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本当の在り処
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音は、聞かない。聞こえれば、分かるから。僕は、イヤホンを外さない。休みの日も、家にこもっているときも、痛々しい声は、辛い声は、冷ややかな声は、いつ何時襲い掛かってくるか、分からない。聞き飽きた、分かりきったボカロ曲が、僕の精神安定剤。彼らが僕を傷つけることはない。僕が彼らを傷つけることも。彼らの声は、いくら作り込まれていても、機械で、仮想だ。僕だって、ないものは聞こえない。
七月のはじめ。ギラつき出した太陽の暑さと突然の豪雨に心沈む季節。高2の僕らには他にも心沈むことがあった。学期末テストだ。正直、僕は関係ないけど。勉強はそれほど苦でない。ガリ勉の奴らみたいに、進路や受験勉強に勤しまねばという気もしないし。強いて言うなら、授業でイライラした教師の声を聞くのが嫌いだ。教科書を眺めているだけの方が、よっぽど楽で頭に入ってくる。授業中もイヤホンをしていたい。というか外に出たくない。まぁ、出席しないだけで成績を下げられるのは癪に障るから来てるんだけど。机に伏せつつ音楽に身を委ねる。右手のスマホを確認すると、もう8時49分。嫌々ながらイヤホンを外す。騒ぎ声が一気に襲い掛かる。伏せながら顔をしかめる。
キーンコーンカーンコーン
「ちゃくせーき」
みんな、バタバタと自分の席へ戻る。号令がかかり、形だけの礼を済ませる。
「よーし、テスト返してくぞー。解答例も置いとくから各自取っていってな。じゃ、アイザワ」
みんな、返事もせず教壇へ取りに行く。もらうと緊張が切れて、ひとしきり騒ぐ。
「おまっ結構良いじゃねーか!テストんときは『今回はダメだ』とかあくびしながら言ってたくせに!」
はぁ、バカだな。あんなに分かりやすかったのに。大方、遅くまでしっかり勉強したから眠くてあくびが出たんだろう。
「根来(ねごろ)」
ん、自分だ。だるい体を起こし、机と椅子の間をすり抜けて前へ行く。一応、軽く頭を下げつつ受け取る。78…まぁ、こんなもんか。
「…ワタナベ…よし、みんなもらったな。今回の平均点だが」
ペラッ ガチャ ガチャ カッ カッカッ
「67だ。じゃ、なんか採点ミスとかあれば持ってきてくれ」
ヒラッ ペラッ
「ね、何点だった?」
みんな答案の確認に集中して静まり返るなか、その声は小さく、緊張していた。声の主は隣の村雨(むらさめ)さん。失礼ながら、頭はあまり良くない。その代わり、部活を頑張っているらしい。この間の英語の授業中に、がっつり日本語で喋ってた。
ススス
僕は周りに気付かれて見られないよう、ゆっくりと点数を見せた。
「だー!今回はいけると思ったのに。8点差かぁ」
「ちょ、シーー、声大きいよ。…というか、8点差まで来たんだ。じゃあ次はもっと勉強しないと。村雨さんに負けるなんて、屈辱だし」
少々焦りつつ、にやけ顔で言った。
「あっ、言ったな!覚えてなさいよ、絶対越してやるから!」
「そこっ!私語は慎みなさい」
教師のキッとした声に、村雨さんも僕も肩をビクつかせ、答案の確認に戻った。実は中間テストのときも点数を聞かれていて、全部僕が勝っていた。ただ、中間のときは大体どれも30点差ぐらいあった。今回、僕はいつもとさほど変わらないから、村雨さんが20点ぐらい上げていることになる。これは…冗談じゃなく本気で勉強しないと、次は並ばれているかもしれない。
「…よーし、何もないな。なんかあったら今日中に持ってきてくれ。あと、今日から始まる学園祭準備だが、昼休みが終わったら着席しといてくれ。事前に実行委員から一通り説明がある。じゃ、テストは以上で終わり、教科書進めるから準備しろ~」
テストをしまう音に紛れるように、そわそわ私語が発生する。村雨さんもこのときに言ってくれたら良かったのに。なんて思いながら私語を聞き流し、テストを二つ折りし、引き出しの教科書と入れ替える。いつのまにか雨は止んで、窓越しに蝉の声が、私語に混じり聞こえてきた。
「…はい、以上で説明は終わりです。何か質問、ありますか?」
みんな、テストを忘れワクワクしている。こういうざわめきは嫌いじゃない。まぁ、好きでもないけど。
「…ありませんね。このプリントは後ろに貼っておくので、いつでも見てください。じゃあ、このクラスの話ですが、うちは前に、演劇をすると決めました。ただ、私、演劇に詳しくなくて…誰か、詳しい人、いませんか?」
「はーい!私、演劇部です!」
ふっ。やっぱそうだよね。容易に想像できた流れだ。元気な声で立候補した村雨さんは演劇部所属で、いつも演劇のことを考えている。この前も、主演女優を任せられるんだと誇らしげに語ってきた。いっつも演技が楽しくて仕方ないと、言葉上、語っている。
「そうなの?じゃあ丁度良いや。ちょっと前に来てくれる?」
跳ねるような足音で前へ行った。それから、実行委員のテキパキした進行と、それを支える彼女の働きで、すぐに役割決めまで進んだ。役者、衣装、小道具、脚本兼監督…必要な役割が彼女に挙げられ、黒板に書きあげられる。まぁ、無難に小道具かな。人数多くするらしいし、多分、大丈夫だろ。
「これで終わり?じゃあ…やっぱり脚本兼監督から決めた方が良いの?」
「あっ、えっと…それは、私がやっても良いかな?」
彼女は、少しおびえながら言った。
「そうね…他にやりたい人は、いませんか?」
応える声はなく、静かなまま、隣のクラスの拍手だけが響く。
「…いないみたい、じゃあみんな、村雨さんが脚本兼監督で良い?良い人は拍手!」
パチパチパチパチパチパチ
「やった!みんな、ありがとう!」
はじけた、心の底から出た声で、彼女は感謝した。
「実は…前から少し書き始めてた話があって」
おぉ、という驚きの声があがる。とやかく言う僕も用意周到すぎて驚いてるけど。
「だから、もう一つ…わがまま言っても良いかな?」
「何かしら?」
「えっと…」
妙な静寂。蝉の声以外、何も聞こえない。時が止まったかのようだ。
「根来くん、起きてる?」
ん?急に名前を出され、なぜだと思いながら体を起こす。
「あぁ、起きてるね。じゃ、役者、よろしく!」
…んん?
それからあっという間だった。翌日に台本完成させて人数分印刷して来て、学園祭準備の時間に配りすぐ配役を始めた。既にかなり構想を練ったようで、少しふにゃっとしたノートを手に〇〇君は××役、△△さんは□□役、と指名していった。確認は取っていたけど、ほとんど独断だった。みんな、勢いに圧倒されながらも、役と一致するところもあるらしく、それなりに納得し、同意していた。僕の役は、休み時間は常にイヤホンをしていて、授業中はよく寝ている暗めの男子。まぁ、なんというか…ぴったり。正直、「この人のモデル、僕じゃね?」と思うほど特徴が一致している。ここまで一致していては拒めない。今日は配役だけにとどめ、明日、明後日の週末の間にセリフを覚えるか、最悪一度は見といてと言っていた。雨も蝉も大人しくなった午後9時頃、僕は布団の上で、初めて冊子を開いた。
ペラッ
…どれだけ確認しても、変わりはしないか。僕はスマホを取り、ロックを解除して、大してやりとりしてない相手のトークから電話する。
トゥルルルル トゥルルルル トゥルルr
「はーい、もしもし?根来くん?」
少し驚きの混じった無垢な声が届く。
「あー村雨さん?今大丈夫?」
「うん、平気だよ?どうしたの?」
村雨さんは本気で電話した理由がわからないらしい。なんでわからないんだ…
「あのー、この物語さ、あ、学園祭でやる劇の話なんだけど」
僕は左手で冊子を開きながら言った。
「まさかとは思うんだけど、僕の役…主役?」
「…そうだけど?」
彼女は少し応答停止した後、素直に肯定した。
「…ハァー、そうだけど?じゃないよ!いや…え?なんで僕なんかが主役なの?」
「え?それはー…書いてたら、この役は根来くんしかできないなと思ったから」
彼女はさも当然かのように言った。いや、仮にそうだとしても、僕じゃないでしょ。普通、主役は設定上根暗でも、演じる人は陽キャでイケメンじゃないのか?主役ってそういうものじゃ……混乱して口が動かない僕を面白がってか、彼女は隠し切れない笑いの混じった声で、説明してきた。
「…最初、この話の大筋を考えたときに『あぁ、この物語の主役は根来くんにやってもらいたいな』って思ったの。そこがスタート地点だった、だから根来くんが主役。なんとなくだけど、根来くんが主役が良いの。別に、大丈夫だよ?『ヒーローだ!』みたいなのは求めてないし。てか、根来くんにそんなの求めないよ(笑)」
…いやだからって…えぇ?演劇経験一切なし、人付き合いは嫌い、そもそも人間自体そう好きじゃない、だから一人でボカロ聴くのが好きな根っからの完璧パーフェクト陰キャが、主役なんて…
「まぁまぁ、大丈夫!まだ本番まで一週間以上あるし。なんだったら、私が直接演技指導しても良いよ?(笑)」
彼女はこっちの心内事情なんてお構いなしに、楽しさにまみれて無邪気に言った。
「…ハァー。じゃあ…そのときはよろしく」
もう、諦めた。境遇にも、自分にも、セリフの多さにも頭を抱えつつ、僕はただただページをめくった。
週末は、台本を見ている間に過ぎた。パッとしない天気だった先週から一転、ギラギラと刺してくる日差し。そして、日差しにも負けない隣の彼女。正直、暑苦しい…まぁ、そんなことどうでもいい。このお昼休みが終われば、準備時間がやってくる。やってきてしまう…少しでも、心を落ち着けておこう。少しでも、休まないと…目をつむり、細く息を吐き出す。肩が下りて
「ねぇ」
…また上がった。鼓動が一気に速まった。
「あ、ごめんごめん。どうしても聞きたいことがあって」
にこやかにそう言い、奪ったワイヤレスイヤホンを持ったまま話す。そばで、いつも彼女と一緒にお昼を食べている女子が、怪訝そうな顔をしてこちらを見ている。
「台本読んできた?」
彼女は真っ直ぐな声で、僕の目を覗き込むように聞いた。
「…うん、読んだから電話したんだけど」
僕は彼女の目に照れて、顔をそらし、あくまでそっけなく答えた。
「あっそれもそうか(笑)セリフ覚えてる?」
「まぁ…ぼちぼちかな」
すまして答えたが、本当は全部暗唱できるくらい覚えている。それはそれでガチすぎと、笑いものにされそうだから隠す。
「できそう?主役」
少し心配さを帯びた声。
「…できなくても、僕にさせるでしょ?」
ちょっとした仕返し。…彼女は何も言わなくなった。もう一人の女子のイライラが、声を聞かなくとも予測できた。
「…フー、ま、なんとかするよ。厳しかったら、誰かさんが直接演技指導してくれるらしいしね(笑)」
空気感に耐えられなくなり、作り笑顔を見せて言った。
「えっ!指導してくれる人がいるの?」
「いや村雨さんだよ!電話したとき言ってたじゃん!」
「え?…あー、そういえば、そんなこと言ったような?忘れたや(笑)」
「まーた忘れたの?むらっち、最近忘れっぽいね(笑)」
ふー、良かった、空気感が回復した。僕は音楽を止めてイヤホンを外し、鞄から台本を取り出して安息の地へ逃げ出した。
『…根来くん、ありがとね、見つけてくれて』
『…こちらこそ、いつもありがと、村雨さん』
「…はい、オッケー!うん、初めてだけどすごく良いよ!」
村雨さんの賛辞と笑顔に、みんな胸をなでおろし、喜びの声をこぼした。僕もかなり緊張したけど、ようやく力が抜けて息がもれた。
「根来くんも、不安そうだったけど全然良いじゃん!想像以上だよ。ほんとに演劇は初めて?すごく自然だったなぁ」
驚きに満ちた村雨さんの声、それに賛同するクラスメイトたち、僕は顔がほころんでしかたなかった。
「初めてなのは本当だよ。主役ってことがわかってから、何度か読み込んだからじゃないかな」
もちろん、それだけじゃない。僕にしかできない練習をした。とにかく嘘っぽくない読み方をすれば良い。自分が聞いても、嘘と思えないような読み方を考えれば良い。そうすれば…いや、フー、落ち着け。調子に乗っちゃいけない。僕は顔を平手で軽く叩き、興奮を抑えた。
