上 下
11 / 55
第二章

二仙山紫虚観(六)

しおりを挟む
猛烈な喉の渇きで、燕青は目覚めた。気づけば、古いが清潔な寝台の上に寝かされていた。どうやら男院なんいんの一室らしい。上体を起こすと、少し頭が痛む。二日酔いだろうか。
(昨日は……あ!)
 
思い出してしまった。赤面するほど初心うぶではないが、あの姉妹と、一清道人に合わせる顔がない。

 寝台を下りるときに、服が変わっていることに気づいた。昨日まで着ていた、白の簡素な服ではなく、ゆったりとした黒い道服である。はて、誰が着替えさせてくれたものか。

 差し込む朝日に眼を細めながら、男院の扉を開けて戸外に出てみると、高山特有の涼しさで、酔い覚めの体がきゅっと引き締まった感じがする。食堂へ行って水をもらおうと歩き出してふと気づいた。

  男院の裏手に、中腰で立っている少年がいる。昨日食堂で燕青を睨んできた「張嶺ちょうれい」少年であった。

 両足を肩幅より少し広めに開き、膝を深く曲げ、両手を伸ばし肩の高さに挙げている。どれくらい立っていたものか、全身小刻みに震えているのが見てとれた。
(ほぉ、馬歩站椿まほたんとうか)

 自分もかつて、主人であり師父である盧俊義ろしゅんぎから言いつけられ、早朝から一刻(二時間)、雨の日も風の日も欠かさず続けてきた修行にっかである。昔を思い出し、懐かしさについ微笑んだのだが、折悪おりあしく張嶺少年が、馬歩立まほだちのまま燕青の方を見た。

「おい!何笑ってんだよ!」
 張嶺は立ち上がり、顔を真っ赤にして怒りだした。つかつかと近づいてきて燕青を指さし、
「人が一生懸命修行してるのに、バカにするんじゃねぇよ、え!」

「いや、すまんすまん、バカにしてたわけじゃないんだ。俺も昔よくやっていたから、つい懐かしくなって」
「うそつけ、このやろう!」
 張嶺が殴りかかってきた。

 言いがかりも甚だしいが、おそらく秦玉林と同い年くらいの少年の、打ってくる拳圧はなかなかに強い。左右の突きと、蹴りを織り交ぜて次々に出してくるが、惜しむらくは下半身との連動ができておらず、いわゆる「手打ち」になっている。

 燕青は、後年「迷蹝芸めいそうげい」と呼ばれることになる独特の歩法で、背後に回り込んだり横をすり抜けたりしながら、張嶺の死角へ死角へと体を移動させ、拳や脚を避けている。

 全力での突きや蹴りを、ことごとく空振りさせられ、張嶺は普段の何倍も疲れを感じ、とうとう呼吸が苦しくなり、へたり込んでしまった。
 汗だくになり、仰向けに倒れ、ぜいぜい荒い呼吸をしている。

 どんな武術であっても、当てるつもりで打った場合、頭や体が自然と間合いを想定し、当たった瞬間に最大の破壊力を出すよう調整するものだ。それを外された場合、想定外の動きとなってしまい、筋肉などが言わば「騙された」感覚になってしまう。実際に当てるよりも、予想外の当たらない動きをさせられる方がずっと疲れるのである。

「大丈夫か?ええと、張嶺だっけ?」
 燕青が引き起こしてやろうと、片手を伸ばしたが、張嶺はその手を払いのけ、
「馬鹿にすんなよ、お情けなんて要らねぇや!」

 次の瞬間、目から大粒の涙がぼろぼろ溢れ落ちた。仰向けのまま、自分の腕で顔を隠し、歯を食いしばって我慢しようとするが、涙はなかなかとまらない。燕青は人さし指でぽりぽり頭を掻きながら、嗚咽おえつを漏らす張嶺の隣に腰をおろした。

「畜生、ちくしょう・・・・・・」
 張嶺はまだ小さくつぶやいている。やがて鼻をすする音が小さくなったのを見計らって、
「張嶺、馬歩立ちは誰に習ったんだ?」

 と穏やかな声で聞いてみた。すると張嶺、相変わらず鼻をすすりながらではあるが、
「……一清様だよ」
 と、わずか答えた。

入雲龍にゅうんりゅう公孫勝こうそんしょうこと一清道人いっせいどうじんは、もともと堂々たる体躯たいくの持ち主で、剣も相当に使う。かつて|高唐州知府《》こうとうしゅうちふ(長官)の『高廉こうれん』や、田虎でんこ軍の『喬冽きょうれつ』などいう、名だたる妖術使いと、風を呼び神兵を使い、五色の龍や大鵬おおとりを呼び出し戦わせてきた。そのうえ羅真人から「五雷天罡正法ごらいてんこうせいほう」の奥義おうぎを授かっている。そんじょそこいらの道士とは別格の仙術使いだが、学者然としたひ弱な道士ではないのだ。

