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5輪め
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アキレウスは修練場に戻らず家路についた。真上にのぼった太陽が路上を強く照らしていた。
──勝つだけなら敵はいないが、満たされもしない。
老人の言葉を反芻した。
──おまえが強くなりたいなら、ここで学ぶものはまだあるのではないかね。
自分も知らないと言いながら考えさせるなんてひねくれた御仁だ、とアキレウスは思った。答えのない問題を若者に投げかけ、若者を困らせることを老人は楽しんでいるのだ。
「やっかいな御仁だな」
と言いつつも、アキレウスの唇の端はすこし上がっていた。自分が知らないことを指摘された悔しさよりも、未知への渇望が心の中に強くわき上がってきていた。
自分はほとんど無敵の力を持っている。しかし力についてじゅうぶん学ぶ前にケイローン先生から離されてしまった。成長した自分に先生はなにを教えてくれるだろう。老人の問いかけはアキレウスの退屈を消し去っていた。
いつもの家路がちがって見えた。通りがかる広場で、人々は哲学や評議を大いに楽しんでいる。答えはどこにもないが追求にも終わりはないのだ。
──それはきっとスキュロス島の中にいても可能なことだ。
先ほどまで灰色だった未来がすこしあかるく思えた。
いつもより早く家に着くと、隣家の奥さんがめずらしく家の前に出ていた。子供のころにアキレウスを待ち構えていた以来だ。
「まあ、アキレウス様。ずいぶんと背が伸びられましたね」
奥さんはアキレウスの日に焼けた顔を見上げながら言った。彼女の歳は30を超えたところだろう。
「今日はどうされたのですか。家の中でおおぜいの気配がしますね」
アキレウスは立ち止まって中の様子をうかがった。荷物を運び出している召使いの姿がみえた。
「実は引っ越しをするのです。王城のちかくに住居をいただきまして、息子も王様の近衛兵に加わることになりました」
「それは、すばらしい出世ですね。よほど戦いで手柄を上げられて……」
どの戦だろうとアキレウスは考えた。近衛兵には優れた人物しか加われない。
「息子ではないんですよ」
隣家の奥さんは、声を落として恥ずかしそうに言った。だが顔には話したくて仕方がないと書いてある。アキレウスは小さな声を聞き取ろうと一歩近寄った。
「ミアが王城の女官に出仕したことはご存知でしょう」
「はい、聞いています」
ミアの名前を聞いてアキレウスはすこし心がはやった。元気にしているか聞こうとしたとき、奥さんはもう少し先のことなのですけど、と前置きしてから言った。
「ミアがリュコメデス王のお目にとまったのです」
「………」
「春の祭事のとき側に上がります。そうなれば母親の私も手の届かない存在になるのですよ」
その言葉をアキレウスが理解するまで間があった。しかし次の瞬間には彼の頭の中で音を立ててはじけた。ミアが王の側に上がる。目の前がまっしろになった気がした。
──もう少し先、と言ってもすぐだ。アキレウスは今度は頭に血が昇ってくるのを感じた。怒りとも戸惑いともつかない感情で顔が赤くなる。ではお元気で、といった奥さんの声が遠くに聞こえた。
アキレウスは家の前に着いても中に入らず路上を歩き続けた。歩いていくうちに気持ちは落ち着いてきたが、かわりに心の底から湧いてきた別の感情があった。
──そうか。
ミアとはまた会ったときに話せると思っていた。だがもう言葉を交わすこともないのだろう。突如として湧き上がってきた思いは、アキレウスを押し流さんばかりだった。
それは小さな世界の終わりだった。おんぶや手つなぎをねだったミア。草原に行くのを楽しみにしていたミア。すれ違うときうつむいたミア。終わったのは、そういう世界だ。突如として奪われ二度と戻ってこない。
そのことを理解したとき、アキレウスの胸にこみ上げてきたのは自分でも驚くほど激しいミアへの思いだった。彼女の面影が浮かんでくるしいほど愛おしかった。
──あのとき、ミアは分かっていたのだろうか。
自分をたずねたとき二度と会えなくなることを予感していたのだろうか。だとしたらどんな思いで会いにきたのだろう。どうしてもっと彼女を探さなかったのだろう。深い後悔がアキレウスを襲った。
──しかし……。
アキレウスは悟っていた。この思いが表に出たのは、ミアが手の届かない存在になると分かったからだ。そうでなければ自分は気づかないままだった。今さら気づいてどうすることもできない。
さっき、〝強さ〟や〝正しさ〟について学ぼうと決めたばかりじゃないか。いま必要なのは後悔することじゃない。ミアへの思いはお互いの幸せのためにならない。
胸に閉まってしまえば何もなかったことにできる。感情を抑制することには慣れていた。アキレウスは心の平穏を取り戻し、かけ離れてしまった彼女と自分のために、この禁忌を胸の中に閉まっておくことを決めた。
だが家路を戻る前に、アキレウスは一度だけ暗い気持ちで見やった。ミアがいる王城の方向を。