「じゃあ、これから一人ずつ気になったところを言っていくから、みんなは小道具のお手伝いとか、自分のセリフを見返したりとかしてください」
村雨さんは、メモを付けていた台本をせわしなくめくり、一人一人にアドバイスして回り始めた。僕はどうしようか迷ったが、あまり焦っているような声や様子はない。ちょっと拍子抜けして、廊下側の壁にもたれかかり、台本を見返した。正直、さっきの読み合わせは緊張しすぎて、練習通りに読めたかわからなかった。とりあえず始めの噛んでしまったところを、口を動かしながら黙読し続けた。
パタパタパタパタ
「お待たせ~根来くん」
村雨さんが軽い駆け足で来てくれた。
「お、読み返してくれてるね。ちゃんと真面目にやってくれるし、ありがたいなぁ」
「まぁ、引き受けちゃったから…みんなの足引っ張りたくないし」
ありがたいなんて言われ慣れていないから、ちょっと照れる。
「なんにせよ、ありがたいよ」
いつものはじけるような声でなく、安心した、やわらかな声。重ね掛けに火照る顔。
「じゃあ、根来くんの気になったところなんだけど、まずは最初のとこ。緊張かな?硬かったし噛んだところもあったね。後、日常的な場面はすごく良いんだけど、もう少し感情の起伏を激しめに表現してほしいな。大げさになっても良いよ。コメディーっぽくても、面白いし」
「コメディーはやだなぁ(笑)。まぁ、了解」
「じゃあごめん、早速だけど二回目やって良い?」
「うん、大丈夫」
この日は最後まで読み合わせをした。小道具や衣装の人たちの声も飛び交う中、繰り返しちょっとずつ変化させながら、より自然に、あるいはより演技っぽく、声に色がついていった。
部活に向けて楽しさ、緊張感、気だるい声の混じる午後3時半。帰宅部の僕は軽くなった心持ちで黒のスニーカーを履き、ズボンのポケットを探った。
「…あれっ」
…ん?…ない。え…ない。今まで一度たりとも無くしたことなかったのに、あるはずのイヤホンが、右のだけ、ない。なんで?いつも休み時間に聴いた後…
「あ」
そうだ、村雨さんに取られたんだ。…はぁ、どうしようかなぁ。面倒くさいな。でも…ハァ、僕はスニーカーを脱いで戻し、スリッパを履きなおして教室へ向かった。
「…はぁ」
やっぱり、彼女は教室にいなかった。まぁ部活があるから、悠長に残っているわけがない。そして、僕が演劇部の場所を知っているわけも…いや?いつだったか、彼女に聞いた気がする。僕は彼女の過去の言葉を手繰り寄せつつ、演劇部の場所を探し歩き始めた。おそらく部室棟だけど、そこのどこだっけな。
“…西の階段を4階まで上がって、すぐのとこだよ。いい運動になるんだよね”
あ、そうだ。2年になってすぐの頃に、どこでやってるか質問したんだっけ。…4階…僕は天井を見上げ、ため息を吐き、重い足を進めた。
タン タン タン はぁ
ようやく…ようやく4階…さぁ、返してもr
「もうっ…だまっててよ…」
ドアに伸ばした手が止まる。村雨さんだ。泣き出しそうなその声は。鼓動が強く速くなる。え、どうした…いや、いや、そうだ、今は部活だ。泣き出しそうな、演技だ。僕は息をこぼし、胸をなでおろした。だけど…このタイミングで入ったら間違いなく迷惑だよな。そこで、もちろん罪悪感もあったが、迷惑はかけちゃダメと念じ続け、立ち聞きして機をうかがった。内容こそ推測できないが、村雨さんはかなり役に入り込んで、でも大げさじゃない、自然な演技をしていた。僕が、演技ではなく本心からかもと思ってしまうほどに。
『逃げるしか、ないのかな』
パンッ
「はい、一度休憩にしましょ。村雨、悪くないわ。細かいところはまた修正が必要だけど」
先生の少ししゃがれた声を追いかけて、部員と思われる人たちみんな息をもらした。静まり返っていた教室に活気が湧く。行くなら、今だな。…ハァ、恥ずいなぁ。僕はドアを開けた後の動きを脳内シュミレーションした。体が熱くなる。意を決し、息を吐き、拳を握る。
コンコン ガラガラ
「すみません、村雨さん、居ますか?」
教室の中心に目を向けると、一人座って冊子を読む村雨さんが、こちらに気付いた。
「…根来くん?どうしたの?」
落ち着いて大人しい、いつもとは正反対な声で言った。
「あの、イヤホン返してください…」
「あっごめん、返してなかったね」
立ち上がって小走りに来てくれる。
「ごめんごめん、忘れてた」
「いや、ま、僕も忘れてたし、いいよ」
彼女はスカートのポケットからイヤホンを取り出して、僕の手の上に置いた。慣れてない場と彼女の声に戸惑っていた僕は、帰ってきたイヤホンを見て、ほほえんだ。
「…ねぇ、さっきの、聞いてた?」
イヤホンに目を向けたまま、僕の体は固まり、脳が停止した。
「…うん、立ち聞きしてごめん」
「いや、いいよ。どうせ学園祭のときに発表するから。…どうだった?」
「…すごいと思ったよ。いつもの村雨さんと全然違うし、なのに本心から言ってるのかなって思うくらい、すごかった」
「そう?ありがと。今回の役は難しいけど、やっぱり、演技はとても楽しいわ」
…やっぱり、何か違う。
「…良かったら、また来て。演技指導しても良いよ?主人公さん」
最後は、いたずらっぽい笑みを浮かべて軽やかに言った。でも、ずっと落ち着いた声だった。それからすぐ再開し、彼女は教室へ戻った。僕は帰ってきたイヤホンをしてスマホとつなぎ、聞き慣れたリストを再生した。彼女の声が頭を巡っていた。
彼女の声に疑問を抱き始めたのは、たしか、ゴールデンウィークの前あたりだ。
「私、演劇が大好きなの!中学からしていて、今度主人公をさせてもらえるの!高校で主人公は初めてだから、すごく楽しみなんだ。主人公以外も、楽しいけどね」
あれは、授業合間の休み時間だった…と思う。ふと、何気なく部活について聞いたら返ってきた。意図的によく行われたペアワークのおかげで、僕と村雨さんは1カ月弱で気軽な話し相手になっていた。陰キャの僕があんな短い期間に打ち解けるなんて、初めてだった。まぁ、僕から話しかけるのは今もまれで、大体今日の昼みたいに彼女からだけど。彼女の声の印象は、最初にしてくれた挨拶からずっと変わらない。素直で、真っ直ぐ。小学校低学年を最後に聞かなくなったような、まっさら、純真無垢な声。でも、あの声は、ちょっと違った。どこか、何か、ずれていた。真っ赤な嘘、とまではいかないけど、何かある、ように聞こえた。今考え直せば、あんな演技をする人だし、嘘を吐く、演じることはたやすいかもしれない。…いや、あれは演じていたのか?自分でも驚くほど、あの泣き出しそうな声は本当の声に聞こえた。嘘らしさ、演技っぽさのない、黒さもないただ透明な、素の声だった。…いや、だけどその後の「演技はとても楽しい」と言った声には、何か、あの「演技が大好き」と言った声と同じ、違和感が、しかも少し大きくなってるような違和感が、あった。何か、違う。あの声は彼女じゃない。演技してる彼女より、彼女らしくない。なぜ?本当は演技が嫌い?いや、そこまでじゃないはず。実際、演劇のことをずっと考えているし。なら何が?…やっぱり、考えない方がいいかな。誰でも人に言えないことの一つや二つ、抱えているものだ。その存在を、嫌というほど聞いてきた。聞こえてきた。だから、彼女は特別じゃない、何かに踏み込むことも、すべきでないかもしれないんだ。そう思って、あの声を聞いてから、自分から演劇の話を聞くのはやめた。確かに、気にはなった。彼女の何かは、ほんのかすかなもので、他のみたいに、存在していることがわかりやすいものではなかった。だからこそ、引っかかり続けた。あの違和感はなんだったのか、演技上手だからか、彼女が自覚してないからか、それは彼女を傷つけるものか、取るに足らないものなのか、彼女は傷ついているか、いや、傷ついている人なんて、いっぱい居る…そんなモヤが、がんじがらめに絡まったツタのように、離れなかった。けど、気にしたら負けだ。彼女は他と違っても、何か抱えていることは、普通のことなんだ。何度も気にして、何度も踏み込んで、何度も、何度も、傷つけてきた。もう、聞こえたことに踏み込んではいけない。そう言い聞かせ、夜を無理やり寝て過ごした。だけどまた…しかも、大きくなってる。彼女一人ではなくせないかもしれない。いや、なくさない方が良いのかもしれない。そうだ、やってきたことを、過去の過ちを、思い出せ。自分で生んだ、あの痛々しい声たちを…でも、あの声にも痛々しさがあった。求めてた、あの訴えは、僕にしか聞こえない…僕にしか、聞こえない、僕にしかできないんだ。
『…?ど、どこ?ここ……とりあえず、辺りを散策するか』
「はいストップ。ここはもう少し…いや、もっと驚きを出してほしいな」
エアコンがゴーと音を立てる午後4時。僕は村雨さんと、演劇部の教室にいた。演劇部がお休みで、それならと演技指導をお願いした。嘘っぽくない言い方はそれなりにできるが、それだけでは演技として不十分らしく、演技の奥深さというか、難しさの一面に触れている。
「んー、セリフを言うだけじゃなくて、例えば椅子から転げ落ちるとか、顔を上げて周りが見えたときに固まるとか、動きでも驚きは出せるよ」
そう。セリフ、言い方はそれなりにマシだけど、動きまでは頭が回らないんだ。
「なるほど…じゃあ固まる方をやってみようかな」
教壇上で演技をして、正面から観客として見てもらい、アドバイスしてもらう。やるたびに少しずつ良くなるのが、村雨さんの声からわかった。
「はーい、だいぶ良くなったと思う。もう1時間近くやってるし、一回休憩しよ!」
大きな動きはないとはいえ、慣れないことを試行錯誤しながらやり続けると、かなり疲れる。僕は教壇に置かれた椅子に座り直し、左側に置いた鞄の水筒を探った。
「いや~、良いよ!センスあるわ、根来くん」
「いやいや、指導が的確だからだよ」
と言いつつ、まんざらでもなくて少しにやける。
「ま、それもあるかな!」
「さすが、名指導者だね(笑)」
2人揃って笑う。窓から、カーテンを通り抜けて柔らかな日差しが入ってくる。運動部や蝉の声、廊下を歩く人たちの足音と喋り声、揺れる氷、喉を通るお茶…この時間が続けば、良いのに。
「でも、本当にすごいよ。特に話し方が良い。根来くん、部活入ってないよね?演劇部に入ったら良いのに。…演劇、楽しいよ?」
…あぁ、やっぱり、聞こえる。体が、固まる。汗が一筋、頬を伝う。
「…いや、僕、コミュ障だし、演技も難しいから」
水筒の蓋を開け閉めする。緊張して、迷っているときのクセ。
「…難しいけど、楽しいよ。どんな役しても、面白いんだ。根来くんは、演技してて楽しくない?」
それは、楽しい。だけど…フー、水筒をぐっと閉めた。握る手に力が入る。
「……じゃあ、村雨さんは本当に、演技するの、楽しい?」
声を机の上にこぼす。人の声も、蝉の声も、足音も、氷の音も、すべて聞こえない。探し続けるのは、たった一つの、声。
「…ッハハ、どうしたの?言ってんじゃん、楽しいって」
まぶたが落ちる。手が少し震える。
「…ほんとのこと、言って」
「何を言ってるの?根来く」
「村雨さんずっと嘘言ってる。『演技は楽しい』って。ほんとはそうじゃない。何か隠している。だから、話して。本当に『演技は楽しい』の?」
こらえていたものが溢れる。口が、息が、心が荒ぶる。
「…嘘じゃない、『演技は楽しい』って、嘘じゃない」
「…仮にそうだとしても、自覚してい」
「私が演技を嫌ってるって言いたいの?」
目が開く。思考停止する。
「…え?」
「だってそうでしょ?演技は楽しいっていうのが嘘なら、本当は演技が楽しくない、嫌いっていうことじゃん。…根来くんさ、私がこれまでどんだけ演技やってきたか、知ってる?知らないよね。なのに、急にそんなこと…なんで?」
頭が真っ白になる。鼓動も、音も、声も、何もかもわからなくなる。
「…声」
「…はい?」
「…村雨さんの声が、何か隠してるから」
「…何言ってんの?声って、それだけで私が、ほんとは演技嫌いだなんて…声って、そんな、勘だけで」
ガタッ
「勘じゃない!勘なん…か」
立ち上がって見ると、彼女は真っ赤な顔で、目に涙を浮かべていた。目線をまた机にそらす。
「…なんで?声って、勘だけじゃん。なんで声だけで確信できるの?なんで声だけで、あんなに好きなのに、あんなに楽しんでるのに!あんなに」