「なるほど。毎日どれくらいやってるんだ?」
「毎朝あの線香が燃え尽きるまでやれって」

 見ると太さ五分(一、五センチ)ほどの太い線香が、灰を入れた壺の中に立てられている。あの太さなら四半刻(三十分)はかかるだろうか。修行としてはかなり厳しい部類だ。

 どうやらすっかり泣き止んだらしい張嶺が言いにくそうに
「あ、あのさ」
 おずおずと話しかけてきた。
「ん、どうした?」

「なんでおいらの突きや蹴りは全然あんたに当たらなかったんだい?」
「うーん、まぁいろいろ理由はあるが、まずは技の『起こり』がわかるんだよ」
「起こり?」
「うん、簡単に言えば突きにしても蹴りにしても、『これからこういう動きをしますよ』というのが前もってわかってしまうんだ」

「どうやって?」
「例えば目だな。張嶺はどうしても先に蹴りたいところ、突きたい場所を見てしまってる」
「見なきゃ当てられないじゃん。じゃあ、あんたはどうしてるんだ?」
「どこか一カ所に視線を合わせるのではなく、半眼はんがんにして全体を薄っすらぼんやりと見る。そうした方が不思議と相手の動きが見えてくるもんなんだよ」
「そうなんだ」

「それと、ひとつひとつの技が全力すぎる」
「全力じゃだめなのかい?一清様には毎日突き千回、蹴り千回全力で打て、と言われたけど」

「基本の鍛錬としてならそれでいいんだよ。ただ、ずっと全力でやっているうちに、力の抜き方がわかってくる。無駄な力が入らなくなると、『起こり』がわかりづらくなる。おまけに突きも蹴りも段違いに早くなる。最初から全力で突こうとすると、腕より先に肩が張るから、突きがくる、ってわかってしまうんだよ」
「ふぅん・・・・・・そんなもんなのかい?」

「ちょっとやってみようか。そこに立ってみてくれ」
 すっかり涙の跡も乾いた張嶺が立ち上がった。子供らしい好奇心が出てきたようで、食らいつくような真剣な眼差しになっている。

 燕青は張嶺の正面に立ち、右足を引いた半身に構えた。右拳を固く握りしめ、張嶺に見せてから脇に引きつけ、
「最初から全力を込めた突きがこれ」
 顔面に突きを出した。ぶぅむ、と重い音がし、一瞬の後、張嶺の鼻のあたりに強い圧力の拳風がくる。

 顔の肉が押される感覚に、張嶺は思わず一歩下がって
「すげぇ」
 とつぶやいた。

「じゃあ次は力を抜いて突くぞ。当たる瞬間に握る感じだ」
 力を抜き、柳の葉のようにふわりと指を広げたところから突きを出した。ふひゅっ、と高い音がして、拳が面前に来るより早く、突き刺すような凩のように鋭い拳風がきた。

 張嶺は鼻や頬が鎌鼬かまいたちに切り裂かれたような幻覚に襲われ、思わず両頬に手の平をあてたものだ。

「どうだ、全然突きの質が違うのがわかったかい?」
 と尋ねると、張嶺はもう驚きと感動で目を輝かせながら
「うん!わかる!」
 何度もうなづく。完全に燕青を見る目が変わっていた。昨夜の秦玉林や、林翡円・翠円姉妹と同様の、羨望せんぼうの眼差しである。

「じゃぁ、もうひとつだけ。今もやっぱり張嶺は俺の右手ばかり見ていたけど、さっき言った『半眼』で、俺の顔から体全体を何となくぼんやりと見てみな」
「わかった!」

 先ほどと同様、右足を引いた半身に構え、手の平を軽く開いた状態から右拳を突く、と思いきや、前に置かれた左足が真下から跳ね上がり、張嶺の右側頭部を襲ったのだ。
「うわっ!」

 張嶺が思わず右腕を挙げて頭をかばう。跳ね上がった燕青の左足は、張嶺の右腕にあたる寸前でぴたりと止まった。

「ひでぇや!いきなり蹴るなんて聞いてないよ」
「あはは、すまん。でも、右の突きが来ると思っていただろうけど、逆側の蹴りも見えただろ。防ぐこともできたじゃないか」
「あ!」

「全体を見るっていうのはそういうことさ。いざ誰かと戦うとなったら相手は、右の拳を出すぞ、左の蹴りを出すぞ、なんてわざわざ言ってくれないからな」
「すげぇ……あんた、いや燕青さん。さっきはごめんなさい。失礼なこと言っちゃって」
「いや、それはいいよ、お互いさまだ。ただ、ひとつ聞きたいんだが」
「なんだい?」

「昨日、酒を持ってきてくれた時、君に睨まれた気がしたんだが、俺なにか気にさわることしたかな?」
「あ……済みません!全部おいらの勝手な思い込みなんだよ。八つ当たりというか、なんというか」
「なんのことについての?」
しおりを挟む

処理中です...