆
「女神か……」
翌朝。着替えを終えてリビングの扉を開けると、クレセット様は私を見つめて、そうおっしゃった。今日はこの国のドレスを着て、髪には美しい柄のスカーフをヘアバンドのように巻いている。
「メリーナ。君はいつも美しいが、違う装いも女神のようだよ」
「ありがとうございます、クレセット様」
クレセット様はいつも、私が服や髪型を少し変えただけでも気づいて褒めてくださる。私も最近では照れずにお礼を言えるようになった。……クレセット様の手が私の髪に触れて、甘く微笑まれるまではだけれど。
「あの、マクガヴァン令嬢……」
少し離れたところで、セドさんの声がした。紺色の軍服を纏った、炎のように赤い髪の男性だ。瞳は鋭い金色をしているけれど、明るい笑顔と雰囲気が可愛い印象を与える。セドさんは私の護衛という名目で国王陛下から派遣されたとおっしゃっていたから、この部屋にセドさんも一緒にいることに驚きはない。
私のメイドのドロシーとデイジーと、他の従者たちは、クレセット様のご指示でこの国に入る前に帰国していた。きっと何かあった時に、大人数だと守りきれないとご判断されたのだろう。
(サラさんには侍女と護衛とメイドの仕事を兼ねて貰うことになるから、負担をかけてしまうわ)
とても申し訳なく思う。でも、せめて身支度くらいはと自分で済ませたら、準備を手伝いにきてくれたサラさんに寂しげな顔をされてしまった。
そんなサラさんのお部屋にも、この国のドレスや小物が用意されていた。私の部屋を訪れた時にスカーフを使っていなかったから、せっかくだからと説得して、髪を緩い三つ編みにして明るい色のスカーフを編み込ませて貰った。
「マクガヴァン令嬢、その……とても、似合っています」
「ありがとうございます」
セドさんが爽やかな笑顔で褒めると、サラさんは淡々と返す。セドさんの本心からの褒め言葉を、サラさんはいつも社交辞令と思っているのよね。
(セドさんも褒める時に、急に社交界で見せるような笑顔になるのだもの)
そうしないと緊張して言えないのかもしれない。気持ちは分かるけれど、見ていてもどかしい。クレセット様も心配そうに二人を見つめていた。
そこで朝食が運ばれてきて、サラさんは私のそばに立ち、セドさんは扉を開けに行く。クレセット様も表情を消して席についた。三人ともいつもながら公私の切り替えが見事で、私も見習いたいと思った。
食事を終えたところで、クレセット様は深刻なお顔で、話があるとおっしゃった。
「昨夜遅くに歩きに出たところ、王女殿下に偶然会って話をした。マクガヴァンもいて二人きりではなかったから、誤解しないで欲しい」
「私は王女殿下が接触する可能性を想定して、旦那様をつけていました。決して二人きりで出かけたわけではありません」
サラさんが淡々と補足する。
「……二人揃ってそんな真剣な顔で言われると、逆に怪しいなって思うものですけど、一切そう聞こえないのがすごいですね」
セドさんの言葉に同意すると、やっぱりそう思いますよね、と苦笑を返される。クレセット様とサラさんはピンときていないみたい。
「普通なら、夜中に二人きりで出かけたことを誤魔化してるみたいに聞こえるはずなんですけど」
「お仕えする旦那様です。ありえません」
「ですよね。ありえませんよね」
「サラさんも、クレセット様も、誠実なお方ですもの。もしヴェロニカ様と二人きりだったとしても、疑いませんよ」
好きだからこそ、嫉妬と不安はあるけれど……それを言葉にしたら、クレセット様を信じていないように思われてしまう。この国には戦争を避けるために滞在されているのだから、私のことで余計な心配をおかけしたくなかった。
(クレセット様から、身に余るほどに想っていただけているのに……)
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