「やめて」
ハァハァ
「…ごめん、もう、聞きたくない」
また、だ。また、生んでしまった。頭が、真っ白なまま、少し痛い。
「…逃げるの?」
その声は、強い絶望に染まっていた。
「いや、あの、違う、僕はほんとに、村雨さんが」
「良いよ、もう」
村雨さんはうつむいている。言葉はまとまらない。
「待って、ほんとに」
「良いって言ってるでしょ!」
僕の情けない声を、彼女の固まった体が弾く。
「もうっ…だまっててよ」
バタバタガラッバタバタバタ…
動けなかった。何もできなかった。ただ痛む頭と、あがる息。床のしずくの跡が、誰にも見られずに乾き、消える。痛みと、聞きたかったのとは違う彼女の本当の声が、頭を巡っていた。
『な!?なぜ、そんなことをさせるんだ?』
『それも含めて、自分で考えるのです。頼みましたよ。フッフッフ』
「…はい、オッケー。んー、申し訳ないけど『フッフッフ』はいらないかな。考えてアドリブ入れてくれたのは嬉しいけど、その役はそういう見下ろす感じじゃなくて、何というか…主人公にすがる感じの立場だから、ちょっと違うと思う。そういうとこも意識して」
…いつものように集中してる。すごいな、あんなことがあった次の日なのに。僕は、正直休みたかった。情けなさ、申し訳なさ、声を聞く怖さがあるから。でも、休むと練習が進まないから、来るしかなかった。結局今日は、一切声を交わしてない。今、初めて聞いて、いつも通り、本当の声だ。でも、いつもと違って丸み、明るさがない…正直、聞き苦しい。できれば、聞きたくない。悪いのは、元凶は僕ってわかってるけど、しばらく、何も考えたくない。けれど…聞こえてくる。
「根来くんは…良いと思うよ、そのままで」
「…何が良くないの?」
…やらかした。教室内に変な空気が流れる。血の気が引く。いつもなら隠せるのに。
…え? 何言ってんの? 村雨さんが良いって言ってくれてるのに 調子乗んな
…ハァ、ハハッ、あぁ、やっちゃったな。失笑が浮かぶ。せっかくここまで、うまくできてたのに。やっぱり、休めば良かった。主人公なんて、僕には無理だったんだ。せいぜい僕は、端っこでうずくまってる陰キャの脇役で、精いっぱいなんだ。出しゃばっちゃ、ダメだったんだ。あぁ、イヤホンがしたいな。
「ちょっとみんな、静かにして」
その声はざわめきを一瞬で吹き飛ばした。みんなが驚き、思考停止した。静かにしていた僕さえも、少し萎縮した。
「…ちょっと動揺とか迷いを表現しすぎ。確かにおかしな状況だけど、説明受けて、状況体感して、性格的にも、ここはそこまで表現しなくて良い。ここはね?」
「…うん、ありがとう」
カリカリカリ
そのままメモする。本当に、ありがたい。怒りも戸惑いも何もなく、ちゃんと答えてくれたのが。妙な、その上つっかかるようなことを言ったのに、いつもと同じように答えてくれたのが、ありがたくて、情けなかった。…今、どんな顔してんだろ。
「…あのー」
弱々しい声が、戸惑いの静寂の中を通ってきた。多分、いつも村雨さんと一緒にお昼を食べている人の声だ。
「衣装の採寸をしたいから、根来くん借りて良い?」
「…それは、今じゃないとダメ?」
「他の人の分はできてて、あとは根来くんだけなの」
「…じゃあ、一旦みんな、好きなことをやって」
「はいはい!舞台演出の道具が間に合うか微妙で、数人手伝ってほしいです!」
みんながやるべきことを探し、行い、一気に活気が戻った。そんな騒がしさを横目に、僕は教室から引っ張り出されていった。
はぁ はぁ
「ちょ、ちょっと…ここまで、来る、必要あった?」
何も言われぬまま、演劇部の教室の前までずっと引っ張りつづけられた。
「だって、教室も廊下も道具と衣装の人でいっぱいだもん。それにしても…体力全然無いね、根来くん(笑)」
…意外だ。あの人と仲良いはずなのに、敵意が一切感じられない。煽りはかなり感じられるけど。もしかして、何も聞いていないのかな。いや、でも…
「採寸って、男女が入れ替わる世界のときに、着るやつ?」
「そーそー」
「スカートじゃなくて、良いんだよね?」
「うん。あ、スカートが良かったかな?」
「にやけながら聞かないでよ。それに正直、履いたことないからよくわかんないや」
「そういう理由?(笑)女子が履くものだからとかじゃなくて」
「今時そうは思わないし、もしそうなら履くよ。女子になってる設定なんだから」
「へー。…面白いね、根来くんって。こりゃむらっちと仲良くなるわけだ」
どこが面白いんだ…さすがに、そこまでは聞こえない。
「じゃ、測らせてもらうから背筋伸ばして」
彼女はスカートのポケットからメジャーを取り出す。上がった息も落ち着いてきて、僕はひざについていた手を離し、体をピンと伸ばす。
「あと、聞きたいことがあるの」
「…何?」
「むらっちのこと、聞きたくて」
…やっぱり、そうだよね。
「…村雨さんが、どうかした?」
「しらばっくれるのはやめなよ」
声に、多少の圧と怒りが混じり始める。さっき敵意を感じなかったのは、隠していただけだったのだろうか。
「昨日、電話してきた。泣きながら『なんで』って…そればっかり、言ってた。根来くん、むらっちに何したの?」
…ここで「村雨さんの声が何かあると思ったから、質問した」なんて言ったら、どう思われるだろ。声が、なんて、信じてもらえるかな。ただ単に質問しただけだって、信じてもらえるかな。…いや、泣かせてたんだな。
「…何も答えないつもり?あと、背筋伸ばして」
「…ごめん、返事考えてた。でも、どう言っても、信じてもらえない、無駄な言い訳にしか、ならないと思う」
彼女が口を閉ざす。空気が重みを増していく。
「…じゃあ、これは答えて。根来くんは、むらっちのことを泣かせたかったの?」
「そうじゃない。そうじゃないけど…」
雨の音と、怒りと後ろめたさの混じった冷たい空気が、2人の間に流れる。
「…じゃあ、どうしたかったの?」
「…心配だった、助ける…つもりだった」
なんとか、絞り出した言葉。まるで事情聴取みたいだ。本当に、情けない主人公。
「…何が心配だったの?」
…言えない。声が、なんて。言ったって、なんの意味もない。
「…はぁ」
彼女は、伸ばしたメジャーを元通りにした。
「私ね、昨日びっくりした。あんなに泣くことあるんだって。あんなに、苦しそうにすること、あるんだって。あのむらっちだよ?いつも明るくて、元気なあのむらっちが、あんな感じになるんだって。…でも、それだけ何か抱えているのかもって思ったら、私、何もわかってあげられてないんだって、思って」
彼女の声が弱まる。怒りが消え、悲しみとやるせなさがにじんでくる。
「…むらっち、『自分でもよくわかんないけど、根来くんなら、わかってくれるかもって、思ってたのに』って、言ってた。…私は、全然、わからない。でも、根来くんなら、根来くんは何か、心配なことがあったんでしょ?」
「…」
「ねぇ、助けてあげてよ。根来くんなら、できるかもしれないんでしょ?」
そんなこと言われても、できるならもうやってる。あんなこと、していない。
「むらっちが苦しんでる。お願い。むらっちを、助けてあげて」
彼女の声からにじむのは、悲しみ、苦しみ、無力感、そして、たった一筋の、望み…こんな声、本当は聞きたくない。力不足の僕は、聞いていられない。だけど…僕も、僕の奥底から聞こえてくる声も、同じ一筋の望みを持っている。
「…わかった。できるかどうかはわからないけど、できるだけ、助ける」
「…ありがとう」
彼女の声にはまだ、渋みが残っていた。本当に仲良しなんだ。雨が降り続く中、僕らは採寸を終え、静かに教室へと戻っていった。
助けるなら、本番までがベスト。でも、どうすればいいんだろう。そもそも、以前とは違う声になっているけど、今の声は嘘の声なんかじゃない。丸みと明るさが無くなっただけ。本当じゃないわけじゃない。演技中に関しては以前と同じ、本当の声に聞こえる声。嘘でもない、以前と変わらない声を変えることが、助けるということ?あれだって本当の声なのに、それを否定するのか?そんなこと…
「根来くん!」
唐突な大声に、体全体がビクつく。知らぬ間に下がっていた顔が急に上がる。
「…次のセリフ、根来くんだよ」
「あっ、ごめん…んっん『…この世界も違う。何か…何か、違和感がある』」
『なるほど。違和感、それは何だと思いますか?』
『…わからないです』
『…わからない状態で飛ばしてしまっても、良いのですか?もし、本当の世界を飛ばしてしまえば、もう二度と、戻ることはできないのですよ?』
僕は目をつむり、手をあごにつけ考え直す。そして答えを…
「ねぇ、ここ…僕自身で違和感を理解するのは、できないと思う。だから、ヒントをもらって、そこからっていう感じにするのはどうかな」
教室内がざわめき出す。でも、もう構っていられない。助けなきゃいけないし、演劇も成功させなきゃいけないんだ。
「…んー、物語的に主人公に自分で考えてほしいんだよね…まぁ前半だし、そこまで厳しくなくて良いか。じゃあ稲見(いなみ)さん、ここに『仕方ないですね、この世界の差異はあなた自身にあるのです』って入れて。あとは…そのままで」
「はい」
パタパタ カチャカチャ ススススス
落ち着いた返事、一定の足音、静かに走るペン先。僕も忘れないうちに加筆する。
「じゃあヒントをもらってわかったところから、始めて」
僕は姿勢を戻し、つむった目をパッと開く。
『…!そうか、目線だ。いつも僕は、彼女と目を合わせて話すことは無いんだ』
『そうですか、それでは、居眠りして、次の世界へ行きなさい』
「はい、オッケー。うん、こっちで良いかな。結構やったし、ちょっと休憩しよう」
ピリッとした空気がゆるみ、一気にうるさくなる。
「根来くん」
「ん?」
「追加のセリフ、これで合ってる?」
稲見さんは汚れのない台本を差し出し、シャーペンで綺麗に書かれた字を見せた。
「…うん、多分そうだったと思う」
「わかった、ありがとう」
「ごめんね、急にこんなこと言って」
「いや、大丈夫。私の役は、舞台袖で見ながらやっても大丈夫だから」
微笑みながら言う彼女が、少し羨ましかった。まぁ、セリフはもう覚えたし、今さら気にしても仕方がない。
「それにしても」
真面目な表情に戻り、彼女は首をかしげながら言った。
「なんか…変わったね、根来くん」
「え?」
「ほら、これまであまり自分から発言すること、なかったから。それが、昨日は村雨さんに改善点を聞いて、今日は改善点を自分で言ったから、変わったなと思って」
それは、ただ、ひっかかったから。何かある、できない、そう思ってひっかかって、それをこぼしてしまっただけ。前もひっかかることはあって、それを飲み込んでいただけ…いや、じゃあ、飲み込めた前と、こぼしてしまう今では違う僕か。でも、別に今も、前も、嘘は言ってない、変わってない。けれど、変わっている?じゃあ、今と前、どっちが本当の…
トントン
「根来くん?再開するって。さっきの、気に障ったかしら。ごめんなさい」
稲見さんは優しく肩を叩き、柔らかな声で言った。
「あぁ、いや、大丈夫。ごめんごめん」
今は練習に集中しなきゃ。顔を横に振る。フッと息を抜き、心をピンと張る。
「あ、変わったと言えば」
定位置に戻りながら、何気なく彼女は言う。
「村雨さんも変わったよね」
地雷を踏まれ、体と頭が固まってしまう。
「え?私が変わった?」
このリアクションは、本当に自覚していない声だ。
「なんかいつもより、んー…ツン?ピン?としている気がする。文化祭に向けて色々してくれているし、疲れているのかもって思っていたの、大丈夫?」
「…ヘェー、そうなんだ、私は大丈夫!じゃ、再開しよ!」
それから、彼女の声は、変わった。戻しているつもりだろうけど、戻ってない。あの声は、確かに丸くて明るい。でもそれは我慢、隠蔽、無理を混ぜ上塗りしただけの、表面上の丸み、明るさがあるだけ。いつもの、本当の丸み、本当の明るさではない。あの、いつものを奪ったのは、僕…そうだ、やっぱり助けなければいけない。あの声に戻す、あの声が出せるように、丸み、明るさがない声だって本当の声だけど、あの声じゃない声を、彼女は出していた、本当の声として、望んでその声を出していた。だから、それを奪ってしまった僕が、きちんと返さないといけないんだ。