──ミアとのことは、何事もなかったようにふるまうのだ。
もうすぐ15歳になろうとしていた。王城への勤務が迫っていた。
──勝つだけなら敵はいないが、満たされもしない。
老人の言葉を反芻した。
──おまえが強くなりたいなら、ここで学ぶものはまだあるのではないかね。
自分も知らないと言いながら考えさせるなんてひねくれた御仁だ、とアキレウスは思った。答えのない問題を若者に投げかけ、若者を困らせることを老人は楽しんでいるのだ。
「やっかいな御仁だな」
と言いつつも、アキレウスの唇の端はすこし上がっていた。自分が知らないことを指摘された悔しさよりも、未知への渇望が心の中に強くわき上がってきていた。
自分はほとんど無敵の力を持っている。しかし力についてじゅうぶん学ぶ前にケイローン先生から離されてしまった。成長した自分に先生はなにを教えてくれるだろう。老人の問いかけはアキレウスの退屈を消し去っていた。
いつもの家路がちがって見えた。通りがかる広場で、人々は哲学や評議を大いに楽しんでいる。答えはどこにもないが追求にも終わりはないのだ。
──それはきっとスキュロス島の中にいても可能なことだ。
先ほどまで灰色だった未来がすこしあかるく思えた。
いつもより早く家に着くと、隣家の奥さんがめずらしく家の前に出ていた。子供のころにアキレウスを待ち構えていた以来だ。
「まあ、アキレウス様。ずいぶんと背が伸びられましたね」
奥さんはアキレウスの日に焼けた顔を見上げながら言った。彼女の歳は30を超えたところだろう。
「今日はどうされたのですか。家の中でおおぜいの気配がしますね」
アキレウスは立ち止まって中の様子をうかがった。荷物を運び出している召使いの姿がみえた。
「実は引っ越しをするのです。王城のちかくに住居をいただきまして、息子も王様の近衛兵に加わることになりました」
「それは、すばらしい出世ですね。よほど戦いで手柄を上げられて……」
どの戦だろうとアキレウスは考えた。近衛兵には優れた人物しか加われない。
「息子ではないんですよ」
隣家の奥さんは、声を落として恥ずかしそうに言った。だが顔には話したくて仕方がないと書いてある。アキレウスは小さな声を聞き取ろうと一歩近寄った。
「ミアが王城の女官に出仕したことはご存知でしょう」
「はい、聞いています」
ミアの名前を聞いてアキレウスはすこし心がはやった。元気にしているか聞こうとしたとき、奥さんはもう少し先のことなのですけど、と前置きしてから言った。
「ミアがリュコメデス王のお目にとまったのです」
「………」
「春の祭事のとき側に上がります。そうなれば母親の私も手の届かない存在になるのですよ」
その言葉をアキレウスが理解するまで間があった。しかし次の瞬間には彼の頭の中で音を立ててはじけた。ミアが王の側に上がる。目の前がまっしろになった気がした。
──もう少し先、と言ってもすぐだ。アキレウスは今度は頭に血が昇ってくるのを感じた。怒りとも戸惑いともつかない感情で顔が赤くなる。ではお元気で、といった奥さんの声が遠くに聞こえた。
アキレウスは家の前に着いても中に入らず路上を歩き続けた。歩いていくうちに気持ちは落ち着いてきたが、かわりに心の底から湧いてきた別の感情があった。
──そうか。
ミアとはまた会ったときに話せると思っていた。だがもう言葉を交わすこともないのだろう。突如として湧き上がってきた思いは、アキレウスを押し流さんばかりだった。
それは小さな世界の終わりだった。おんぶや手つなぎをねだったミア。草原に行くのを楽しみにしていたミア。すれ違うときうつむいたミア。終わったのは、そういう世界だ。突如として奪われ二度と戻ってこない。
そのことを理解したとき、アキレウスの胸にこみ上げてきたのは自分でも驚くほど激しいミアへの思いだった。彼女の面影が浮かんでくるしいほど愛おしかった。
──あのとき、ミアは分かっていたのだろうか。
自分をたずねたとき二度と会えなくなることを予感していたのだろうか。だとしたらどんな思いで会いにきたのだろう。どうしてもっと彼女を探さなかったのだろう。深い後悔がアキレウスを襲った。
──しかし……。
アキレウスは悟っていた。この思いが表に出たのは、ミアが手の届かない存在になると分かったからだ。そうでなければ自分は気づかないままだった。今さら気づいてどうすることもできない。
さっき、〝強さ〟や〝正しさ〟について学ぼうと決めたばかりじゃないか。いま必要なのは後悔することじゃない。ミアへの思いはお互いの幸せのためにならない。
胸に閉まってしまえば何もなかったことにできる。感情を抑制することには慣れていた。アキレウスは心の平穏を取り戻し、かけ離れてしまった彼女と自分のために、この禁忌を胸の中に閉まっておくことを決めた。
だが家路を戻る前に、アキレウスは一度だけ暗い気持ちで見やった。ミアがいる王城の方向を。
──ミアとのことは、何事もなかったようにふるまうのだ。
もうすぐ15歳になろうとしていた。王城への勤務が迫っていた。
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