『村雨さんも変わったね』
そんなの、どう考えてもあいつのせい。私が演技を嫌ってるなんて、信じられない。そんな私、私じゃない。…私じゃない、はず。あれから、不安で、ひりついた気持ちのままだ。茜(あかね)は変わらず仲良くしてくれるけど、ごめんだけど、楽しいとは思えない。多分、茜も思わなかっただろな…このままだったら、嫌われちゃうかな。楽しくないまま、生き続けるのかな。…でも、また戻るか。あいつの言ってたこと、もうほぼ忘れたし。まぁ確かに、冗談とかじゃなくて、私を思って言ってくれたとは思うけど…どうしても、演技を嫌う私は、想像できない。それは、私じゃない…全然わかってない。なんで期待しちゃったんだろ。私のこと、何もわかってないじゃん。なんで、あんな…
『何が良くないの?』
…あれは、なんだったんだろ。なんで、言わなかったことに気付いたんだろ。あいつは、はじめて話したときから、私の話をすごく聴いてくれた。目は向けないくせに、しっかり聴いて、にやけたり、照れたり、おどけたりして…だから、期待しちゃったのかな。でも…いや、本当は、わかっているのかもしれない、気付いたらできてた、私もわかっていない、この胸のもやもやを…だけど、それでも、私が演技を嫌ってることは、ないはず。私は、演技が好き。なれない自分になれる、知らなかった自分の一面が見つかる、違う自分を、本当の自分のように演じる難しさ、楽しさ、やり切る達成感…嫌いなわけ、ない…ない、は…
「ねぇ!むらっち、聞いてる?」
顔を上げると、むくれ顔の茜がいた。
「ごめんごめん、どうしたの」
手を合わせて、ごまかす笑いを浮かべた。
「…はぁ、もういいよ。だけど、最近そういうの、多いよ?困ってることあったら、話してよね」
「…うん、ありがと。私は大丈夫だよ!」
大丈夫って言っても、笑顔しても、茜は心配そうな顔をしてる。本当に、良い友達に恵まれた。でも、悪いけど、私は昔から悩みとか相談したことがないから、やり方もわからないし、笑ってごまかしてれば大丈夫だって、知ってる。今の『大丈夫』が、たとえごまかしの嘘だとしても、いつのまにか、相手も、私も忘れて、『大丈夫』になる。だから、大丈夫。今の小さな悩みなんて、大丈夫。ずっと、大丈夫…だった。今の私は、この言葉さえ刺さるんだ。胸がチクチクする。嘘の言葉、ごまかしの笑顔…なんか、いつもより疲れたかな。でも、本番近いし、気合い入れ直さなきゃ…
『返さないといけないんだ』なんて意気込んだのに、もう木曜日の夜。あと金曜日しか会えない。その後はもう、本番だ、時間が無い…嘆いたって、仕方ない。できることを考えなくちゃ…そもそも、僕に何ができるんだろう。『僕なら』って言ってたなら、僕の耳を知っているのか?いや、それならこうならなかった。信じてもらえただろうから。じゃあ、なんで僕?僕がしたことって、何かあったかな。昨日は失言、火曜日は失態、月曜日は自惚れ、週末は練習…そう振り返っていると、2年に上がる前までの、失敗、助けられなかった過去も思い出してしまった。
なんで 気持ち悪い そんなことないよ 入ってこないで うざい
痛々しい声が起き上がって来る。痛みから生まれ、痛みを生んで、眠っていた声が。今も痛々しいけど、かなり痛みは薄れて、じんわりと苦く、かすかに甘い余韻を残すようになっている。こんなに、間違ったんだ。ずっと間違って、ずっと痛めつけて、ずっと同じような声を、ただ聞いてきただけなんだ。誰の声かさえ、思い出せない。誰の出した声なのか、わからない。ただ、痛々しい声だけが、起きてまざって頭を…
ファサッ
体にかけていたブランケットを除け、ベッドを下り、机に置いたイヤホンをつける。声だけが起きてくる、誰の声かはわからない、それは自分が、これまで声を聞くことしかしていなかったからだ。声は聞いていても、その声を出す相手を、しっかり見てないからだ。声しか聞かないで、声しか考えないから、簡単に見落とし、傷つける。あの日の彼女の顔も、部分的にしか思い出せない…だから、痛めつけてしまうんだ。声だけの記憶は頼りにならない。何か、それ以外の何かはないか。声なんて考えなくても聞こえてくるんだ。お昼を一緒に食べている人…連絡できない。連絡できるのは彼女だけ…深刻、絶望的陰キャ。彼女と連絡するのも無理。あんなことしておいて、何言ったって助けることにはつながらない。明日なんとかする?なんとかできるとは思えない。観察でもするのか?ストーカーかな?そもそも、前から顔を合わせてすらないのに、今さら…
ジーーー スッ
そうだ、これしかない、頼れる、彼女の言葉を見られるのは。息をするのも忘れて、1行1行をなめるように見て、考える。
『ねぇ、甘いものって好き?私は桃が好きなんだ』
『鞄のそれ、どこで買ったんだ?良いじゃないか』
『ふふ、寝癖、ついてるわよ』
『あらら…良かったら勉強、教えてあげよっか?』
『ほら、次の授業はあなたの好きな体育よ』
『前も言ったじゃん!忘れないでよ』
『あーぁ、なんか、疲れたや』
敷き詰められた、彼女の言葉。読み返し聞こえてくる、雨の音、蝉の声、段ボールを切る音、明るい話し声、水筒の中で揺れる氷の音、そして、彼女の声。
ペラッ
……そういや、これをさせる理由って結局、なんなんだ…いや、そもそもこの物語は…もしかして、それが答えなのか?これをさせる理由、この物語の意味、結末、これを書いた彼女、演じる僕…拭いきれない疑念が、胸を曇らせる。腑に落ちたようで、まだへばりついてもいる。でも、見つけた。彼女の何かのようなもの。怖い。何度も読み直し、考える。だけど、これしか見つけられない。
「…フー」
目をつむり、天を仰ぐ。怖い。また、傷つけてしまうかもしれない。でも、助けなければならない。そのためのピースはこれだ、そう信じるしかない。あぁ、彼もこんな感じなのかな…なら、なおさら助けなきゃ。拳に力が入る。僕になら、できる。今度はちゃんと、見つける、助けるんだ。
準備期間最終日、ピンと広げられた暗幕がたたまれ、最後の異世界の幕が開ける。机に伏せて眠る僕の肩を隣の女子が小突く。僕は目をこすりながら、顔だけ起こす。
『ねぇ、さっきのテスト、何点だった?』
僕は気だるげな動きで、引き出しに入っているテスト(に見せかけた)用紙を脇の辺りに出し、見せる。
『だー!82か…良かったねぇ』
『うん…え?村雨さんは?』
『え?』
彼女は素っ頓狂な声を出す。
『いや…聞いたんなら、普通言わない?』
体は机に伏せたまま、首だけかしげる。
『アハハ、ごめんって!私は77だよ』
『えっ…5点差か、それはまずいな』
ようやくゆっくり体を起こす。伸びをする。
『ハッハッハッ、すぐに追いついてあげるよ』
『んー、はぁ、そうなったら屈辱的だけど、実際すごく伸びてるしなぁ』
『そうでしょ?ありがと。てか追いつかれたら屈辱的ってなんだ!』
彼女は冗談っぽく大声をあげる。
『でも、あれだけ伸ばしても勝てないんだなぁ』
『まぁ、僕、部活してないし』
『それでもすごいよ。でも、その点だと、茜とかすごいよね。部活一緒だけど、部活も一生懸命やってるのに、テストも私たちより高いから』
『私はテスト期間中、テストのことしか考えてないから。むらっちは期間中も部活のことを考えて、根来くんは期間中とそれ以外で切り替えができてないんじゃない?』
冷静に、すんなりと指摘する。
『あ~、確かにそうかも。根来くんは?』
『僕もそうかも、大して期間中と違いがないし』
『じゃあ合ってるんだ。さすが、賢いね~』
感嘆の声をこぼす。
『もうっ、そんなに褒めても、何も出ないよ?』
さっきの冷静さはどこへやら、トーンが少し上がった。
『アハッ、照れてる照れてる』
『照れてないわよ!ねぇ、根来くん』
『えぇ!ぼ、僕ですか』
突然矛先が向いてきて、体がビクンッと跳ねる。声がうわずる。
『いや、ですかって(笑)』
みんな笑う、この瞬間電気が消え、みんなが固まる。冷めた顔を作る。
『…では、問います。この世界は、いつもの世界ですか』
僕は目線を落とす。ふぅ。鼓動が高まる。顔を上げ、拳を胸に寄せ、目をしっかりと開く。
『はい、この世界が、いつもの世界です』
『…なぜそう思ったのです?』
『…村雨さんを中心に、みんなが笑う、この世界が、僕の知るいつもの世界です』
「それに」
即座に言葉を入れる。拳が震える。再度目線を落とし、落ち着ける。ふぅぅ。さぁ、伝える。
「これが、本当の村雨さんだからです」
「…それは、なぜ?」
「…僕には、わかる、彼女が本当の村雨さんです」
「…貴方は、たかだか3カ月程度しか共に過ごしていないのでは?」
「えぇ、でも、僕はわかるんです。彼女が、本当の村雨さんだと」
教室全体がざわつき出す。でも、良い、彼女にさえ伝わってくれれば、それで。
「…えっと…」
困惑に満ちた声。申し訳ない。でも予定通り、この空気を切り開く。
「…もしかして、ストーカーっぽいと疑ってますか?いや!僕はストーカーじゃないんです!本当です、信じて!」
…ぷっ あはははは
僕は椅子から落ち、膝をつき手を合わせ懇願する。その必死の形相に、皆が注目し、笑い、手を叩き、お腹を抱えていた。あーぁ、コメディーになっちゃった。
『…おほんっ、ま、ストーカーかどうかは別として…良かったですね』
『…!じゃあ』
僕は膝をついたまま天を仰ぐ。
『もう一度寝なさい。…さようなら』
急いで机に戻り、伏せる。暗幕が広げられ、生徒役の人たちも席について、先生役も出て、電気が付き、暗幕がたたまれる。
ざわざわ ざわざわ
『静かにしろー…じゃ、採点ミスとかあれば、来てくれ』
伏せたままの僕の肩がまた、小突かれる。
『ねぇ、テスト、何点だった?』
僕は周りに気付かれ見られないように、ゆっくりと点数を見せた。
『だー!今回はいけると思ったのになぁ。5点差かぁ』
『ちょ、シーー、声大きいよ。というか、5点差…じゃあ次はもっと勉強しないと。村雨さんに負けるなんて嫌だし』
真っ赤な顔で、にやけながら言った。
『あっ、言ったな!覚えてなよ、絶対追い越してやる!』
『こら!今は授業中だぞ。静かにしろ、そこ2人』
くすくす
『はぁぁ、村雨さんのせいで怒られちゃったじゃん』
『いやいや、根来くんが私のこと、馬鹿にしたからだよね』
『なっ…まぁそうだけど、はぁ』
僕は頭を掻きながら用紙を見直す。みんな用紙の確認に集中し、静まり返る。
『ね』
小さく、柔らかい声が、僕に届く。
『…根来くん、ありがとね、「本当の私を」見つけてくれて』
『…こちらこそ、いつもありがと、村雨さん』
パチパチパチパチ
「良い!すごく良いよ!完成度高いわ。さすが、担任が俺なだけはある(笑)」
「いや、それどういうことですか?でも、ほんと良かった。最後、根来くんアドリブ入れてなかった?」
「うん、勝手なことして、ごめん。稲見さんも、本当に申し訳ない。合わせてくれてありがとう」
手を合わせ、端によけた教卓に隠れている稲見さんに、頭を下げる。
「えぇ、ちょっとびっくりしたわ。でも、良いと思う。根来くんの動きも面白かったから。後でセリフ教えて、台本に書きたいから」
暖かい空気感。とりあえず、にじむ達成感。あぁ、完遂した。
「むらっちも良かった…どうしたの!?」
見ると、呆然とした彼女の頬を一筋の涙が流れていた。我に返り、素早く手のひらで顔を覆う。
「なんでもない、大丈夫、大丈夫だよ…みんな、すごく良かった!これを、いやこれ以上を、本番で出しましょう!」
パチパチパチパチ シャーッ 頑張ろー
涙は落ちる前に拭い去られた。やっと、聞きたかった村雨さんの声が聞こえた。胸のつかえが下り、達成感があふれてくる。そのあと、帰りのホームルームも済み、稲見さんと軽く話し合ってセリフを伝え、鞄を持って教室を出る。
「根来くん!」
廊下に一歩踏み出したとき、呼び止められた。
「ありがとね!」
丸くて、明るくて、はじけている、素直でまっすぐな村雨さんの声。ずっと聞いていられる声。でも響くのが恥ずかしくて、手をひらひらさせることしかできなかった。
「あと、週末も練習しといてよ!部活入ってないんだから!」
「あーもう、わかってるよ!うるさいなぁ(笑)」
午後3時半。黒のスニーカーに履き替え、ズボンのポケット…は探らずに、そのまま外へ出た。けたたましい蝉の声、どこかへ走っていく足音、最後の練習に励む人たちの声、不安な声、何年かぶりに素直に聞こえたその音は、どれもが生き生きとして、ただただ鮮やかに、頭を巡っていた。
七月のはじめ。ギラつき出した太陽の暑さと突然の豪雨に心沈む季節。高2の僕らには他にも心沈むことがあった。学期末テストだ。正直、僕は関係ないけど。勉強はそれほど苦でない。ガリ勉の奴らみたいに、進路や受験勉強に勤しまねばという気もしないし。強いて言うなら、授業でイライラした教師の声を聞くのが嫌いだ。教科書を眺めているだけの方が、よっぽど楽で頭に入ってくる。授業中もイヤホンをしていたい。というか外に出たくない。まぁ、出席しないだけで成績を下げられるのは癪に障るから来てるんだけど。机に伏せつつ音楽に身を委ねる。右手のスマホを確認すると、もう8時49分。嫌々ながらイヤホンを外す。騒ぎ声が一気に襲い掛かる。伏せながら顔をしかめる。
キーンコーンカーンコーン
「ちゃくせーき」
みんな、バタバタと自分の席へ戻る。号令がかかり、形だけの礼を済ませる。
「よーし、テスト返してくぞー。解答例も置いとくから各自取っていってな。じゃ、アイザワ」
みんな、返事もせず教壇へ取りに行く。もらうと緊張が切れて、ひとしきり騒ぐ。
「おまっ結構良いじゃねーか!テストんときは『今回はダメだ』とかあくびしながら言ってたくせに!」
はぁ、バカだな。あんなに分かりやすかったのに。大方、遅くまでしっかり勉強したから眠くてあくびが出たんだろう。
「根来(ねごろ)」
ん、自分だ。だるい体を起こし、机と椅子の間をすり抜けて前へ行く。一応、軽く頭を下げつつ受け取る。78…まぁ、こんなもんか。
「…ワタナベ…よし、みんなもらったな。今回の平均点だが」
ペラッ ガチャ ガチャ カッ カッカッ
「67だ。じゃ、なんか採点ミスとかあれば持ってきてくれ」
ヒラッ ペラッ
「ね、何点だった?」
みんな答案の確認に集中して静まり返るなか、その声は小さく、緊張していた。声の主は隣の村雨(むらさめ)さん。失礼ながら、頭はあまり良くない。その代わり、部活を頑張っているらしい。この間の英語の授業中に、がっつり日本語で喋ってた。
ススス
僕は周りに気付かれて見られないよう、ゆっくりと点数を見せた。
「だー!今回はいけると思ったのに。8点差かぁ」
「ちょ、シーー、声大きいよ。…というか、8点差まで来たんだ。じゃあ次はもっと勉強しないと。村雨さんに負けるなんて、屈辱だし」
少々焦りつつ、にやけ顔で言った。
「あっ、言ったな!覚えてなさいよ、絶対越してやるから!」
「そこっ!私語は慎みなさい」
教師のキッとした声に、村雨さんも僕も肩をビクつかせ、答案の確認に戻った。実は中間テストのときも点数を聞かれていて、全部僕が勝っていた。ただ、中間のときは大体どれも30点差ぐらいあった。今回、僕はいつもとさほど変わらないから、村雨さんが20点ぐらい上げていることになる。これは…冗談じゃなく本気で勉強しないと、次は並ばれているかもしれない。
「…よーし、何もないな。なんかあったら今日中に持ってきてくれ。あと、今日から始まる学園祭準備だが、昼休みが終わったら着席しといてくれ。事前に実行委員から一通り説明がある。じゃ、テストは以上で終わり、教科書進めるから準備しろ~」
テストをしまう音に紛れるように、そわそわ私語が発生する。村雨さんもこのときに言ってくれたら良かったのに。なんて思いながら私語を聞き流し、テストを二つ折りし、引き出しの教科書と入れ替える。いつのまにか雨は止んで、窓越しに蝉の声が、私語に混じり聞こえてきた。
「…はい、以上で説明は終わりです。何か質問、ありますか?」
みんな、テストを忘れワクワクしている。こういうざわめきは嫌いじゃない。まぁ、好きでもないけど。
「…ありませんね。このプリントは後ろに貼っておくので、いつでも見てください。じゃあ、このクラスの話ですが、うちは前に、演劇をすると決めました。ただ、私、演劇に詳しくなくて…誰か、詳しい人、いませんか?」
「はーい!私、演劇部です!」
ふっ。やっぱそうだよね。容易に想像できた流れだ。元気な声で立候補した村雨さんは演劇部所属で、いつも演劇のことを考えている。この前も、主演女優を任せられるんだと誇らしげに語ってきた。いっつも演技が楽しくて仕方ないと、言葉上、語っている。
「そうなの?じゃあ丁度良いや。ちょっと前に来てくれる?」
跳ねるような足音で前へ行った。それから、実行委員のテキパキした進行と、それを支える彼女の働きで、すぐに役割決めまで進んだ。役者、衣装、小道具、脚本兼監督…必要な役割が彼女に挙げられ、黒板に書きあげられる。まぁ、無難に小道具かな。人数多くするらしいし、多分、大丈夫だろ。
「これで終わり?じゃあ…やっぱり脚本兼監督から決めた方が良いの?」
「あっ、えっと…それは、私がやっても良いかな?」
彼女は、少しおびえながら言った。
「そうね…他にやりたい人は、いませんか?」
応える声はなく、静かなまま、隣のクラスの拍手だけが響く。
「…いないみたい、じゃあみんな、村雨さんが脚本兼監督で良い?良い人は拍手!」
パチパチパチパチパチパチ
「やった!みんな、ありがとう!」
はじけた、心の底から出た声で、彼女は感謝した。
「実は…前から少し書き始めてた話があって」
おぉ、という驚きの声があがる。とやかく言う僕も用意周到すぎて驚いてるけど。
「だから、もう一つ…わがまま言っても良いかな?」
「何かしら?」
「えっと…」
妙な静寂。蝉の声以外、何も聞こえない。時が止まったかのようだ。
「根来くん、起きてる?」
ん?急に名前を出され、なぜだと思いながら体を起こす。
「あぁ、起きてるね。じゃ、役者、よろしく!」
…んん?
それからあっという間だった。翌日に台本完成させて人数分印刷して来て、学園祭準備の時間に配りすぐ配役を始めた。既にかなり構想を練ったようで、少しふにゃっとしたノートを手に〇〇君は××役、△△さんは□□役、と指名していった。確認は取っていたけど、ほとんど独断だった。みんな、勢いに圧倒されながらも、役と一致するところもあるらしく、それなりに納得し、同意していた。僕の役は、休み時間は常にイヤホンをしていて、授業中はよく寝ている暗めの男子。まぁ、なんというか…ぴったり。正直、「この人のモデル、僕じゃね?」と思うほど特徴が一致している。ここまで一致していては拒めない。今日は配役だけにとどめ、明日、明後日の週末の間にセリフを覚えるか、最悪一度は見といてと言っていた。雨も蝉も大人しくなった午後9時頃、僕は布団の上で、初めて冊子を開いた。
ペラッ
…どれだけ確認しても、変わりはしないか。僕はスマホを取り、ロックを解除して、大してやりとりしてない相手のトークから電話する。
トゥルルルル トゥルルルル トゥルルr
「はーい、もしもし?根来くん?」
少し驚きの混じった無垢な声が届く。
「あー村雨さん?今大丈夫?」
「うん、平気だよ?どうしたの?」
村雨さんは本気で電話した理由がわからないらしい。なんでわからないんだ…
「あのー、この物語さ、あ、学園祭でやる劇の話なんだけど」
僕は左手で冊子を開きながら言った。
「まさかとは思うんだけど、僕の役…主役?」
「…そうだけど?」
彼女は少し応答停止した後、素直に肯定した。
「…ハァー、そうだけど?じゃないよ!いや…え?なんで僕なんかが主役なの?」
「え?それはー…書いてたら、この役は根来くんしかできないなと思ったから」
彼女はさも当然かのように言った。いや、仮にそうだとしても、僕じゃないでしょ。普通、主役は設定上根暗でも、演じる人は陽キャでイケメンじゃないのか?主役ってそういうものじゃ……混乱して口が動かない僕を面白がってか、彼女は隠し切れない笑いの混じった声で、説明してきた。
「…最初、この話の大筋を考えたときに『あぁ、この物語の主役は根来くんにやってもらいたいな』って思ったの。そこがスタート地点だった、だから根来くんが主役。なんとなくだけど、根来くんが主役が良いの。別に、大丈夫だよ?『ヒーローだ!』みたいなのは求めてないし。てか、根来くんにそんなの求めないよ(笑)」
…いやだからって…えぇ?演劇経験一切なし、人付き合いは嫌い、そもそも人間自体そう好きじゃない、だから一人でボカロ聴くのが好きな根っからの完璧パーフェクト陰キャが、主役なんて…
「まぁまぁ、大丈夫!まだ本番まで一週間以上あるし。なんだったら、私が直接演技指導しても良いよ?(笑)」
彼女はこっちの心内事情なんてお構いなしに、楽しさにまみれて無邪気に言った。
「…ハァー。じゃあ…そのときはよろしく」
もう、諦めた。境遇にも、自分にも、セリフの多さにも頭を抱えつつ、僕はただただページをめくった。
週末は、台本を見ている間に過ぎた。パッとしない天気だった先週から一転、ギラギラと刺してくる日差し。そして、日差しにも負けない隣の彼女。正直、暑苦しい…まぁ、そんなことどうでもいい。このお昼休みが終われば、準備時間がやってくる。やってきてしまう…少しでも、心を落ち着けておこう。少しでも、休まないと…目をつむり、細く息を吐き出す。肩が下りて
「ねぇ」
…また上がった。鼓動が一気に速まった。
「あ、ごめんごめん。どうしても聞きたいことがあって」
にこやかにそう言い、奪ったワイヤレスイヤホンを持ったまま話す。そばで、いつも彼女と一緒にお昼を食べている女子が、怪訝そうな顔をしてこちらを見ている。
「台本読んできた?」
彼女は真っ直ぐな声で、僕の目を覗き込むように聞いた。
「…うん、読んだから電話したんだけど」
僕は彼女の目に照れて、顔をそらし、あくまでそっけなく答えた。
「あっそれもそうか(笑)セリフ覚えてる?」
「まぁ…ぼちぼちかな」
すまして答えたが、本当は全部暗唱できるくらい覚えている。それはそれでガチすぎと、笑いものにされそうだから隠す。
「できそう?主役」
少し心配さを帯びた声。
「…できなくても、僕にさせるでしょ?」
ちょっとした仕返し。…彼女は何も言わなくなった。もう一人の女子のイライラが、声を聞かなくとも予測できた。
「…フー、ま、なんとかするよ。厳しかったら、誰かさんが直接演技指導してくれるらしいしね(笑)」
空気感に耐えられなくなり、作り笑顔を見せて言った。
「えっ!指導してくれる人がいるの?」
「いや村雨さんだよ!電話したとき言ってたじゃん!」
「え?…あー、そういえば、そんなこと言ったような?忘れたや(笑)」
「まーた忘れたの?むらっち、最近忘れっぽいね(笑)」
ふー、良かった、空気感が回復した。僕は音楽を止めてイヤホンを外し、鞄から台本を取り出して安息の地へ逃げ出した。
『…根来くん、ありがとね、見つけてくれて』
『…こちらこそ、いつもありがと、村雨さん』
「…はい、オッケー!うん、初めてだけどすごく良いよ!」
村雨さんの賛辞と笑顔に、みんな胸をなでおろし、喜びの声をこぼした。僕もかなり緊張したけど、ようやく力が抜けて息がもれた。
「根来くんも、不安そうだったけど全然良いじゃん!想像以上だよ。ほんとに演劇は初めて?すごく自然だったなぁ」
驚きに満ちた村雨さんの声、それに賛同するクラスメイトたち、僕は顔がほころんでしかたなかった。
「初めてなのは本当だよ。主役ってことがわかってから、何度か読み込んだからじゃないかな」
もちろん、それだけじゃない。僕にしかできない練習をした。とにかく嘘っぽくない読み方をすれば良い。自分が聞いても、嘘と思えないような読み方を考えれば良い。そうすれば…いや、フー、落ち着け。調子に乗っちゃいけない。僕は顔を平手で軽く叩き、興奮を抑えた。
「じゃあ、これから一人ずつ気になったところを言っていくから、みんなは小道具のお手伝いとか、自分のセリフを見返したりとかしてください」
村雨さんは、メモを付けていた台本をせわしなくめくり、一人一人にアドバイスして回り始めた。僕はどうしようか迷ったが、あまり焦っているような声や様子はない。ちょっと拍子抜けして、廊下側の壁にもたれかかり、台本を見返した。正直、さっきの読み合わせは緊張しすぎて、練習通りに読めたかわからなかった。とりあえず始めの噛んでしまったところを、口を動かしながら黙読し続けた。
パタパタパタパタ
「お待たせ~根来くん」
村雨さんが軽い駆け足で来てくれた。
「お、読み返してくれてるね。ちゃんと真面目にやってくれるし、ありがたいなぁ」
「まぁ、引き受けちゃったから…みんなの足引っ張りたくないし」
ありがたいなんて言われ慣れていないから、ちょっと照れる。
「なんにせよ、ありがたいよ」
いつものはじけるような声でなく、安心した、やわらかな声。重ね掛けに火照る顔。
「じゃあ、根来くんの気になったところなんだけど、まずは最初のとこ。緊張かな?硬かったし噛んだところもあったね。後、日常的な場面はすごく良いんだけど、もう少し感情の起伏を激しめに表現してほしいな。大げさになっても良いよ。コメディーっぽくても、面白いし」
「コメディーはやだなぁ(笑)。まぁ、了解」
「じゃあごめん、早速だけど二回目やって良い?」
「うん、大丈夫」
この日は最後まで読み合わせをした。小道具や衣装の人たちの声も飛び交う中、繰り返しちょっとずつ変化させながら、より自然に、あるいはより演技っぽく、声に色がついていった。
部活に向けて楽しさ、緊張感、気だるい声の混じる午後3時半。帰宅部の僕は軽くなった心持ちで黒のスニーカーを履き、ズボンのポケットを探った。
「…あれっ」
…ん?…ない。え…ない。今まで一度たりとも無くしたことなかったのに、あるはずのイヤホンが、右のだけ、ない。なんで?いつも休み時間に聴いた後…
「あ」
そうだ、村雨さんに取られたんだ。…はぁ、どうしようかなぁ。面倒くさいな。でも…ハァ、僕はスニーカーを脱いで戻し、スリッパを履きなおして教室へ向かった。
「…はぁ」
やっぱり、彼女は教室にいなかった。まぁ部活があるから、悠長に残っているわけがない。そして、僕が演劇部の場所を知っているわけも…いや?いつだったか、彼女に聞いた気がする。僕は彼女の過去の言葉を手繰り寄せつつ、演劇部の場所を探し歩き始めた。おそらく部室棟だけど、そこのどこだっけな。
“…西の階段を4階まで上がって、すぐのとこだよ。いい運動になるんだよね”
あ、そうだ。2年になってすぐの頃に、どこでやってるか質問したんだっけ。…4階…僕は天井を見上げ、ため息を吐き、重い足を進めた。
タン タン タン はぁ
ようやく…ようやく4階…さぁ、返してもr
「もうっ…だまっててよ…」
ドアに伸ばした手が止まる。村雨さんだ。泣き出しそうなその声は。鼓動が強く速くなる。え、どうした…いや、いや、そうだ、今は部活だ。泣き出しそうな、演技だ。僕は息をこぼし、胸をなでおろした。だけど…このタイミングで入ったら間違いなく迷惑だよな。そこで、もちろん罪悪感もあったが、迷惑はかけちゃダメと念じ続け、立ち聞きして機をうかがった。内容こそ推測できないが、村雨さんはかなり役に入り込んで、でも大げさじゃない、自然な演技をしていた。僕が、演技ではなく本心からかもと思ってしまうほどに。
『逃げるしか、ないのかな』
パンッ
「はい、一度休憩にしましょ。村雨、悪くないわ。細かいところはまた修正が必要だけど」
先生の少ししゃがれた声を追いかけて、部員と思われる人たちみんな息をもらした。静まり返っていた教室に活気が湧く。行くなら、今だな。…ハァ、恥ずいなぁ。僕はドアを開けた後の動きを脳内シュミレーションした。体が熱くなる。意を決し、息を吐き、拳を握る。
コンコン ガラガラ
「すみません、村雨さん、居ますか?」
教室の中心に目を向けると、一人座って冊子を読む村雨さんが、こちらに気付いた。
「…根来くん?どうしたの?」
落ち着いて大人しい、いつもとは正反対な声で言った。
「あの、イヤホン返してください…」
「あっごめん、返してなかったね」
立ち上がって小走りに来てくれる。
「ごめんごめん、忘れてた」
「いや、ま、僕も忘れてたし、いいよ」
彼女はスカートのポケットからイヤホンを取り出して、僕の手の上に置いた。慣れてない場と彼女の声に戸惑っていた僕は、帰ってきたイヤホンを見て、ほほえんだ。
「…ねぇ、さっきの、聞いてた?」
イヤホンに目を向けたまま、僕の体は固まり、脳が停止した。
「…うん、立ち聞きしてごめん」
「いや、いいよ。どうせ学園祭のときに発表するから。…どうだった?」
「…すごいと思ったよ。いつもの村雨さんと全然違うし、なのに本心から言ってるのかなって思うくらい、すごかった」
「そう?ありがと。今回の役は難しいけど、やっぱり、演技はとても楽しいわ」
…やっぱり、何か違う。
「…良かったら、また来て。演技指導しても良いよ?主人公さん」
最後は、いたずらっぽい笑みを浮かべて軽やかに言った。でも、ずっと落ち着いた声だった。それからすぐ再開し、彼女は教室へ戻った。僕は帰ってきたイヤホンをしてスマホとつなぎ、聞き慣れたリストを再生した。彼女の声が頭を巡っていた。
彼女の声に疑問を抱き始めたのは、たしか、ゴールデンウィークの前あたりだ。
「私、演劇が大好きなの!中学からしていて、今度主人公をさせてもらえるの!高校で主人公は初めてだから、すごく楽しみなんだ。主人公以外も、楽しいけどね」
あれは、授業合間の休み時間だった…と思う。ふと、何気なく部活について聞いたら返ってきた。意図的によく行われたペアワークのおかげで、僕と村雨さんは1カ月弱で気軽な話し相手になっていた。陰キャの僕があんな短い期間に打ち解けるなんて、初めてだった。まぁ、僕から話しかけるのは今もまれで、大体今日の昼みたいに彼女からだけど。彼女の声の印象は、最初にしてくれた挨拶からずっと変わらない。素直で、真っ直ぐ。小学校低学年を最後に聞かなくなったような、まっさら、純真無垢な声。でも、あの声は、ちょっと違った。どこか、何か、ずれていた。真っ赤な嘘、とまではいかないけど、何かある、ように聞こえた。今考え直せば、あんな演技をする人だし、嘘を吐く、演じることはたやすいかもしれない。…いや、あれは演じていたのか?自分でも驚くほど、あの泣き出しそうな声は本当の声に聞こえた。嘘らしさ、演技っぽさのない、黒さもないただ透明な、素の声だった。…いや、だけどその後の「演技はとても楽しい」と言った声には、何か、あの「演技が大好き」と言った声と同じ、違和感が、しかも少し大きくなってるような違和感が、あった。何か、違う。あの声は彼女じゃない。演技してる彼女より、彼女らしくない。なぜ?本当は演技が嫌い?いや、そこまでじゃないはず。実際、演劇のことをずっと考えているし。なら何が?…やっぱり、考えない方がいいかな。誰でも人に言えないことの一つや二つ、抱えているものだ。その存在を、嫌というほど聞いてきた。聞こえてきた。だから、彼女は特別じゃない、何かに踏み込むことも、すべきでないかもしれないんだ。そう思って、あの声を聞いてから、自分から演劇の話を聞くのはやめた。確かに、気にはなった。彼女の何かは、ほんのかすかなもので、他のみたいに、存在していることがわかりやすいものではなかった。だからこそ、引っかかり続けた。あの違和感はなんだったのか、演技上手だからか、彼女が自覚してないからか、それは彼女を傷つけるものか、取るに足らないものなのか、彼女は傷ついているか、いや、傷ついている人なんて、いっぱい居る…そんなモヤが、がんじがらめに絡まったツタのように、離れなかった。けど、気にしたら負けだ。彼女は他と違っても、何か抱えていることは、普通のことなんだ。何度も気にして、何度も踏み込んで、何度も、何度も、傷つけてきた。もう、聞こえたことに踏み込んではいけない。そう言い聞かせ、夜を無理やり寝て過ごした。だけどまた…しかも、大きくなってる。彼女一人ではなくせないかもしれない。いや、なくさない方が良いのかもしれない。そうだ、やってきたことを、過去の過ちを、思い出せ。自分で生んだ、あの痛々しい声たちを…でも、あの声にも痛々しさがあった。求めてた、あの訴えは、僕にしか聞こえない…僕にしか、聞こえない、僕にしかできないんだ。
『…?ど、どこ?ここ……とりあえず、辺りを散策するか』
「はいストップ。ここはもう少し…いや、もっと驚きを出してほしいな」
エアコンがゴーと音を立てる午後4時。僕は村雨さんと、演劇部の教室にいた。演劇部がお休みで、それならと演技指導をお願いした。嘘っぽくない言い方はそれなりにできるが、それだけでは演技として不十分らしく、演技の奥深さというか、難しさの一面に触れている。
「んー、セリフを言うだけじゃなくて、例えば椅子から転げ落ちるとか、顔を上げて周りが見えたときに固まるとか、動きでも驚きは出せるよ」
そう。セリフ、言い方はそれなりにマシだけど、動きまでは頭が回らないんだ。
「なるほど…じゃあ固まる方をやってみようかな」
教壇上で演技をして、正面から観客として見てもらい、アドバイスしてもらう。やるたびに少しずつ良くなるのが、村雨さんの声からわかった。
「はーい、だいぶ良くなったと思う。もう1時間近くやってるし、一回休憩しよ!」
大きな動きはないとはいえ、慣れないことを試行錯誤しながらやり続けると、かなり疲れる。僕は教壇に置かれた椅子に座り直し、左側に置いた鞄の水筒を探った。
「いや~、良いよ!センスあるわ、根来くん」
「いやいや、指導が的確だからだよ」
と言いつつ、まんざらでもなくて少しにやける。
「ま、それもあるかな!」
「さすが、名指導者だね(笑)」
2人揃って笑う。窓から、カーテンを通り抜けて柔らかな日差しが入ってくる。運動部や蝉の声、廊下を歩く人たちの足音と喋り声、揺れる氷、喉を通るお茶…この時間が続けば、良いのに。
「でも、本当にすごいよ。特に話し方が良い。根来くん、部活入ってないよね?演劇部に入ったら良いのに。…演劇、楽しいよ?」
…あぁ、やっぱり、聞こえる。体が、固まる。汗が一筋、頬を伝う。
「…いや、僕、コミュ障だし、演技も難しいから」
水筒の蓋を開け閉めする。緊張して、迷っているときのクセ。
「…難しいけど、楽しいよ。どんな役しても、面白いんだ。根来くんは、演技してて楽しくない?」
それは、楽しい。だけど…フー、水筒をぐっと閉めた。握る手に力が入る。
「……じゃあ、村雨さんは本当に、演技するの、楽しい?」
声を机の上にこぼす。人の声も、蝉の声も、足音も、氷の音も、すべて聞こえない。探し続けるのは、たった一つの、声。
「…ッハハ、どうしたの?言ってんじゃん、楽しいって」
まぶたが落ちる。手が少し震える。
「…ほんとのこと、言って」
「何を言ってるの?根来く」
「村雨さんずっと嘘言ってる。『演技は楽しい』って。ほんとはそうじゃない。何か隠している。だから、話して。本当に『演技は楽しい』の?」
こらえていたものが溢れる。口が、息が、心が荒ぶる。
「…嘘じゃない、『演技は楽しい』って、嘘じゃない」
「…仮にそうだとしても、自覚してい」
「私が演技を嫌ってるって言いたいの?」
目が開く。思考停止する。
「…え?」
「だってそうでしょ?演技は楽しいっていうのが嘘なら、本当は演技が楽しくない、嫌いっていうことじゃん。…根来くんさ、私がこれまでどんだけ演技やってきたか、知ってる?知らないよね。なのに、急にそんなこと…なんで?」
頭が真っ白になる。鼓動も、音も、声も、何もかもわからなくなる。
「…声」
「…はい?」
「…村雨さんの声が、何か隠してるから」
「…何言ってんの?声って、それだけで私が、ほんとは演技嫌いだなんて…声って、そんな、勘だけで」
ガタッ
「勘じゃない!勘なん…か」
立ち上がって見ると、彼女は真っ赤な顔で、目に涙を浮かべていた。目線をまた机にそらす。
「…なんで?声って、勘だけじゃん。なんで声だけで確信できるの?なんで声だけで、あんなに好きなのに、あんなに楽しんでるのに!あんなに」
「やめて」
ハァハァ
「…ごめん、もう、聞きたくない」
また、だ。また、生んでしまった。頭が、真っ白なまま、少し痛い。
「…逃げるの?」
その声は、強い絶望に染まっていた。
「いや、あの、違う、僕はほんとに、村雨さんが」
「良いよ、もう」
村雨さんはうつむいている。言葉はまとまらない。
「待って、ほんとに」
「良いって言ってるでしょ!」
僕の情けない声を、彼女の固まった体が弾く。
「もうっ…だまっててよ」
バタバタガラッバタバタバタ…
動けなかった。何もできなかった。ただ痛む頭と、あがる息。床のしずくの跡が、誰にも見られずに乾き、消える。痛みと、聞きたかったのとは違う彼女の本当の声が、頭を巡っていた。
『な!?なぜ、そんなことをさせるんだ?』
『それも含めて、自分で考えるのです。頼みましたよ。フッフッフ』
「…はい、オッケー。んー、申し訳ないけど『フッフッフ』はいらないかな。考えてアドリブ入れてくれたのは嬉しいけど、その役はそういう見下ろす感じじゃなくて、何というか…主人公にすがる感じの立場だから、ちょっと違うと思う。そういうとこも意識して」
…いつものように集中してる。すごいな、あんなことがあった次の日なのに。僕は、正直休みたかった。情けなさ、申し訳なさ、声を聞く怖さがあるから。でも、休むと練習が進まないから、来るしかなかった。結局今日は、一切声を交わしてない。今、初めて聞いて、いつも通り、本当の声だ。でも、いつもと違って丸み、明るさがない…正直、聞き苦しい。できれば、聞きたくない。悪いのは、元凶は僕ってわかってるけど、しばらく、何も考えたくない。けれど…聞こえてくる。
「根来くんは…良いと思うよ、そのままで」
「…何が良くないの?」
…やらかした。教室内に変な空気が流れる。血の気が引く。いつもなら隠せるのに。
…え? 何言ってんの? 村雨さんが良いって言ってくれてるのに 調子乗んな
…ハァ、ハハッ、あぁ、やっちゃったな。失笑が浮かぶ。せっかくここまで、うまくできてたのに。やっぱり、休めば良かった。主人公なんて、僕には無理だったんだ。せいぜい僕は、端っこでうずくまってる陰キャの脇役で、精いっぱいなんだ。出しゃばっちゃ、ダメだったんだ。あぁ、イヤホンがしたいな。
「ちょっとみんな、静かにして」
その声はざわめきを一瞬で吹き飛ばした。みんなが驚き、思考停止した。静かにしていた僕さえも、少し萎縮した。
「…ちょっと動揺とか迷いを表現しすぎ。確かにおかしな状況だけど、説明受けて、状況体感して、性格的にも、ここはそこまで表現しなくて良い。ここはね?」
「…うん、ありがとう」
カリカリカリ
そのままメモする。本当に、ありがたい。怒りも戸惑いも何もなく、ちゃんと答えてくれたのが。妙な、その上つっかかるようなことを言ったのに、いつもと同じように答えてくれたのが、ありがたくて、情けなかった。…今、どんな顔してんだろ。
「…あのー」
弱々しい声が、戸惑いの静寂の中を通ってきた。多分、いつも村雨さんと一緒にお昼を食べている人の声だ。
「衣装の採寸をしたいから、根来くん借りて良い?」
「…それは、今じゃないとダメ?」
「他の人の分はできてて、あとは根来くんだけなの」
「…じゃあ、一旦みんな、好きなことをやって」
「はいはい!舞台演出の道具が間に合うか微妙で、数人手伝ってほしいです!」
みんながやるべきことを探し、行い、一気に活気が戻った。そんな騒がしさを横目に、僕は教室から引っ張り出されていった。
はぁ はぁ
「ちょ、ちょっと…ここまで、来る、必要あった?」
何も言われぬまま、演劇部の教室の前までずっと引っ張りつづけられた。
「だって、教室も廊下も道具と衣装の人でいっぱいだもん。それにしても…体力全然無いね、根来くん(笑)」
…意外だ。あの人と仲良いはずなのに、敵意が一切感じられない。煽りはかなり感じられるけど。もしかして、何も聞いていないのかな。いや、でも…
「採寸って、男女が入れ替わる世界のときに、着るやつ?」
「そーそー」
「スカートじゃなくて、良いんだよね?」
「うん。あ、スカートが良かったかな?」
「にやけながら聞かないでよ。それに正直、履いたことないからよくわかんないや」
「そういう理由?(笑)女子が履くものだからとかじゃなくて」
「今時そうは思わないし、もしそうなら履くよ。女子になってる設定なんだから」
「へー。…面白いね、根来くんって。こりゃむらっちと仲良くなるわけだ」
どこが面白いんだ…さすがに、そこまでは聞こえない。
「じゃ、測らせてもらうから背筋伸ばして」
彼女はスカートのポケットからメジャーを取り出す。上がった息も落ち着いてきて、僕はひざについていた手を離し、体をピンと伸ばす。
「あと、聞きたいことがあるの」
「…何?」
「むらっちのこと、聞きたくて」
…やっぱり、そうだよね。
「…村雨さんが、どうかした?」
「しらばっくれるのはやめなよ」
声に、多少の圧と怒りが混じり始める。さっき敵意を感じなかったのは、隠していただけだったのだろうか。
「昨日、電話してきた。泣きながら『なんで』って…そればっかり、言ってた。根来くん、むらっちに何したの?」
…ここで「村雨さんの声が何かあると思ったから、質問した」なんて言ったら、どう思われるだろ。声が、なんて、信じてもらえるかな。ただ単に質問しただけだって、信じてもらえるかな。…いや、泣かせてたんだな。
「…何も答えないつもり?あと、背筋伸ばして」
「…ごめん、返事考えてた。でも、どう言っても、信じてもらえない、無駄な言い訳にしか、ならないと思う」
彼女が口を閉ざす。空気が重みを増していく。
「…じゃあ、これは答えて。根来くんは、むらっちのことを泣かせたかったの?」
「そうじゃない。そうじゃないけど…」
雨の音と、怒りと後ろめたさの混じった冷たい空気が、2人の間に流れる。
「…じゃあ、どうしたかったの?」
「…心配だった、助ける…つもりだった」
なんとか、絞り出した言葉。まるで事情聴取みたいだ。本当に、情けない主人公。
「…何が心配だったの?」
…言えない。声が、なんて。言ったって、なんの意味もない。
「…はぁ」
彼女は、伸ばしたメジャーを元通りにした。
「私ね、昨日びっくりした。あんなに泣くことあるんだって。あんなに、苦しそうにすること、あるんだって。あのむらっちだよ?いつも明るくて、元気なあのむらっちが、あんな感じになるんだって。…でも、それだけ何か抱えているのかもって思ったら、私、何もわかってあげられてないんだって、思って」
彼女の声が弱まる。怒りが消え、悲しみとやるせなさがにじんでくる。
「…むらっち、『自分でもよくわかんないけど、根来くんなら、わかってくれるかもって、思ってたのに』って、言ってた。…私は、全然、わからない。でも、根来くんなら、根来くんは何か、心配なことがあったんでしょ?」
「…」
「ねぇ、助けてあげてよ。根来くんなら、できるかもしれないんでしょ?」
そんなこと言われても、できるならもうやってる。あんなこと、していない。
「むらっちが苦しんでる。お願い。むらっちを、助けてあげて」
彼女の声からにじむのは、悲しみ、苦しみ、無力感、そして、たった一筋の、望み…こんな声、本当は聞きたくない。力不足の僕は、聞いていられない。だけど…僕も、僕の奥底から聞こえてくる声も、同じ一筋の望みを持っている。
「…わかった。できるかどうかはわからないけど、できるだけ、助ける」
「…ありがとう」
彼女の声にはまだ、渋みが残っていた。本当に仲良しなんだ。雨が降り続く中、僕らは採寸を終え、静かに教室へと戻っていった。
助けるなら、本番までがベスト。でも、どうすればいいんだろう。そもそも、以前とは違う声になっているけど、今の声は嘘の声なんかじゃない。丸みと明るさが無くなっただけ。本当じゃないわけじゃない。演技中に関しては以前と同じ、本当の声に聞こえる声。嘘でもない、以前と変わらない声を変えることが、助けるということ?あれだって本当の声なのに、それを否定するのか?そんなこと…
「根来くん!」
唐突な大声に、体全体がビクつく。知らぬ間に下がっていた顔が急に上がる。
「…次のセリフ、根来くんだよ」
「あっ、ごめん…んっん『…この世界も違う。何か…何か、違和感がある』」
『なるほど。違和感、それは何だと思いますか?』
『…わからないです』
『…わからない状態で飛ばしてしまっても、良いのですか?もし、本当の世界を飛ばしてしまえば、もう二度と、戻ることはできないのですよ?』
僕は目をつむり、手をあごにつけ考え直す。そして答えを…
「ねぇ、ここ…僕自身で違和感を理解するのは、できないと思う。だから、ヒントをもらって、そこからっていう感じにするのはどうかな」
教室内がざわめき出す。でも、もう構っていられない。助けなきゃいけないし、演劇も成功させなきゃいけないんだ。
「…んー、物語的に主人公に自分で考えてほしいんだよね…まぁ前半だし、そこまで厳しくなくて良いか。じゃあ稲見(いなみ)さん、ここに『仕方ないですね、この世界の差異はあなた自身にあるのです』って入れて。あとは…そのままで」
「はい」
パタパタ カチャカチャ ススススス
落ち着いた返事、一定の足音、静かに走るペン先。僕も忘れないうちに加筆する。
「じゃあヒントをもらってわかったところから、始めて」
僕は姿勢を戻し、つむった目をパッと開く。
『…!そうか、目線だ。いつも僕は、彼女と目を合わせて話すことは無いんだ』
『そうですか、それでは、居眠りして、次の世界へ行きなさい』
「はい、オッケー。うん、こっちで良いかな。結構やったし、ちょっと休憩しよう」
ピリッとした空気がゆるみ、一気にうるさくなる。
「根来くん」
「ん?」
「追加のセリフ、これで合ってる?」
稲見さんは汚れのない台本を差し出し、シャーペンで綺麗に書かれた字を見せた。
「…うん、多分そうだったと思う」
「わかった、ありがとう」
「ごめんね、急にこんなこと言って」
「いや、大丈夫。私の役は、舞台袖で見ながらやっても大丈夫だから」
微笑みながら言う彼女が、少し羨ましかった。まぁ、セリフはもう覚えたし、今さら気にしても仕方がない。
「それにしても」
真面目な表情に戻り、彼女は首をかしげながら言った。
「なんか…変わったね、根来くん」
「え?」
「ほら、これまであまり自分から発言すること、なかったから。それが、昨日は村雨さんに改善点を聞いて、今日は改善点を自分で言ったから、変わったなと思って」
それは、ただ、ひっかかったから。何かある、できない、そう思ってひっかかって、それをこぼしてしまっただけ。前もひっかかることはあって、それを飲み込んでいただけ…いや、じゃあ、飲み込めた前と、こぼしてしまう今では違う僕か。でも、別に今も、前も、嘘は言ってない、変わってない。けれど、変わっている?じゃあ、今と前、どっちが本当の…
トントン
「根来くん?再開するって。さっきの、気に障ったかしら。ごめんなさい」
稲見さんは優しく肩を叩き、柔らかな声で言った。
「あぁ、いや、大丈夫。ごめんごめん」
今は練習に集中しなきゃ。顔を横に振る。フッと息を抜き、心をピンと張る。
「あ、変わったと言えば」
定位置に戻りながら、何気なく彼女は言う。
「村雨さんも変わったよね」
地雷を踏まれ、体と頭が固まってしまう。
「え?私が変わった?」
このリアクションは、本当に自覚していない声だ。
「なんかいつもより、んー…ツン?ピン?としている気がする。文化祭に向けて色々してくれているし、疲れているのかもって思っていたの、大丈夫?」
「…ヘェー、そうなんだ、私は大丈夫!じゃ、再開しよ!」
それから、彼女の声は、変わった。戻しているつもりだろうけど、戻ってない。あの声は、確かに丸くて明るい。でもそれは我慢、隠蔽、無理を混ぜ上塗りしただけの、表面上の丸み、明るさがあるだけ。いつもの、本当の丸み、本当の明るさではない。あの、いつものを奪ったのは、僕…そうだ、やっぱり助けなければいけない。あの声に戻す、あの声が出せるように、丸み、明るさがない声だって本当の声だけど、あの声じゃない声を、彼女は出していた、本当の声として、望んでその声を出していた。だから、それを奪ってしまった僕が、きちんと返さないといけないんだ。
『村雨さんも変わったね』
そんなの、どう考えてもあいつのせい。私が演技を嫌ってるなんて、信じられない。そんな私、私じゃない。…私じゃない、はず。あれから、不安で、ひりついた気持ちのままだ。茜(あかね)は変わらず仲良くしてくれるけど、ごめんだけど、楽しいとは思えない。多分、茜も思わなかっただろな…このままだったら、嫌われちゃうかな。楽しくないまま、生き続けるのかな。…でも、また戻るか。あいつの言ってたこと、もうほぼ忘れたし。まぁ確かに、冗談とかじゃなくて、私を思って言ってくれたとは思うけど…どうしても、演技を嫌う私は、想像できない。それは、私じゃない…全然わかってない。なんで期待しちゃったんだろ。私のこと、何もわかってないじゃん。なんで、あんな…
『何が良くないの?』
…あれは、なんだったんだろ。なんで、言わなかったことに気付いたんだろ。あいつは、はじめて話したときから、私の話をすごく聴いてくれた。目は向けないくせに、しっかり聴いて、にやけたり、照れたり、おどけたりして…だから、期待しちゃったのかな。でも…いや、本当は、わかっているのかもしれない、気付いたらできてた、私もわかっていない、この胸のもやもやを…だけど、それでも、私が演技を嫌ってることは、ないはず。私は、演技が好き。なれない自分になれる、知らなかった自分の一面が見つかる、違う自分を、本当の自分のように演じる難しさ、楽しさ、やり切る達成感…嫌いなわけ、ない…ない、は…
「ねぇ!むらっち、聞いてる?」
顔を上げると、むくれ顔の茜がいた。
「ごめんごめん、どうしたの」
手を合わせて、ごまかす笑いを浮かべた。
「…はぁ、もういいよ。だけど、最近そういうの、多いよ?困ってることあったら、話してよね」
「…うん、ありがと。私は大丈夫だよ!」
大丈夫って言っても、笑顔しても、茜は心配そうな顔をしてる。本当に、良い友達に恵まれた。でも、悪いけど、私は昔から悩みとか相談したことがないから、やり方もわからないし、笑ってごまかしてれば大丈夫だって、知ってる。今の『大丈夫』が、たとえごまかしの嘘だとしても、いつのまにか、相手も、私も忘れて、『大丈夫』になる。だから、大丈夫。今の小さな悩みなんて、大丈夫。ずっと、大丈夫…だった。今の私は、この言葉さえ刺さるんだ。胸がチクチクする。嘘の言葉、ごまかしの笑顔…なんか、いつもより疲れたかな。でも、本番近いし、気合い入れ直さなきゃ…
『返さないといけないんだ』なんて意気込んだのに、もう木曜日の夜。あと金曜日しか会えない。その後はもう、本番だ、時間が無い…嘆いたって、仕方ない。できることを考えなくちゃ…そもそも、僕に何ができるんだろう。『僕なら』って言ってたなら、僕の耳を知っているのか?いや、それならこうならなかった。信じてもらえただろうから。じゃあ、なんで僕?僕がしたことって、何かあったかな。昨日は失言、火曜日は失態、月曜日は自惚れ、週末は練習…そう振り返っていると、2年に上がる前までの、失敗、助けられなかった過去も思い出してしまった。
なんで 気持ち悪い そんなことないよ 入ってこないで うざい
痛々しい声が起き上がって来る。痛みから生まれ、痛みを生んで、眠っていた声が。今も痛々しいけど、かなり痛みは薄れて、じんわりと苦く、かすかに甘い余韻を残すようになっている。こんなに、間違ったんだ。ずっと間違って、ずっと痛めつけて、ずっと同じような声を、ただ聞いてきただけなんだ。誰の声かさえ、思い出せない。誰の出した声なのか、わからない。ただ、痛々しい声だけが、起きてまざって頭を…
ファサッ
体にかけていたブランケットを除け、ベッドを下り、机に置いたイヤホンをつける。声だけが起きてくる、誰の声かはわからない、それは自分が、これまで声を聞くことしかしていなかったからだ。声は聞いていても、その声を出す相手を、しっかり見てないからだ。声しか聞かないで、声しか考えないから、簡単に見落とし、傷つける。あの日の彼女の顔も、部分的にしか思い出せない…だから、痛めつけてしまうんだ。声だけの記憶は頼りにならない。何か、それ以外の何かはないか。声なんて考えなくても聞こえてくるんだ。お昼を一緒に食べている人…連絡できない。連絡できるのは彼女だけ…深刻、絶望的陰キャ。彼女と連絡するのも無理。あんなことしておいて、何言ったって助けることにはつながらない。明日なんとかする?なんとかできるとは思えない。観察でもするのか?ストーカーかな?そもそも、前から顔を合わせてすらないのに、今さら…
ジーーー スッ
そうだ、これしかない、頼れる、彼女の言葉を見られるのは。息をするのも忘れて、1行1行をなめるように見て、考える。
『ねぇ、甘いものって好き?私は桃が好きなんだ』
『鞄のそれ、どこで買ったんだ?良いじゃないか』
『ふふ、寝癖、ついてるわよ』
『あらら…良かったら勉強、教えてあげよっか?』
『ほら、次の授業はあなたの好きな体育よ』
『前も言ったじゃん!忘れないでよ』
『あーぁ、なんか、疲れたや』
敷き詰められた、彼女の言葉。読み返し聞こえてくる、雨の音、蝉の声、段ボールを切る音、明るい話し声、水筒の中で揺れる氷の音、そして、彼女の声。
ペラッ
……そういや、これをさせる理由って結局、なんなんだ…いや、そもそもこの物語は…もしかして、それが答えなのか?これをさせる理由、この物語の意味、結末、これを書いた彼女、演じる僕…拭いきれない疑念が、胸を曇らせる。腑に落ちたようで、まだへばりついてもいる。でも、見つけた。彼女の何かのようなもの。怖い。何度も読み直し、考える。だけど、これしか見つけられない。
「…フー」
目をつむり、天を仰ぐ。怖い。また、傷つけてしまうかもしれない。でも、助けなければならない。そのためのピースはこれだ、そう信じるしかない。あぁ、彼もこんな感じなのかな…なら、なおさら助けなきゃ。拳に力が入る。僕になら、できる。今度はちゃんと、見つける、助けるんだ。
準備期間最終日、ピンと広げられた暗幕がたたまれ、最後の異世界の幕が開ける。机に伏せて眠る僕の肩を隣の女子が小突く。僕は目をこすりながら、顔だけ起こす。
『ねぇ、さっきのテスト、何点だった?』
僕は気だるげな動きで、引き出しに入っているテスト(に見せかけた)用紙を脇の辺りに出し、見せる。
『だー!82か…良かったねぇ』
『うん…え?村雨さんは?』
『え?』
彼女は素っ頓狂な声を出す。
『いや…聞いたんなら、普通言わない?』
体は机に伏せたまま、首だけかしげる。
『アハハ、ごめんって!私は77だよ』
『えっ…5点差か、それはまずいな』
ようやくゆっくり体を起こす。伸びをする。
『ハッハッハッ、すぐに追いついてあげるよ』
『んー、はぁ、そうなったら屈辱的だけど、実際すごく伸びてるしなぁ』
『そうでしょ?ありがと。てか追いつかれたら屈辱的ってなんだ!』
彼女は冗談っぽく大声をあげる。
『でも、あれだけ伸ばしても勝てないんだなぁ』
『まぁ、僕、部活してないし』
『それでもすごいよ。でも、その点だと、茜とかすごいよね。部活一緒だけど、部活も一生懸命やってるのに、テストも私たちより高いから』
『私はテスト期間中、テストのことしか考えてないから。むらっちは期間中も部活のことを考えて、根来くんは期間中とそれ以外で切り替えができてないんじゃない?』
冷静に、すんなりと指摘する。
『あ~、確かにそうかも。根来くんは?』
『僕もそうかも、大して期間中と違いがないし』
『じゃあ合ってるんだ。さすが、賢いね~』
感嘆の声をこぼす。
『もうっ、そんなに褒めても、何も出ないよ?』
さっきの冷静さはどこへやら、トーンが少し上がった。
『アハッ、照れてる照れてる』
『照れてないわよ!ねぇ、根来くん』
『えぇ!ぼ、僕ですか』
突然矛先が向いてきて、体がビクンッと跳ねる。声がうわずる。
『いや、ですかって(笑)』
みんな笑う、この瞬間電気が消え、みんなが固まる。冷めた顔を作る。
『…では、問います。この世界は、いつもの世界ですか』
僕は目線を落とす。ふぅ。鼓動が高まる。顔を上げ、拳を胸に寄せ、目をしっかりと開く。
『はい、この世界が、いつもの世界です』
『…なぜそう思ったのです?』
『…村雨さんを中心に、みんなが笑う、この世界が、僕の知るいつもの世界です』
「それに」
即座に言葉を入れる。拳が震える。再度目線を落とし、落ち着ける。ふぅぅ。さぁ、伝える。
「これが、本当の村雨さんだからです」
「…それは、なぜ?」
「…僕には、わかる、彼女が本当の村雨さんです」
「…貴方は、たかだか3カ月程度しか共に過ごしていないのでは?」
「えぇ、でも、僕はわかるんです。彼女が、本当の村雨さんだと」
教室全体がざわつき出す。でも、良い、彼女にさえ伝わってくれれば、それで。
「…えっと…」
困惑に満ちた声。申し訳ない。でも予定通り、この空気を切り開く。
「…もしかして、ストーカーっぽいと疑ってますか?いや!僕はストーカーじゃないんです!本当です、信じて!」
…ぷっ あはははは
僕は椅子から落ち、膝をつき手を合わせ懇願する。その必死の形相に、皆が注目し、笑い、手を叩き、お腹を抱えていた。あーぁ、コメディーになっちゃった。
『…おほんっ、ま、ストーカーかどうかは別として…良かったですね』
『…!じゃあ』
僕は膝をついたまま天を仰ぐ。
『もう一度寝なさい。…さようなら』
急いで机に戻り、伏せる。暗幕が広げられ、生徒役の人たちも席について、先生役も出て、電気が付き、暗幕がたたまれる。
ざわざわ ざわざわ
『静かにしろー…じゃ、採点ミスとかあれば、来てくれ』
伏せたままの僕の肩がまた、小突かれる。
『ねぇ、テスト、何点だった?』
僕は周りに気付かれ見られないように、ゆっくりと点数を見せた。
『だー!今回はいけると思ったのになぁ。5点差かぁ』
『ちょ、シーー、声大きいよ。というか、5点差…じゃあ次はもっと勉強しないと。村雨さんに負けるなんて嫌だし』
真っ赤な顔で、にやけながら言った。
『あっ、言ったな!覚えてなよ、絶対追い越してやる!』
『こら!今は授業中だぞ。静かにしろ、そこ2人』
くすくす
『はぁぁ、村雨さんのせいで怒られちゃったじゃん』
『いやいや、根来くんが私のこと、馬鹿にしたからだよね』
『なっ…まぁそうだけど、はぁ』
僕は頭を掻きながら用紙を見直す。みんな用紙の確認に集中し、静まり返る。
『ね』
小さく、柔らかい声が、僕に届く。
『…根来くん、ありがとね、「本当の私を」見つけてくれて』
『…こちらこそ、いつもありがと、村雨さん』
パチパチパチパチ
「良い!すごく良いよ!完成度高いわ。さすが、担任が俺なだけはある(笑)」
「いや、それどういうことですか?でも、ほんと良かった。最後、根来くんアドリブ入れてなかった?」
「うん、勝手なことして、ごめん。稲見さんも、本当に申し訳ない。合わせてくれてありがとう」
手を合わせ、端によけた教卓に隠れている稲見さんに、頭を下げる。
「えぇ、ちょっとびっくりしたわ。でも、良いと思う。根来くんの動きも面白かったから。後でセリフ教えて、台本に書きたいから」
暖かい空気感。とりあえず、にじむ達成感。あぁ、完遂した。
「むらっちも良かった…どうしたの!?」
見ると、呆然とした彼女の頬を一筋の涙が流れていた。我に返り、素早く手のひらで顔を覆う。
「なんでもない、大丈夫、大丈夫だよ…みんな、すごく良かった!これを、いやこれ以上を、本番で出しましょう!」
パチパチパチパチ シャーッ 頑張ろー
涙は落ちる前に拭い去られた。やっと、聞きたかった村雨さんの声が聞こえた。胸のつかえが下り、達成感があふれてくる。そのあと、帰りのホームルームも済み、稲見さんと軽く話し合ってセリフを伝え、鞄を持って教室を出る。
「根来くん!」
廊下に一歩踏み出したとき、呼び止められた。
「ありがとね!」
丸くて、明るくて、はじけている、素直でまっすぐな村雨さんの声。ずっと聞いていられる声。でも響くのが恥ずかしくて、手をひらひらさせることしかできなかった。
「あと、週末も練習しといてよ!部活入ってないんだから!」
「あーもう、わかってるよ!うるさいなぁ(笑)」
午後3時半。黒のスニーカーに履き替え、ズボンのポケット…は探らずに、そのまま外へ出た。けたたましい蝉の声、どこかへ走っていく足音、最後の練習に励む人たちの声、不安な声、何年かぶりに素直に聞こえたその音は、どれもが生き生きとして、ただただ鮮やかに、頭を巡っていた。
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